「生き霊の厄介さ」に絶望せず、そこからなんとか希望を見出す

今のひとたちの一般的な感覚では

「霊」

という言葉は

「幽霊・お化け・死者」

というようなイメージで捉えられることが多いのではないかと思う。そして特に現在の日本のような社会では、そういうものの存在というのは否定される向きが強いのだと思う。

しかし、私からすると、そもそもここにいる私もあなたも

「肉体に宿った霊(魂)」

であり、もっと本質的な言いかたをすれば、

すべてのエネルギーそのものを霊だとさえ言える(定義できる)

というように捉えているので、今の一般感覚とはとてもズレていると言われてもしかたがないと思う。

ただそのような社会にも、多少はこうしたことに理解・興味があるひとがいて、そのひとたちの間で

「生き霊」

という言葉が遣われることもそれなりによくあることだと思う。

とはいえこれも厳密な定義というか共通理解がどこにあるのかと言えばとても微妙なところではあるのだが、ひとまずざっくりと言ってしまうと、

「(一般に「霊」というと死者であることを踏まえたうえで対比して)生きているひとから発せられたエネルギー、想いが凝縮して、強い力を持ったもの」

というふうに捉えてもいいのではないかと思う。

そのうえで、本当は生き霊にもいい(好意的な・応援してくれる)霊も悪い(悪意を持った・害意のある)霊もあり得るのだが、生き霊に限らず今の社会で霊が語られるときというのは、ほとんどの場合その悪い面に注目したものが多いため、生き霊についてもたとえば

私は〇〇さんと反りが合わず、恨まれているとさえ言えるかもしれない状況なのですが、もしかしてそのひとの生き霊が、私を苦しめているのではないでしょうか?

というふうに言及されることが多いのではないかと思う。

 

こうした現状を確認したうえで、改めて私の立場から言うと、先に書いたとおり私はそもそも私たち自身が

「肉体に宿った霊」(霊止・霊留・ひと)

であるという認識に立っているうえに、その他の動植物や物体、天体から思念そのものに至るまで、すべてを

「エネルギー体(の一種・派生)」

として捉えているので、生き霊があるということは、なんら不思議ではないどころか、当たり前のことだと思っている。

そしてそのうえで、からだがあるかないかによって対比して

「生き霊\死に霊」

という概念で分けてみる。ここで私が

「生霊\死霊」

と書かないのは、そうすると特に

「死霊」

があまりにもおどろおどろしいというか、見るからによくなさそうなイメージが付いてしまっているような気がするので、そのなかにも好意的な存在がいることを意識するために、ひらがなを挟みたかったからなのだが、逆に言うと死霊だろうが生き霊だろうが、悪意を持った存在がいるのも確かであって、私が

「負の霊」

と言っているのには、その双方を含んでいる。そして私は、そんな負の霊と今までもこれからも、数多く対峙してきたひとであるのも事実だ。だからそんな私がもし、

生き霊と死に霊とでは、どちらがより厄介ですか?

と訊かれたとすると、私はいったい、どう答えるだろうか?

 

まず自分の立ち位置をわかりやすくするために、いったん周りを振り返って対比してみると、

現代の主流の考えかたは、やはり「死」というものを過剰に特別視している

という気がする。だからたとえば

私はおじいちゃんのことはすごく好きだったんですが、でもやっぱり幽霊として現れられるのは嫌ですね。やっぱり怖いし、「成仏してないのかな?」って不安になっちゃうし

というような意見を耳にすることもあるのだが、これも死や霊、あるいはからだを過剰に特別視しすぎているところに端を発しているように思える。死んだ(からだを失った)からというだけで、ひとはそんなに変わらないし、突然おどろおどろしいものに変わったりもしない。それに基本的には、生前に培っていた関係性は、そのまま引き継がれていく。だから生前仲良くしていたのなら、死後もそのまま、仲良くすればいいのだ。それは別に難しいことでも、特別なことでもないのだから。

ただこのような考えかたはもちろんまだまだ一般に受け入れられているものとは言えないので、多くのひとは死を、そしてその結果としての霊を、過剰に恐れているのだと思う。だから、

「幽霊」

と聴くとなんだかすごく大きな力を保っている、恐ろしい存在のように思ってしまうのだと思うが、そんなふうに構える必要は基本的にはない。

だがもちろん、そのなかで

「負の霊」

と言われるようなものは甘く見てはいけないのだが、これは結局のところこの世界における

「はぐれもの・チンピラ・暴走族・不良・ヤクザ・犯罪者……」

の総称のようなものだと捉えてもいいと思う。そしてそこにも

「度合いの差」

があるということも含めて、まさにこの世界と合い通じているものだ。

だからそのなかでも特に過激で先鋭的な存在と対峙すると、私に明確な敵意・害意を向けられた結果戦闘になることもあるのだが、最終的な目的は戦闘そのものではなくて、

「澱み・歪み・曇った気持ちを、出し切って(受けきって)晴らす」

ことにある。だからそれが成し遂げられれば、負の霊はやがて自然に戻り、自分と向き合いながら反省しつつ、新たな道を模索するようになる。そしてそれを手助けすることを、そしてそうできる可能性を信じ続けることを

