先日、私は知人の赤ちゃんが入院したという知らせを受けた。たまたまそのような知らせに接することができたというのもあったし、都合をつけることもできたので、私も見舞いに行くことにした。これは、そのときの体験である。
私にはこどもがいないので、私が小児病棟に入るのはとても久しぶりだった。本当は、私自身が小児病棟にいたことはあるのだが、そのときの記憶はもうほとんど残っていないので、感覚としてはほとんど初めてに近い。
訊いていた病室に入ると、知人とその赤ちゃんは同じベッドのなかで仲良く寝入っていた。そこで私はしばらく院内を見て回った。そしてまた病室に入ってみると、ほどなくして母親である知人が目を覚ましたので、私もあいさつをしたのだった。
すると、つい先ほどまで一緒に静かに寝入っていた赤ちゃんが、母親が起きたことに無意識に感づいて後を追ったかのように静かに目を覚まし、かと思うと今度は一転、火が着いたかのように猛然と泣き始めたのである。
私は、この世のなかで1番とさえ言えるほど、赤ちゃんやこどもの泣き声が苦手である。ただこれは別に私が赤ちゃん(こども)を嫌っているということではなくて、
見聴きしているのがいたたまれなくて、なんとか泣き止んでほしくて落ち着かなくなる
という意味なのだが、どこであれ今の日本社会において、
「たいした関わりのないおとながこどもをあやす」
という行為は歓迎されないどころか不審行為として通報されかねないようなものなので、私としてはいつも内心唇を噛むような心地でそれをやり過ごすしかない。
ただ今回の場合、私はこの赤ちゃんとまったくの無関係というわけではないし、母親ともそれなりの信頼関係があるので、やろうと思えばあやせないこともなかったかもしれないが、そもそも赤ちゃんの機嫌が悪すぎて、私が多少あやしたくらいでどうなるようなものではなかった。
まだ2歳にも満たないはずのその全身で、点滴の管やらなにやらを引きちぎらんばかりに暴れに暴れ、泣き声・表情すべてを振り絞って、あらん限りの抗議の意を表していたのである。
それに対して母親が口であやそうとしてもあるいはなでようとしてもまったく鎮まる気配はなく、むしろさらに激しく泣きながら、
ママ嫌い〜!!!!!!
と絶叫するのだった。
そんなこれ以上ないと思えるほどの泣き声のなか、なんとか母の話を聴いてみたところ、赤ちゃんの病状自体は落ち着いており、快方に向かいつつあるものの、度重なる検査や点滴、それに家とは違う慣れない空間に、母親はいるが父親の姿は見えないことなどの様々な環境の変化により、目が覚めていれば昼も夜もなく、ごく短い間を除いては、基本的にずっと泣き通しなのだということだった。
そしてたとえ「看護師さんが」注射をしたときもなにをしたときも、返ってくるのは
ママ嫌い〜!!!!!!
という「ママに対する」不満ばかりで、それがずっと止むことはなく、今まではむしろとても穏やかで静かな子だっただけに、想像以上につらいのだろうと思っているとのことだった。
私はそれを聴いたうえで
私も含めこのくらいの赤ちゃんはみんなそうではないかとも思いますが、自分にとって両親、特に母親の存在が絶対的すぎるあまり、「自分の身に起きることは、いいことも悪いこともすべて、母親が引き起こしている」と思い込んでしまっているから、それに対してこんなに全力で抗議しているのかもしれませんね
と感想を伝えた。すると母親自身も、この見解には賛同してくれたようだった。
母と赤ちゃんは基本的に、柵で囲われたベッドのなかにいるのだが、母はトイレに行くときなど、部屋の外に出て用を足すことになる。しかし赤ちゃんのほうはと言えば、基本的にずっと柵から出られない。これは、事情を理解していない彼女にとっては
「幽閉」
だと見なされてもしかたがない。
さらにひどいことには、部屋の外には彼女とそう歳も変わらないひとも含め、けっこうな数のこどもたちが行き来している。これを目にした彼女は、なおさらその
「不平等」
に怒り、哀しみ、あらんばかりの不満を感じてもしかたがないだろうと、私は思ったのだった。
そうこうしている間も、赤ちゃんはずっと泣いていた。少し泣き止んだかと思うと、そこで「溜めた力」を解放するかのように、また猛然と泣き叫ぶ。
ママ嫌い〜!!!痛い〜!!!狭い〜!!!嫌だ〜!!!!!!
