痛み・苦しみ・長丁場。道中がいかに悪路だろうと、私には見たい景色がある

あなたは、いったいどんなひとですか?

もし誰かにこんなふうに訊かれたら、あなたはどう答えるだろうか?

私は、ここしばらくこのことをずっと考えていた。とはいえそれは今回が初めてというわけではなかったのだが、今までは自分自身が納得できる答えを見つけられずにいた。それにそんな私は最近、長年の友達から

あなたがとてもわかりにくいひとなんだってことに、最近ようやく気がついた

と言われて、驚いた末に笑うことにしたということがあった。しかしそれは、本当は、私にもよくわかっていないことなのだった。

そんなこともあって、私は最近改めて、

私というのはいったいどんな存在なのか、私という存在、そしてそんな私が生きかたの核心には、いったいなにがあるのか?

ということを、自問自答し続けていた。そしてその結果ついに、私は少なくとも今までよりはずっとはっきりした、ひとつの答えにたどり着くことができた。それは

私はその過程にどんな痛みや苦しみがあろうと、そしてそこまでの道のりがどんなに険しく長いものであろうと、自分が見てみたいその景色を見るまでは、絶対に諦めない、諦めたくないと思っている存在だ

という、答えなのだった。

 

ただこの意味をもう少し明確にするために、もう少し掘り下げて考えてみると、これはたとえば

たとえなにを犠牲にして、誰を踏み台にしても、欲しいものは必ず手に入れる!

というようなものとは違う。私は、そんなふうになんでもかんでも犠牲にしようとは思っていない。それになにより、それは誰かを踏み台(犠牲)にするべきものでもない。あとでもう少し詳しく説明するつもりだが、そもそも私の見たい景色は、誰かの犠牲の上には、決して存在しないのである。

またこれは、

目的達成のためなら、私は手段を選ばない!

というのともはっきり違っている。そもそも私は、

手段と結果の間には、必ずなんらかの影響関係がある

という理解の上にいるので、その意味で、

「私は手段を選ばない!」というのは、実のところ「私は結果を選ばない!」と言っているのと同じだ。だから手段を選ばないひとは、いずれ必ず失敗し、本当に望むものは得られないまま終わる

という確信に近い感覚がある。そしておそらく、これは本当は、ごく当然のことなのだろうと思う。それにこの感覚は、実際に

「目的のために手段を選ぼうとはしなかった彼女」

の顛末と現場によって、これ以上なく実証されたものだと、私としてはそう思っているのである。

基本的に「なんでもあり得る」世界において、どんな自分を育て、どうそれを保っていけばいいだろうか?
「悪魔の証明」 と呼ばれるものがある。これはごく簡単に言ってしまうと 「『○○が存在しない(あり得ない)』ということを証明すること」 であり、それは 「『○○が存在する(あり得る)』ということを証明すること」 ...
 

だから私は、手段はきちんと選ぶ。それになにより、そのために莫大な犠牲、特に誰かの犠牲を前提とすることもしたくない。だがだからと言って、すべての可能性から逃げてなにもしなければ、多数派の流れに呑まれこそすれ、私が望む景色を見ることは決して叶わないだろう。だから私は、

それでもどうしても見てみたい景色があるから、せめてその道中に痛みや苦しみが伴うこと、それにその道のりにはとても長い時間がかかることは最初から覚悟のうえで、なんとしても乗り切ってみせよう

と、そう思っているのである。

もちろん、そのためには

「とてつもない忍耐力と、決して折れない根性」

のようなものがなければいけないことは、誰が見ても明らかだと思う。それにおそらく、今の私がそれを充分に持ち合わせているのかといえば、まだまだまったく足りないのだろうとも思う。

だが私にとって幸運なのは、

この道を歩むことそのものが、私を鍛え、育て、私に足りないものを補い、必要な糧を与えてくれる

という事実である。だから私が最初に持っていたものがどれだけ少なかろうと、今の私が持っているものがまだどれだけ足りなかろうと、それを

「現地調達」

することは、やろうと思えばいつどこでもできるのである。

たとえば今日の私は、避けられない電話のやり取りによってとても消耗した。どのくらいかと言うと、20分ほどまともに動けなくなるほど疲れた。私の場合、強いダメージやストレスを受ければ受けるほどなにも言えずすべての感情が抑え込まれてしまうので、余計に解決が難しくなってしまう。普段私が負の霊とどれだけ対峙していようが、自分でもなんと情けないことかと思う。だが実際、どんな負の霊に言われる悪罵より、肉体を通して言われることのほうが数段キツいのは間違いないと思う。だから私は、今日もここに生きているだけで、またひとつ鍛えられたのだ。それに次のときには、私は少なくとも今日より少しはうまくやりたいと思うし、そうできると思っているのである。

 

