私はここに、「霊媒師」という立場から、文章を書き綴り、それを共有している。だがこのような霊的なこと、体験というのは、少なくとも現代のような社会にあっては、
「嘘・妄想・狂信・詐欺」
などと見なされることが多いものだということを、私は充分に承知してもいる。
だがだからこそ、
私がここであなたと共有してきたもののほぼすべては、「私自身が直接体験してきた・体験していること」が起点になっている
と言える。これは私がこの『闇の向こう側』の草創期から
「私の実感、経験、そして相当程度の確信」があるものしか書かない
このサイトの基本的方針と展望「業」(ごう・カルマ)という概念がある。私はこれを、 「ある存在の行いすべて」 と捉えている。そしてそのうちの大部分は、当人が肉体を離れてからも残る。もちろん、業といっても悪いものだとは限らない。しかし、なんらかの「言葉」を残す...
と言ってきたことそのものである。
そのうえで私は、

にも書いたように、
私は、私自身の体験や想い・見解を伝えることに重点を置きたいので、他のひとたちの見解や意見については、否定的に論破するようなかたちではなおさら、取り上げたくはない
という態度に基づいて、自分なりにこの場所を育んできた。
ただ、そうは言ってもそれなりに長い期間活動を続けていると、たとえば
自殺することもひとつの寿命なのだから、そんなふうに無理に止めてはいけないのでは?
死んだらみんな仏様のもとでしあわせに暮らすんだから、負の霊がいるだなんて怖がらせるようなことを言わないでください!
というような意見を投げかけられることもある。
その度に私は基本的に
そうですね。もちろんこうしたことには現段階ではなおさらいろいろな見解があるのはわかっているのですが、だからこそ私は基本的に私自身の体験に基づいて、私なりの考えや想いを伝えているということなので、あとはそれぞれがご自分なりに考えて、参考にしていただければと思います
というような言いかたをするようにしている。そしてこれも前から
私の文章はすべて、「主観的」だと捉えてくれていい。ただし、その主観的な文章を、読者であるあなたは「検証」することができる。自分のアタマで考えるということ、これが最も重要なことなのだから
このサイトの基本的方針と展望「業」(ごう・カルマ)という概念がある。私はこれを、 「ある存在の行いすべて」 と捉えている。そしてそのうちの大部分は、当人が肉体を離れてからも残る。もちろん、業といっても悪いものだとは限らない。しかし、なんらかの「言葉」を残す...
と言ってきたとおりである。
だが今回はそれを踏まえたうえで、もう1歩踏み込んでお伝えしてみたいことがある。これは、この混沌として不遇で、「普通」のひとたちからはまともに取り合ってももらえない、そんな霊媒師・シャーマニズム・スピリチュアルの世界を整理し、これからこの世界をより素晴らしいものに変えていく一翼を担うためにも、大切な視点だと思うからだ。それは、
そのように「誰かの話」や「伝統的解釈」をそのまま拡げ、それに合わないものを否定・排除するのはもうやめにして、代わりにもっと「自分自身の体験」(直接体験)を重視して、共有・検討していきませんか?
という、提案なのである。
たとえば先ほど挙げた
自殺することもひとつの寿命なのだから、そんなふうに無理に止めてはいけないのでは?
という意見に関して言えば、私が言いたいのは、
その「自殺することもひとつの寿命」だというのは、誰が言ったんですか?そのひとは、「私が自殺したのは、それが私の寿命だったからです。私は生まれる前にそう決めてきたとおりに実行しただけですし、それ以外に私の未来はあり得ませんでした。それになにより、私はその選択に心から納得しているし、後悔もなにもなく、今とてもしあわせです」と言った霊と、話したことがあるということですか?もしそうなら、私もその霊と話してみたいので、紹介していただけませんか?
