負の霊は「泣け!」とは言わない。涙の意味と、争いの原因について

負の霊は私たちの感情を煽り立てることを好む。だからたとえば

怒れよ!怒ってみろよ!頭に来てんだろう?ほら、ブチギレてみろ!

もっと憎め!ぶつかれ!お前たちはどうせわかり合えないんだから!どっちかが死ぬしかないんだって、ほら、やれよ!それがお前らの本性なんだよ!

というようなことを言ってくるのはごくありふれたことである。

また、ときには逆に

最悪だよなぁ……。もうどうしようもないよ。世界は最悪だ。お前はそのなかでももっと最悪だ。なにをやっても無駄。報われることはないんだから。むしろ下手にかき回すだけで迷惑でしかない。もうぜんぶ、諦めるしかないよなぁ?

というように、深く深く沈み込ませようとしてくることもあるが、この

「感情を煽り立てる/沈み込ませる・無感動・無関心にさせる」

というのは、方法論は真逆であっても、その本質は同じである。だからそれが、負の霊を負の霊にしている行動なのである。

だからそんな彼らが

笑え笑え!もっと喜べよ!

もっと楽しめって!せっかく生きてるんだろうが!

などと言わないのはなんの不思議もない(というか、そういうことを言うのならそのひとは守護霊である)のだが、彼らが泣くことを煽ってこないのには、実は大きな意味があるのではないかと、私は思うようになったのである。

 

このことを踏まえたうえで、少し違った角度から考えてみよう。

世界には、今この瞬間にも、様々な争いが存在する。そのなかには様々な規模・レベルのものがあるとは言え、なんらかのかたちで私たちも関わっている。

そしてそれを極めて単純化して言ってしまえば、私たちは争いのなかで、相手に怒っている。「憎んでいる」というほど強烈な感情ではないにしろ、なんらかのかたちで、相手に怒りを保っている。

ただその怒りが、どの程度わかりやすく、直接的に表されているかは場合による。

「冷戦」

と言われるようなタイプの争いは個人間にもあるだろうし、たとえ相手と2度と会うことも関わることもないとしても、怒りを保っていることはあり得る。というより、そもそも

もう2度と会いたくもないし、関わりたくもない

という感情自体が、少なくとも潜在的には怒りを保っていることを示唆していると思う。

だから、私たちの世界からまだ争いがなくなっておらず、ましてこんなにも多くの争いがあるということは、私たちの世界にはまだまだ、そこらじゅうに怒りがあふれているということだと言っていいと思う。

それに、最初に言ったとおり、怒りを煽るのも負の霊の得意技・常套手段であるとするなら、私たちはやはり、あまりにも日常的に、負の霊の影響を受け続けているということでもあると思う。

 

だがそもそも、なぜ私たちはそんなに怒るのだろうか?争うことそのものを目的として争いが始まっているのでない限り、私たちは本当には、お互いに争いを終わらせたいと思っているはずだ。ではその意味において、怒りは争いを終わらせる力を持っているのだろうか?

私は怒りというものを、基本的に

「攻撃的な哀しみ」

だと捉えている。そしてそれを別の観点から見ると、

「被害の告発」

だとも言えると思う。

だからこそ、ごく単純に表してしまえば、怒りの根底には

私はあなたにこんなに傷つけられた!痛めつけられた!不当に扱われた!

という感情があるのだろうとも思う(あるいは、この「私」を「私の大切なひと」などに置き換えてもいい)。

私は別にそれ自体が悪いと言っているわけではない。ただ、

それで争いを終わらせることができるか?

という観点で見ていくなら、

私はあなたにこんなに傷つけられた!痛めつけられた!不当に扱われた!

という怒りが争いを終わらせる可能性があるとしたら、その怒りを受けた相手が

それは、本当に申し訳ありません。私の軽率な行動が、あなたをそんなに傷つけていたとは知りませんでした。本当に、悪いことをしました。これからはすぐに改めます。本当に、申し訳ありませんでした

というように、

「全面的に自分の非を認め、徹底的に謝罪する」(そしてできる限り早く、行動を改める)

という反応を返した場合だけだと思うのだ。

もちろん、それがまったくあり得ないとまでは言わない。だが多くの場合には、

私はあなたにこんなに傷つけられた!痛めつけられた!不当に扱われた!

と一方が言えば、

私だってね、こんな気持ちがあったんですよ!それに本当は私だって、あなたに対して相当我慢してきたことがあるし、あなたに傷つけられたことも、たくさんあるんですから!