それからこのことを腑に落としてもらえれば、私がどうして本気であなたのしあわせを、もっと言えば人間以外も含めたすべての存在のしあわせを心から願っているし、これからも願い続けられると確信していられるのかを、もっと理解してもらえるのではないかと思うのだ。

本来、私たちはそれぞれがそれぞれを助け支え合い、しあわせも哀しみもすべてを分け合って、和やかに暮らすことができる。少なくとも、私はそう信じている。だが実際は、今はまだそれが実現するには至っていない。それはいったいなぜなのだろう?私は

みんな、あまりにも不幸だから。あまりに余裕がなく、追い詰められ、まともに呼吸できなくなっているからだ

と、そう思っているのだ。

自分が苦しいときに、相手のしあわせを祝うのは難しい。絶対にできないとまでは言わないが、とても難しいのは当然のことだと思う。自分が餓えてどうしようもないとき、痛みと苦しみで灼き尽くされそうなとき、不安で潰れてしまいそうなとき、自分が内側から破裂してしまいそうなくらいの衝動に駆られているとき、そんなときに誰のことも妬まず、誰の足も引っ張らず、誰からも奪おうとせず、ただひたすらに研鑽に努めることは、少なくとも常人にできるようなことではない。そんなことは、当たり前だと思う。

もちろん、そうした感情の乱れや昂りには、負の霊の影響があるのも知っている。だがそもそも負の霊自体が、どうしようもなく不幸で、これ以上なく追い詰められているのだ。少なくとも、本人はそう思い込んでいるのだ。だからその思い込みを和らげていかない限り、彼らは負の霊であることを決してやめないだろう。そしてそれは、しかたがないことだと思う。私は、そう思うのである。

だから、この状況を打破するには、もうみんな1人残らず、ただ1人の例外もなくしあわせに、しあわせだと言わずにはいられないところに行ってみる以外ないのだと、私はそう思うのである。そしてこれは、私のなかにもうひとつ

もし周りのひとがみんな不幸なのに、誰かだけが飛び抜けてしあわせになってしまったら、むしろそのひとのほうが不幸だ

という確信に近い感覚があるからでもある。

たとえば他のひとがみんな餓えに苦しんでいるのに、自分だけが食べ切れないほどの食糧を与えられてしまったら、そのひとは明らかに不幸だと私は思う。それは、ひとつには

自分がどんなにそれを分け合おうとしても、自分の力だけで届けられる食糧には、量にも人数にも限りがあるから

であり、そしてもうひとつは

他のひとと違って自分だけが飛び抜けてしあわせなのは不幸だ』という感覚は、原理的に他のひととは共有できない・あまりにも共有し難いものだから

でもあると思う。

今言ったような観点からすれば、日本人はソマリア人より、もっと言えば中国人より韓国人より北朝鮮人よりも、不幸なのではないかと思う。しかしそれは、相手のひとに認められるような主張ではない。たとえば

私たち金一族は、大多数の北朝鮮国民よりずっと不幸である

などと本人が言った場合を想像してみればいい。それで同情してもらえることはおろか、その意味を理解されることすらなく、むしろ傲慢だと思われ逆上されるか、そうでなければ単にどうしようもなく狂ったと思われるくらいがせいぜいで、状況はさらに悪化し、彼らはますます不幸になる。だからそれは基本的に、決して口に出されるべきではないし、口に出してしまえばもう決して許されることもないだろう。たとえそれが、本人にとっては偽らざる本心であったとしてもである。

だから、実際には本人でさえ、そこには気づかないようにすることになる。その事実は独りで向き合うには、あまりにも重すぎるものだからだ。だから、自分よりはるかに不幸なひとたちのなかで、しあわせを感じ続け、自分が誰よりも不幸になることを避けるには、自分の感覚を狂わせる以外にはない。明らかな事実からでも眼を背け続けるしかないのだ。たとえそれ自体が既に、自分の不幸さの証であってもだ。だからそこにはどうしようもない歪みと無理が存在し、増幅され続けるのである。

これは言い換えれば

私たちはもう、そもそも最初から、どうしようもないほどにつながっているのだ。これは道義的観点からの言葉でも信仰でも希望的・あるいは悲観的観測でもなんでもなく、よくよく考えてみれば実に明らかな、端的な事実である

ということなのだ。

 

さらにこうしたことについて、先日ある霊が私にこんな実体験を語ってくれた。

私は前世で餓えて死んだ。それは本当につらかった。けれど今、私はこうしてからだを借りてご飯を食べさせてもらっている。これは本当に嬉しいことでもあるんだけど、一方で今もこの地球には餓えで苦しんだり亡くなったりしているひとがたくさんいることを思うと、私はやっぱり食べることを喜びきれないし、私だけ食べられることに罪悪感がある。「食べられないひとがいるなら、私だって食べるべきじゃないのに」って、そう思ってしまう。それに私が食べてるぶんで、ほんとはたくさんのひとが、生きられるかもしれないのに