というように、いのちのすべてをこのために傾けているのではないかというくらい、とにかく圧倒的な力で泣いているのである。
今までだったら、こんなに泣いたらあなたがなんらかの「改善」を見せてくれたでしょうからね。だからこの子のなかでは、これは「自分の想いがまったく無視されている・軽んじられている」と思われているのかもしれませんね。「ママは、なんてひどい!いじわるなんだ!私がこんなに、必死に、訴えてるのに!」なんていうふうに
そう私が言うと、
そうかもしれないですね〜。私だって、解消できることならすぐしてあげたいですし、今までもこれからもそうしてあげるつもりなんですが、こればっかりは私にはただ一緒にいてあげることしかできないんですよね〜。いじわるじゃないんだよなぁ〜
と、母親も苦笑いする。
赤ちゃんは、なでようとする母親の手を撥ね退け、口に入れられそうになるぶどうも拒み、大好きなはずのアンパンマンのぬいぐるみさえ嫌がる始末で、動画を見せようがなにしようが、まったく和らぐ気配を見せなかった。
いよいよ
「完全拒絶」
の姿勢を見せる彼女に対し、母はなんとか歩み寄ろうと、抱きかかえたりなでたりしてみようとするのだが、
嫌!ママ嫌い!嫌い嫌い嫌い!!嫌い嫌い嫌い嫌い!!!!!!!!
の一点張りはますます強烈になる一方で、挙げ句の果てに彼女はついに、自分の母の顔面を、全力で殴り始めるに至ったのである。
もちろん、どんなに力を振り絞ろうが赤ちゃんなので、その攻撃は母にとっては実害を及ぼすほどではない。にしてもやはり、それなりには痛いはずで、実際彼女も
痛い痛い。そんなしたら痛いよ〜
と言ってはみるのだが、彼女の「猛攻」はまだしばらく続いたのだった。
その間、私はただ母親の話を聴いてあげることくらいしかできなかったのだが、彼女は
1対1で受け止め続けるのは正直つらいときもあるんですが、こうやって一緒に見守ることができる状況だと、少し冷静にというか、なんなら楽しんで見られるものでもありますね
と言っていた。そこで私が、
もしそういうことなら、たとえば今の状況を、ビデオかなにかに残しておくのはどうでしょう?おそらく今のこの記憶は娘さんのなかから薄れていくでしょうが、だからこそ5年10年と経ったときに、「あなたにはね、昔こんなことがあったんだよ」って見せてあげたら、恥ずかしがりもするでしょうが、きっと楽しく笑えるんじゃないですか?
と言ってみると、
そうなんです、実は私もそう思って、今までも何回か撮ってるんです!後々、おもしろい記録ですよね〜!
と言って、再びカメラを回し始めたのだった。赤ちゃんは、変わらずずっと泣いていた。
私が
入院の予定は、あとどのくらいなんですか?
と尋ねると、
これからまた改めて経過観察の検査をして、そこで問題がなさそうなら、あと1週間くらいで退院できるかと思います
とのことだった。それは私たちにとっては間違いなくいい知らせだ。だが私が
ただこの子はまだ、日付の感覚なんてわからないでしょう?だからきっと、「今がすべてで、今あることはこれからもずっとある」って、思っちゃってるんでしょうね
と言うと、彼女も
そうなんでしょうね〜。「ずっとじゃない、もうすぐ終わるし、おうちにも帰れるよ」って、私も言ってみるんですけどね、やっぱりまだ伝わらないみたいです。でもだからと言ってこの時期になると、もうなにもわからないわけでもないじゃないですか、だから他の子に嫉妬したり、こんなに怒ったりもする。だからなんかこんなふうに、「わかることとわかんないことが、中途半端に入り混じってる」っていうときだから、いちばん厄介かもしれないです。しかもこのくらいの時期って、そもそも「イヤイヤ期」の始まりですからね〜!
