「もう知らない」とは言わない。味方でいるというのは、どういうことだろうか?

私たちは、それぞれに自分に対する主体(最終決定権)を持っている。今はそれを忘れさせられているひとがほとんどだし、それを意識しにくい環境にいるからなおさらしかたないことではあるのだが、本当は今こうしてここに生きているのも、自分で望んで選んだ結果なのである。

そしてこれは、

「特に幼少期において、ほとんど否応なく影響を受けてしまう家庭環境・生育環境さえも、最終的には自分で選んだ」

ということを意味する。だからやはり、私たちはそれぞれに、自分の人生の主体を持っていると言える。

とはいえもちろん、私たちは独りだけで生きているわけではないし、独りだけで生きていけるわけでもない。だから誰かに助けてもらうことは必要だし、自分独りではできないことも、みんなで協力して実現していくことができる。それは、本当に素晴らしいことだ。

ただその一方で、

「誰と協力し、誰に助けてもらうか」

は、自分でよく考えて、選択しなければいけない。そうしないと、それが自分が思いもよらない結果になったときに、相手に文句を言うようなことになるからだ。

南無阿弥陀仏 という祈りは日本人には馴染み深いものである。この「南無」というのはわかりやすく言えば 委ねます(深...

だがこうしたことを突き詰めた結果、

結局のところ、すべては自己責任なんだ

という認識に至り、それを自分自身に対してだけでなく、他のひとたちに対しても向けるようになるひとがいる。そしてこの問題が一筋縄ではいかない理由は、

「すべてを自己責任と見なす考えかたは、別に『間違っている』というわけではない」

というところにある。それに実際、この世界の原理について理解を深めれば深めるほどに、このような考えかたを採ることになっていくのを、私は実際にもたくさん見てきた。そして私は、そのようなひとたちを声高に批判したいとも思ってはいない。

 

だがそれでも、私の個人的な考えでは、というかこれは「考え」というよりむしろ

「肌感覚」

に近いものなのだが、そのような考えかたが好きではないし、まったく魅力を感じない。先ほども言ったように、だからと言って私はそのような考えかたを採るひとを嫌っているわけではないし、そのような考えかたに至るのも理解はできる。しかしその一方で、私はやはりそのような考えかたが優位になっていくのを好まないし、そのような世界に暮らしたいとも思っていない。だから少なくとも私自身としては、そのような考えかたは採らない。端的に言ってしまえば、

そのようにすべてのひとが最終的には自己責任ですべてを完結させるようになったら、そこではもはや「他者と一緒にいる」ことの意味が見出せなくなるのではないか?そんなことのために、世界があるわけではないのではないか?

と思うからである。その意味において、私は

選択の主体性とそれに伴う責任は自覚したうえで、その「相互影響」にも眼を向けつつ、「緩やかに責任を背負い合い、補い合う」というほうがいい

と思っている。そしてこれは言い換えると、

責任というのは究極的には、「ここまでは自分の責任だが、そこからがあなた(自分以外)の責任だ」というように、明確に線を引けるものではない

という考えを示したものだとも言えると思う。

そしてこのような考えを基礎として、私は誰かを助けることや助けられること、つまりは

「助け合いの必要性と価値」

についての考えを保っていて、それをまとめたのが、

今まで読者の方々や実際の顔見知りにも、私は何度かこんなことを言われたことがある。 この世で起こることはすべて「本人の学び」として与えら...

でもある。

 

ただ一方で、私は最近改めて、

本人がどうしてもやってみたいと思っているのなら、それはたとえどこの誰であっても止められない。せいぜい「先延ばしにする」くらいはできたとしても、それはあとでさらなる「反動」を生むことでもあるので、結局は、本人の強い意志がある限り、それは誰にも止められない

ということを思い知らされた。だからやはり結局は、

「自分についての主体(最終決定権)を持っているのは、自分自身だ」

という原則が活きてくるというわけだ。

そんな経験のなかで、私は改めて

「相手の味方でいる」というのは、いったいどういうことなのだろうか?

ということを考えていた。

それは、相手の意見にただ賛同することなのだろうか?自分の懸念や想いを抑え、ただ相手の背中を押してあげることなのだろうか?あるいはすべては自己責任なのだから、私は私の人生にだけ集中し、相手の人生には余計な手出しも口出しもしないことなのだろうか?

