善意の力。善意が結果を保証しないとしたら、それでも善意を保つのには、どんな意味があるのか?

この世界で生きていると、それが一筋縄ではいかないことを否が応でも知らされるのだが、それでもなお、私にはひとつの

「信仰」

のようなものがあった。それは、

行動・表現の根底に善意があれば、いつかは必ず報われる(望ましい結果が得られる・理解し合える)

というものだった。だが最近私は、

その考えは、少し甘すぎるのではないか?

と思うようになってきたのである。

そもそも、私が今までこんな考えにすら至らなかった、あるいは薄々気づきながらもはっきり向き合わずにいた理由は、

今の世界には、あまりにも多くの悪意が満ちている

という前提があったと言っていいと思う。そしてだからこそ、そんな世界で生きていくために、私は善意の力を信じていたというか、もっと率直に言えば、過剰に信頼していたと言えるのだろうと、今の私は思っている。

だがそれはある意味では、

「今があまりにもひどすぎるために見えなくなっていた」

だけで、本来は、

「善意で他者と関わるのは当たり前であって、悪意を持って他者と関わるなどというのは、論外だ」

と言ってもいいのだと思う。そしてそのうえで、

たとえ全員が善意で行動したとしても、すべてがうまくいくとは限らない。だからこそ、そこからどうすればいいのか?

という問いこそが向き合うべきものであって、それをあまりにも単純に

行動・表現の根底に善意があれば、いつかは必ず報われる(望ましい結果が得られる・理解し合える)

と思うのは、素朴すぎたというか、いくつもの段飛ばしをしていたということなのだと、私はようやく理解できたのである。

そもそも私は少なくとも現時点で、この世界が悪意によって生まれたとは考えていないし、負の霊(他の喜びを願えず、苦しみを拡げようとする存在)になるために生まれた霊がいるとも思っていない。だがそれにもかかわらず、世界はこのようになってしまったという事実を踏まえて、それをどうすればいいかを考えることが、今の私たちに、私にとっての課題なのだろうと、そう思っているのである。

 

さらに言えば、悪意か善意かというのは、たいていの場合、その始点(発し手にその意図が宿ったとき)ではなく、その終点(意図が結果を成したとき)に初めて、判断されることが多い。つまり実際的には、

自分から見て望ましい結果を与えてくれた相手には善意があったと見なし、逆に望ましくない結果を与えられた相手には、悪意があったと見なす

という判断基準に則っている場合がほとんどあるということだ。そしてそうである限り、その評価は二転三転することがあり得るということでもある。

甘いものが好きな私に飴をくれたので善人だと思ったら、その飴に毒が入っていたので悪人かと思ったら、その毒が寄生虫を殺してくれたので善人だと思ったら、それで私自身も死んでしまったので悪人かと思ったら、天国に行けたので善人だと判断しました

というようなことなのだが、この最後の評価さえも、また二転三転するかもしれない。そしてそもそもその相手がどういう気持ちで飴をくれたのかというのは、本当には本人しかわからないうえに、それを本人が説明してくれたとしても、それが本当である保証はない。それに当たり前の話だが、その結果が、本人の予想や意図を超えてくることも、充分にあり得ることである。

だからこれを言い換えると、

善意がひどい結果を生むこともあれば、逆に悪意がすばらしい成果を見せることもある

ということである。そしてさらに言うと、ひどい結果を生んだ張本人とされたひとが

私は本当は、善意でやったんです!

と主張しても、それで免罪される部分はそう多くないだろうし、逆に大勢のひとたちに喜ばれる成果を生むきっかけを作ったと見なされたひとが、

実を言うと、私はこれで世界をめちゃくちゃに引っかき回すつもりだったんで、それは悪意と言ったほうがいいものなんですが……

と言ったところで、そのひとを責める声が高まるとは思えないし、たとえそれが本人の正直な告白だったとしても、それは

「照れ隠し」

のようなものとして受け取られて、却って美談になる可能性すらある。そしてこれは実のところ、この世界では私と同じような信仰を共有しているひとが、意外とたくさんいるということの表れでもあるのだと思う。

 

だがそれを改めて冷静に俯瞰しなおして、

意図と結果は、それほど単純に結びついてはいない。だからこそ、善意がひどい結果を生むこともあれば、逆に悪意がすばらしい成果を見せることもある

という前提に立ってみたのなら、そのうえで、

それでもなお、自分のなかに善意を保つのには、どんな意味があるのか?