私は彼女のことを、無理に慰めようとは思わなかった。それに彼女の感覚は、どう考えても自然なものだと思った。

 

では私は、どうすれば彼女を助け、ラクにすることができるのだろうか?彼女の気持ちをさらに理解するため、私も餓えて死ねばいいのだろうか?いや、それではなにも解決しない。もちろん、ひとつの経験として「餓死で終わる人生」というのを選ぶことにも意味はある。だがそれを彼女に何度も伝えれば、彼女の気は晴れるのだろうか?私はそうは思えなかった。

だからと言って、

みんなが同じように餓えで苦しめばいい

というのは、負の霊の発想である。そういう「負の平等」というのは、もし実現しても誰もしあわせにしない。だからこれを根本的に解決するには

誰ひとり餓えで苦しむことなく、充分な量を食べられるようにする

以外にないのだと私は思う。そのときこそ、彼女も心から食べることを喜べるだろう。もちろん私も、みんながそう思えるのだろう。だから私は、たとえどんなに大変でも、理想はそこに置いておくものだと、そう思っているのである。

本当はひとりひとり全員が、つながっている。だから

「独りだけのしあわせ」

というのは原理的にあり得ず、やはり全員でしあわせになる以外に、本当にしあわせになる方法はないと思うのだ。

それに先ほども言ったように、自分が不幸だと思っているひとは、他者を妨害・邪魔するようになりやすい傾向があるとも思う。そしてそれは、しかたのないことだとも思う。だが本当は、私たちはお互いを邪魔し合うためにいるわけではない。だからある程度の基盤を共有したら、あとはそれぞれの好みに合う道を行く、あるいは創り出せばいいのだと思っている。しかし今はその

「ある程度の基盤」

すら、まだまだ整備されていると言うにはほど遠い。だから私は、霊であれ動植物であれ人間であれ、なにはともあれみんなでしあわせになっていくしかないと、そういう確信に基づいて、動いているのである。

 

ただこんな私に対して、先日ある霊が、こんなことを言ってきた。

そんな歳になってもまだ「愛」なんてものを本気で語ってるのは、あなたぐらいなんじゃない?

そんなことないって!それにそういうあなただって、少なくとも周りのひとからは、愛されてるんじゃないの?

しかし彼女は、そんな私の率直な意見を、このように断じたのだった。

それは違う。たとえば「本当に楽しいかどうか、楽しめているのかどうか」を基準にしているひとはいるけど、それは「愛」とはまた違う。それに私とあの子たちは、愛によってつながっているわけじゃない。あの子たちは、ただ私を信頼しているだけ。私が本気であの子たちのことを考えていること、そしてそんな私があの子たちを悪いようにすることはないし、私と一緒にいれば、独りでいるよりずっと大きなことを成し遂げられるって、そう信じてくれているから、私についてきているだけ。そして私は、全力でその信頼に応えようとして、自分を磨き続けている。これは、愛なんてものじゃない。私はあの子たちから「愛されている」なんて思っていないし、私もあの子たちを愛しているなんて、言ったこともない

ただ私は

でもその「信頼」だって、愛の一種なんじゃないの?

と言ったのだが、彼女はそれでも認めなかった。そしていつものことながら、最後まで私たちの意見が一致することはなかった。

 

だがやはり誰になんと言われようと、私は私の見たい景色があるということは揺らぐことなくはっきりしている。そしてこんな私に

でも、道中の景色も、ちゃんと楽しんでくださいね

と言ってくれるひとはときどきいるのだが、私としてはそれは本当にありがたいことだと思いつつ、一方ではやはり

でも「道中の景色がよさそうかどうか」で決めようとすると、眼が曇ってしまいそうだから……

という気持ちもあるのである。だから私はやはり、そういった願いに完全に応えることは難しいと思えてしまうのだ。

だがそんな私だって、もちろんいつも苦しんで哀しんでいるだけというわけではない。穏やかな気持ちを感じるときもあるし、笑うこともある。それになにより、

「今生で最も深いしあわせを感じた瞬間」

というのは、ちゃんと心のなかにしまってある。これはもし私が今後認知症や事故などによって、「表面的には」忘れてしまうことがあったとしても、魂からは決して消えることがないと知っている。

だからいつも言っているように、私は決して

「自虐趣味」

ではないのだ。私だって、しあわせになろうとしているのだ。これは当たり前のことだ。そしてそのためにも、私はあなたとも助け合いたいと思っている。あなたが今もしあわせなら、今よりもっともっとしあわせに。今しあわせだと思えないなら、なおさらずっとしあわせに。そのために、ここに世界があり、私たちは一緒に育ち続けているのだと、私は思っている。

いつか、あなたの見たい景色が、あなたの目の前にありますように。そしてそこからまた歩き出す道が、世界をさらに豊穣なものにする、その礎になるのである。

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