ということなのである。霊であれば、物理的距離もなにもまったく関係ない。だから、縁ある存在が仲介してくれればなおさら、本人が嫌がらない限り、すぐにでも会えるのである。それに、もしそんなひとが本当にいるのなら、私の言っていることに自分の実態が反映されていないことを残念に思って、少なくとも少しくらいは、時間を割いてくれるはずだ。だからそれが、いちばん確実で、明白なのである。
だがそれができないのは、
そのような意見を言っているひとが、ただ「誰かの話をそのまま拡げているだけ」で、自分自身の「直接体験」ではないから
だ。だからその段階の話によって、私が根本的な見解を変えるということはまずあり得ないのである。ちなみに私は、
もし自殺したのに、生前よりもスッキリ生き生きとして暮らせているというひとがいたら、ぜひお話を聴かせてください
といつも呼びかけているのだが、今のところひとりも、そんな話は来ていない。だから私は、

という文章を、今も骨子を換えることなく、そのまま公開しておけるのである。
また、
死んだらみんな仏様のもとでしあわせに暮らすんだから、負の霊がいるだなんて怖がらせるようなことを言わないでください!
というひとに関しては、本当は実に簡単な話で、
じゃあ、まずあなたの周りにいる負の霊に、会ってみますか?
と言えばいいとも言える。私は別に、必要以上に恐怖を与えたいわけではない。ただ、
いるものはいるし、あるものはある
と言っているだけなのだ。それにもしあなたが、
負の霊だってほんとは優しいところもあるんだから、怖いだけのどうしようもない存在だと思わないでください!見棄てないでください!
と言うのであれば、それには私も、
まったく、そのとおりですね
と言うだけだ。私は、対立を煽っているわけでも、ことさら違う意見をぶつけたいわけでもない。ただ私は、
私の体験から、私の感受性や価値観、それに私自身を育んできた
というだけなのだ。そしてその結果できたのが今の私だから、そんな私が私として、あなたに伝えられることを、伝えていきたいと思っているということなのである。
実は先ほどからずっと確認を取っていたのだが、今のすべての宗教団体は、多かれ少なかれ当初の本意からズレて、歪んでしまっている。
「確認を取っていた」
というのは、今の社会にも大きな影響を及ぼしている様々な宗教団体の、創立に関わった霊・教祖・関係者に対して、
今の在りかたは、あなたの本意、つまりは「ひとびとを、そしてそのひとたちが育む世界をより素晴らしいものにしていきたい!」というような想いから、外れたものになっていると言ってもいいですか?「すべての宗教団体」と書いてしまうことに、異論はありませんか?
と呼びかけていたということである。そしてこの文章を書き終わるまでに、異論は寄せられなかった。だから私はここに
今のすべての宗教団体は、多かれ少なかれ当初の本意からズレて、歪んでしまっている
と書くことに、後ろめたさを感じずに済んでいるということだ。それにもちろん、もしこのあとでも異論があったら、随時訂正したいと思うし、そのときにもし相手との合意が取れれば、
○○の関係者を名乗る霊によると、彼らの団体には濁りも歪みもなく、これからもますます栄えていくということだ
というように団体名も共有したいと思っている。だが現時点において、そのような申し出は1つもない。
ではこれはいったいどういうことなのだろうか?なぜ、今のすべての宗教団体が、少なからず歪み濁ってしまったのだろうか?
それは、
自分の「直接体験」ではない、誰かから聴いた話、みんなが信じているらしい話、遠い昔にあったらしい話を、そのまま拡げている」という要素が、かなり大きいのではないか?
と、私は思うのだ。そもそも、それぞれの宗教団体が
「聖典・教典」
としているものの制作段階にさえ、既に様々なひとたちの想い、価値観が混ざってしまっている。それがさらに
「翻訳・転写・口伝……」
などのかたちで様々に手を加えられていくのだから、その時点で既に完全な純度を保つことは難しくなっている。ましてやそこに
「解釈・思惑・意図的な悪意」
まで混ぜられたうえに、ときを経ることで
「時間的距離」
まで加わるのだから、むしろ歪まないほうがおかしいとさえ言える。
ではここから自然に考えを進めていくと、どんなことが言えるだろうか?
