恐れることを恐れるな。恐怖と向き合って、それを乗り越えて生きる道もある

そこに意識を向けると、それに力を与えることになる

というのは、特に精神世界(スピリチュアル)の世界においては、とても馴染み深い考えかただと言えると思う。そして私自身も、こうした意見には確かに一理あるとも思う。

だから、そういう考えを保つひとたちが、

できるだけ、前向きでポジティブな想いを保ちましょう!

というふうなことを言うことに対して、私も別に強く反論しようとまでは思わない。

ただそんな私が、先日たまたまあるひとと少しだけ話をする機会があった。そのひとは私に、自分がとても苦労した過去を持っていること、しかし今はそれも踏まえたうえで、いろいろな活動に打ち込んでいて、頼まれればどこでも行くし、なんでもしたいと思っているということを、とても情熱的に語ってくれた。そしてそれを、同じ話を聴いた私以外のひとたちも、とても素晴らしいことだと受け止めているようだった。

ただ私は、彼女を見ていてどうにも落ち着かない気持ちになった。それでひと言だけ、

でもそうやって頼まれたことはなんでもする、いつでもどこでも駆けつけるというのは、つらくないですか?怖くはないですか?

というふうに訊いてみた。

すると彼女は、

いえ、そうやって怖がったりためらったりすると、そこに澱みや濁りが入り込んでくるので!

と、強く言い切った。その場の時間的・空間的事情もあって、私はそれ以上話を続けることができなかった。それに私たちは初対面にすぎず、相手は私が霊媒師であることも、なにも知らなかった。だから私はそれ以上、場を乱す行為をするつもりにもなれなかった。

 

ただそのあとも、ずっと先のやり取りについて考えていた。彼女は、かつてとても苦労していたと言っていた。自分自身のことを認められず、自分が自分であることを受け入れられなかったとも。しかしそんなネガティブな自分を変え、彼女は恐れもためらいも手放し、ただ前向きにひたむきに、できることはなんでもやっていこうと決意したのだった。

そんな彼女に対して、ほとんど反論できる余地などないようにも思えた。だから、彼女の在りかたを素晴らしいと受け止めるひとが多いのも当たり前だと思った。だが私はどうしても、彼女を見ていてなにか落ち着かない気持ちになるのを抑えきれなかった。そして私の問いかけに対する彼女の答え、その反応の速さや語気の強さなどを踏まえてみても、やはりその気持ちを拭い去ることはできなかった。

だから私はそのあとも自分なりにその理由を探り続け、しばらくしてついにその答えにたどり着いた。私が彼女を見ていてどうしても落ち着かなかった理由、それは

彼女はネガティブな感情や恐れを避けようとするあまり、恐れることを恐れてしまって、不安定になっているのではないか?

という懸念が、私のなかでついに消えなかったからなのだと、私は自覚したのである。

彼女は、自分を受け入れられず、未来に前向きになれず、ネガティブな思考・感情に呑まれていたことで、長く苦しんできた。その間は自分の感情を整理することも中和することもできず、周囲に当たり散らし、ものもひとも関係性も、すべてを傷つけ破壊しそうになっていた。だからこそ、彼女はそこから脱しようと本気で決意したとき、かつての自分を作っていたものを、徹底的に排除しようと決めた。だから、恐れることもためらうことも、もうやめようと決意したのだろう。そしてそれは、自分自身が誰よりも、

「過去の自分に逆戻りしてしまうことを、心から嫌がったから」

でもあったのだろうと、私は思う。自分が自分でないのは、本当につらく、苦しいことだ。それはあまりにも苦しいので、そうなりたくないと怖がるのも自然なことだと思う。だがそうやって、自分が怖がっていることを直視せず、表面的にそれらを排除して、実のところ怖がることを怖がっているのであれば、それは恐怖をちいさくするよりむしろ、大きく強くするほうにはたらくのだと、だからこそ私は彼女を見てあんなにも落ち着かない気持ちになったのだろうと、私は思ったのである。

 

だから私は同じ観点から、冒頭に挙げた

そこに意識を向けると、それに力を与えることになります。だからネガティブな思考や感情は避け、前向きでポジティブな想いを保ちましょう!

というような考えかたにも、充分に意義があるとは思いつつ、完全に賛同しているわけでもない。というか、端的に言って、これは私には実践できないものなのだ。

私には、怖いものがたくさんある。たとえば負の霊と話し合い、それでは収まらず闘いになったとき、もっと言えばそもそも負の霊と向き合うこと自体が、私には怖いことだ。見ている他者にとっては、そこに半信半疑という揺らぎの余地があるのもしかたがないにせよ、その当人である私にとって、それは疑いの余地などあり得ないものなのだ。

また、現在のような社会にあっては、それすらも

自分自身の妄想と闘っているだけだ

自分自身の恐怖が具現化したものと闘っているんだ

などと言われてしまうことがほとんどだ。だから私に限らず、今の社会において本気で負の霊と向き合うということは、

「そもそも闘っていること自体を信じてもらえない状況で、勝てる保証のない相手と闘う」

ということを意味する。これが、怖くないはずがないと私は思う。

あるいはこういったことに関して、

そもそも、闘いを前提として向き合うのがおかしい。そんな自分が、闘いを呼び込んでいるんだ

というようなことを言うひともいるが、私は別に闘いを前提としているわけでも、闘いを望む戦闘狂なわけでもない。ただ

いちど相手と本気で向き合うと決めたら、相手がなにをしてきても対処する気概を保っていなければならない。そして、相手が「闘いに持ち込めば相手は怯んで逃げる」とこちらを軽んじている限り、対等な話し合いにはなり得ない。だから、『闘いを望んではいないが、闘いになっても力で煙には巻かせない』という決意を保って初めて、闘いを避ける、あるいは最小限に抑える道が見出せる