このようにいろいろと考えてはみたのだが、どれも私自身にとっては、どうしても腑に落ちるものではなかった。だが私はさらに深く考えを巡らせていくうち、これだけは言えるのではないかという、ひとつの軸を見つけることができた。それは

「味方でいる」というのは、相手に賛同できるところがあったら素直に賛同し、懸念や異論があったら率直に伝えることだ。そして最も大切なのは、「もし自分が懸念や異論を伝えたり、もっと言えば大反対したようなことが、『やはりうまく行かなかった』としても、それでもなお相手を支え、力になろうとし続けること」だ

という、私なりの答えだったのである。そしてそれはもっと単純に言い換えれば、

相手にどんなことが起きても、「ほらやっぱりダメだったじゃないか!」とか「もう知らない!」などと言わずに、相手に関心を保ち続け、助け合える可能性を探り続けることだ

ということなのである。

 

たとえばタバコが自分に害を及ぼすことを理解していて、実際にやめたいとも思っているのだが、一向にやめられずに困っているひとというのはけっこういると思う。そのようなひとから直接意見を求められたときには、私は当然やめたほうがいいということを伝える。もちろんその依存性も理解はしているが、それでも私としてはやめてほしいと伝える。だがそれも、私がいつも相手を見ているわけにはいかないし、そんなことをしてほしいとも思っていないだろうし、会う度会う度に同じことを言われ続けるのも嫌だろうから、そんなことはしない。

だがこないだそんなひとたちのなかでも特に近しいひとに対して、

あのさ、もしも私が『私のいるところでは絶対にタバコは吸わないで!』なんて言ってなんとしてもタバコを吸わせなかったとするよね。そしたらあなたは、帰ってからもっと吸うと思う?

と訊いてみたら、

きっと3倍か、場合によっちゃ5倍くらいは吸うね

と言われた。だから私は、やはり強制的に彼を止めようとは思わなかった。さらに言うと、彼は自身の守護霊と日常的に意志の疎通が取れるひとなのだが、彼の守護霊は彼がタバコを吸う度に、彼に忠告をすると言っていた。それだけでなく、彼がタバコを吸う度に、様々な負の霊が、

そうやって自分で自分を痛めて死ねばいいんだよ

というようなことを言ってくるのも、はっきり耳に届いているのだという。

にもかかわらず、彼がそれをやめられないと言うなら、私はそれに加えてさらに私からも同じことを延々と言おうとは思わない。だが私は、

「もしそれで彼の呼吸器が今以上に傷んだり、さらに言えば肺がんになるようなことがあっても、彼を軽蔑もしないし、見棄てもしない」

という想いを保っている。それが私の思う、

「私は彼の味方でいる」

ということの基礎である。

 

もうひとつ、本人の了承も得たうえで、私が直接話したひとを例に挙げよう。彼女には20歳の娘さんがいるのだが、その子が先日、母である彼女に対して、

今夜、彼の家に泊まってきてもいい?

という連絡を入れてきたのだという。しかし彼女は、

タクシーでもなんでもいいから、とりあえず今日は帰ってきなさい

と言って、娘さんを帰らせたのだという。

その際彼女は、娘さんと相手の交際期間がまだ短いこと、妊娠などの危険性を考えると不安であること、そして娘さんがまだ学生であり、人生の基盤も確立されていないことなどを理由に挙げ、それを本人に伝えた。すると娘さんは、母のその意を汲んで、素直に帰ってきたということだった。

ただ、母である彼女の懸念は、

今回はこうやって自分から連絡をくれて、私の言うことを聴いて帰ってきてくれた。それは本当に嬉しいんだけど、でも今度は私にも言わないで、もしくは『友達の家で遊んでくる』とか嘘をついて、私に隠れて泊まってくるんじゃないかな?

