この『闇の向こう側』というサイトは、とても端的に言ってしまえば
「霊媒師としての体験を積んできた私が、その立場も踏まえながら日頃考えていることや体験していることをあなたとも共有し、互いに少しでもよりよい方向に向かっていこうと模索している記録」だ
と言ってもいいと思う。そしてその
「霊媒師」
という立場が現代の日本のような社会ではかなり奇異に見られることも自覚はしている。だが一方で、私は
「あなたと同じように、今この瞬間も肉体を保ち生きている存在」
であるのは確かだ。だから私は、ここに記録・共有する内容を
「直接的な霊体験」
に留めることなく、あらゆる分野について拡げていこうと思っていたし、実際にそうしてきた。
だがそんな私が、ひとつ大きな要素については、今までしっかりとまとまった想い、見解をほとんど示してこなかったことに気がついた。それは、
「性」
についての内容である。
ただこれはとても繊細かつ深遠な話になってしまうので、どこから話していけばいいのか決めかねていたというのがあるのだが、先日

と言ったとおり、この機会に私ももう少し、こうしたことについて考えてみようと思う。
まず話の切り口として、
現代人は、特に若い年代においてはなおのこと、性行為を忌避する傾向が強まっている
という指摘がある。これは
「少子(高齢)化」
への問題意識からより深刻に捉えられるようになったことだとも思うのだが、この
現象について考えるのはいったん後に回して、
「性行為の忌避」
という観点に絞って考えてみると、それは日本に限った話ではなく、欧米などの
「先進国」
とされる国々では特に共通して起きている現象だと捉えられている。そしてそれはたとえば”The Atlantic”(現存するアメリカ雑誌のなかで最古のものとされる)にも

と問題提起されている。
ただここでひとつだけ言っておくと、私は、特にこのような極度に個人的かつ繊細な話題について、ひとが誰かから受けた調査にどこまで正直に答えるのかというのには少なからず疑問を抱いてもいる。まして今の日本のような社会であればなおさらだ。だがそれを踏まえたうえでも、これだけいろいろな団体が調査しても概ね同じような結果が現れたというのであれば、それはやはりそれなりに正しいのではないかとも思っている。
そしてそのうえで、たとえばこの文章において言及されているように、
現代の若者は、出会い系のサイトやアプリを広く利用でき、婚前交渉に対してより寛容な態度を示すにもかかわらず、実際の性行動は前の世代ほど活発ではない
不活発なミレニアル世代の性行動、米研究【8月3日 AFP】現代の若者は、出会い系のサイトやアプリを広く利用でき、婚前交渉に対してより寛容な態度を示すにもかかわらず、実際の性行動は前の世代ほど活発ではないとの調査結果が2日、発表された。
ということであるとするなら、これは
抑圧的(宗教的)な性規範の影響(が強まった結果)でも、短期的・刹那的な関係が増加しているだけというわけでもない
と言っていいのだと思う。
ではその根源的な理由はなんなのかと私なりに考えてみると、まずひとつ
「他者と親密な関係を築く」こと、そしてそれ以上に「他者と(特に身体的な意味において)触れ合うこと」に、強い抵抗・あるいは恐怖のようなものを感じるひとが増えているからなのではないか?
という理由が思い浮かぶ。
これは、
性行為というのは、もっと親密で深いコミュニケーションだ
という認識に基づくものである。
そしてそのうえでさらに言えば
性行為というのは、お互いのエネルギーを混ぜ合わせる(与え合う・高め合う)のに最も素朴で強力な方法だ
というのも間違いないと私は思っている。
だからその観点から
性行為を忌避するひとが増えているのだとしたら、それは「自分のエネルギーを相手に与えたい」(自分のエネルギーは相手にとっていいものだ)とも、逆に「相手のエネルギーを自分に摂り込みたい」(相手のエネルギーは自分にとっていいものだ)とも、なかなか思えなくなっているからではないのか?