というのが、私の立場なのである。

だがこれも理解される保証はないのだから、それも怖い。そしてこちらがなんと言おうと相手の力が圧倒的であれば、私など文字通り消し飛ばされるかもしれない。しかも世界には、私なら考えもしないようなことさえ、躊躇なく実行してくるひとたちがいる。私はそれを、よく知っている。

「悪魔の証明」 と呼ばれるものがある。これはごく簡単に言ってしまうと 「『○○が存在しない(あり得ない)』ということを証明するこ...

だから、私にとってこの世界は怖がるなというほうが無理だと思っている。むしろその自然な反応を抑え込んでしまうと、そのほうが狂気に近づくと思う。だから私は、怖がることから逃げない。怖がることを恐れない。どんな霊と接するときも、相手を軽んじもしないし、どんな闘いにも「楽勝」などないと思って、できる限りの準備をして臨む。それが、私なのである。

だがだからこそ、私はここまで生き延びて来られたのだと思う。私だけは自殺衝動に駆られない?私だけは自分を見失わない?私だけは、守護霊に護られているから絶対に安心?まさか。そんな保証はない。どこの誰にも、そんなことは保証できないのだ。

しかしそれを理解しているからこそ、私はそれを直視し、対策を講じ、なんとか乗り越えて生きてきた。そしてその度に、私の経験は積まれ、少なくとも以前よりは、恐怖を感じずに済むようになったのだ。だから私は確かに、恐怖を糧にして、強くなることができたのだと思う。

 

恐怖というのは、ゼロにできるものではないし、ゼロにするべきものでもないと、私は思う。むしろ少しは恐怖を残しておいたほうが、慢心を避けられる利点があるとも思う。ただ、やはり強すぎる恐怖は、自分を縛りつけ、固めてしまう。だからできるだけ、それをちいさくしていければいい。それはちょうど、痛みと同じだとも思う。痛みはできるだけ、ないに越したことはない。だが「痛覚」そのものは、私たちが生きるうえで欠かせないものだ。それがないひとは、死を遠ざけることが難しくなる。だから死を遠ざけるために、破滅を防ぐために、痛覚が必要なのだ。恐怖も、それと同じことだと思う。

「原始的な機能」(本能)

は、別にそれ以外と比べて劣っているものではない。むしろそれを直視し、どう活かすかによって、他のすべてを豊かにしてくれるものでもある。だから私はこれからも、ちゃんと怖がろうと思う。ちゃんと痛がろうと思う。そしてそのうえで、それが壊滅的な破局につながらないために、できる限りの策を講じようと思う。

だから私はやはり、ネガティブな人間ではあると思う。決して楽観主義者ではないし、しあわせは誰かがくれるものでも、自動的に得られるものでもないと考えている。だが

そんなあなたの懸念が、あなたの懸念したものそのものを引き寄せているんですよ!

という言葉だけでは、私は決して納得しない。私の思っていたとおりに事が運ばなかったから、むしろそのほうがずっと多いから、こうなっているのだ。だから私が言っているのは、

私は決して、自分を買いかぶらないし、油断する気もない

というだけなのである。そしてそのうえで、

悪い予測(望ましくない可能性)は外すために立てるもので、いい予想(望ましい可能性)は育てるためにある

というのが、私の基本姿勢なのだ。

だから私は、やはり本当の本当には、いつもポジティブなのである。それに私はなにより、あなたの力を信じている。私独りでなんでもできるなどとは思っていない。だが一緒にやれば、なんとかできると思うのだ。一緒なら、怖くはない。こんな言葉はありふれているとも思うが、本当のことだとも思う。一緒なら、怖くても怖くないのだ。だから私も、まだ生きられると思う。一緒に、生きていられると思う。

コメント

  1. Rマン より:

    私は16歳でパニック障害になり、この十数年、常に恐怖と闘いながら生きてきたつもりでした。

    しかしいつからか、闘っていたのではなく、恐怖と共に成長して生きてきたのだ、と自覚できるようになりました。

    そんな私の元を訪れる負の霊は、大半が「恐怖に呑まれた者達」です。

    「恐怖を糧にできた」人は、恐怖に怯える霊、人を救ってあげる事ができるようになります。改心していく負の霊を何人も見ている内に、そう確信したのです。彼らは恐怖と向き合う事(理解してもらい、受け止めてもらい、自らを省みる事)で、負の霊ではなくなり、前に向かって歩き始めたのです。

    今ではこの病気に感謝しているくらいです。そして何より、全てのきっかけをくれたこのサイトに、感謝している次第です。

    • Dilettante より:

      Rマンさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      あなたの話を聴いて改めて、やはり

      「直接体験した実例」

      というのが、いちばん強い力を持っているんだなぁと思います。

      あなたのそうした体験は、まずなによりあなた自身に大きな影響を与えたものだと思いますが、ここに共有してくださったことにより、この体験を読んだひとにも大きな力を与え得るものになったことは間違いありません。

      こうしたことを

      「直接体験」

      として語れるひとは、まだまだ少ないのが現状ですからね。

      そうした意味でもこちらこそ、本当にありがとうございます。

      これからも、どうぞよろしくお願いします。