「浄霊・導霊」

と呼んでいるのである。

 

だからその意味でたとえ負の霊であっても過剰に恐れたり、得体の知れない異端な存在と思う必要はないし、実際に彼らが劇的に変わるのを見てきた私としては、なおさらその可能性を追究し続けたいと思っているのだが、それを踏まえたうえで翻って

「生き霊」

のことを、そしてそのなかでも他者に害を及ぼすようなものを考えてみると、彼らが厄介なのはまさに、

「彼らが今も生きている(肉体を保っている)」

という点にあると言える。そしてだからこそ、彼らには死霊に対するような

「何時間でも話を聴いて、こちらの想いも伝えて、相手の想いも受けきって晴らし、新たな道を探ってもらう」

という方法を、そのまま適用できるわけではない。なぜなら彼らは肉体を保っていて、これからも人生を続けていくのだから、霊ほど急激に、劇的には、変わることができないからである。

それになにより、生き霊と接する場合、その場にその元となる当事者がいる場合というのはとても稀である。だからあくまで生き霊というのは

「そのひとの想いが集まって凝縮したもの(そのひと(魂)の一部)」

であり、そのひとの

「本体」(全体)

は別にある。だから、私がどれだけその生き霊に想いを伝え、相手にも納得してもらい、浄化できたとしても、それは

「本人の想いの一部」

に過ぎないのだから、本人がまたその想いを保ち膨らませ続ければ、またその力も大きくなっていく。

それにそもそも、私がその生き霊と話し合った内容というのは、少なくとも本人の

「顕在意識・記憶」

に残ることはない。とはいえもちろん、それは

「潜在意識・無意識」

には影響を残すので、その意味でそのような努力が無駄だということでは決してないのだが、それでもその影響力に限度があることは明らかである。

だからこうしたことをすべて踏まえて、先ほどの問いに対して私は

もちろん死に霊にも強力な存在はいくらでもいますが、それでもやはり、生き霊のほうが厄介だと思います

と答えておきたいと思う。

 

そして実は私には、このような「生き霊の厄介さ」を考えるうえでずっと忘れられない体験が、特に2つある。ただこれはあまりにも強烈な、というか特殊と言ってもいい事例でもあるので、どう受け止めたらいいか難しいかもしれないし、もしかしたらあなたのことも多少悩ませてしまうかもしれないが、それでもこの事例はこの世界の仕組み、そして私たちと他者の関係を考えるうえで非常に示唆深い事例でもあると思うので、ここで書ける範囲で、共有しておきたいと思う。

その生き霊は、あまりにも執拗で、狡猾で、そしてなにより、とても強かった。そしていちばんの問題は、それが私以上に、私の大切な存在に多大な害を及ぼしていたことだった。それで私はそうしたことの結果として、自分でも自覚している以上に憤っていたのだろう、相手を必要以上に弱めてしまっていた。ただ私は、別に相手を滅ぼそうとしていたわけではないし、そこまでしなければ自分がそれ以上にやられるという思いもあった(それだけ強い相手だと思っていた)ので、別に暴走していたわけではないと、自分では思っている。ただ当時の私は、今よりずっと未熟だったというのも、確かにあるとは思う。

ともあれ、そのときそういう状況にあった私のところに、突然ある霊が現れ、私にこう言ってきたのである。

それ以上そのひとを弱めるのは、やめてください!

そしてさらに、続けて、私はこう言われたのである。

それ以上やったら、私はあなたを罪人と見なし、処分しなければいけなくなります!

そのときの私は、とても疲れていた。それに確かに、とても怒っていた。そしてそれは、さっきまで大変な闘いの最中にいたときは現れなかったのに、今になって突然現れては、私を

「罪人とみなすかもしれない」

などと言ってきた、彼に対してのものでもあった。だから私は改めて彼と向き合った。すると彼も、もう一度こう言ってきたのである。

もうこれ以上はやめてください。私は個人的には、あなたのことを好意的に見ていますし、あなたの信念にも、敬愛の念を抱いています。ですがそんなあなたでも、もしこれ以上相手を弱め、消滅させることも厭わないというなら、私は私の職務と権限に則り、あなたを罪人と見なし、処分しなければいけなくなってしまいます

私はこの時点で、彼がむやみに私を嫌って邪魔しようとしているわけではなく、むしろ本質的には守護霊(私たちのしあわせを願い、応援している霊)であることを理解した。そしてだからこそ、素直にこう言った。

罪人?処分?なんで私が罪人として処分されなきゃならないの?それを言うなら、ひとに対してこんなにひどい念を送り続けて、実害も与え続けている、向こうのほうこそそうされるべきじゃない?なのに私が、なんでいきなりそんなこと言われなきゃいけないわけ?