というふうにもう一方も言い分をぶつけることになって、ますます争いが激化することになるのではないかと思うし、だからこそ、私たちはこんなに多くの争いを目撃しているのだろうと、そう思うのである。

さらに言えば、極めて例外的な事例を除けば、基本的には

どちらかだけが一方的に被害を受けている(もう一方にはまったく弁解の余地がない)

ということは、実のところほとんどないのではないかと思う。

だから、最も過激な争いというのは、最終的に

「お互いがお互いに対して怒りをぶつけ合う」

というようなことに様相を呈するようになる。こんなことは、そこらじゅうで起きていることだ。

だがその先に、争いが終結することなどあり得るのだろうか?どちらかが相手よりも激しく怒れば、相手が自分を省みるようになって、場が収まるというのだろうか?本当に、そんなことがあり得るのだろうか?

私は少なくとも、このような可能性に対しては非常に懐疑的である。怒りは争いを始め増幅しこそすれ、それを沈め終わらせることはまずない。だからこそ、負の霊は怒りを煽り、それを憎しみにまで高めたうえで、最終的に両者を潰し合わせようとするのだろうと、私は思うのである。

 

だがもし私たちが、負の霊も好む「怒り」ではなく、負の霊が煽ってくるのを見たことがない、

「哀しみ」

を、代わりにもっと出すようになったらどうだろうか?

もし

「お互いがお互いに対して怒りをぶつけ合っていた」

そのひとたちが、

「代わりにお互いがお互いに対して哀しみをぶつけ合う」

ようになったら、そしてもし最終的に

「お互いが、ただ思いきり、心から、泣く」

ようなことになったら、そこではどんなことが起きるだろうか?それで、その争いはどうなるだろうか?

 

私は、もしかしたら、それで争いは終わるのではないかと思うのである。あなたと家族や友達との喧嘩でも、国と国の争いでも、あるいはイスラム対キリスト教国の戦争であっても、もしかしたら本当に終わるのではないかと、そう思うのである。

今まで、あるいはこの瞬間も

それはお前たちが始めたことなんだ!こんなに私たちを傷つけて、怒らずに済むわけがない!絶対に、償ってもらうぞ!

いや、元はと言えばお前が俺を利用してたんじゃないか!俺たちはそのことに気づいたから、それに今になってようやく、復讐してるだけなんだ!

と言い合っているひとたちが、私たちが、もしその代わりに

本当はこんなことしたくないし、言いたくもないけど、それでもどうしても耐えられないくらい、つらかったんだよぉ!!!!!

でも私だって、ほんとに苦しくて哀しくて、誰になにを言ったらいいかもわからなかったんだよぉ!!!!!!!

と、恥も外聞もなくただ心から泣いたとしたら、もしそんなことができたら、その瞬間に争いは収束に向かうと、私は思うのである。

なぜならそこにはもはや

「争いの前提となる被害者/加害者」

の構造が存在しないからである。

「どちらかが加害者で、どちらかが被害者」だった

のではなく、

ただどちらも哀しんで苦しんでいただけで、その意味ではどちらも被害者だった

のだということに気づいたら、それを本当に理解できたら、それ以上なにを争えばいいというのだろうか?

それでももしかしたら、あなたは

ですが、そうやって争いが終わったとしても、それからどうなるんですか?たとえば地球環境の問題でも、家庭の金銭問題でも、恋人間の価値観の違いでもいい、そういう「争いを生み出した問題」そのものを、どこからどう解決していけばいいんですか?

というような感想を持つかもしれない。それに私も、その想いは実に真っ当なものだと思う。

だがだからこそ、私はこう思うのだ。

「自分が被害者で、相手が加害者だ」と思ってきたから、私たちは相手に怒り、その問題の解決責任を相手に取ってもらおうとしてきたのだとしたら、それがもし「お互いが被害者であり、ある意味ではお互いが(たとえ別の誰かに対してであっても)加害者なのだ」という認識に立てたとしたら、そのときこそ私たちは、本気で「お互いに協力し合う道」を模索できるのではないか

と。

もし今まで対立していたひとたちが、協力し合うことができたら、もし私たち全員が手を取り合うことができたら、解決できない問題などあると思うだろうか?もちろん、時間はかかるかもしれないし、すぐに名案は浮かばないかもしれない。だが少なくとも、今までよりはずっと、解決に近づくことは間違いないではないか?

だから私は、哀しみを

「怒り」(攻撃的な哀しみ)

に転化することなく、ただ哀しみを哀しみとして、そのまま素直に表すことができれば、そこからまたかけがえのない展望が開けてくるのではないか、だからこそ負の霊は、基本的に

泣け!

