霊媒体質者のあなたが「普通に」生きることができるようになることを、私も心から願っている

目がよすぎるからと言って、病院に入れられることはない。同じように、耳がよすぎるとしても、嗅覚や味覚が鋭すぎるとしても、それだけの理由で病院に入れられるということはないだろう。

もちろん、

感覚が鋭すぎる

というのは本人にとってかなりの苦痛やストレスを伴うことも多いので、それを緩和する方法を一緒に探ったり、場合によっては周囲が対応・配慮したりすることは必要だと思うし、実際日本でも、たとえばこのような取り組みが検討・実施されたりしている。

日本財団DIVERSITY IN THE ARTS 企画展「ミュージアム・オブ・トゥギャザー」にて、障害のある方々にクワイエットアワーや今回の展示、普段感じていることなどについてお話を聞きました
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だが基本的に、感覚・感受性が鋭く、豊かであるということは

「個性」

であると見なされるので、それは

「治療・矯正」

の対象ではない。だから、病院に入れられることも、強制的に隔離されることもまずないし、あったらそれは

人権侵害だ!

と見なされてもしかたがない暴挙だろう。

だが話が

「霊感」

に及ぶと、その様相はまったく違ったものになってくる。今や

「共感覚」

でさえ実在すると見なされてきている現代にあって、

「霊感」(霊的感受性)

は、未だに実際にあるものとして認められていない。

だからそれは個性ではなく、

妄想・錯乱・病気だ!

と見なされ、

「矯正・治療」

の対象となる。そして実際に、本人が強く反発したとしても、家族など周囲のひとたちの強い要望があれば、そのひとをほとんど強制的に入院させるようなことすら、社会的に認められる余地がある。これは、本当にひどい、そしてなにより、哀しい話でもあると、私は思う。

では、なぜこんなひどいこと、哀しいことが、実際に行われてしまっているのだろうか?

もちろん先ほども言ったように、そのいちばんの理由は、

霊感が、実際にあるものとは認められていないから

だろうとは思う。

だが本当には、それと同じくらい、大きくて重要な理由があるとも思うのだ。それは、

彼らが「周りに大きな苦痛・損害、あるいは不快・不和をもたらす、不都合な存在」だと見なされているから

ではないのか?

 

少し考えてみればわかることだが、病気というのは個人的なものである以上に、とても社会的な概念・状態を指すものなのである。そしてだからこそ、その社会・集団の多数派、あるいは有力者から

お前は「周りに大きな苦痛・損害、あるいは不快・不和をもたらす、不都合な存在」だ

と見なされると、それは

「病人」

と言い換えられることがある。さらに言えば、それはときに

狂人だ!

とさえ言われることがあり、特に霊媒体質者も含めた

「精神疾患」

については、この呼ばれかたのほうが本質を突いているとも思う。

そして、ここからもう少し掘り下げていくと、このような「狂人」は、行為の責任を取らなくていいとされる場合がある。それが「罪」と見なされるものであってもそうである。これは、

第三十九条 心神喪失者の行為は、罰しない。

2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

刑法
電子政府の総合窓口(e-Gov)。法令(憲法・法律・政令・勅令・府令・省令・規則)の内容を検索して提供します。

という規定に依っていると言っていいと思うが、これを踏まえたうえで、

「自由と責任、そして権利の関係」

について考えてみたい。

と言ってもこれはそれぞれにいろいろな意見や見解がある問題でもあるのだが、ともかく私の見解を書いてしまうと、それは

「自由→責任→権利」

という図でも表すことができると思う。

これはつまり、

自由の前提には責任があり、責任を前提として権利がある

ということであり、さらに言い換えると

権利を得たければ責任を果たす必要があり、その責任を負って初めて、真の自由がある

ということでもある。

そしてこれを逆から見ると、今度は

自由のない存在には責任がなく、責任のない存在には、権利もない

と言うこともできるようになる。だからこそ、責任のない狂人には権利がなく、人権侵害との誹りも受けずに、強制的に入院・隔離されることもあり得るとされる余地があるということなのだろうと、私は思うのだ。逆に言うと、こういう思考が無意識的にでも共有されていると考えない限り、今のような状況が認められていることを説明できないからだ。

そしてこれは別に、私自身がこのような論理、あるいは社会に全面的に賛同しているというわけではない。ただもし、今の社会を成り立たせている背景にこのような論理・価値観があるとするなら、そのうえで私たちが自分の

「権利」

を取り戻すには、はっきりとした突破口がひとつ見つかるとも言えると思うのだ。それは、

「自分の行動に責任を保ち、自分自身の人生を生きていく」

という、確かな活路なのである。

 