ここから
これからすべての宗教団体は、縮小・衰退し、最終的には自然に消滅する
と予測することは、ごく自然なことではないだろうか?これは言い換えると
これからは、「誰かの話・昔こう言われた話・あったのかなかったのかもわからないような話」では、ひとを縛ることも説得することもできなくなっていく
ということである。だとするとそれでも残るのはなにかと考えれば、それはやはり、
「自分が直接体験したことと、そこから感じたこと、考えたこと」
だということになるのである。
とはいえもちろん、私だって
「自分以外のひとから聴いた話・他のひとの体験」
を書くこともある。だがそれは基本的に
「相手が経験したことを、その本人から私が聴いた話」
である。だから、それは言うなれば
「二次情報」
であって、
「その出処を、具体的に明らかにできる話」
なのである。
だからこれがなにを意味しているのかと言えば、
私は「私にその情報を与えてくれた霊」と具体的につながりを保っているし、もしあなたが霊媒師なら、その霊を自分のところに呼んで話し合うことも、当然できる
ということなのだ。そうすれば、同じ霊なのだから、基本的には私に話してくれたのと同じ話をしてくれるだろう。だからあなたも本当は、「私が聴いて伝える話」を
「自分が聴いた話」
として、直接身につけることができるし、いずれは当たり前にできるようになるという、そういうことなのである。
ただここでひとつ注意しておかなければいけないのは、
「確かに自分が聴いた話」で、「相手から直接聴いたこと」であっても、それが「正しい」とは限らない
ということである。そしてこれは、特に初めの頃はなおのこと、どれだけ経験を積んでもやはり、気をつけなければいけない落とし穴でもあるのだ。だからときにはこの落とし穴に嵌められた霊媒が、よくわけのわからないうちによくわからない霊に唆されて、よくわからない宗教を興してしまうことさえあるのである。
たとえばいかにも威厳がありそうな霊が、
私が神だ!
と言ってきたからと言って、それが神だという保証はない。もっと言えば、そんなひとは神ではない。
また、一見して本当に美しい霊が
私が木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)です
などと言ってきたからといって、彼女が木花咲耶姫だということが事実だとは確定できない。その意味でもしあなたが
私は木花咲耶姫からこんなことを言われたんです
と言うのなら、私は
「あなたがそれを聴いたこと」
と、
「その相手が『木花咲耶姫』だと名乗ったこと」
は信じるが、それ以上は即決しない。ただそれは決して、あなたが悪いひとだとか歪んだひとだということではない。むしろ優しく誠実で素直なひとほど、経験が浅ければなおさら騙されやすいとも言えるのだ。
では、そこからはどうしたらいいだろう?
そんなに難しい話ではない。
木花咲耶姫を名乗るその霊を呼んで、一緒に話をしてみればいい
のである。そうすれば、いずれにせよまた必ず、なんらかの経験が積み重なる。そうやって、成長していけばいいのだ。それは、必ずできることなのである。
だから私としては、今は
「陰湿で胡散臭い、詐欺師か病人の巣窟」
だと思われているとしても、いずれはこの霊媒師の世界もまっとうに整理され、晴れやかに成長していけるようになると確信している。そしてこのように
「『自分が直接体験したこと、見聴きしたこと』をすべての基盤にする」
ということが共有されていけば、それは
「歪んだ数の論理、伝統的だというだけで押し付けられた権力、信じているひとが多いというだけで呑み込まれてきた常識」を、しなやかに打破していける
ということでもある。だからこれは、本当には、霊媒師だけに留まらない、あなたにも必ず関係してくる、大切なことなのだと、私は確信しているのである。
最後に、ひとつだけ実例を挙げてみよう。実は最近、私はある霊媒師と知り合った。そして彼が強い興味があると言うので、私は、
絶対に、長居はしないでね
と念押しして、彼に私が
「魂の墓場」
と呼ぶその場所への行きかたを教えた。

すると彼は、自分自身の力によって、直接その場へ行ったのである。そして帰ってきた彼に、私はこう言われた。
あそこ、ヤバ過ぎですよ!俺はあなたの文章も読んだし直接も聴いたからだいぶ覚悟してたつもりですけど、それでも想像以上ですよ!そもそも、あなたが付けた「魂の墓場」っていう呼び名はなんかカッコいいから、なにも知らないひとがヘンに憧れたりしちゃうんですよ!あそこは、憧れていいような場所じゃないんですって!だからもっとなんて言うか、「魂の肥溜め」みたいな、そんな名前にしておいたほうがいいですよ!