ということにあった。そして私に、考えを訊いてきたのだった。だから私は、率直にこのようなことを伝えた。

あなたにとって娘さんがとても大切なのはわかってる。それこそ世界でいちばんというくらい愛していて、気にかけているもんね。そしてそれは娘さんもわかっていて、だからこそそうやってあなたにわざわざ伺いを立てて、ダメだと言われたから帰ってきた。それは、信頼関係の証だとも思う。でもあなたも言うとおり、今後はもしかしたら、隠れて泊まってくるかもしれない。それはそのうちすぐかもしれないし、しばらくはあとかもしれないけど、いつかはそんなこともあると思う。だって、好きな相手なんだからさ。知らないひとの家に泊まってるっていうんじゃないんだから。だからそれも、しかたがないと思うよ

ただ彼女ももちろん、強い想いを持っている。だから私の意見に理解を示しつつも、さらに続けた。

だって、あの子は今までもわりと短い期間に付き合う相手を替えてきたから。それにまだ、今の相手とは数か月くらいだと思うし……

だが私も、やはり率直に、私の考えを伝えることにした。

うん。母親としては、そう思うのも当然だとは思うよ。だけど娘さんからしたらさ、「もう数か月」なんだよ。たとえどんなに短くたって、お互いに想いを通わせて、恋人として一緒にいるわけでしょう?それなのに、いつまで経っても泊まれなかったら、それは哀しいよ。さっきも言ったけど、知らない相手じゃないんだから。今日会ったばっかりの相手ってわけでもない。恋人なんだからさ、そう思うのも当たり前だよ。それにさ、あなたにとっては妊娠とか性病とかいろいろ気になるだろうし、それは私も心配ではあるけど、それでも娘さんからしたらさ、「自分が選んだ、大切な恋人」なわけでしょう?じゃあ、そういうことだってしたいのは自然なことだよ。だからあとは、母親として注意できることは伝えるとしても、それ以上は娘さんに任せるしかないんじゃないかなぁ?

ただ私は、今生では親ではないし、こどもを育てたこともない。だからなおのこと、彼女の母としての気持ちをすべてわかるとも言うつもりはなかったし、それを無下に否定したいわけでもなかった。それに実際、彼女はさらに続けた。

私は、せめて大学を卒業するまでは、そういうことには慎重であってほしいの。そこを乗り越えたら、あとは自分の責任で選べばいいとも思うんだけどね。それになにより、泊まるとかなんだっていうのはやっぱりさ、もう少し時間を置いてほしいし、こどもを産むとか妊娠するっていうのは、もっと自分に覚悟ができてからにしてほしいのよ

私は、彼女の言いぶんも親としてはもっともだと思った。それに私は、

「私が表面的になんと言おうと、そこにどの程度の意見の対立があろうと、私が彼女を頭ごなしに否定しているわけではない」

ということが、彼女にも伝わっていることを信じた。だから私は、さらにこのように続けた。

うん。ただその「もう少し時間を置く」っていうのが、また微妙なんだよね。今は「数か月」だからまだ早いっていうけど、じゃあそれが半年ならいいの?1年経ったらいい?確かに、避妊とかは大切なことだとしたうえでね、泊まることとか触れ合うことまでずっと禁じるのは、実際無理な話だと思う。「先延ばし」はできてもさ、そんな長くは無理だよ。それにさ、自分自身を振り返って、あなたが娘さんを産んだときは、自分にちゃんとした「覚悟」ができてからだった?

すると彼女はいったん、

でも少なくともこどもを産むことに関しては、自分のなかでその気持ちが固まってからだったな

と言ったのだが、そのあとすぐに

でもそれですべてに「覚悟」があったのかって言われたら、そういうわけでもないんだけどね

と、付け加えたのだった。

私は、そう言った彼女も、そして少なくとも今回の外泊について事前に伺いを立て、断られるとそれに従って引いた彼女も、どちらも素直だと思った。そして私は母である彼女にしか会ったことはなく、娘さんのほうには会ったことも直接話を聴いたこともない。だが少なくともこの年代を踏まえて考えたなかでは、とても深い信頼関係があると言えるほうなのではないかと思った。そしてこれが最も大切なことなのだが、私は

もし娘さんが隠れて彼氏の家に外泊したり、場合によっては妊娠するようなことになったとしたら、彼女はもちろん怒ったり泣いたりするだろうけど、それでも最終的には、決して娘さんを見放すことはないし、なんとかして助けようとしたり支えようとしたりするんだろうな