と言っていた。
そう、私たちがこの子より落ち着いているのは、私たちがみんな
ここで行われているのはすべて「治療の一環」であり、実際に彼女の病状は快方に向かっているし、あと少しの時間を乗り切れれば、元気になって家に帰れる
ということを、その「未来」を、確信できているからに他ならない。しかし当人のこの子だけは、そうではない。彼女がこんなにも怒り、怖がり、大好きなはずの親を憎みそうになるほどに泣き喚いているのは、
「自分になにをされているかが理解できておらず、周りの味方を敵(薄情者)だと誤解しているうえに、『自分には今よりずっと穏やかで明るい未来がある』ということを、まったく知らない・信じられないでいるから」
なのである。これが、私たちの心境を分けているのだ。私はこの実例を通して、これ以上なく鮮明に、この事実を認識したのである。
こうしてかれこれ1時間以上泣き続けた赤ちゃんは、ついに泣き疲れて眠りに落ちようとしていた。ただ
眠りましたかね?
と安堵する母に対し、私は
いや、まだ眠りきってはいないと思うので、油断しないでください。へんに刺激を与えると、またすぐ起きて泣き出しますから。それに私がいなくなる様を見られたらまたひどいことになりそうなので、私はこの隙に帰りますね
と言って、できる限り速やかに病室を出ることにした。だが彼女のセンサーは私の予想以上に研ぎ澄まされていたようで、私が出て少しして、彼女はまた嵐のように泣き出した。だがそれで私が戻ってもますます混乱するだけだと思ったので、私はともかく、帰路に就くことにしたのだった。
私は当初、このことについて
「お見舞いに行く」
以上になんとも思っていなかったし、当然のことながらそこにはなんの「期待」もなかった。だが結果的に、このできごとは私にとってすさまじく大きな学びと示唆に富むものとなった。そしてなぜ、私がこれを他でもないこの『闇の向こう側』で共有することを選んだかと言えば、それは
私がこのふたりに、「守護霊と私たちの関係性の縮図」を見たから
なのである。
私は先ほど、
この赤ちゃんがこんなにも怒り、怖がり、大暴れしているのは、「自分になにをされているかが理解できておらず、周りの味方を敵(薄情者)だと誤解しているうえに、『自分には今よりずっと穏やかで明るい未来がある』ということを、まったく知らない・信じられないでいるから」だ
と言った。
だがそれを言うなら、私たちだってそうではないのか?私たちは、私は、自分になにをされているのかを、本当に理解しているのか?
周りの味方を敵(薄情者)だと誤解し、それを誤解だと気づくこともないままに、自ら孤独に堕ちてはいないか?
「自分には今よりずっと穏やかで明るい未来がある」と、本当に信じられているのか?
それができていないから、周りに不満をぶつけ、ひたすら妬み怒り、挙げ句の果てには憎しみに呑まれて、さもそれが当たり前かのような被害者意識のなかで、「加害者」の顔を飽きることもなく、延々と殴り続けているのではないのか?そして最終的には、もうすぐそこまで「退院」が迫っているというのに、その治療を「いじわるな拷問」と見なして、自らいのちを絶とうとしてしまうのではないのか?相手に愛されていないのではなく、本当はただ単に、相手を愛せていないだけなのではないのか?

だとしたら、私たちはあの赤ちゃんを、ただ微笑ましく見るだけに済ませたり、あるいは
自分はこんな時期は卒業したから
と、自分の「成長」を誇ったりすることができるのだろうか?
少なくとも私は、そのようにはまったく楽観できなかった。それどころかむしろ、
あの子は「あれだけ全身全霊を尽くして自分の感情を表現している」という点において、私よりはずっとましだ
と思わずにはいられなかった。だからこそ、私はこのできごとに心から感謝した。そして、自分の守護霊さんに
こんな私だけど、いつも見守ってくれてありがとう
と伝えた。そこで素直に涙を流せないのが私の実情ではあったのだが、ともかくそのくらいは伝えたいと思った。そしてそのすべてを踏まえて、私はこの経験をあなたともぜひ、共有したいと思ったのである。
ちなみにあれからあの赤ちゃんは無事回復し、予定より若干早く退院することができた。そしてまた、笑顔で家族との日々を過ごしているという。
そして私は、今改めてあの日を振り返りながら、何度とも数え切れないほど
ママ嫌い〜!きら〜い〜い!!!!嫌い嫌い嫌い嫌い!!