そして私はやはり、直接体験の意味を改めて感じた。そして、彼の意見にも一理あるとは思いつつも、個人的には
「魂の肥溜め」
という名称を採ろうとも思わなかった。それは、
「肥溜め」
と言ってしまうと、どんな理由や過程があったにせよ、そこに行き着いたひとたちを
「糞尿扱い」
してしまうようで、気が引けたからである。だが、彼の言うとおり、あそこは憧れの対象にするようなところではない。だから彼も、いちどは興味を持ったにせよ、もう2度と行きたくはないだろう。あそこは、そういう場所である。そしてそれを誰より深く理解できるのは、そこに
「直接行ったひと」
だろう。そしてこの体験が、また確実に彼を成長させたことは間違いない。こうやって、私たちは発展していく。だからこそ私は、

のである。
あなたの体験はあなたのものであり、私の体験は私のものである。そしてだからこそこれはそれぞれに貴重であり、かけがえのないものである。だからそこには、確かに世界を動かし、変えていく力がある。そして
霊の世界がある
というのは
東京がある
というのと同じくらい、確かなことなのだ。だからいずれはこのことも、あなた自身も直接体験するときが来る。そこからなにを感じ、身につけるかはあなた次第だが、私はいずれあなたとももっと実感を保ってこの話を共有できる日が来ることを、密かにしかし確かに、楽しみにしているのである。

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こんにちは、judyです。
私は霊のれの字も見えませんし感じません。
現代では普通なのかもしれませんが、誰もが普通に見えないものと会話していた頃、
そんな昔々では、私はただの「かたわ」だったかもしれません。
そんなただの人がこのお話にコメントする事をお許し下さい。
今、「人間失格」という映画がかかっていて、
太宰治はちょっと苦手なので、観に行きはしないと思うのですが(笑)
その太宰治から、ふと思ったのですが。
当時は作家の自殺も多かったので、もしかしたら日本の文豪と言われる方も、
自殺したことをひどく後悔しているのかなと。
いやしくも文豪と呼ばれるほどの方たちが、自殺で終わるようなありきたりのシナリオは書かないだろうと勝手に考えたり。
また、生まれ変わりに時間がかかるとしたら、作家であれば書けないジレンマはいかほどかと、とても幸せであるはずがないとか思ってしまいました。
変な解釈で、申し訳ありません。
それと、宗教団体のことももっともだとうなずけます。
いくら創設者が上等な出来た人物だったとしても、
どんなに素晴らしい教えを広めたとしても、
霊が見えない聞こえない人々が大半の現代では、全く同じ解釈をするなど、
どだい無理な話ですよね。
自分の都合の良いように、改変し放題でしょう。
教祖と呼ばれた方は、どんなに悔しい思いをされているか。
まさしく
けれど本当は、死人・・失礼、霊は私たちの周りで多くを語って下さっている、のですよね。
ただ、それを精査して、かみ砕いて、きちんと自分の中に取り込まなければならない。
でなければ、詐欺のような目に遭ってしまうかもしれませんね。
本当に、肉体があるかないかだけで、私たちと何も変わりなく、
いい奴もいれば嫌な奴もいるし、高慢な奴もいれば謙虚な奴もいる。
いつか誰もが当たり前に霊を感じられる日が来ることを願っています。
そして、これは個人的にとても楽しみにしているのですが、
宗教団体が縮小して自然に消滅してしまうのでは、と言う予想です。
もともと、信仰というものは、お釈迦様曰く、
自分自身で自分を照らすこと、だと思うので、
宗教は団体ではなくてひとりひとりが極めて行かなければ意味がないのでは、
と、私は思っています。
最後に、
肉体人も霊人も、霊のことに限らず、自分の体験を軽やかに縛りなく話して共有していければ良いですね。
長々と失礼しました。
judyさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
いえいえ、むしろ私から見ても、これはとても意義深い視点だと思います。
それに、せっかく太宰の話が出ましたので、少しだけ触れておきますと、太宰の心中については未だにいくつかの解釈が並立する余地があり、
というような記述に加え、
などという話を聴いてしまうと、それが厳密な意味での
「自殺」