という問いに向き合ってみることが、おそらく最も重要なことなのではないかと、今の私には思えるのである。

ただこういうことを考えると、

そもそも、自分が今善意で動いているのか悪意で動いているのかを、本当に自分自身で判断できるのか?

ということ自体を疑うこともできるとは思う。ただこれについて、少なくとも私自身に関しては、私は今のところそれほど難しく考えてはいない。だからかなり素朴に

そこに多少の思い入れの差はあるにしても、相手のしあわせを願っているならそれは善意であり、逆に相手の破滅・不幸を願っているなら、それは悪意だ

というくらいで捉えているし、とりあえずはこの基準で充分に足りると思っている。

そしてそのうえで、

意図そのものが結果を保証しないとすれば、なぜそれでも善意を保ち、育もうとする意味があるのか?

と問われたとしたら、

善意の結果生まれたものだけが、本当の意味で自分の糧になるから

と答えるのが、今の私なのである。

自分が終始善意で行動していたとしても、失敗することはある。それどころか、相手から誤解されたり、嫌われたり、憎まれることさえもあり得る。だがそれでも、それが善意から生まれたものだと知っていればこそ、その失敗をなんとか糧にして、次に活かそうとすることができるのだと、私は思う。

逆にもし、私が悪意によってなにかをしたのにもかかわらず、それによって相手を喜ばせてしまったり、相手がしあわせになって、深く感謝されたりしてしまったとしたら、誰がなんと言おうと、私自身がその齟齬に潰されてしまうだろう。そして私には、ある直感がある。それは

『たまたま今回はいい結果と見なされただけで、自分の根底には悪意がある』と認めてもらえないことは、『今回はひどい結果を生んだだけで、自分の根底には善意がある』と認めてもらえないことと同じくらい、あるいはそれ以上に、とても苦しいことだ

という直感である。それにそうであるならなおのこと、彼はその結果を、別の機会に応用することも難しいと思う。だからその意味において、その経験は本質的に、

「彼の力」

にはなり得ない。だからその意味で、いずれにせよ本人にとっては、悪意が生むのは何重もの悲劇以外にはあり得ないと、私は思うのである。

 

善意によっても失敗することはある。それにそれは善意が発端であればこそ、言いようがなく苦々しい失敗となる。だがそれでも、自分が善意を動機にできたという、少なくともその一点において、自分は自分の味方になれる。

逆に、私には経験がないので強くは言えないのだが、悪意によっても成功することはあると思う。そしてそれで結果的に多くのひとが喜んでくれたとしたら、それは当初は想像もつかない、意外な喜びをくれもするかもしれない。だがそれでも、少なくとも自分の動機には悪意があったという、少なくともその一点において、自分は自分の敵になる。

そしていずれにしてもこれだけは確信を保って言えるのだが、自分が自分の敵に回ってしまったら、その闘いは熾烈を極めたものになる。そしてここで言う

「自分が自分の敵になる」

というのは、自分のことが好きだとか嫌いだとかいうのよりも、もう一段も数段も深いものとして言っている。さらに言えば、これは

「負の霊が自分の邪魔をする」

ということよりも、はるかに根深く危機的なことだとも言える。なぜなら、誰もが自分自身だけからは、絶対に逃れられないからである。

あなたは、本当にはあなたより強い相手にも勝てる力を持っている。だがあなたは、

「あなたより強いあなた」

には、最終的には絶対に勝てない。だから、本当の意味であなたに認めてもらえなかったものは、いずれあなたの世界からすべて消え去る。あなたのそれが悪意であることを、他でもないあなたが知っている以上、それはいずれ必ず、あなたに還ってくることになる。これは、

「信仰」

と言えるようなものでさえない。

そしてもうひとつ大切なことは、

「強制された善意」(他に道がないから選んだ善意)は、本当の善意ではない

ということだ。

以前私は

なぜひとを殺してはいけないのですか? かつてこの素朴な問いがテレビの討論会で聴衆のこどもの口から発せられ、その場の誰もが明快な答えを提...

