先日私は、

と書いた。
これはつまり、
私たちの想いには、とても大きな力が宿っている
という基本的な認識を再度確認したということでもあるのだが、これは本当には現代の私たちにも薄々は気づかれていることだと、私は思う。
ただ問題なのは、
現代はその力が、悪用されるほうに偏っている
という点にある。
だから以前にも

という文章をまとめたことがあるが、私のところにも
私はなにをやってもうまく行かなくて、呪われているのではないかと思うのですが……
というような相談や、逆に
なんで自分ばっかりこんな目に遭うんでしょうか?できることなら、私は自分を苦しめたひとたちを呪ってやりたいくらいです
というような話が、ときどき寄せられることがある。だからこんなに霊的にほとんど無知かつ否定的な世のなかにあっても、あるいはだからこそ、影で呪いに興味や恐怖を持っているひとも、意外にたくさんいるのかもしれない。
だがそんなふうに多少なりとも関心を持っているのならなおさら、あなたも
ひとを呪わば穴ふたつ
というような言葉を耳にしたことがあるのではないかと思う。
これは単純に、
この世界には「与えたものが少し大きくなって還ってくる」という基本原則があるので、それに沿ってそのような結果が起きる
と言ってしまってもいいのだが、それだけではその核心がなかなかわからないだろうとも思うので、私の認識と言葉によって、もう少していねいに補足してみようと思う。
そもそも、
「呪い」
という言葉から、あなたはいったいなにを連想するだろうか?
それは時代によっても違いはあるだろうが、古くからあるイメージで、日本人には特になじみが深いもののひとつに、
「呪いの藁人形」
というものがあるのはおそらくあなたも知っていると思う。
ではなぜ、あれが呪いに用いられるのだろうか?そしてそれは、いったいなにをしているということになるのだろうか?
もちろん、こうしたものにはいろいろなひとがそれぞれのアレンジや解釈を加えるので、細かく見ていけばいろいろとあると思うが、おそらくそのほとんどに共通しているのは、
「その藁人形を、相手に見立てて傷つけ、苦しめる」
ということだと思う。
だが本来は、その藁人形と相手の間にはなんの関係もない。だから、藁人形が傷つこうがどうなろうが、相手にはなんの影響も与えないはずだ。ではその当然の理を乗り越えるためにはどうしたらいいだろうか?まずは、藁人形と相手、その両者の間に、なんらかの
「関係」
を創ってしまえばいい。
そもそも、その際に
「人形」
を用いること自体が、そこに
「関係性・類似性」
を保たせる第一歩になっているのだが、そこに相手の皮膚や毛髪、あるいはなじみのなにかを持たせたり纏わせたりするのも、その
「両者の関係」
を強化するという意味があると言える。
そうやって
「両者を呼応させたうえで、その片方(藁人形)に影響を与えることで、もう片方(相手)に影響を派生させる」
というのが、この手法の核心にあるものなのだ。
このことを理解すれば、なぜこれが呪いの発し手にも悪影響を与えることになるかということへの理解も自ずと深まっていくことになる。
というのも、
すべての源には想いがある
のだから、呪いの発し手はそこに関わる誰よりも先に、
「自分自身のなかに、その素となる悪意」
を産み育てなければならないということになる。そしてそれを藁人形などの媒介を通して相手にぶつけようとするのが呪いだということになるのだが、その悪意の影響を真っ先に、しかも最も純度の高い状態で受けるのは、まず発し手自身なのである。
これを言い換えると、
もし相手を本気で苦しめたいなら、自分自身を苦しめるほどの悪意を育てなければいけない
ということになる。これが、
ひとを呪わば穴ふたつ
という言葉の核心にあるものだと、私は思っている。そしてその最初の穴は、まず自分を堕とすためのものなのだ。
だがこうしてはっきりと核心を認識してしまうと、
「これがいかにつらく哀しく、誰よりもその発し手にとって、『割に合わないもの』なのか」
が、あなたにもきっとわかってもらえるのではないかと思う。
あなたが相手に呪いをかけたいとまで思うのは、なによりもまずあなた自身が、今もあまりに苦しいからだろうと思う。にもかかわらず、もしあなたが本気で相手を呪おうとしたら、あなたはそんな苦しい自分自身を、さらに苦しめなければならないことになる。
それだけでなく、あなたがそのときに育てた悪意は
「さらなる悪意・負の念の苗床」
となり、さらに多くのひとを呑み込むことになる。そしてそれが連鎖することで、最終的には計り知れないところにまで肥大する可能性もある。だから、本当には、
いちどひとを呪ったら、その穴はふたつどころか、100、1000、10000でもまだ足りない