ではなかったのではないかという可能性さえ思い浮かんでしまいます。
ですがいずれにせよ、私はそういった種類の
「隠された情報」
を知ることができる能力を持っているわけではないですし、そもそも太宰がそれ以前にも何度も自殺未遂をしていることから考えても、彼の人生に常に
「自殺に誘う影」
のような存在があったことは事実であり、それがついに、そのときに、実現してしまったということなのだろうと私は考えています。それに、太宰も確かに、遺書は書いているわけですし。
ただいずれにせよ、太宰と一緒に自殺した山崎富栄が
と願っていたことは、少なくとも彼女の思い描いたようなかたちでは実現できないのです(事故死や天変地異などではない、「心中」で死んだ場合において、「死んだときの場所・物理的距離」は関係なく、彼らが生前の予測どおり、「すぐ近くで一緒にいられた」という事例を、私は少なくとも今のところは、ひとつも知りません)から、やはり自殺というのは、とても哀しいものだなぁと、そう思うわけです(なお、心中したふたりがお互いに反省を深め、充分に変わったあとであれば、一緒にいることはまったく不可能というわけではありません)。
また、太宰と同じく自殺してしまった文豪と言えば芥川龍之介もそうですが、彼の場合は
と書いているわけで、私からするとここにはよりはっきりと
「負の霊団の影響・侵食」
を見ることができると、そう思っています(と、ここまで書いたところでパソコンが瞬間的に誤作動を起こし、ページにリロードがかかってここまで書いていた返信がすべて消えてしまいました。コメントは本文のように、下書きが自動保存されないですからね。まぁ、次からは書いたものをこまめにコピーしておこうと思いますし、こういう「わかりやすい」ことをすると、かえって逆効果だと思うんですけれど)。
それから、私は『人間失格』も含め、太宰の作品は読んでいないもののほうがずっと多いのですが、それでも読んだことのあるもののなかでは、特に
が圧倒的に素晴らしいと思っていますので、参考までに共有させていただきたいと思います。
また、ここで名前も出しましたので芥川についても併せて挙げておくと、彼の作品では
が個人的にはやはりいちばん好きです。
彼らが自殺しなかったら他にどんな作品を生み出したのか、どのように人生の幕を下ろしたのかを思うと、やはりどうにも切ない気持ちになります。
宗教団体についても一緒にいろいろと考えてくださって、ありがとうございます。結局のところあなたが
とおっしゃるとおりだと思いますので、あなたも
などと恐縮することなく、どうぞこれからもお気軽にコメントしていただければと思います。
あなたのように繊細で優しいひとほど
などと気を遣ってくださるのですが、ご存じのとおり私の返信のほうが、ずっとずっと長いんですからね。
今回の記事、興味深く拝見させて頂きました。
我々の身近にある仏教系の教えも例外ではなく、負の霊団に歪められている可能性があるということですね。
素直に考えると、教祖が自殺者もしくは信者に自殺を推奨している宗教団体は、特に危険ということになるかと思います。
危険を避けるためにも、ご存知であれば特に具体的に危険な団体名を知りたいのですが、教えて頂くことは可能でしょうか。
だれかさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
ええ、そう思っていただいていいと思います。今の(特に日本的な)仏教の在りかたを
「葬式仏教・ビジネス仏教」
などと称するひともいるようですが、特に死後の供養の在りかたや、その際のよく意味のわからない費用の体系などを見るにつけ、こうした批判に根本的に反論するのは、相当難しいだろうと思っています。
それから、私も
というのには異論はないのですが、その前段
という点だけを以って、その団体の危険性を測るのは些か早計ではないかとも思います。
というのも、絶対にそんなことはしませんが、もし仮に、万々が一私が自殺してしまったとしても、『闇の向こう側』で書かれていることが危険だということにはならないからです。
むしろ、それで私が心から後悔することになれば、それは逆説的に
と言ったことの正しさを補強することにもなるでしょう。
そして、そうなることがあまりにもわかりきっているからこそ、私は絶対に自殺しようとは思わないのですが、ご存じのとおりそんな私でさえ、幾度となく自殺衝動に駆られた経験があり、今後もないとは言い切れません。
