「私もそうだよ」と言うときの想いと、「わかるよ」と言うときの賭け

つらいのはあなただけじゃないから!

誰だってなぁ、必死に生きてるんだよ!

自分のつらさや苦しみを、誰かに伝えるというのは難しい。しかしそこをなんとか乗り越えて打ち明けてみたときに、相手からこんなふうに返されると、もっと苦しくなってしまいもするだろう。

だがこんなに激しい口調ではないにしろ、たとえば体調が悪いことを伝えたときに、

私もそうだよ。っていうか、生きてれば誰でもそう。みんなそうだよ

というようなことを言われてしまったり、あるいは少し違ったかたちで、

そう、そうやってあなたがうつ病だって言って通るんなら、私もうつ病だって言えば、休めるかもしれないね

などと言われてしまうようなことは、かなりよくあることではないかとも思う。

ただこのように言われてしまうと、いろいろな葛藤を乗り越えて苦しみを打ち明けたほうは、少なからず傷ついてしまうことも多いと思う。そしてそれがなぜなのかと考えていくと、それはおそらく

自分にとっては大きくて切実な問題が、「ごくありふれた、取るに足らない話」として過小評価された

と感じてしまうからかもしれないと、私は思う。そしてこれは、私自身がこのようなことを言われて哀しく思ってしまった経験を振り返りながら思っていることでもある。

 

だが一方で、そんな私が逆に

私もそうだよ

というほうの立場に立ったことも、やはり1度や2度ではないのだ。私自身がそのように言われて哀しんだ経験がありながら、なぜその言葉を相手に向けてしまったのかと考えると、これは確かに矛盾しているというか、言動に問題があると言われてもしかたがないようにも見える。しかしそれでも、もう少し深く掘り下げてみると、やはりそのときの私には、そう言いたくなるだけの想いがあったのも確かなのだと思う。それは、

私も、あなたと共通している部分がある(あなたと私は、実はそれほど違う生きものではない)

ということを相手に伝えたかったのだと、そう思うからである。

自分に苦しみや哀しみが多すぎて余裕がないと、世界が自分から断絶したように感じる。それに実際には、世界から自分を切り離しもしている。誰かが笑っている瞬間を見ただけで、笑える余裕のあるひとは自分とは違う世界の住人だと感じる。そしてそんなひとには、自分の苦しみや哀しみは絶対に理解できないと感じる。だから、既に自分とはかけ離れているように見える世界から、さらに自分を引き離す。そしてこうなってしまうと物理的な距離にかかわらず、心の距離は無限に拡がっていく。

だからその流れに抗って、私は相手とのつながりを示そうとしたのだと思う。だから私は相手に

私もそうだよ

と言わずにはいられなかったのだろうと、そう思うのである。

 

だがそうであったにせよ、この試みはそう簡単には成功しない。この理由はいくつも挙げることができるが、まず単純に

「同じ衝撃を受けたからと言って、同じだけの深刻な被害を受けるとは限らない」

からでもある。そしてそれは単なる

「体力・精神力」(衝撃に対する防御力)

の違いだとも限らず、実際には

「衝撃に耐えられる容量」

の差かもしれないし、あるいはもっと言うと、

「受けた衝撃を隠し、平静を装う演技力」

の差なのかもしれない。

だからこれは

「同じ衝撃を受けたからと言って、同じだけの深刻な被害を受けたように見えるとは限らない」

と言い換えてもいい。

だがいずれにしても、その「深刻さ」を共有できない限り、それは相手からは

「同じ・共通している」

とは見なされないことが多いということである。

それに、たとえ同じような体験をし、同じだけの深刻なダメージを受けたことがある相手だとしても

「相手にとってのそれは『過去の自分に起きたこと』にすぎず、自分にとってのそれは『今現在、日々直面している状況』だという差がある限り、それは『同じ』ではあり得ない」

