私があなたを見ている。だから私が、あなたを必ず活かす

私はあなたにしあわせになってほしいと思う。みんなでしあわせになりたいと思う。私も、しあわせになりたいと思う。

1776年に採択されたアメリカ独立宣言書(The Declaration of Independence)の初めのほうに、こんな一節がある。

We hold these truths to be self-evident, that all men are created equal, that they are endowed by their Creator with certain unalienable Rights, that among these are Life, Liberty and the pursuit of Happiness.

(私たちはこれを自明の真実として掲げる。すなわちすべての人間は対等に創られ、決して侵されない権利として、生命、自由、そして幸福の追求を与えられたということを。)

The Declaration of Independence: Full text

こうして改めて見ると、さすがは紙幣や硬貨に

IN GOD WE TRUST

(神こそ我々の信じるもの)

と明記し、1956年からは公式の標語とするアメリカらしいことだなぁと思うが、私は神の解釈に多少の差こそあれ、ともかく

「しあわせを追求する」

というのが、私たちの核心に深く刻まれているという点においては、全面的に同意する。さらに言えば、これが彼らの言うとおり

「権利」

と言っていいものなのかは微妙だとも思っているのだが、私としてはむしろ

「『本能』あるいは『根本的な原動力』」

と言いたいようなものとして、

しあわせを追求したい!

という想いが宿っていると、私は捉えている。

 

だが独立宣言書も主張するように、これはあくまでも

「しあわせの追求」

の話であって、

「しあわせそのもの」

ではない。私たちにはしあわせが与えられているわけではない。そんなことは、独立宣言書でも主張されていないし、私も思っていない。現に、私たちはしあわせでない状態を経験している。そしてだからこそ、それぞれにしあわせを追求する。だから、アメリカは独立したいと思い、実際に独立を果たしたのである。

さらに言えば、私は独立宣言書ほど無垢でもないので、しあわせについてだけでなく、生命と自由についても、同じように

「追求」(”pursuit”)

を付けたほうがいいのではないかと思う。さらに厳密に言うなら、生命(存在)は権利というよりむしろ「事実」であると思う。

「権利」

はそれを(それが自分に関わるものであれば)放棄する余地があることを示唆しているが、

「事実」

は放棄できない。できるのはただ

無視する(知らない・見ないことにする)

だけである。つまり、「事実」である生命は放棄できない。だからこそ自分を完全に消滅させることはできないので、その手段としての自殺は、原理的に必ず失敗するというわけである(自殺は生命の無視でしかなく、それ以上ではない)。

また、せっかくここまで行ったから自由についてももう少しだけ触れておくと、この世界に

「完全な自由」

というものはなく、あるのは

「選択の自由」

である。つまり私たちは、ある流れを選ぶことも、育むことも、ときにはそれを押し留め弱めることもできるが、「流れ」そのものをなくすことはできない。もしそんなふうに、それぞれが

「完全な自由」

を得てしまったら、私たちはバラバラ散り散りになり、世界は崩壊する。

というわけで、私は別に独立宣言書に全面的に同意しているわけではないが、ともかく

「しあわせの追求」

に関する基本的な捉えかたにおいては、かなりの部分を共有している。そしてだからこそ、私はあなたにしあわせになってほしいし、みんなでしあわせになりたいと思うし、私も、しあわせになりたいと、そう思うのである。

 

しかしそれを踏まえたうえで、だからこそ

では、しあわせとはいったいなにか?

という問いが、とても重要な意味を帯びて私たちの前に立ち現れてくる。そして、それが完全な個人的要素だと言うなら別として、そこに

「みんな」

を含むというのであれば、そこにはあらゆる状況のあらゆる存在、たとえば霊存在も肉体人も、夭折したひとも病気のひとも、殺されたひとも死にそうなひとも、誤解されたひとも疎まれたひとも、すべてを含まなければならない。

いや、それだけならまだいい。だが本当にはこの

「みんな」

のなかには、殺したひとも呪ったひとも、傷つけ陥れ騙し、潰し傷つけ弄んだ、そしてその結果として、忌まれ恨まれ蔑まれ、打たれ焼かれて引き裂かれた、

決して許さない

と言われてしまった、そのひとたちも含まれているのである。

ではそのひとたちも含めたうえで、

「みんなのしあわせ」

というものをどこに想定すればいいのだろうか?そもそもそんなひとたちに、

「しあわせを追求する」

ことなどできるのだろうか?あるいはそのひとたちがしあわせになるというのは、本当にあり得ることなのだろうか?