と思うのである。だからやはり、彼女は自分が最も愛する娘さんの、まぎれもない味方なのだと、私は確信している。そしてだからこそ、この先ふたりになにがあっても、それはそれなりになんとかなるのだろうと、私は思うのである。

 

そしてこれは、守護霊と私たちの関係についても、まったく同じように言える。守護霊は、私たちの痛みや苦しみをすべて避けてくれたりはしない。それに私たちが本気で自殺しようとしたら、どんなに哀しくつらくても、それを止めることはできない。だがそれでも、守護霊は私たちの味方である。たとえ自殺してしまったとしても、それで永遠に見棄てるのかと言えば、決してそんなことはしない。それが、守護霊という存在である。

だから私も、このような守護霊の在りかたにも想いを馳せつつ、改めて

「味方でいる」

ということについて、いろいろと考えてみた。ただ先ほど私は

「味方でいる」というのは、『もう知らない』とは言わないということだ

と言ったが、そんなことは本当は、当たり前のことなのだ。なぜなら

いちどあなたを知ってしまったら、あなたを知らなかった私には、決して戻らない

のだから。

だからその意味において、私は私に最も苦々しい想いを与えたひとについてさえ、本当には味方同士だと言うことになる。

もちろん、そこに想いの質や深さの違いはある。だが最も根本的な部分に眼を向ければ、私たちは本当は、全員が全員の味方なのだろうと、私は思うのである。それは理想論のような話ではあるが、確かに事実でもある。だからこそ、私はいつかには、全員がしあわせを感じられるような世界になればいいと思うし、それはいずれは本当に実現できることなのだと、そう思っているのである。

コメント

  1. なすび より:

    相手に関心を持ち続け、助け合える可能性を探り続ける

    これは本当に大切だと思います。患者さんを診るってそういうことなのかなと最近すごく思います。

    相手によかれと思って働きかけたとしても、相手がそれを選ぶとは限らない。

    そしてそうなったときに、それでもいいと思えるか。それでも寄り添うことができるのか。

    水辺に馬を連れて行くことは出来るが、水を飲ませることはできない

    ということを忘れてはいけないなと思います。そうでないのなら、それは自分のエゴでしかないのかもしれません。

    どんな人間関係からも学べることがあるのだと思います。

    Dilettanteさんの教えてくださった母娘の話も、きっとお母さんは娘さんとの関係を通じて”見守る”ということを学ばれるのでしょうし、娘さんはいずれ母親になってはじめてこのときの母親の気持ちを知るのかもしれませんね。

    • Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      水辺に馬を連れて行くことは出来るが、水を飲ませることはできない

      あなたにも以前お伝えしたとおり、これは私が霊媒師としての経験を積み始めた当初から、これでもかと突きつけられた現実でもあります。

      ですからあなたのおっしゃることにも実に共感するのですが、一方で

      「それは自分のエゴでしかない」のだとしても、それならそれでもいいんじゃないのか?

      と思うところが、私のなかには確かにあります。

      ただそうやってエゴであるかどうかを脇に置いたとしても、結局のところいちばん問題なのは、

      「強制的に水を与えても、相手に吐き出されてしまったり、むせられてしまったりする」

      というところにあると私は思っています。

      相手に嫌われようが理解されなかろうが、相手の為になるのならいいんです。ただ実際には、

      「本人の協力がないと、すべては力も意味も持たない」

      というのがあって、私がいつも思っている

      相手を助けることはできるけど、救うことはできない

      というのは、これを言い換えたものだと言っていいと思います。

      ただこれを踏まえたうえで、もうひとつ思うのは、

      医者が患者の気持ちに寄り添おうとするのはとても大切なことだ。でも一方では、医者は「もうひとりの患者」になればいいというわけではなくて、あくまで医者は医者として、「医者から見えていて患者から見えていない景色を見せること」に大きな意味がある

      ということなのです。

      私は、

      自分のからだは自分がいちばんよく知っているので!

      という言葉を、半分は信じますが、それ以上には信じていません。

      自分の気持ちは自分がいちばんよく知っているので!

