正義と悪が相対的なものだとしても、それでもなお「正義」に身を置くつもりなら、どこに線を引くか?

現代社会では、正義と悪が混沌としていることはもはや誰が見ても明らかだと思う。

この社会には様々な問題があるのだが、それは

「どこかに『諸悪の根源』があって、それを『正義』がいつの日か打ち倒すことで、すべてが解決する」

というようなものではないということだ。

そして、私たちはもはや数えきれないほどの「正義」が乱立し、それが互いに衝突し合っている様を見て、「善」や「正義」といったものと「悪」というものは、実のところ相対的なものにすぎず、状況と立場によっていくらでも変わってしまうものなのではないかと思うようにもなってきたのだと思う。

そんななかで、もはや誰が初出なのかはわからなかったのだが、少なくともかなり以前から、こんな話がされているのを見た。

<正義の味方の特徴>

1,自分自身の具体的な目標を持たない

2,相手の夢を阻止するのが生きがい

3,単独~小人数で行動

4,常になにかが起こってから行動

5,受け身の姿勢

6,いつも怒っている

<悪玉の特徴>

1,大きな夢、野望を抱いている

2,目標達成のため、研究開発を怠らない

3,日々努力を重ね、夢に向かって手を尽くしている

4,失敗してもへこたれない

5,組織で行動する

6,よく笑う

これは私からすると、より本質的には

「既存の枠組み(パラダイム)を維持しようとする側」と「その枠組みを壊そうとする側」

というふうに見たほうがいいのではないかとは思うが、その点を差し引いても、やはり興味深く感じられた。

そして、その既存の枠組み(今までの手法)がいいものなのか悪いものなのかということ自体が、立場や視点によっても大きく変わることも間違いない。逆にもし、

「全員が明らかに間違っていると合意しているシステム」

があったとしたら、そんなものは存続できない(すぐに取って換えられる)。だから自分にとってどんなにひどいように見えるシステムにも、それをよしとしている存在があるということなのだ。だからやはり、正義と悪が相対的な概念にすぎないというのは、一面の真実なのだと思う。

 

ただ、ある程度まではそれを認めたうえでも、だからといって

「完全な相対主義」

に陥ってしまったら、それはほとんど

「虚無主義」

のようになってしまう。そしてそれがすべてになってしまったら、もはや私たちに存在意義はないに等しいかのようになってしまうと思う。

なぜなら、そのような世界観のなかで

成長したい

と言っても

どこに向かって?その「成長」は「退化」かもしれないのに?

ということになるし、

少しでも世界をよくしたい

と言っても、

お前にとって「いい世界」が他の誰かにとっては「悪い世界」かもしれないのに?

と言われてしまうことになるからである。

だからたとえ善や正義が相対的なものであって、別の誰かにとっては悪であると見なされるものである可能性を考慮しても、それでもなお自分に「正義」(やる価値があるなにか)があると思いたいのであれば、やはりどこかに線を引かなければいけないのだろうと、私は思うのである。

そして、今の私にとってのそれは、つまり曲がりなりにでも自分に「正義」があると言える基準は、

たとえ好き勝手に行動し、ルールなど無視してなんでもありで暴走する相手にも、ルールに則って向き合えるか?

というところにあると、私は思っている。

逆にもし、めちゃくちゃな相手に、めちゃくちゃな方法で対抗するのなら、なんでもありな相手になんでもありで対抗するのなら、それはもはや

「『悪』対<悪>の闘い」

でしかなく、決して

「『正義』対「悪」の闘い」

ではないし、もちろん

「『正義』対<正義>の闘い」

でもないというのが、私の考えなのである。

ただここでさらに言ってしまうと、私は別に

「『悪』対<悪>の闘い」

を否定したり、蔑んだり、あるいはそこになんの意味もないなどと見なしたりしているわけではない。私が言っているのはもっと単純に

一切のルールを無視するのなら、そのひとに正義を名乗る資格はない

ということなのである。

 

だがそのように考えてみたうえで、それでも

じゃあその「ルール」は、誰が決めるんだ?