 

これは、本当に難しい問題である。正直に言えば、ほとんどお手上げに思える問題である。だがそれでも、今の私がなんとか見出した答え、それは

しあわせとは、「誰かに継がれ、学ばれ、糧にされているという感覚」があることだ

というものだった。そして私は、少なくともこの定義に拠れば、あなたにも必ずしあわせになってもらえると、そう思っているのである。

 

たとえばあなたが誰かを、それもたくさんのひとを殺してしまったとしよう。そんなあなたを

「継ぎ、学び、糧にする」

というのは、決して

「同じように誰かを殺す」

ということではない。ただ

そんなことをしてしまったあなたをよく見て、あなたがそんなに苦しんでいるのを理解したからこそ、私も誰も殺さない

と、心から決意することである。こうやって

あなたの生々しいその経験を、その血肉をなんとしても未来に活かす

というのが、私があなたに言える、そしてあなたのしあわせに少しでも貢献できる、ほとんど唯一のことではないかと、私は思うのである。

だから、私はあなたがどんなひとであれ、

私があなたを見ている。だから私が、あなたを必ず活かす

と、心から言いたいと思う。

 

あなたがどうしても自殺すると言うなら、私が全力を尽くしても、最終的には主体者であるあなたの権限が勝る。だが私は、あなたが死んでもあなたを活かそう。あなたのからだが殺され、あなたが絶望と虚無に呑まれてしまったとしても、私がその「体験」を活かそう。そして、あなたのことを糧にしよう。私が、そうしよう。

あなたが誰かに恨まれているとして、相手はあなたを許してくれず、あなた自身も自分を許せないなら、それは私だけではどうにもできない。誤解があるなら一緒に解こうと思う。それは必要なことだから。だが「事実」そのものを変えることはできない。だからその「事実」によって相手に恨まれ、あなたにどんな事情があろうと、あなたを決して許さないと言われているのなら、それ自体を私がどうにかすることはできない。だが私は、そんなあなたのことを、そしてその相手のことを、よくよく見ておこうと思う。そしてそんな苦しく哀しいことがもう起きないように、私は私なりに考え、実践していきたいと思う。そして、あなたのことを糧にしよう。私が、そうしよう。

これは私があなたを許すとか許さないとか、そんな話をしているわけではない。さらに言えば、私があなたのことを好きだとか嫌いだとか、そんなこととも関係はない。あなたはあなたが許されたい相手に許されたいのであって、たとえ私があなたを許したところで、根本的にはなんの解決にもならないから。同じように、あなたはあなたが好かれたい相手に好かれたいのであって、私があなたを好きかどうかは、あなたのしあわせには関係ないから。

 

逆にあなたがどうしても許せない相手を、私が許せと言えば許せるというわけではないのは明らかである。許しは自発的に、あなたの意志によって行われることであって、そうでなければ、あなたにとっても、相手にとっても、なんの意味もない。

先ほども言ったとおり、誤解があるなら解く必要がある。そしてそれは、

情報が不足している(事態の一側面しか見えていない)

ということから生まれたものでもある。

だからそれが埋まれば、自然と解消する対立もある。そして私は今あるほとんどの対立は、それで解決できるとも思っている。

だがだからと言って、それが対立のすべてではない。あらゆる角度から、あらゆる情報を得て、同じ

「真実」

を見ていてもなお、対立が起こることはある。それは、信念の違いであり、優先順位の違いでもある。そんなことは、私もよくわかっている。だからこれは、そういうものを無理に弄り回したり、統一したりするような話ではないのだ。

私はただ、あなたを活かしたいと思っているのだ。そして、私があなたのことを活かす以上、あなたが無用で邪魔で、いないほうがよかった存在だとは、決して思わせない。私が、あなたを無駄にしない。そして、この先世界が少なくとも今より昔よりは、少しでもいい世界になったとき、それは確かにあなたのおかげでもあると、私が心から宣言しよう。それは、間違いなく真実なのだから。あなたが私に与えてくれた感想・感慨が、私の身にも宿ったことで、今の私が育まれたのだから。

 

そしてこれは実のところ、私自身にも言えることである。私の今生がどのようなかたちで終わるのかは、私にもわからない。それに私という存在が、これからどうなっていくのかも、本当にはわかっていない。永遠を見通すことは、誰にもできないから。