      という言葉についても同じです。

      それに

      患者本人にとっては自分は「たったひとり」だけど、医者にとっては「大勢の患者のなかのひとり」だ

      という事実も、医者にとって確かに弱みである一方で、もう一方では確かに「強み」でもあるのだと、私は思うのです。

      なぜなら医者こそが、

      「たくさんの患者さんの実例」(→目の前の患者さんにある、たくさんの可能性)

      を見ることができるからです。だからその意味において、医者のほうが患者よりもはるかに、希望の余地を知っているはずなのです。もちろん、立場は違います。ですがもし医者が患者と同じくらい、あるいは患者以上の切実さを以って、本人のいのちに向き合うことができたなら、あとは

      「圧倒的な経験と場数の差」

      に裏打ちされた医師としての立場にいることに、まっすぐな誇りを保っていればいいと思います。そうすれば、それが誰かにはエゴと映ろうとも、そんなことはどうでもいいことです。というか、もちろん実際にはいろいろ言われるのもつらいとは思うのですが、たとえ誰がなんと言おうと、私があなたに共感するので、絶対に独りにはしないです。

      ただいずれにしても、今の最大の問題のひとつは、

      「医者のほうにも、患者とは別の意味で、まったく余裕がなくなってきている」

      という点にもあると私は思っています。こんななかにあっては、

      「医者が持つ医者としての優位性」

      を存分に発揮することはできないでしょう。

      ですからその意味で、これは明らかに社会的な課題でもあるので、私はそうした観点からも、できることは続けていきたいと思っています。

      それになにより、本当は医者のような仕事は暇であることに越したことはないのですから、私は

      「あなたが素晴らしい医師でありながら、基本的に暇である」

      という状態になれるように、密かにしかし心から、ずっと願っています。

      もちろんそれと並行して今の経済の在りかたも変わっていくので、医師として暇でも生活に困るということにはなりません。むしろそこからが、あなたの本領発揮というところでしょう。

  2. より:

    この記事は、今の私にはタイムリーでした。

    「自己責任論」を唱える人は、苦しんでいる人に対して寄り添う事なく

    上から目線で押し付けがましく、時には傲慢とさえ感じていました。

    自己責任論の人は、自分の真理(自己責任)から外れる「苦しむ人」を

    「自分自身で選んで来た事なのに、嘆いたり怒ったりするなんて愚かな人だ」

    と思っているのが透けて見えるのです。

    私はこういう自己責任論の人に、いくら諭されても

    自分の味方とは思えません。

    逆になんだか否定されてるように感じてしまい、

    付き離された感覚で苦しくてたまりません。

    自分が腐ってしまいそうです。

    私だって本当は分かってはいるのです。自分で選んで来た事くらい、、、

    でも感情が追い付かないんです。先に感情を吐き出したいんです。

    気持ちを否定されたくないんです。

    こういう人情があるのだと、自己責任論の人には分かって欲しい、と思いました。

    でも、、、分かり合えないんだろうなぁ。という諦めもあります。

    こういう人は、自己完結していますから。

    (本当は自己責任論の人も、当然のように怒ったり泣いたりしている筈です。

    でも自分の事は見えないようです)

    押し付けじゃなく、自由に率直な意見が言えて、

    「緩やかに責任を背負い合い、補い合う」信頼関係が築ければ理想ですよね。

    アメリカ人タレントのパトリック・ハーランがテレビで

    (こういうニュアンスの事を)言っていたのが、とても印象的でした。

    「日本人の親は、子供の言動が正しいか間違ってるか判断して、

    それが全てだと決め付けがちだけど

    アメリカ人の親は、たとえ子供が間違っていても、

    愛してるよ。この部分は間違っているけど愛しているよ、、、と伝える」と。

    そういうのはいいな、と思いました。

    • Dilettante より:

      南さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですね、まず

      「『自分で選んできた』ということを認めるかどうか」

      にひとつの難関があって、そこを乗り越えることは立派なことだと思うのですが、それを

      自分自身で選んで来た事なのに、嘆いたり怒ったりするなんて愚かな人だ

      という結論につなげてしまうのは、とても残念だと思います。ただ、そういう考えのひとがそれなりにいるのも知っています。

      ですがこれに対して私としては、

      どんなに緻密な計算をしたつもりでも、現実はときとしてそれを易々と超えてくる。遠い未来であればあるほど、それを寸分違わず見通すというのは、ほぼ不可能だ

      という見解を保っているというわけです。

      それに、ここにも書いたとおり私たちは実際には相互に影響を受け合っているので、相手の選択がこちらで決定できるものでない以上、現実が予測から外れることは、当たり前なんですよね。