ということなのだ。だからそれはすべてのひとにとって、これ以上ない悲劇になるのである。
だがこうやってその原理を理解しておけば、それを避けたり対処することもできる。そして最初に言ったとおり、これはあくまでも
「想いの力の悪用」
の結果である。
だからこれとまったく同じ原理を、これとはまったく逆の意図で用いることもできるということなのだ。それは呪いに比べて今ではほとんどなじみが薄くなってしまったものだとも思うが、確かに存在する。それは、
「言祝ぎ」
と呼ばれるものだ。
想いに力が宿っているということ、そしてそれを載せた言葉にも力が宿るということは、古来から多少なりとも気づかれていたものでもあって、それは
「言霊」
という概念にも示されている。
言祝ぎはこれを活かしたもので、最も簡単に言ってしまうと
「深い想い(愛情)を込めて相手のしあわせを願うことで、相手を力づけ、しあわせに近づける」
という手法だと言える。
だからこれを最も素朴に実践するには、
「相手がしあわせになった姿を想像し、その想いのなかで、相手に応援の気持ちを伝える」
ことでいい。
ただ実際にはそれを直接伝えられない場合も多いだろうから、その場合にはあなたの心のなかで、相手のしあわせを強く想い描くだけでも充分に効果はある。あるいはさっきとは真逆の
「祝いのしあわせ人形」
を創って、それにあなたの気持ちを込めたりしてもいいと思う。
悪用するにしても活かすにしても、根本の原理は同じものだ
というのは、こういうことなのである。
ただ、ここで注意しておきたいのは、
相手が今願っていることがそのままのかたちで叶うことが、必ずしも相手の本当のしあわせとは限らない
ということだ。
だからたとえば受験にしろ就職にしろ、今の本人が第一に希望している場所に入れることが、本人のいちばんのしあわせだとは限らない。つまりそのような相手に対して、
あなたが第一志望の場所に行けることを願っています
などと思ったり伝えたりすることが最高の言祝ぎとは限らないということだ。
だから私の場合は、それよりももう少し広い観点から、
あなたが少しでもあなたらしく生きていけることを、心から願っています
というように表現するようにしている。それに実際、私がそのように伝えているのを、あなたもたくさん見ているだろうと思う。
ただその
「あなたらしさ・あなたのしあわせ」
というものを、具体的にイメージするというのは、なかなか難しいことでもある。それにそれは実際には、あなた自身にしか決められないものである。しかし先ほども言ったように、それは本当には、今のあなたがイメージしているものではないのかもしれないのだ。
だから私は、そうしたことをすべて踏まえたうえで、ともかく
「あなたが悪意や負の念に呑み込まれることなく、生きていることを喜びとして受け止め、静かに微笑むことができているような姿」
をできるだけ強く想い描きながら、
あなたが少しでもあなたらしく生きていけることを、心から願っています
というような言葉を、伝えるようにしている。これなら、おそらくは誰の本意とも、衝突したり邪魔になったりはしないだろうと思っているからである。
ただそれでもこれはあなたの
「本意」
とは衝突しないにせよ、
「今のあなたの認識」
とは、場合によっては衝突することもあるかもしれない。その意味で、私は別に今のあなたのすべての意見に、盲目的に賛同するというわけではない。これは、

にも書いたとおりである。だからやはり、私は私なりに思うことを、真摯にお伝えするしかないのだろうと思っている。
それになにより、今は負の霊として活動しているひとたちや、人類や地球、それに私自身を快く思わない存在とは、私の想いは衝突せざるを得ない。だがだからこそ、このような想いや言祝ぎは、あらゆる悪意や負の念に対する防御であり、対応策ともなり得るものなのだ。
そして私は、おそらくは今のあなたが思っているよりずっと深く、あなたのしあわせを願っている。そしてそのためには、せめてまずはこの地球全体が、しあわせな存在で満ちてもらうしかないのだと思う。だからその私の想いが通れば、そして私以外にも同じ想いを保つたくさんのひとたちと力を合わせることができれば、未来はきっと、よくなっていく以外にないと、私は思っている。
とはいえもちろん、世界はあらゆる存在の想いの総合で動いていくものだし、私に未来が見えているわけでもないし、それを固定する力があるわけでもない。だからもしかしたら、今思っているようなかたちで、地球に私の願う未来を創ることができないこともないとは言えない。
だがもしそうなったときには、私にはまだ他の策がある。というのも、もし全力を尽くしてもなお、私や私たちの望む場所を地球上に創ることができなかった場合には、私はどこかに新たに星を創ろうかと思っているのである。
そんなこと、できるわけないだろう!
