福徳一致説。ソクラテスのこの見解に、あなたはなにを感じるだろうか?

私は先日、

この世界で生きていると、それが一筋縄ではいかないことを否が応でも知らされるのだが、それでもなお、私にはひとつの 「信仰」 のよう...

と書いた。あるいはさらに以前には、

私たちが死ぬと、「閻魔大王」のところへ連れて行かれ、生前の所業をすべて暴かれる というような考えかたがある。そして、相当の「悪いこと」...

とも書いた。

ここで私が向き合おうと試みたのは、端的に言えば私たちが

理不尽だ!割に合わない!

なんであいつには、なんの罰もないんだ!

と思ってしまうことに対して、私たちが、私が、どのようなことを手がかりに想いを整理していけばいいのかということであると言ってもいいと思う。

ただこれは、やはり簡単に答えを出せるような問いではない。だがだからこそ、はるか昔から多くのひとが自分なりの答えを見出そうとしてきた問いでもある。

そしてそのなかでも特に大きな影響力を持った思想家に、古代ギリシアのソクラテスがいる。彼は

哲学の祖

とも呼ばれ、その思索は、現代の私たちにも読めるかたちで残されているのだが、彼は一般に

「福徳一致説」

として知られる思想を持っていたとされる。これはつまり

福と徳は常に一致する

ということなのだが、ここで重要なことは、これは

そのひとに徳があれば(善く生きることができていれば・そのひとが善人であれば)、そのひとはそれだけで常にしあわせだ

という考えかただということだ。これは一見して

そのひとが善人であれば、そのひとはいずれ必ずしあわせになれる

という考えかたにとても似ているようでいて、実のところはっきりと一線を画している。なぜなら、後者が

善という種を蒔けば、しあわせという花が咲く

というような

「因果関係・影響・呼応」

(善→しあわせ)

を示唆しているのに対して、ソクラテスが言っているのは

善人であれば、他の要因・状況がどうであるか(愛されているか、理解されているか……)にまったく関係なく、それだけで常にしあわせだ

という

「絶対的・永久的な一致」

(善=しあわせ)

の主張だからである。

そしてこれは裏を返して

悪人であれば、表面的にはどれだけしあわせに見えても(愛され、地位があり、富があり健康であり……などには関係なく)それだけで常に不幸だ

ということを主張していると言ってもいいのである。

 

とはいえ、ソクラテス本人が直接自らの思想を著した記録などはない(とされている)ので、こうしたソクラテスの思想は、彼に最も強く影響を受け、死後彼の言行や人生をまとめ、自身も独自の思想を発展させていったプラトンによって、間接的に知られているものである。ただそこに多少の創作・脚色がある可能性も踏まえたうえで、今私たちが触れることができるソクラテスの言葉には、たとえばこんなものがある。

ところで、裁きを受けるということは、最大の悪、つまり悪徳からの解放だったのではないか。

(中略)

それというのも,裁きは、人びとを節度のある者にし、より正しい者となし、かくして、悪徳の医術となるからであろう。

ここでソクラテスは、福徳一致説を背景に、

罰を受けることは、悪人にとっていいことだ

という考えを述べる。ただここで改めて確認しておきたいのは、この「いいこと」というのは

「社会にとって・被害者にとって……」

ではなく、それ以上に

「本人(悪人自身)にとって」

だと言っているということである。これを踏まえてその後を読み進めていくと、そこにはこんな考えが示されている。

ところで、今度は反対に、いまとは逆の場合で、かりにひとが誰かに対して、それは自分の敵にでもいいし、またはどんな人にでもいいが、害を加えなければならないのだとしてみよう。

(中略)

そんなときには,その敵が裁きを受けないように、また裁判官のところへも行かないように、ひとは言行いずれの面においても,あらゆる手段をつくして,工作しなければならないわけだ。

しかし、もし裁判官のところへ行ってしまったのなら、そのときは、その敵が訴訟にうち勝って罰を受けないですむように、(中略)またもし、死刑に値する悪事を行なっていたのなら、できることなら決して死刑にならずに、むしろ悪人のままでいつまでも死なないでいるように、しかし、もしそれができないことだとすれば、そういう人間のままで、できるだけ長時間生きながらえるように、そういうふうに取り計らわねばならないのだ。

これは、現代社会で暮らしている私たちにとって、これ以上なくおかしな主張のように見える。そしてこれは、ソクラテスの時代の、彼の周りの社会においても、やはりとても受け入れがたい考えだったと思う。だがソクラテスは、このような考えかたを持っていたのである。

 

ただもちろんこのような考えかたは、古今東西あらゆる思想家から明確に反論されてもいる。たとえば先に述べたプラトンの弟子(=ソクラテスの孫弟子)のアリストテレスも、

拷問にかけられたり、数々の大きな不運に見舞われたりしている人であっても、もしその人が善き人であるなら、その人は幸福である、などと主張する人たちは、その主張が本意であるにせよそうでないにせよ、たわごとを言っているのである

と、ソクラテスの考えとは明確に違う立場を採っている。そしてアリストテレスがこう言いたくなるのには、私もとても共感する。

だがここで考えなければいけないことは、ソクラテスは単に

「このような考えかたを提示した」

だけではなく

「このような考えかたを実践した」

のであって、その結果として彼は

ポリスの信ずる神々を信ぜず、別の新奇な神霊(ダイモーン)のようなものを導入することのゆえに、不正を犯している。また、若者を堕落させることのゆえに不正を犯している

という理由で裁判にかけられ死刑になったときも、(クリトンたち友人の脱獄計画を拒んだうえで)それを受け入れて死ぬことを選んだということである。彼には、それだけの「覚悟」(信念)があったということだ。

 

だがここまでは、哲学の研究などでも触れられるところだと思う。ただ私は霊媒師のひとりとして、

彼があのような思想を持ち、それを実践できたのは、彼自身が霊媒体質者だったからではないのか?