だからこそ、私はたとえ素晴らしい団体の主宰者であろうと、負の霊の目論見に呑まれれば自殺することも充分にあり得ると思っているので、その点だけを以ってその団体の本質を測るのには、むしろ巧妙な罠があるとも思っています。
逆に言うと、たとえばキリスト教では自殺を罪(強く戒めるべきもの)として捉える解釈が一般的かとも思いますが、だからと言って現在のキリスト教に問題がないとは決して言えないということは、もう明らかだろうとも思います。
そのうえで、
とのことですが、私自身あらゆる団体を把握しているわけではないうえに、私は現時点でも様々な宗教団体に関わる負の霊に疎まれているのも事実ですので、これ以上むやみに相手を焚き付けたくもないという理由もあり、ここで具体的な名称を挙げようとまでは思いません。
ですが、ともかくなによりも重要なこととして
あらゆる集団(団体・組織)のなかには、主宰者の意図にかかわらず、善意のひとも悪意に呑まれたひともいる
ということ、そしてもうひとつ
ひとの意識は善意から悪意にも、悪意から善意にも、いつでも変わり得る
ということを改めて確認しておきたいと思います。
ですから私は、先に名前を挙げた仏教であろうとキリスト教であろうと、そのなかに優しく善意で素晴らしいひとたちがたくさんいることも理解しています。
それにこれは敢えて名前を挙げますが、たとえば
「オウム真理教」(あるいは教祖の松本智津夫)
でさえ、設立当初から危険・悪意に満ちていたわけではないと、私は思っています。ですから彼も、そして彼らもまた、どこかで少しずつ道を外れていったのだということです。
そしてさらに言えば、この裏を返すと
現在「オウム真理教の後継」と見なされている団体ですら、もしかしたら、これから素晴らしい団体に変わっていく可能性もないとは言えない
とさえ言えます。
ただもちろん、そこには当人のみならず、周囲のひとたちの見る眼にまで影響する多大な負の遺産があるわけですから、それを乗り越えるのが決して容易ではないのは明らかです。
ですから私はやはり、特定の団体に肩入れしようとも思いませんし、逆にいの一番に潰れてほしい団体があるわけでもありません。いずれにせよすべては
「個人の集まり」
だからでもあり、結局はみんなそれぞれが理解を深めれば、あとは自ずと収束に向かっていくことでもあるからです。
そしてこれはつまり
危険を避けるためにも、特に危険な人物を知りたいのです
と訊くのと同じことだとご理解いただければと思いますし、その意味で私は自分のことを
「特に安全な人物」
だとも思っていません。ただ、私は私で在りたいと思っているということであり、それはあらゆる団体・組織、そして日々見かけるひとたちを見て、ますます強く思うことなのです。こうしたことを改めてご理解いただき、これからの生活に少しでも活かしていただければ、『闇の向こう側』の主宰者である私としても、この上なく嬉しく思います。
どうぞよろしくお願いします。
お返事ありがとうございます。
言葉足らずで誤解を招く表現になっていたかもしれませんが、固定観念で何々教は全て悪と断言できないことは理解しております。
仰る通り宗教の善悪は絶対普遍ではなく、常に流動的なものです。
お釈迦様の時代から恐らく変わっていないのでしょう。
その上であえてコメントさせて頂いたのは、表層に顕現する善悪の割合やいわゆる負の性質については、各団体間に明らかな違いがあると感じているからです。
使う教科書が同じ場合でさえ、自殺や殺人や拷問を行うことの正当性に利用する輩と、本来の霊的成長に役立てようとする人々が混在しており、そこには雲泥の差があります。
ご事情はあると思いますが、この見分け方のヒントがあるだけでも不要な不幸に見舞われる人の数を減らせるのではないでしょうか?
ある宗教施設に一度参拝しただけで地獄に落ちた人達の話を聞いたことがあるので、どうにかできないかと思った次第です。
そうですね、こうしたことは本当に難しいことでもあるのですが、たとえば私がこの『闇の向こう側』に書いていることでさえ、一部を切り取ったり極端な解釈を適用したりすると、悪事の実践や拡散に利用できないとは言えないと思いますので、そうした意味で
これは結局、それぞれひとりひとりの理解を深めるしかないのではないのか?