と言われながら、やたらめったらに殴られているなかにあって、若干の抵抗は見せつつも笑顔で
嫌いでもいいよ〜。殴ってもいいよ〜。でもね、ほんとはママだってつらいんだよ〜。おんなじなんだよ〜
と言っていた彼女の様子を思い出している。私は確かにあの赤ちゃんとたいして変わらないかもしれない。だが本当は、あの母親と同じような心境にもなれるはずだと思う。私たちは、お互いを見守り、支え合うことを選ぶこともできる。それになにより、守護霊は、世界は人生は運命は、本当には、私の敵ではなく、薄情なわけでもない、まぎれもなく私の味方なのだということを、私も最終的にはなんとか忘れずにいたいと、そう思っているのである。

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なんとも耳が痛いですね
感情表現すらままならない私に寄り添うのは
本当に大変だろうと思います
実際に守護霊に対して同志ではあるが
私の理想の役には立たないと思っていますから
今は以前より確かに良くなっていて
明るい未来が来るというのも漠然とですがそう思えます
ただ一番欲しかった時に手に入らなかったというのも
事実なので、しばらく心残りを抱えるだろうとは思います
それもそういう時期なんでしょうけど
なみださん、ようこそ、闇の向こう側へ。
守護霊に対して
というのは、なかなか味のある見識ですね。私なりにですが、言わんとするところもわかる気がします。
それにそうは言っても、あなたは守護霊さんの存在を理解して、ともかく
だとは思っているわけですから、それもそれで、あなたたちなりの
「つながりの在りかた」
なのだろうと私は思います。
という部分については、確かにまったく同じ人生、まったく同じ状況というのはないわけですが、それでも来世以降のことまで含めて考えれば、そのときにもきっとまた
「ある程度似たような状況」
が訪れることもあるかと思いますので、そのときに今回の経験を活かして、また違う選択、またひと工夫加えた選択ができれば、それでいいのではないかとも思います。
とはいえそれでも、ある部分ではやはり
「堂々巡り」
に見えるようなこともあるかもしれませんが、そのなかでもほんの少しずつでも成長していければいいのではないかとも思うのです。
たとえまったく同じ筋書きの劇でさえ、
「回を重ねるごとに味が出てきた」
ということがあるわけですからね。
また、私は以前ある霊から
たとえあなたがどんなに「似た失敗」を繰り返してるように見えても、工夫しても工夫しても変わらなくて、それであなたがどんなに自分を責めてしまうとしても、それでもあなたの失敗は、あなたが失敗だと感じてしまうことは、決して「まったく同じ失敗」ではないから、少しずつでも確かに成長しているから、だから憶えておいて。あなたは、まったく同じ失敗をしたわけじゃない。すべては少しずつ少しずつ、確かに糧になっているって
と言われて、それをすぐにすべて受け入れられたわけではないにしても、確かに少しは救われたという経験があり、今に至っています。
ですからそんな私は、いずれはあなたもあなたの理想を実現し、そしてその喜びを軸に、またさらなるあなたらしさを深めていけることを、いつも心から願っています。
こんにちは。
私はまだ、嫌いになってもいいよ~と思える度量がないと思うので、このお話の彼女さんや守護霊さんはすごいなぁとと思いました。(小学生のような感想ですみません)
私はもうずっと、生まれた目的は何だろう?何が喜びなんだろうと考えているのですが、大きく見ると、守護霊さんのように愛せる存在を深めていって、最後には全ての存在を愛せるようになることなのでしょうか?全ての存在というと果てはないから永遠に続いていくのでしょうか?
あと、今回の人生が終わった後の守護霊さんの関係ってどうなるのでしょうか?