という考えを持っているのだ。

というのも、ソクラテスは自分自身を振り返って、

すなわち私の聴き慣れた予言的警告は、私の生涯を通じて今に至るまで常に幾度も幾度も聞こえて来て、特に私が何か曲がったことをしようする時には、それがきわめて些細な事柄であっても、いつも私を諌止する

と言っていたとされ、それは現代では

「良心の比喩か、さもなければ幻聴」

だと見なされることが多いものなのだが、私としてはこうした記述から、彼が霊媒体質者であった可能性に思いを馳せずにはいられないのである。

もちろんそれでも彼がどの程度霊界、あるいは霊存在と交流できていたのかはわからない。だが彼がこうした体験から、少なくとも

「魂・あるいは死後の世界の実在を信じていた」

のであれば、彼がこのような生き様を貫けたとしても、充分に納得できるとも思うのである。

 

だがだからと言って、霊媒体質者であれば、あるいは死後の世界の実在を信じていれば、誰もがソクラテスのように生きられるとは思わないし、私自身もそこまで生粋の

「福徳一致主義者」

というわけではない。

しかしそれでも、彼が

すべてを振り返ったときに、自分自身に恥じない生きかたができているかが、なにより大切なのではないか?

誰から受けるどんな罰よりも、「自分が自分に与える裁き」のほうが、最も公正で、だからこそ最も厳しいのではないか?

と思ったのだとしたら、それは私としても、とても共感できることなのである。

 

理不尽だ!割に合わない!

なんであいつには、なんの罰もないんだ!

と思ってしまったり、そこからさらに

もう耐えられない。死んでしまおう

私の手で、あいつに復讐してやる

とまで思ってしまったりすること、あるいはそう思いそうになってしまったりすることは、もしかするとあなたにもあるかもしれない。だがそのときに、私の言葉とともに、ソクラテスの考えや生き様も、少し思い出してもらえたらと思う。そして一緒に自分の生きかたについて考え、少しでもしあわせに生きることができれば、本当に嬉しく思う。

コメント

  1. なすび より:

    Dilettanteさん

    ソクラテスを紹介してくださってありがとうございます。

    名前は知っていましたが、彼がどんな人かは全然知りませんでした。

    最近、もっと自分に決断力と勇気があればなぁと思うことがあります。

    これまでの人生でそれを示唆する体験がいくつかあったこともあり、私は以前女性だったことがあるような気がしています。そしてその影響か分かりませんが、心に関して言えばその性質が強いように感じています。(Dilettanteさんが友人の話をされたときも少しどきっとしました。でも、私は同性愛者ではないです)

    少し話の趣旨とずれてしまったかもしれませんが、彼のような勇気と決断力を持てるようになりたいなと思いました。

    • Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      私からすると、前々から予定していたとはいえ、地震の直後にもかかわらず私に会いに来てくださったあなたは、既に相当な勇気と決断力をお持ちだとも思うのですが、そこからなお上を目指すというのであれば、また一層味わい深い景色が拓けてくるのでしょうね。

      それから性別の問題についていうと、以前ある霊から

      究極的にはさ、人間誰だってバイセクシャルの要素を持ってるのよ

      と言われて、当時の私としては

      それはいくらなんでも極端すぎるんじゃない?

      と思ったのですが、私も含め男女様々に生まれ変わることが当たり前であることなどを総合的に鑑みると、確かに究極的には、そのように言ってもいいのかもしれないな、とも思っています。

      また、今私たちは地球に生まれているので、どうしても地球の在りようを基に考えてしまうのも自然なことだと思いますが、他の星で肉体を保って生まれ変わる場合、今の地球ほど性差がないからだ(環境・文明)に宿ることも充分あり得ることです。

      ですから、自分自身の(今生の)性自認・あるいは性意識とは別に、こうしたことを少しは意識してみると、たとえば現在の社会において

      「セクシャルマイノリティー」

      と呼ばれているひとたちの存在についても、また一段と深く思いを馳せることができるのではないかと思っています。

      さらに言えば、私はこうした問いについて、

      性はグラデーション

      という表現が、いちばん核心を突いているのではないかと思っているんですけどね。

      と、私もこの文章の内容からだいぶ遠くまで話を拡げてしまいましたが、なにがどうきっかけになったにせよ、なにか感想を聴けて想いを交流できることはとても嬉しいので、どうぞこれからも遠慮なく、感じたことを共有していただければと、そう思っています。