とは煽って来ないのではないかと、そんなことを思ったのである。

 

ただ、基本的にこうした想いに至りつつも、それを実践していこうとすると、そこにはまたさらにいくつかの関門があることにも気づかずにはいられない。

まずひとつ、あらゆる感情もそうなのだが、哀しみもまた、その気になれば

「武器」

として用いることもできる。

先ほどまでは、

「双方が怒っている/双方が泣いている」

という対照的な事例を引き合いに出して考えていたが、泣くことにも当然、

「どちらか片方だけが泣いている」

事態があり得る。

そしてそのことを踏まえたうえで、それを

「意図的に・武器として」

用いることで、その場を自分に有利な状況に持ち込もうとするひともいる。

しかしこれは、実際には

「自分だけを被害者にしようとしている」(それによって相手を、もっと言えば自分自身をも攻撃している)

という点において、先ほどまで見てきた

「怒り」

と同じ種類のものだと言える。そして、その意味において涙は怒りよりも効果的な場合があるし、それを巧みに遣いながら、実際には不和を生み出し拡散しようとするひとや負の霊も存在する。

先ほど

「基本的には」

という留保を付けたのはそういう意味であって、特殊な条件下においては、負の霊が哀しみを煽る場合もあり、最悪の場合その哀しみを悪用して、そのひとや周りを自殺に追い込むことすらある。

だから端的に言うと

1,すべての感情は(哀しみも例外ではなく)、悪用される余地がある

ということ、これが注意点のひとつである。

そして2つめの注意点だが、これは今説明した1つめの注意点をよく理解しているひとほど陥りやすい罠である。それは

2,自分だけが泣くと、「周りの同情を引こうとしている・自分の問題・責任から逃げている」と思われて、余計に状況が悪化するのを恐れて、結局泣けなくなる

というものであって、これは非常に厄介なもので、そう簡単には解けないとも思う。

さらに言えば、ここからさらに派生して

3,そもそも、泣くというのは自分をとても無防備にすることであるし、抑えつけていた感情を吐き出すことでもあるから、そのあと誰かに慰めてもらえる状況がないのなら、泣いてもなおさら虚しくなるので、結局泣けなくなる

ということすら、充分にあり得る。

だからその意味で、

周りに誰かがいるときでも、あるいは逆に誰もいないときでも、そこにはそれぞれの罠がある

ということも確かなので、それを本当の意味で活かそうとすると、それは本当に、ひと筋縄ではいかないと、私は思うのである。

 

それになにより、そもそも私自身が、うまく泣けないひとである。だから、このことについて、私は特に効果的な助言をできる立場にはいない。

ただだからこそ、そんな私は

本当に泣きたいときに泣けないでいると、その度に少しずつ少しずつ、自分のなにかが蝕まれて壊れていく

ということも知っている。だから前に

「自分自身と話し合う」というのは、いったいどういうことなのか?
話し合うことはとても大切なことだ。友達であれ家族であれ、同僚であれ仲間であれ、話し合えるなら話し合うに越したことがないとは言えると思う。 そしてその大きな理由をひとつ挙げると、 話し合うことで、誤解を解く方向に進んでいけるから ...

にも書いたとおり、せめて

私は今、もしかして傷ついてるんじゃない?

私は今、本当は泣きたいんじゃない?

と自分に訊いてみるということ、こうしたことがとても大切なのだと、私はあなたにも、心からお伝えしたいと思う。

 

それにこれは別に

私は、霊の世界が実在すると確信してから、涙を流すことが無くなりました

Dance in the Dark〜闇の踊り場〜
霊の世界が実在する可能性を考えるようになってから、あなたはそれまでとどう変わりましたか? あなたが生きている理由はなんですか? あなたはなぜ、生まれてきたのだと思いますか? あなたはあなたの人生から、なにを感じましたか? ...

と言ったなすびさんのようなひとを否定しているわけでもない。先ほども言ったとおり、涙にも、実のところいろいろな種類があるのだから。

だからそうしたことをひとつひとつ腑に落としていきながら、本当の意味で活かせるようになれば、以前

「不条理感」から生まれる負の念は、いずれ浄化(昇華)の涙へと変わり、やがては歓喜の涙を生む
怒り妬み恨み僻み、優越感劣等感焦燥感無力感……。細かく挙げていけばキリがないが、私たちはなぜ負の念に苛まれてしまうのか?この問いには様々な視点からの答えがあり得るが、そのひとつが 「不条理感(不公平感)」があるからだ というもの...