私自身を例にとって具体的に言うと、私が霊媒体質であるにもかかわらず、精神病院に入れられることもなく生きていられる理由は、

私が、周囲のひとに危害を与えていないから

というのがまず第一に挙げられる。これでもし、私が霊にやられ放題唆され放題になっていたら、私は遠からず周囲のすべてのひとに不和や不快、さらには危害を加え続けるひとになるだろう。それにそうなったら、私が強制的に隔離されることになっても、私自身それに反発することはできないと思う。

だが私は、そんな事態に陥ることなく、今も生きられている。これはひとえに、

「私が私自身の責任を保ち、生きていられているから」だ

と言っていいと思う。

ただし、たとえ私がこのまま自分の責任を明け渡さずにいられたとしても、それでもなお病院に入る方法もある。私が、精神病院に行って、洗いざらい自分の体験を話し、それを「病気」として申告して、相手に処置を委ねればいいのである。そうすれば、私は入院させられるかもしれないし、そうでなくてもなんらかの精神薬くらいは、確実に処方されることになるだろう。

つまり、先ほど挙げた第1の理由を前提としたうえで、私が今もここで生活していられるのは、

私が精神病院に行かず、精神薬も飲んでおらず、自分のことを「精神病患者」だと見なしていないから

だというのも、確かに大きいのである。こうしたことは今までも何度も書いていることで、つい先日も

時間帯による負の念の変動。私が「精神病患者」だと見なされるのも無理はないが、だからこそ私が伝えたいこと
私たちは、日々たくさんの負の念を受けながら生きている。これが 「異常事態」 であることは間違いないのだが、少なくとも現時点では、世界全体がまだまだ異常なので、そこに生きる私たちも、当然のようにそのようななかに置かれているというこ...

と書いたばかりなのだが、私はこうした自覚・基本認識をずっと保ちながら生きているのである。

 

ただひとつ大切なことを補足しておきたいのだが、私は別に今の病院、あるいは医学や薬学のすべてを全面的に否定したいというわけではない。だがひとつ考えてみてほしいことがある。

そもそも、なぜ私たちは病院に行くのだろう?

ということだ。つまり私から見れば

病院とは第一義的には「病名を付けられにいくところ・自分を「患者」だと認めてもらいたいときに行くところ」だ

と言える。そしてときにはそのような

「病名や・患者だという承認」

があったほうが、ずいぶんラクになる場合もある。それは、

「自分がそのことについて、周囲の助けを得たいとき」

である。そういう状況下においては、病院や現代医学にも、それなりの価値は確かにある。それに実際、私自身も肉体的な部分については、ずっと昔から医学の助けを受けてきた。もっと言えば、私はそのうちのいくつかの症状について、薬に助けられてもいるのだ。

具体的に言うと、私のからだは現在、ビタミンDをうまく・充分に生み出すことも、一般的な効率で摂り込むこともできない状態にある。そのため私は簡単に言えば

「高濃度のビタミン剤」

のようなものを、薬として飲んで補っている。これを飲まないでいると、ただ暮らしているだけでも骨が軋んだりして、激痛が走る。かといって、これはそれですぐに死ぬようなものでもないし、そのまま生きていくにはあまりにもつらいしというものなので、やはり薬によって緩和できるうちは、そうしたいと思っている。だから私は、自分自身の選択によって、それを飲んでいる。

 

だから私は別に、ただ闇雲に医学や薬を否定したいわけではないのだ。たとえばある種のウイルスや病気に対しての血清や抗生物質のように、その処置によっていのちを救われるという局面が多々あることも当然理解している。ただ今の医学において、精神的な領域、特に霊的な領域についての理解は、あまりにも拙く足りないうえに、盲目的でもある。

そもそも、治すべきですらないもの、治せるはずのないものを治そうとしている

のだから、それで治るはずもない。ましてそれに薬で対応しようとしても、根本的になんの意味もないどころか、薬害のほうがずっと大きくて、文字どおり人生を損なうのである。

だがそれでもどうしても耐えられないと言うのなら、自殺衝動があまりにも強いときに、あくまでも

「緊急避難」

のような意味合いで、精神薬を飲むというのなら、そこにまったく意味がないとまでは言わない。だがそれでも、こと精神に影響する薬についてだけは、どうしても常用することを勧めることはできない。なぜならそれは確かに短期的には