と考えてみると、それは少なくとも私としては、とても納得できるものに思えるのである。
こうした性的なことを積極的に研究している文献はほとんど英語のものが多いのが歯がゆいのだが、2007年に発表された
という論文には、ひとが性行為に至る理由はとても多種多様であることが示されている。そこでは集められた715の理由のうち、単に表現が少し違うだけでまったく同じ内容であると見なされるものを統合しても237種類が見出されたと報告され、そのうえで特にその理由の上位においては、そこにほとんど性差は見られなかったと発表されている。
そしてその1位が男女ともに
I was attracted to the person
(その相手に魅かれたから)
であることを踏まえると、性行為を忌避する理由はその逆で
相手に魅かれないから(魅かれる相手がいないから)
だと言ってもいいだろうと思うのだ。そしてそれはもう一方では
自分にもそれほどの魅力はない(自分にそれだけの魅力を感じてくれる相手はいない)
ということの裏返しでもあるのだろうと、私は思うのである。
こうした考えを下地にしたうえで、
もし世界的に性行為が忌避されている流れがあると言うなら、それをおかしいとも思わないし、特に悪いとも思わない
というのが、私の立場である。それは先ほども言ったように、
性行為というのは、お互いのエネルギーを混ぜ合わせる(お互いのエネルギーを摂り込み合う)
ということだと認識しているからでもある。それは言い換えると
「食事」(によって食べもののエネルギーを摂り込む)ということとほとんど同じだ
と言えるのだ。
だからこれは極端な2択ではあるが
「わけのわからないものをなんでも食べ続ける」ことに比べたら、「できるだけなにも食べない」ほうがまだましだ
というような話にも通じることなのである。
それに、これは本当に哀しいことなのだが、今の私たちはよほど注意しないと、あるいはどんなに注意しても多少は、負の念に強く晒され続けている。そして私がずっと言っているように、そうしたエネルギーを感じる力というのは、本来は私たち誰もが備えているものである。
だからこそ無意識であれなんであれそれを感じ取っている私たちが、性行為に忌避感を持つようになっているのだとしたら、それはそれで自然なことだとも、私は思うのである。
ただ、そのうえでそれ以上に強く言っておきたいのは、
お互いが愛し合っているのであれば、たとえどんなにお互いが弱っている・曇らされている・負の念の影響を受けているとしても、性行為によってエネルギーを混ぜ合わせることは、最終的には必ずお互いを癒やし、力づけるものになる
ということである。
そしてこれは必ずしもお互いのエネルギーが同じくらいにいい、あるいは悪いときにだけ意味を持つというわけでもない。エネルギーの基本的性質により、エネルギーはより多いところからより少ないところへと流れる傾向があるので、それは弱っている相手を助けることになるからだ。
そしてさらに言うと、わかりやすくするためにざっくりと数字で表すなら、そのときに起きるのは
100のエネルギーを持つほうから30のエネルギーを持つほうへと20が流れて80と50になる
ということに留まらず、
より高いほうにもエネルギーが与えられ、85と50になる
というようなことなのだ。これはつまり、
両者のエネルギーの総量は、単独でいる場合よりむしろ増える
ということである。それを
「愛の力」
と呼ぶのは月並みすぎるかもしれないが、これはそう呼ぶにふさわしいものでもあると思う。そしてそれは本当は、誰にでも起こし得るものなのである。
ただこうした
「愛に基づく性行為の力」
を強調することは、一方でそうした状況以外で継続的な性行為を持たざるを得ない環境にあるひと(たとえば性行為を生業としているひと)を傷つけてしまったり、あるいは見放していると感じさせてしまうかもしれない。
ただ今のような社会のなかで、そのような
「理想的な相思相愛」
のなかにないとしても、もしあなたが
「相手のことをたとえ部分的にでも深く思いやり、相手を包み込み、その苦しみや哀しみを癒やすこと」
に強く意識を向けることができれば、その結果として少なくとも相手にとても大きな恵みを与えることができるということは言っておきたいと思う。