というのが先の返信のひとつの趣旨でもあります。
ただ、
というお気持ちに沿ってもう少しだけ踏み込んだことを言ってみるとすれば、その団体・集団・教えが
1,「神」の概念をどのように捉えているか?偶像・儀式儀礼・呪文などにこだわりすぎてはいないか?
2,特別な方法・経路でしか、神力(恵み・救い・守護……)が得られないと言ってはいないか?
3,この世に生きることの目的をどう伝えているか?生きることは罰・報い・苦しみであると捉えてはいないか?
4,生まれ変わることをどう捉えているか?生まれ変わりは「卒業」すべきもの、あるいは賤しい・未熟な存在にのみ必要なことと思ってはいないか?
5,負の霊(悪霊・悪魔・低級霊……)についてはどう捉えているか?またそれが実在していると言う場合、それに対する対処はどうするべきだと言われているか?
6,食事について、どう伝えられているか?人間は本当に、なにを食べてもいい(同じ)なのか?
7,宗教・経済システムの今後について、どのように捉えているか?宗教が施設を保つことは、今後も必要なのか?
といったことについてどのような見解・姿勢を表明しているかを見ていけば、おおよその状態は掴めるのではないかとも思います。
ただ、こうしたことについて包括的な見解を保っている集団というのは、現在ではほとんどないのではないかと思います。
というより、私が心から推薦できる集団があればすぐにでもお伝えしたいのですが、当初からここにリンクを張っている少数の参考事例を除いては、まだ見つかっていないというのが率直なところです。
それに、現段階で教団運営者が
「真実」
に気づいたとしても、
「昔ながらの教え」(標準的解釈)
を書き換えることはまずできないということ、この固定性が、最大の問題点なのだろうという気もしています。
それから、
とのことなのですが、これについてもう少し詳しくお聴きすることはできますか?
というのも、
「いちど参拝させた(縁を結んだ)だけで相手を地獄に堕とす」
というのは、「絶対にない」とまでは言い切れないにしても、
「まずそうそう起こり得ない」
というのは間違いなく、もしそうした話がまかり通っているのだとすれば、
1,「いちど結んだ縁を切ること・弱めることはできない」という思い込みを保たされている
か、
2,そう脅すことで相手に生まれる恐怖心によってさらなる侵食の足がかりを作ろうとしている
あるいはもしその情報源が霊本人なのであれば、
3,自分がそこ(地獄)から抜け出すことはできないと思い込んでいる
というようなことが原因である可能性のほうがずっと高いからです。
それにそもそも、
「地獄」
という世界観の定義から、きちんとすり合わせる必要があるかとも思います。
というような考えかたがある。そして、相当の「悪いこと」をしたものは、それに応じた「地獄」に連れて行かれるのだと言われることもある。似たような思想は、きっと...
実際のところ、今の状況というのは、
「宗教団体も、肉体人も、霊存在ですら、間違い・思い込み・悪意に囚われている」
という感じなので、本当に厄介なことではあるのですが、だからこそ私もなんとかそれを解消するために、できることを続けていきたいと、そう思っています。
お返事ありがとうございます。
何を持って地獄とするか、それは主観的なものであるとの記事も拝見しています。
私も同意見ですが、参拝後数ヶ月で起きた客観的な事実の一例を挙げますと、
(1)親族の不幸
(2)親しい人間が複数人も急激な離別や大病
(3)その宗教施設のお守り等を異様な頻度で見かける
が起きています。
その宗教施設に訪れるとしばらくは体調が良くなるが、最終的にはさらに悪化するそうです。
そうですか、
が数か月で起きたとなると、それは確かになかなかの影響力ですね。
それにこれは、自分たちの力を誇示しつつ、相手に恐怖とそこから逃れるための誘いを植え付ける
「脅し」
のようなものにも思えます。霊的な知識や対処法への理解がほとんどない現状においては、それだけの霊団が動けば、それぞれが抱えている種を暴走させることも、そう難しいことではないでしょうし。ですから
というのも、実に納得できることです。
ただ、こういう体験をすると
霊はみんな敵だ!守護霊なんてものはまやかしだ!