と言ったことも決して綺麗事ではなく、そしてだからこそ、泣いたあとにはみんなそれぞれが晴れやかに笑えるときが来ると、私はやはりそう信じていたいし、そんな未来を創っていきたいと、そう思っているのである。

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  1. まりりん より:

    ご意見を否定するわけではありませんが、一般論として扱うには難しい議論のように感じました。

    例えば三毛別羆事件はご存知ですか?

    この事件の犯人は獣ですが、犯人を霊に操られたヒトに置き換えたら、被害者遺族は怒りの感情をどう対応すべきなのでしょうか。

    • Dilettante Dilettante より:

      まりりんさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      例えば三毛別羆事件はご存知ですか?

      いえ、私も今まで知らなかったのですが、

      三毛別羆事件 - Wikipedia

      そのようなことがあったんですね。

      そして私もあなたのおっしゃるとおり、

      一般論として扱うには難しい議論

      だとも思うのですが、今回ここで私が主眼を置いたのは、

      怒りは争いを本当に終わらせることができるのか?そしてもしできないとするなら、私たちはいろいろな罠の存在も踏まえたうえで、なんとかそれを乗り越えて「哀しみを素直に伝え合う」ことに活路を見出すことはできないだろうか?

      というところであり、これは言い換えると

      お互いをがんじがらめにする怒りや被害者意識を、どうやって乗り越える・打開することができるだろう?

      という想いから来たものなのです。

      とはいえたとえ相手がヒグマであろうが負の霊に色濃く影響されたひとであろうが、自分の大切なひとが傷つけられたりましてや殺されたりしたら、それに対して怒りを覚えるのは当然だろうとは、私も思います。ただそれでも、

      「怒りは思考停止(浅慮と独断)をもたらす」

      ということ、そして

      「相手の事情や背景を理解することができれば、少なくともそれができないよりは確かに、その怒りや憎しみを緩和することができる」

      ということを思うと、やはりできる限りそういった方向に進むことでしか、本当の解決(再発防止)はないのではないかと、それにたとえば

      亜紀書房 - 亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ Ⅰ-2 アーミッシュの赦し なぜ彼らはすぐに犯人とその家族を赦したのか
      亜紀書房刊行の書籍の紹介。社会問題を扱う書籍からビジネス書、実用書を発行する出版社。

      に記録されていることというのは、もちろん完全ではないなかでもそうした方向に向かおうとした実例として見ることもできるのではないかと、私はそう思うということなのです。

      ただ、こんなことをいくら言っても

      「他人事」

      の域を出ないとも思われますので、私の個人的な実例を挙げますと、私にも今ひとりだけ

      これからも来世以降も、2度と会いたくない・関わりたくない

      と思っているひとがいます。そしてそれはここでも言ったように、

      少なくとも潜在的には怒りを保っている

      ということなのだという自覚もあります。ですがそれでも、私はそのひとのしあわせは願っているのです。ただそのひとは私(たち)の哀しみを理解しようとはしてくれないし、自分にも未熟さ(反省点)があることは認めずにただこちらを責め立てるだけでしたので、少なくともそのような状態のそのひととは関わってもお互いの感情をかき回すだけになるうえ、そんな相手が変わることを期待できる状況にもないので、こちらというか私としては、今生で関わったことを最後として、これ以上は関わりたくないと思っているということなのです。そしてそうしたなかのほうが、お互いの本当のしあわせに近づいていくことができると、私はそう思っているのです。

      ですが先に言ったとおり、やはりそんな私の選択も、少なくとも部分的には怒りに基づいているのだろうという自覚はあります。ですからそんな私は、怒りの

      「瞬間的・一時的発露」

      までも含めて、すべてを否定しようとしているわけではもちろんありません。

      それにもう一方で私は

      「泣いて頼んだり泣いて謝ってもむしろさらに逆上されて足蹴にされた」

      ということもありますので、泣くことがいつどんなときにも万能の解決策となるとまで思っているわけでもありません。こちらにも書いたとおり、

      「どちらか片方だけ」

      が泣いているというのではうまくいかなかったり、かえって悪化・硬化したりすることもあると思いますし、そもそも

      「お互いが泣き合う」

      ということが実現するためには、その前にせめて

      「最低限の信頼関係」

      がなければ、せめて一定程度は、相手に対して心を開いていなければ、そこまで行けるはずがないのではないかとも思います。

      ただそんななかでもだからこそ、できるだけ争いや諍いや勘違いを減らしていきたいとは思っていますので、そんな私が私なりに考えてみたことを共有しようとしたという趣旨をご理解いただき、あなたにも少しでも参考にしていただけたら、とてもありがたく、嬉しく思います。