とはいえもちろんその相手が不特定多数であるならなおさら、それを実行するのは本当に至難の業だと思うし、実のところ自分が少しずつ摩耗していくのを防ぐのはとても難しいので、私としてはもし可能であれば、そうしたことを生業とするのはできるだけ避けてほしいとは思うが、これはあなたを軽蔑しているのではなくてむしろ尊敬したうえで言っているのだということを、わかってもらえたら嬉しい。
愛というのはとても強力でかけがえのない力を持つ。だからこそ私たちはそれに魅きつけられてやまないのだとも思う。だがそれを本当に探し当て、本当に育むのは本当に難しいと思う。だからこそ、それを諦めてしまったり、悪用されたり翻弄されてしまうのを恐れて最初から忌避してしまうのも自然なことだとも思う。
だがもしも諦めずに
「その先」
を見出すことができれば、それは愛の表現であるだけでなく、
「自分が肉体を持って生きていることの、かけがえのない価値を知る」
ことにもつながるのだと思う。
もちろん、これは理想論だと言われてもしかたがないし、今のような現状からではなかなか実践できないものだと思う。私もかつてそこに限りなく近づけたようなときがあったのだが、それを掴むことはできずに遠ざかってしまった。だがそれでも、私なりにそこに近づけていたときに感じた力が、そのときの感覚と体験が、ときを経た今でも消えることなく私を支える糧になっているのも確かだと思う。
だからそんな私としては、最も端的に言ってしまえば
性行為をしたいと思わないのはまったくおかしいとも思わないし、無理にする必要はどこにもないと思います。ですがもしあなたが本当にそうしたいと思える相手を見つけたときは、そこにはまぎれもなくかけがえのない価値があるということも、どうか忘れないでください
ということを伝えられたらまずはそれで充分だと思う。
ただこんなふうに言うと、
でもそんな考えのひとが増えたら、ますます少子化が進んで、もっとひどいことになるんじゃないか?
と思われてしまうかもしれない。だがそれを書くには長くなりすぎてしまったので、それについてはまた、次の文章にまとめてみようと思う。

コメントをどうぞ (名前・アドレス・サイトの記入は任意です)
私も性行為については否定的なイメージを持っていました。はじめてその事実を知った思春期の時は、人間の獣性を感じてすごく嫌でした。
でも悩んで悩んで、だいぶ受け入れることができるようになりました。そういう欲はあって自然なこと。否定して押さえ込むのではなく、うまく付き合っていくことが大切なのだと。
Dilettanteさんのおっしゃるように、エネルギーの交流もしてみたい。
それでも、そういうことをするのは怖いと思う自分がいる。
相手に受け入れてもらえるか、自分は相手を受け止められるのか。どこまでさらけ出していいのだろう?相手に気を遣わせてないかなぁ?
やはり、私にとっては試練ですね。
どうせ傷つくのなら、いっそのこと手放してしまえばいい。そう考えている若者、多いと思います。
なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
そうですね、今のような環境では、
になってしまう場合が多いのはしかたがないと思いますね。
ただ本当は、素晴らしく愛おしいことなんですけどね。
それから、
という点に関しても、
「相手とエネルギーを混ぜ合わせる・融け合わせる」
というのは、ある意味では
「自分の殻(膜)を破らせて、相手のエネルギーが入ってくるのを積極的に受け入れる」
ということなのですから、その意味で
「傷つく(それまでの自分の「均衡」が破れる)」
というのも当たり前だと言うこともできます。
ただそうは言っても、やはり簡単ではないどころか、確かに難しいことなんですけどね。
ですがだからこそ、あなたがその課題に向き合っているのを、私も心から、応援しています。
すみません。送れてないと思って2回同じようなメッセージを送ってしまいました。。
なるほど、そういうことだったんですね。
ですが私としては、せっかく書いてくださったコメントが消えてしまうよりは重複するほうがずっといいと思っているので、気にしないでください。
それに今回はコメントの内容もまったく同じというわけではなかったですし、私も返信をしながら、より深く考えることができました。
ですからこれからもどうぞ遠慮なく、いつでもコメントしていただければと思います。
よろしくお願いします。