という表現でも同じようなことを書いたと思うが、改めてさらに言い換えれば

他にも選択肢があったのに、それでもなお選んだものだけに、本当の意味・力が宿る

ということなのだ。

すべての存在は、悪意を持つことができる。だがそれにもかかわらず善意を選び取ることにこそ、かけがえのない意味があるのだ。そのことを腑に落とすことができれば、どんな失敗からでも、また這い上がることができると思う。そして実のところ、私も本当の本当には、まだ信仰を棄て去ってはいない。私は以前ほどには脳天気になれないにせよ、それでもまだどこかでは、

行動・表現の根底に善意があれば、いつかは必ず報われる(望ましい結果が得られる・理解し合える)

とも思っているのだ。ただもしいつの日か私の願いが叶ったとしても、もう今の私はそれを単純に、私の根底に善意があったからだとは言わない。そんなことは当たり前で、そこからが真のスタートなのだから。だからこそそのことを理解できるようになった私はいつか、

私がこうなれたのは、なれるまで諦めなかったからです

と言ってみたいと思う。そして少なくとも、私は諦めの悪さには定評があるから、きっとそれはだいじょうぶなのではないかと思う。それに少なくとも、今の私はまだ、自分にそう言ってあげられる程度には、自分の味方についてあげられている。だからきっと、なんとかなるのだろうとも思う。だからもういちど改めて、私は私が選んだ道を、進んでみようと思う。

コメント

  1. なすび より:

    最期は相変わらずDilettanteさんらしいしっかりと前を向いたコメントに元気をもらいました。

    “結果がどうであれ、自分が自分の見方でいるために、自分が幸せになるために、善意で生きていくこと”

    私も忘れないようにしたいと思います。

    ただ、どこまで自分が善意でいることができるのかについてはきちんと自分を振り返らないといけないなと日々感じています。。

    例えば、人が自分よりも幸せなのではないかと感じると素直に人の幸せを願えなかったり。。

    もっとも、本来は自分だけが不幸だとか、自分だけが幸せだとか、そういった思考自体が間違っているのだと頭では分かっているのですが、それが自分のものになっているかどうかというのはまた違う次元の話のようですね。。

    “まだ分かってないんかい!”と自分につっこむ日々ですが、私もDilettanteさんのように諦め悪く、図太く生きていきたいです。

    まずは、職場の人に挨拶をしっかりできるようになりたいですね。Dilettanteさんが、以前書いて下さった、”幼稚園で言われたことをできたら十分なんだよ”の話も忘れないようにしたいと思います。

    • Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ただ、どこまで自分が善意でいることができるのかについてはきちんと自分を振り返らないといけないなと日々感じています。。

      例えば、人が自分よりも幸せなのではないかと感じると素直に人の幸せを願えなかったり。。

      もっとも、本来は自分だけが不幸だとか、自分だけが幸せだとか、そういった思考自体が間違っているのだと頭では分かっているのですが、それが自分のものになっているかどうかというのはまた違う次元の話のようですね。。

      そうですね、もちろん私もまだまだ試行錯誤の真っ最中ではあるのですが、そのうえで言うとすれば、まず私は

      「少なくとも一般的な意味において、『運のよさ』というのを信じていない」

      ということは言えるかもしれません。

      というのも、これは私自身の場合なのですが、もし私が誰かが私よりしあわせだと感じ、それを素直に喜べないようなことがあるとしたら、その根底には

      相手と私に本質的な差はないはずなのに、私に比べて相手は不当に優遇されている!

      という感情があるからだと思うんですよね。

      ですがもし、本当の意味でそうした

      「不条理」(実力以外のところでの運・不運)

      というものが存在しないということを腑に落とすことができれば、そのぶんだけラクになれるという気はしています。

      それに、よくも悪くも、

      「その報い(結果)が今生の間に顕れるとは限らない」

      というのも事実ですので、

      今顕れずに溜め込まれているぶんは、いずれもっと大きくなって還ってくる

      と思えれば、腐らずに続けられそうな気がします。もちろんもっと本質的には

      たとえなんの成果(見返り)がないとしても、この生きかたを続けたいか?