今も思いは伝わっているそうですが、魂になった時に直接お礼を言えたら良いなと思いました。全てを見ていた相手と話すのはちょっと恥ずかしいですが(笑)
ぴーすぬさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
ええ、私も本当の意味での
「嫌われ役」
を果たすのは実に難しいなぁと感じているので、そういった観点からも、実に思うところの多い現場に立ち会えたなぁと思っています。
そうですね、そのような解釈をひとつの軸として保っておくことができれば、少なくとも大きく道を外れるようなことにはならないだろうと思います。ただそのうえで、それぞれの存在が想い描く
「理想」
に多少の差異があることもまた自然なことですし、それはそれこそ永遠のときのなかで、あなたご自身がずっと探求・深化させていくものなのだろうとも思っています。
と言いながら私自身のことを振り返ってみると、細かく見れば
これ以上地球を壊さず、人類を自滅させずに、自分たちの現状と力を再認識しつつ、少しでもよりよい世界を創ってみたい
などと言うことも確かにできるのですが、それもこれも結局は、
なんとかして、今よりもっと成長したい!
ということだと言っていいと思います。そしてなぜそこまで切実に成長したいかと言えば、そこには私なりの
「成長したい目的」
があるからで、だからこそ少なからぬ困難に見舞われることも覚悟のうえで、わざわざこんな局面に生まれてきたのだと言えます。
ですからそうした観点から見れば、それはきっとあなたが生まれた目的とも少なからず合致する点があるのではないかと思いますし、だからこそそれぞれの人生を真摯に生き抜くだけで、充分にその目的を果たすこともできるのではないかと、そう思っています。
そうですね、実のところ
「守護霊」
という概念はとても広いものでもあって、ある意味では
「自分自身」
というか、自分の潜在意識・深層意識そのものが守護霊さんであるとも言えるので、そうするとそのような相手にお礼を言うためには、
「死んだあと自分で自分を褒めてあげたらいい」
というのも答えになります。
ですがもちろん、いわゆる
「友人・知人・家族・指導者・仲間……」
のような立ち位置の守護霊もたくさんいるわけなので、そのような相手にひとりひとりお礼を言って回ることは、もちろんできます。
それにきっとそのときは、
自分の人生は、こんなにもたくさんのひとたちに見守られ、励まされていたんだなぁ……
と、びっくりするのではないかとも思いますよ。
ですからそんなこともどこかで憶えておきつつ、それもまたひとつの楽しみとして、あなたの人生を最期まで生ききってみていただけたらと、そう思っています。
ご回答ありがとうございます。
お返事遅くなって申し訳ありません。
回答を読んで気づいたのですが、私は昔から環境保護には興味があるのですが、でもそれが何のためというところまでは考えたことがありませんでした。
意識せずとも地球に暮らす様々な存在のためなのかもしれませんが、もっと掘り下げて考えていったときに、何かヒントが見つかるのかもしれないと思いました。
「真摯に」生き抜くことができているのか、惰性では終わらせたくないと思っていながらなかなか行動できない自分がいますが、まずはとにかく生き抜くことを目標にします。
守護霊さんはそんなに沢山いるなんて、とてもありがたいことですね。忘れずにお礼を伝えます。
そして自分自身も含まれるとは、驚きです。
自分のことをなかなか褒められない私も、本当にこの赤ちゃんのようです。
せめてその時には何かひとつでも心から褒められるように、生きていきたいです。
いえいえ、あなたの好きなタイミングで、返信するなり終わらせるなりしていただければいいです。
はい、それでいいと思います。生きていると自然といろいろなできごとを通して課題と向き合える機会をもらえるものですし、それでも「惰性」でいられているのであれば、それはある意味うまく力を抜くことができているということでもあると思いますから、それもそれでいいのかもしれないとも思います。
ですからやはり、誰でもそれぞれの人生を生き抜くだけで、立派なんだと思います。
ただそのうえで
とおっしゃるあなたに私も深く共感しながら、私も私なりに最期まで生きていきたいと、そう思っています。
ありがとうございます。
記事からコメントまで、いつも丁寧に様々な出来事や考え方を共有して頂きありがとうございます。
今後とも、どうぞよろしくお願いします。
はい、こちらこそ、今後ともどうぞよろしくお願いします。