と言われてしまうかもしれないが、地球だって最初からあったわけではないのだから、無理な話ではないはずだと、私は思っている。それにこれについても、私はかなり具体的に、その過程をイメージできる。だからきっと、それを実現することだって、できると思うのだ。
想像できることは、必ず実現できる
というこの言葉に、すべての原理が凝縮されている。あとはこの力を、どこに向けるかだ。そして辛抱強く、育み続けること。これができれば私たちはきっと、自分が生まれた尊さと素晴らしさを、今よりもずっと深く味わえるようにもなると、私は心から、そう信じているのである。

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どんなに酷いことを言われされようとも相手の幸せを願うのですか?
同じ目にあえ傷みを知れと思うのは呪いですか?
だれかさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
まずお伝えしておきたいのは、
本当にしあわせになるためには、自分の過去や自分がしてきたことのすべてと向き合わなければいけない
ということです。
ですからその意味において、
「相手のしあわせを願う」
ということには
「相手が自分のしてきたことと向き合い、その意味(影響力)を理解する」
ということが含まれていると言っていいです。
ですから、一般的な意味において、
自分がこんな目に遭っているのに、なんであんなひどいことをしたあいつだけはしあわせなんだ!
と言われるようなことは、本当には、
「原理的に起こり得ない」
ということです。
それが起きているように見えるのは、しあわせの意味を勘違いしているか、あるいは一時的・瞬間的な状態を永遠だと思い込んでいるかのどちらかであって、それはいずれにせよ、少なくとも私にとっては、本当のしあわせではありません。
そのうえで、あなたが
のは呪いか言祝ぎかと言われれば呪いと見なされてしまうものだと思いますが、それを私があなたに勧めないのは、
「あなたがあなたの意志で呪いをかけると、そうやって呪った責任をあなたが負わなければいけないから」
というのがいちばんの理由だと言ってもいいと思います。
あなたがなにもしなくても、相手の行為の責任はいずれ相手が取ることになるのですが、そこにあなたが呪いという新たな
「種」
を植えてしまうと、その部分についての責任があなたに負わされることになります。
そしてそれは、誰にとっても心地よいものではないので、私はあなたにも、そんなことは勧めたくないということです。
ただそうは言っても、
自分のしたことの責任を取ってないやつなんて、いくらでもいるじゃないか!
と言いたくなることも無理のないことだとは思うのですが、この世界の原理は長期的に見ればそれなりにうまく機能していると思いますし、その不協和や歪みを調和させるための役を果たしている、あるいは果たそうとしているひとたちも確かにいるということも、私が保証します。
ただその役を担うのはなかなか大変ですし、責任もとても重いので、やはり今のあなたにおすすめできるようなものではありません。
ですから私としては、
嫌いなひとの不幸を願うより、好きなひとのしあわせを願うことに力を注いではみませんか?
ということのほうを強くおすすめしたいのです。そしてそれは、
少なくとも今のような環境において、誰からも攻撃・邪魔・妨害を受けていないひとはいない
という前提があるからでもあります。
ですからこれは切実に必要とされていることであると同時に、とてもやりがいのあることでもあります。
そしていつかはあなたがそんなことを考えるゆとりを持つことができるように、私もこれからもできることを続けていきたいと、そう思っています。