      という問いに向き合えれば、それが不屈の根になるとも思うんですが、それはそれとして、他にもいろいろな考えかたの余地もあると思いますので、これは私の考えによるひとつの例です。

      それにもうひとつ単純に

      一般的に自分がしあわせであればあるほどゆとりができて優しくもなれるので、相手にしあわせになってもらったほうが、ゆとりと優しさあるひとの助けによって、自分もしあわせに近づく

      ということも言えるのではないかと思うのです。さらに言い換えると

      しあわせになれるひとから、どんどんしあわせになってくれたらいい

      ということですね。

      ひとはどう生きればいいのか? 私たちの基本的道徳とはなにか? このような問いは古来から繰り返されてきた。私自身、多くの先人の記録...

      も活かしてくださってありがとうございます。

      こどもにいい影響を与えられるひとでいたいですよね。とはいえ

      あなたがいい反面教師になってくれたので、ありがたかったです

      と言われるのはなんなので、私ももっともっと、成長していきたいです。

  2. より:

    善意か悪意か、、、善意も悪意もその人の価値観によるものなので難しいですよね。

    自分の周囲でよくあるのは、たとえ相手の幸せを願っているような関係だとしても

    自分の弱さゆえに相手を追い込み、負に巻き込んでしまう事です。

    子供と本当には向き合えず、子供の為と思って支配する親

    宗教に依存して、善意のつもりで周りを執拗に勧誘する人

    こういう場合は、その人が善意のつもりなのでしょうが

    相手の為と言いながら、本当は自分の事しか考えられない弱さがある、

    という事になります。

    なので、善意の言動をするのなら

    真に自立した強く優しい心が必要なのかも知れませんね。

    • Dilettante より:

      南さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですね、これは深く考えていけばいくほど一筋縄ではいかない問題だとも思うのですが、それでも個別の事態については、多少言えること(問題をほぐす糸口)のようなものは見出せるかもしれないとも思います。

      たとえば

      子供の為と思って支配する親

      について言えば、私は

      こどもは親を超えるものなので、支配しようとするのはその力を抑えつけるものでしかない

      と単純に考えているので、そのような観点から言えば、それがこどものためではない可能性にも気づけるのではないかと思います。

      あるいは逆に

      自分のこどもが自分を飛び越えて育っていくのが、自分が置いていかれるみたいで怖い!

      というようなことなのであれば、それはそれでそのまま言ってしまったほうがずっといいと思います。

      ですから、私としては、最初に相手のことを考えていようが、実は自分のことだけを考えているのであろうが、それ自体は別にどちらでもいい(究極的には、どちらでも同じことだ)と思っているのですが、だからこそ、

      せっかく考えるんだったら、もっと徹底的に

      というのが大切なのではないかと、私は思っています。

      とはいえ私には今生において自分のこどもを育てた経験がないのでたいした説得力はないかもしれませんが、

      親が最大の反面教師だ

      というひともいますし、その親を親として選んだ子であれば、最終的にはすべてを糧にできる力もあるのだろうと思いますので、その意味ではやはり、未来はよくなっていく以外にないのだろうと思っているところはあります。それに実のところ、どこまでやっても本当の本当には、親は子を(魂は魂を)支配できませんからね。

      それから、

      宗教に依存して、善意のつもりで周りを執拗に勧誘する人

      については、実のところ多くの宗教団体が

      「ノルマ」

      のようなものを設けていたり、

      たくさんのひとを勧誘できればできるほど、あなたはもっとしあわせになります

      などというようなことを言っていたりするのも大いに関係があると思っていますので、やはり根本的にいろいろなところを見直さなければいけないのだろうと思っています。

      あとは

      「自立」

      についてもいろいろと思うところがあるのですが、

      「悪いかたちで他者に依存する」

      のは確かによくないと思う一方で、もし

      「他者を必要とせず、すべてが自分で賄える」

      という事態が実現してしまったら、それはそれでとても寂しいというか、虚しい世界だろうなという気がするので、そのあたりのいろいろな要素を自分なりにどのように整理して、自分なりにどう体現していくかというのは本当に大きなカギなのだろうなとも思います。

      いずれにしても、私も私なりに自分自身と向き合い続けながら、少しでも自分を活かしていきたいと、そう思っています。