という点を突かれたら、それを否定することはできない。

また、少し違う視点から言うと、もし仮に、両者がまさに同時に、同じ深刻さで、同じような痛み・苦しみを抱えていたとしても、

「その一方が相手に打ち明け、もう片方が打ち明けられるという関係ができた時点で、打ち明けられたほうは、どうしても冷静になろうとする」

という作用があることも、この問題を根深くしていると思う。つまり、相手が自分に深刻な苦しみを打ち明けているときに、自分もその相手に同じくらい深刻な苦しみを打ち明けたとすると、そこで倍になって突きつけられた苦しみに、両者が呑み込まれてしまうかもしれないからだ。しかももともとお互いが究極的に苦しんでいるときに、相手の苦しみまでも受け入れるのはとても難しい。だからこそ、たとえそこまで同じ経験をしている相手とさえ、「同じだ」と認め合うことは、とても難しいのだと思う。

 

だがこうしたことを踏まえて、もういちど冒頭に挙げたような発言を振り返ってみると、いろいろな感慨が湧いてくる。この4つの発言にはそれぞれに強弱や意味の違いはあるだろうが、実のところ

「その全員に、余裕がない」

ということは確かだと思う。そしてそのうえでそれを

自分にとっては大きくて切実な問題が、「ごくありふれた、取るに足らない話」として過小評価された

という自分(の哀しみ・つらさ)にではなく、

「相手も、同じくらい苦しんでいる」

というところに焦点を合わせると

実は、相手も誰かに助けを求めているのではないか?

というふうに見ることができるのではないかと私は思う。そしてこれもやはり、私自身の心情を振り返って言っていることでもあるのである。

 

私が苦しみを伝えたとき、

つらいのはあなただけじゃないから!

と言われて哀しかった。しかしそんな私も、相手の苦しみを聴いたあと、

私もそうだよ

と言って、相手を哀しませたことがある。そしてそれは、本当は、相手を突き放そうとして、哀しませようとして、言ったことではなかった。

だから私は、こういったことを総合的に見れば見るほど、

少なくとも今のような社会においては、誰もが誰かに、助けを求めているんだ

と思えてくる。そしてだからこそ、誰がいちばんつらいとか、あのひとよりこのひとがつらいとか、そういうことはとりあえず脇において、

「それぞれにできる範囲で、みんながみんなを助け合うこと(理解し合うこと・支え合うこと)」

ができればいいのだろうと、ずっとそう思っている。そしてこの

「助け合うこと」

を実現するためには

「自分も相手を助けたい」

ということと同じくらい

「自分も相手に助けられたい」

と思うことが大切でもあると私は思う。ここで私が言っているのは、

自分はなにもできないから、誰かになんとかしてほしい

というふうに思えばいいということではもちろんない。むしろその逆で

「本当の意味で『助けてほしい』と思っていなければ、誰も助けられない」

ということなのだ。私が霊媒師としての道を歩み始めた最初期に、これ以上なくはっきりと突きつけられたのは、

相手を助けることはできる。しかし決して、救うことはできない

ということなのだから。

 

とはいえ、そのすべてを踏まえたうえで、もうひとつ付け加えておくとしたら、私たちには多かれ少なかれ

自分が理解されたいと思う相手には理解されたいけど、理解されたくない相手には、理解されたくない(理解されていると認めたくない)

という気持ちがあるということであり、この「理解」を

「助け・支え・愛……」

などに置き換えても、すべて同じことが言えるということである。

だからその意味において、

私もそうだよ

と言うのもそうだし、もう一歩踏み込んで

わかるよ

と言ったりするのは、私にとってもいつも想像以上にギリギリの賭けである。だから私は以前よりさらに、このようなことを言うのには慎重を期すようになっている。そしてそれに代えて、

私なりにではありますが、共感できるような気がします

くらいに留めるようにしたりもしている。

しかしそれでも、やはり私は世界のことを、あなたのことを、理解したいと思っている。理解し合いたいと思っている。それが私の願いである以上、それがどんなにか細い綱渡りでも、だからこそ全力でその可能性に挑み続けていきたいと、私はずっと、そう思っているのである。