すると彼は、あくまで冷静にこう答えたのである。

わかってください、私は別に、あの霊のしていることを肯定しているわけでも、野放しにしたいわけでもないんです。それにあなたが、相手にそれだけの憤りを感じるのも当たり前だと思っています。だからこそ、私も今の今まで、この場に手は出さず見守っていたんです。それに現時点では、私も含め誰も、あなたを罪人だとは見なしていません。ただ私が言っているのは、「これ以上あの生き霊を弱めるのはやめてください。もしそれでもやると言うなら、私はあなたを倒してでも、あなたを止めなくてはいけなくなります

だが私も簡単には納得できなかったので、なおも食い下がった。

それはどうしてなの?それはあなたの信念なの?

いいえ、これは私が決めたことではなく、もっと広く多い合意のもとで生まれた、原則というかルールのようなものなのです

ルール?じゃあ向こうのやっているルール違反は、グレーだということなの?

いえ、先ほども言ったとおり、私も誰も、あの霊のやっていることを肯定したり、野放しにしたりしようとしているわけではないのです。ただ考えてみてください。相手の本体は、今も肉体を保っています。相手は肉体人なのです。そんななかで、もしあなたが相手をほとんど肉体の指揮を取れないほどに弱めてしまったら、どうなりますか?

先ほど私は

あくまで生き霊というのは「そのひとの想いが集まって凝縮したもの(そのひと(魂)の一部)」であり、そのひとの「本体」(全体)は別にある。だから、私がどれだけその生き霊に想いを伝え、相手にも納得してもらい、浄化できたとしても、それは「本人の想いの一部」に過ぎない

と言った。これは確かにそうなのだが、その一方で

たとえそのひとの一部であっても、そこに強い影響を与えれば、それは本体にも及ぶ

というのもまた事実である。だからこそ、それを悪用しようとするひともいるし、それをいいように活かそうとすることも、確かにできるのである。

だから私は、投げかけられた問いに、こう答えた。

……そのときは、そこに「空き部屋」ができる

ええ、そのとおりです。そしてもし仮に、その「空き部屋」をもっと凶悪な霊が占拠して、大勢を殺し回ったとしたら?もちろん、絶対にそうなると言っているわけではありませんが、絶対にそうならないとも言い切れない。ですからもしそうなったときに、「こうなった発端は、この肉体を空き部屋にした、あなたにある」と言われたら、反論できないでしょう?そしてそんな責任は、言われても取りようがないでしょう?

そして彼は、静かにこう重ねた。

だから、こういう原則・ルールになったんです。そして私は最初に言ったとおり、個人的にはあなたを好意的に見て、応援したいと思っています。もちろん、そのように捉えないひとたちもいるのは、ご存じのとおりですけどね。ですがだからこそ、私はあなたを罪人として見なしたくはありませんし、見なさせたくありません。だからどうか、これ以上はやめてください。どうか、ここで収めてください

彼の言うことが理に適っていることは、もはや明白だった。ただ私は、改めて彼に確認した。

じゃあ相手がまったく同じことを、肉体を離れてもなお続けたとしたら、そのときはたとえそのひとが誰かに滅ぼされたとしても、今のように止められるということはないってことなんだね?

そのとおりです。そしてこれは「肉体を保っている間は、なおさらいろいろなエネルギーの影響を受けやすい」ということを鑑みた措置でもあるんです

これが、死に霊の場合とは確かに一線を画した、

「生き霊の、というより肉体人の特殊性」

を表しているのだと思う。だから私には、もう反論はなかったのだが、それでも最後にひとつだけ、私は彼にこう訊いてみた。

そっか、あなたの言いたいことはよくわかったよ。これが本当に、熟慮を重ねたうえでの判断だということもね。だけどそれでも、私がどうしても相手を許せないからって、あなたを倒してでも、先に進もうとしたらどうなるの?