と訊かれたとしたら、

それは、「自分自身で徹底的に考えて決めたルール」です

と私は答える。

そしてさらに言えば、その「ルール」とは、実のところ

「自らに課した制限」

とも言える。だから私にとっての「正義」の定義は

めちゃくちゃでなんでもありな相手に対しても、自分で課した制限のなかで対抗できて初めて、「正義」を名乗る資格がある

というものなのである。

私は以前、

なぜひとを殺してはいけないのですか? かつてこの素朴な問いがテレビの討論会で聴衆のこどもの口から発せられ、その場の誰もが明快な答えを提...

と言った。

私が誰かを殺そうとしないのは、私が誰も殺したくないからだ。これがもし

殺してはいけないと言われているから、あるいは今の自分に殺す能力がないから殺しません

というのであれば、それは

「良心」

ではない。そして良心のないひとに、正義を名乗る資格はない。だからこそ、もし曲がりなりにも正義の側に身を置きたいなら、自分自身で考え抜いた制限(ルール)の範囲内で、どんな相手にも対抗しなければいけない。それが、どんな相対主義のなかでも自分を自分とする、自分を自分として保つ、ほとんど唯一のカギなのではないかと、私は思っている。

だから私は、以前

今のひとたちの一般的な感覚では 「霊」 という言葉は 「幽霊・お化け・死者」 というようなイメージで捉えられることが...

にまとめたある霊との闘いの際、怒りで一線を越えかけていた私を止めてくれた霊に対して、今ではやはり感謝している。あそこで止めてもらえなければ、私は私ではない者になっていたかもしれないからだ。そして一連の抗議はしたものの、やはり彼が私に伝えてくれた

「ルール」

は、私にとっても、最終的には納得できるものだったからである。

 

ただひとくちに

「ルール」(枠組み・仕組み・パラダイム……)

と言っても、そこにはいろいろなものが混在している。

たとえば「資本主義」も、「教育制度」も、あるいは「霊界の存在」も「生まれ変わり」でさえも、その一種であると言っていい。だが私は、そういった大小様々な枠組みのすべてについて、今のままがいちばんだとは思っていない。だから私が変えたいものを護りたいひとたちにとっては、私はやはり悪である。

だが私は、私なりに徹底的に考えたうえで、私の生きかたを決めたいと思う。そして、私は私の決めたルールのなかで、私なりに生きていこうと思う。

しかしこういった考えに対して、

そんなふうにルールで縛ると弱くなるんじゃないの?なんでも自由が最高だと思うけど?

というように思うひともいるかもしれないが、私はそうは思わない。むしろ

「完全な自由」は孤独でしかないし、「制限のなかでの創意工夫」のほうが、私たちを成長させる

と信じているし、だからこそ私たちは、こうしてここに来て、肉体人として生きてみようと思ったのだと、私は思っている。

またもしかしたら

じゃあ「一切のルールを作らない」っていうルールで生きることにしよう!

と思うひともいるかもしれないが、それはそれでつらいものだと私は思う。それにそのような考えで生きると、

「明日の自分が今日の自分の敵になる」

ということが起きてしまうこともあり得る。それは本当に、哀しいことだ。

とはいえ、ルールをあせって作る必要はまったくない。あくまでもそれは

「自分で徹底的に考えて作ったルール」

でなければ、本当にはなんの意味もないのだから。それにそもそも、

「自分で徹底的に考える」

ということ自体が、未来を拓く確かなカギなのだと、私は思っている。

この世界は、本当は、なんでもありだ。そして今の世界は、本当に驚くくらい、めちゃくちゃだとも思う。だがだからこそ、

そのなかで私はどこに向かって、なんのために生きるのか?

ということを考え続けていきたいと、私はずっと、そう思っているのである。