「死ぬ意欲」

を低下させてくれるかもしれないが、一方で長期的には確実に、

「生きる意欲」

までも、低下させることになるからである。

こうした経験や考えに基づき、肉体的には医学の助けも受け続けてきた私が、一方で精神的・霊的な面においては、医学の力を当てにしようとはしてこなかった。だからこそ私は今、「精神病患者」になることなく生きていられているのである。病院とは、患者を治しもするが、ときには患者を作りもする。特に霊媒体質者にとっては、その部分に関してはそこにはマイナスの面しかないとさえ言えると、私は思うのである。

 

そして先ほども言ったように、霊媒体質者が自分自身の人生を歩んでいくためには、

自分の責任を明け渡さず、自分で保つ

ということが大切なのだが、そのためにはまず

いったい、自分にはなにが起きているのか?

を、徹底的に吟味しなければならない。そしてその入口として、私はあなたにも

自分自身、あるいはあなたの「幻聴・幻覚・妄想」と、よく向き合ってみてください

ということを、ぜひお伝えしておきたいと思う。

一説によれば今の精神医学の主流派においては、

自分の意識を向ければ向けるほど、「本来ありもしない」幻聴や幻覚、それに妄想がますます強化されてしまうので、それを強く意識したり、誰かに何度も話したりするのは、できる限り避けてください

と言われているという話を聴いたこともあるのだが、これは私からすると完全に間違っていて、むしろ私は

相手が何者で、どんな意図を保っていて、あなたになにを伝えよう、あるいは思い込ませようとしているのか、それは好意なのか悪意なのかも含めて、徹底的に吟味してください

と言いたいのである。なぜなら

それは「幻」でもなんでもなく、「確かにあなたに関わっている実在のもの」だから

である。

そしてそうやって、相手のことも自分のことも理解を深めていれば、あなたは霊媒体質であることを否定せず、自分自身に起きたことを抑え込むこともしないままで、あなたらしく生きる道を模索することもできるようになる。

もちろんそれは一朝一夕にできることではないし、簡単なことでもない。だが少なくともあなたは私という実例を通して、それが確かに実在する可能性だということを、知ることもできているはずだと思う。だからあとは、少しずつでいいから、あなたにも実際にやってみてほしいのだ。

そしてさらに言うなら、私は自分自身の体験も踏まえ、あなたが霊媒体質でありながら、

「決められた時間、決められた場所で、不特定多数のひとと関わりながら活動する」

ことを求められるとしたら、それがとても大変なことだということも知っている。

だから私は大まかな方向性のひとつとして

あなたの強い感受性や体験を、「芸術やなんらかの表現活動」として、周囲に顕していってみるのもいいかもしれません

と、提案しておきたいと思う。なぜなら

表現の場においては、「自分が不遇の身であること、少数派で異端であることが、むしろ『かけがえのない強み』になる」ことがよくあるから

である。そして実際、私がこの『闇の向こう側』で実践していることもまさに

「霊媒師という『異端の立場』を逆用した、表現活動そのもの」だ

と言っていいのである。

 

私たち霊媒体質者は、どこまで行っても今はまだ「異端」であり、少なくとも「普通」ではないどころか、どちらかと言えば「狂人」のような立ち位置にいるとさえ言える。そしてだからこそ、

私の「普通」という概念は、もはや原型を留めないほどに破壊されてしまった
普通に考えてお前、そりゃあないだろうよ 私の生活なんて、至って普通ですよ そんなに頑張らなくていい。普通の生活が1番だ 私たちは、多くの場面で「普通」という言葉を耳にする。そして自分も無意識に遣う。だがこの「普通」という概...

とも思うのだが、それでも一方では、やはり私は自分のことを、

「ごく普通の人間」

だとも思っている。それにもっと言えば、私が今書いているようなことは、あと100年か200年もしたら、今の小学生の年齢でも知っている

「あまりにも普通、当たり前のこと」

として、逆に見向きもされないものになるだろう。強いて言えば

あの時代にしては、わりと進歩的な主張だったね

と思ってもらえるかもしれないくらいだ。だから私は、私くらいの存在は、本来は極々ありふれた、普通の存在なのである。

だからこそ私は、私自身やあなたのような存在が、いい意味で「普通」に、ごく自然で当たり前に暮らせるようになることを、心から願っているのだ。そして本当には、あなたや私のような霊媒は

いずれはみんなが経験すること、理解することになることを、先に経験した

というだけにすぎない。だからそのことに気づき、真摯に着実に、一歩一歩歩んでいけば、その先には必ずもっともっと素晴らしい世界が実現するはずだと、私はやはりどこかでは、確信してもいるのである。

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