というような思い込みに入ったり、結果だけを見て味方(悪い流れに抗おうとしているひと)もすべて敵に見えてきたりしてしまいやすくもなるところが、また厄介だなぁとも思います。
ですからやはり、ひとつのそうした要素を理解していきながら、自分が自分で居続けるための防御法・対処法を学ぶということが大切なのだろうと思いますし、私もずっと究め続けていきたいと、そう思っています。
なお、この場であなたが知るその
「宗教施設・団体」
の実名を挙げるかどうかは、あなたにおまかせします。私自身は特定の宗教を特に敵視しているということもありませんし、どんなものも結局は
「ひとつの意見・視点」
にすぎないというのも事実ですから、それを発言してはいけないということもないでしょう。
ただこうした前置きをしてもなお、もしかしたらその関係者から
名誉毀損だ!
というような意見が出てくるかもしれませんが、その誹りは主宰者である私が受け止めます。それに、私も含め今の時代にこんなことを発信していたら多かれ少なかれ誹謗中傷や噂話を流されることもよくあることなのですから、あとはそれぞれが吟味して、それぞれの立場から考えていけばいいのだと、そう思っています。
未然に不幸を防ぐすべがあれば、素晴らしいことだと思います。
ただし、悪意もなく観光気分で訪れる施設に対して、その責任は各人にあるのか?というのが論点ではないかと思います。
紆余曲折ありましたが、我々はその宗教施設に参拝しないという結論を出しました。
それがベストな解決策とは断言できませんが、良い方向に向かっているとは思います。
そして、人によって同じ行動にもかかわらず、結果は全く異なる場合があることは承知しています。
物理や現象、つまり現実に見えている世界と同様ですね。
私はそのラベルで象徴される団体との関係を深めることや、代弁者として利用されることのいずれも望んでいません。
仏教の系統に分類される団体とだけお伝えさせて頂きます。
団体名の表記など、私が局所的に直接手を下さずとも、いずれ必要であれば因果は具体的な形となって現れるはずです。
事の善悪は私に判断できませんが、それが自然の摂理なのでしょう。
ただし、悪意もなしに観光気分で一度ふらっと寄っただけで、ここまでの不条理が許容されるのが納得できないというのが、素人なりの正直な気持ちです。
そうですね、あなたのおっしゃるとおり、それが
なのであればなおさら、それは現代の日本においては
「文化・習俗の一部」(→観光気分)
のようになっていて、それを
「宗教的行為」(霊団との接触・縁結び)
というふうに理解・認識しているひとは、ほとんどいないだろうと私も思います。ですからその責任を問われても、困惑してしまうのはしかたがないというところでしょう。
そしてだからこそ、私はそのような仏教系の団体については特に
「自分の置かれている『優位・特権的立場』」
を自覚したうえで、それを省みてほしいとは常々思っています。
ですが実際には、
「自分たちのやっていること・教えの解釈が正しいと思い込み、他に攻撃的な仏教系霊団」
というのはまだまだたくさんあって、私自身も何度も責められたり罵られたりなどの経験をしてきているので、率直に非常に歯がゆいところなのです。
私からすると、
私の食事はほとんど精進料理に近しいし、その他様々な点で、仏教と考えが似通っているところは、たくさんある
と思うんですが、これも彼らからすれば、
生まれ変わりをいいこと・喜ばしいことだと捉えるのは、解脱を目指す本義に反している!
戒名も仏式供養も必要ないというのはなにごとだ!
となるので、なかなか溝が埋まらないんですけどね。ただ
あなたが「死後も正しい修行を続けている」と言うなら、なぜそこにお釈迦様がいないのですか?なぜあなたがたは1度も、お釈迦様に会ったことがないのでしょうか?あなたは本当は誰の指導・戒律に従っているんですか?
などと言っても一向に明快な答えもなく怒られるだけなので、それでは私もやはり、納得はできないということなのです。
ですから私から見ても、あなたのお気持ちは実に真っ当だと思いますし、あなたもおっしゃるとおり、いずれはすべてが明らかとなり、本来収まるべきところに収まっていくものと、そう思っています。