      ですから、そういう意見にそこまで思い悩む必要はないと思います。まして、あなたが腐ってしまうのは、元も子もないことです。

      ただ、今のあなたのように弱っているときはしかたがないことでもあるのですが、その違いや摩擦を乗り越えて理解を深め合う可能性があることは、どうか完全には諦めないでいただけたらと思います。

      相手は自己完結しているから

      と思い込んでしまうと、その瞬間に自分自身も自己完結してしまうからです。

      とはいえあなたも、こうやってここには少しは吐き出せているのですから、まずはそれでいいと思います。それにあなたにできないことは、代わりに私がやればいいことなので、無理はしなくていいです。

      それにあなたのおっしゃるとおり、

      本当は自己責任論の人も、当然のように怒ったり泣いたりしている

      のはおそらくそのとおりだと思いますが、だとするとそういうひとたちも、密かに自分を責めているのかもしれませんから、そんなふうに

      「つらいひと同士でお互いを傷つけ苦しめ合っている」

      というとても哀しいことは、なんとかして終わりにしたいですからね。

      あとはアメリカ人の親と日本人の親の対比の話がありましたが、日本人の親も基本的には、こどもを愛しているんだとは思うんですよね。

      ただ

      自分が相手を愛してるうえでこう言ってるなんてこと、言うまでもなくわかってるでしょう?

      と思ってしまって、わざわざ言わないということも多いのではないかということです。

      よく、

      日本人には、察することを大切にする文化がある

      などと言われることがありますが、

      なんでもかんでも言葉にするのは、野暮ってもんだ

      というような感覚も、実際にあるのではないかと思うんです。

      ただこれからはいろいろな価値観や感覚を持ったひとがより混ざり合っていくというのも確かでしょうからなおのこと、

      「自分が思っていることは、言葉にしないと全然伝わっていない」

      という前提に立ってみることも大切だと思っています。

      「察する」

      というのは、ある程度以上共通する土壌があって初めて為し得ることですからね。

      ここでは基本的に長い文章を数多く書いているので信じてもらえないかとも思うのですが、私はもともとはとても口下手で、落ち着いていられる状況や気心の知れたひとのなかにあればあるほど、ほとんどしゃべることもないんです。ですから今こんなふうに自分の考えや想いを伝えようとしているのは、

      「努力と工夫」

      の結果なんですよね。もちろんまだまだ未熟すぎて痛い目にもよく遭うのですが、だからこそこれからも少しずつ少しずつでも成長していきたいと、そう思っています。

  3. なすび より:

    Dilettanteさん

    ありがとうございます。

    「医者から見える景色を見せること」

    その視点はなかったですね。

    でも、今は、”患者さんに景色を見せてもらっている”感じですね。

    ゆっくりやっていけば良いですよね。

    そんな風に言っていただけると嬉しいです。ありがとうございました。

    • Dilettante より:

      ええ、痛みや苦しみというのは本当に強力で、いともたやすく本人の視野を狭め、絶望に追いやってしまうものだと思いますが、患者がそのようななかにあり、それに呑み込まれそうなときにも

      「その痛みや苦しみを乗り越えたその先」(その痛みや苦しみが癒える未来)

      に眼を向けられるのは、そこから距離があるからこそできる、医者の絶対的な優位性だと思うのです。

      ですからどうか本人以上に、患者さんが癒える可能性は確かにあるということを、信じていてあげてください。

      とはいえもちろんそれでも死んでしまうひとは出てくるでしょう。

      ですがたとえ肉体が滅んでしまったとしても、それで終わり(手遅れ)というわけではありません。ですから

      「たとえ相手が死んでしまったとしても、そのあとで相手を癒やす」

      ということも、確かに可能なのです。そしてご存知の通りそれこそが私の本領でもあるのですから、そのときはそのときで、私もあなたを補います。

      もちろん私もまだまだ未熟者なのですが、それぞれができることを続けていきながら、共通の目的に向かって進んでいけたらと思っています。

      これからも、よろしくお願いします。