だがそれを完全に認めたとしても、誰かが私の生き様を見て、なんらかのかたちで参考にし、活かしてくれさえすれば、私はたとえどうなったとしても、しあわせだと言えると思う。

もちろん、正直に言えばそれは

「最高のしあわせ」

とまでは言えないとは思う。だがそれでも

「せめてものしあわせ」

であることは、間違いないと思うのだ。私は、そう思うのである。

だから、こんな私はだからこそ、あなたにも同じことを言おうと思うのだ。あなたがたとえどんなひとでも、どこでいつなにをしたひとであったとしても、私があなたを見ている。そして、私があなたを必ず活かす。そうやってあなたの存在を、永遠のなかに刻もう。私の糧としよう。それが、あなたに私ができる、せめてものことだから。

 

先ほど私は、

永遠を見通すことは、誰にもできない

と書いた。だがそれでも、

「永遠に願うこと」

なら、誰にでもできることなのだ。だからこそ、世界は実際に永遠である。そして、永遠であるからこそ、いずれは願いが叶うときが来る。そして、このこと自体を永遠に願い続け、叶うまで諦める気がないのが、私なのである。

痛み・苦しみ・長丁場。道中がいかに悪路だろうと、私には見たい景色がある
あなたは、いったいどんなひとですか? もし誰かにこんなふうに訊かれたら、あなたはどう答えるだろうか? 私は、ここしばらくこのことをずっと考えていた。とはいえそれは今回が初めてというわけではなかったのだが、今までは自分自身が納得で...

だから何度でも言う。私はあなたにしあわせになってほしいと思う。みんなでしあわせになりたいと思う。私も、しあわせになりたいと思う。あなたが歩みを止めるときには、私があなたの未来となろう。私が歩みを止めるときには、あなたに私の未来を見てもらおう。というよりも、現にあなた自身が、私の未来なのだ。だから私たちの願いが叶うときは、きっと来る。その日が来るのを、私は本当に、楽しみにしているのである。

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  1. だれか より:

    死にたい。消えたい。神も悪魔も仏も両親も兄弟も同僚も隣人もみんな憎い。何故、存在させられているのか。わたしの心の内にあるものは、憎しみと疲労感。食欲も性欲もわたしに襲ってくる。

    自分自身が憎いそして疲れた。

    • Dilettante Dilettante より:

      だれかさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      今のあなたがとても苦しんでいること、そしてそのようななかにあっては、なにをするのも億劫で苦しいものに感じられるということは、自分なりにではありますが、私にも理解できます。

      ですがだからこそ、あなたが本当の意味で後悔することのない選択ができるように、私もできることでお手伝いしたいとは思います。そしてそのためにはまずひとつ、あなたは

      神も悪魔も仏も両親も兄弟も同僚も隣人もみんな憎い

      と、そんなふうにすべてをひと括りにすることをやめてみることも大切なことだと思います。そしてさらに今のあなたは、他者だけでなく自分のことさえもひと括りになっているので、

      自分自身が憎い

      とおっしゃるのだとも思いますが、少なくとも

      食欲も性欲もわたしに襲ってくる

      というふうに、すべてを敵対視することをやめていただければ、それだけでずいぶん違った見かたができるようになるのではないかとも思うのです。

      というのも、もし今のあなたから食欲や性欲さえも消え去ってしまったとしたら、いよいよあなたは枯れ落ちるように死ぬしかなくなってしまうようにも思えるからです。

      だとすると、それは

      「今のあなたに残された、かけがえのない生への足がかり」

      であって、それを喜びこそすれ、否定したり敵視するようなものではないと思います。

      それに、あなたは今

      死にたい。消えたい

      という衝動が優位だからこそそれ以外が邪魔に見えるだけで、実際にはあなたの食欲や性欲は、それ自体であなたの生活や心身を破壊するほど肥大・暴走しているとも思えませんので、その意味でもそれらが存在することは、悪いことではないと思います。

      ですから私としてはまずそうしたことをひとつひとつ解きほぐしていくことから始めていただいて、そのうえであなたが今のめちゃくちゃな心境を変えたいと思えるところにまで至ることができたときには、またそこから少しずつ少しずつでも這い上がっていっていただければと、そう思っています。

      少なくとも、私はあなたが本当には望んでもいなかったかたちに誘われ、歪まされていくのは嫌です。ですから私はあなたにも、それを嫌だと思っていただきたいのです。それができれば、時間はかかっても、どうにかはなるものです。

      ですからどうか、よろしくお願いします。

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