すると彼は少し笑って、だが決然と、こう言い切ったのである。

そうですね、おそらく本気になれば、あなたは私より強いですもんね。まぁもちろん、私もこう見えて、けっこう強いんですけどね?でもそれで、もし私があなたに殺されたとしても、そのときはまた私より強いひとが現れて、いずれはあなたを止めるでしょう。この職務も、私だけのものではないですからね

ここに至って私は、完全に抵抗をやめ、引き下がることにした。ここで私が彼を殺しても、なにも得るものはないうえに、すべてがもっと悪くなるだけだ。私は、納得できないものにも、納得することにしたのだった。

そしてそのあと、その生き霊の元となった相手は、いのちを失うこともなく、まだ生きている。ただそのひとからの攻撃は、それ以前よりは、だいぶ少なくなった。だからやはり、私のやったことにも、苦渋の決断にも、意味がなかったわけではないと思っている。

 

ただもうひとつの事例は、これともまた違う。

その生き霊は、やはりとても執拗で、狡猾なうえに用心深く、そしてなにより、先ほどの霊よりまた一段と強かった。それにこの霊が厄介な最大の理由のひとつは、

「その本体(肉体人)が、表面的にはどうしても、そんなに凶悪で強大な念を発するとは思えなかった」

という点にあった。だから私自身、その元を特定するのにとても長い時間を要した。そしてようやく相手と対峙したとき、やはり闘いに発展してしまったのだが、そのなかで相手は、こんなことを言ってきたのである。

私は確かに、今も実際に生きている。でももしお前が私の本体と直接話し合ったとしても、本人は絶対に、こんな念を発していることを認めないだろう。そしてそれは、お前から「真実を隠している」わけでもないんだ。なぜなら本人は、「本当に知らない」からだ。私がどんな目的で、なにを阻もうとして、ここに生まれてきたか。私が今生で、なにを為そうとしているのか。これを本人は、なにも知らない。「本人からも隠してしまえば、誰にも気づかれない。たとえ気づかれても、うまく対処できない」ということだ。私の本体は、バカで愚かに見える。そして実際、ある部分まではそのとおりでもあるんだ。だからこそ、誰も私を捉えられない。お前も、こうなるまで気づかなかった。だから、私はここまでできた。そして最終的には、私はすべての目的を、必ず達成してみせる

実のところ、私はこの霊と、度々闘うことになった。しかしその度に、決着がつくことはなく、今もそれはついていない。相手はできるだけ身を隠すし、少しでも不利になると、すぐまた離れ、「本体」に帰っていく。そうやって、生き延びること。肉体を保つこと。そしてその特権と力を最大限に活かして、自らを護り、いつか目的を達すること。それがその霊の戦略なのである。そして私はその前に告げられた

「ルール・原則」

を理解してしまったからなおさら、相手に手を出すにも限界がある。だから少なくとも今は、これ以上踏み込むことは、どうしてもできないのである。

 

これが、今の私が知るなかで最も厄介な生き霊の実例である。

私は今回ある種の

「決意」

を持ってこの実例をここに書くことにしたのだが、それでもこうして振り返ると、改めてなんとも言えない気持ちになる。それにもうひとつ明かしてしまうと、私が以前

少し考えてみただけでも、こういう状態で私が文章を書き残すというのは今回が初めてではなく、今までにもときどきあったことだと思うが、ともかく、今...

に書いた

理想を掲げてそんな生きかたを続けるあなたと、棄てるところは棄ててあなたが手にできないものを手に入れている私と、最後に笑っていられるのはどちらか、勝負してみましょうと言ってきたひと

というのがこの生き霊であるというのも踏まえれば、なおさらのことだ。ただいずれにせよ、これが私たちのいる世界なのだというなら、私もそのなかで、できることを模索し、実践していかなければならないのだと、そう思っている。

そのうえで私は一時期、この生き霊と

前回、私は毎年最も自分が強力になるときを見計らって私の前に現れ、そして根本的な決着はつかないまままた離れていくことを繰り返してきた、霊存在の...

の彼女がぶつかり合ってくれればいいのにと思っていたこともあった。というのも両者が自分の目的を追究していくなら、遅かれ早かれこのふたりはぶつかりあうことになると思っているからだ。だが、なんでもそううまくはいかないものだし、他力本願というのもいけない。それにあまりにも特殊な例すぎるのでここには書かないが、私はこの例にも優るとも劣らないほどに厄介な生き霊のことを、少なくとももうひとりは、実際に知っている。

だからその意味では、こんなことのひとつやふたつで、いつまでも好き放題にされているわけにはいかないのだ。そしてだからこそなんとかして、私も少しずつでも、この問題を解決に向かわせていきたいと、そう思っているのである。

 

それにある意味ではこのように

「生き霊の厄介さ」

を確認するということは実のところ

すべての問題の核心は、その凝縮形は、この世界に顕れている

ということを理解するということでもあるのだ。それに、たとえ生き霊などというものを信じられないとしても、

「あなたの周りにたくさんの肉体人がいる」

ということを否定することはできないだろう。だからあなたがどこの誰であれ、あなたの周りにいるひとたちとの関係を少しでもよくすることができれば、それは霊界の不和も含め、すべての問題を解決に向かわせているのと等しい大偉業であるということだ。あらゆる霊は実のところ、私たちの肉体を足がかりにして動いていると言える。だからこそ、私たちが変われば、すべてが変わるのだ。だからこそこのことを心から希望と見なすことができたなら、もう未来はよくなる以外にないと、私はそう思っているのである。