  2. まりりん より:

    理性的な会話が成立するという前提においては、仰る通りだと思います。

    ですが獣のように相手に理性がない場合、私は未熟なので、そこまでの心境には至りそうもありません。

    だいぶ古い記事ですが、毎年ある時期が来ると対決をいどまれる女性のお話もあったと記憶しています。

    話の通じないストーカーのような相手に対して、怒りを抑えつつ大人の対応をすることは、果たしてどれほどの忍耐でしょう。

    達観した心境に感銘を受けるばかりです。

    あまりに辛い場合、むしろ感情が完全に麻痺してしまった方が、楽だという考え方をする人もいると聞いたことがあります。

    倫理観の問題は置いておくとして、技術的には可能なはずです。

    その状態を人間と言えるかは、疑問が残る問題だとは思いますが。

    個人的には人間の在り方としては、とても不気味な感じがして怖いです。

    • Dilettante Dilettante より:

      理性的な会話が成立するという前提においては、仰る通りだと思います。

      ですが獣のように相手に理性がない場合、私は未熟なので、そこまでの心境には至りそうもありません。

      獣(人間以外の動物)に理性(思考力)があるかどうかには様々な見解があるかとは思いますが、私としては少なくとも

      「理性がまったくない」

      とまでは言い切れないと思っています。

      ただ理性を弱体化させる状況というのは確かにあって、たとえば空腹や中重度の負傷であったり、大切なひとへの危害であったりがそうだと思うのですが、本当にはそれは人間も同じなのだろうと、私は思っています。

      ですから、

      理性が強まる状況と弱まる状況がある

      というのが私の立場であって、そのうえでできればそれを弱めずに保てる状況に自他を置きたいと思っているわけです。

      だいぶ古い記事ですが、毎年ある時期が来ると対決をいどまれる女性のお話もあったと記憶しています

      そうですね、それはたとえば

      「ひとを自由にさせたってろくなことを考えないんだから、誰かが統率して導く以外に道はないのよ!」と彼女は言った
      前回、私は毎年最も自分が強力になるときを見計らって私の前に現れ、そして根本的な決着はつかないまままた離れていくことを繰り返してきた、霊存在の「彼女」のことを書いた。

      私は今までの経験から、彼女と私の間にある考えかたの違いは根深...

      といった文章で挙げた彼女のことだと思いますが、おかげさまで彼女とは昨年でとりあえずの

      「停戦」

      を迎えましたので、今年は闘わずに済みました。

      「10月の彼女」に私がした提案。そしてそれを踏まえ、今の私が思うこと
      私はずっと弱いからだで生きて来たので、暑いのも寒いのも苦手だ。だからその点で、春や秋の気候は私にとって好ましい。だから、本来10月というのは、私にとっていい月だと言ってもいいはずだと思う。

      しかし実際には、私が10月という時節に抱く印...

      ですから私がここで言っている相手は別のひとなのですが、確かにそのひとには

      話の通じないストーカーのような

      面があるのは確かです。が、そんなふうにしてしまったことに私の責任がまったくないと言ったら、それもそれでやはり嘘になるでしょう。

      少なくとも、

      「相手の危険性にもっと早く気づき、もっと適切な手を打つべきだった」

      という意味においてです。

      そしてそうしたことも踏まえたうえで、私は別に

      達観した心境

      と言われるようなところにいるわけではなく、実際のところ

      それ以外に道があるようには思えないので、それを選んでいる

      と言ったほうがいいだろうと私自身は思っています。それにやはり、私以上に傷つけられたひとがいる以上、私がそのひとを許すとか許さないとか、そういう話ではもはやないのです。ですからせめてこれ以上は関わりたくないと思っているのであって、これ以上の落としどころは、今の私には見つけられていないということなのです。

      あまりに辛い場合、むしろ感情が完全に麻痺してしまった方が、楽だという考え方をする人もいると聞いたことがあります。

      倫理観の問題は置いておくとして、技術的には可能なはずです。

      その状態を人間と言えるかは、疑問が残る問題だとは思いますが。

      個人的には人間の在り方としては、とても不気味な感じがして怖いです

      そうですね、実はこうした構想は負の霊が長く保っているものであり、それは言うなれば

      「全人類リビングデッド(生ける屍・ゾンビ)化計画」

      とでも言えるようなものです。

      そして彼ら自身も、元はと言えば自分では抱えきれない苦しみや哀しみの結果として、罪悪感もなにもかもがほとんど麻痺した結果負の霊になってしまったとも言えるので、その意味では彼らもやはり「仲間」を増やしたいのだろうと、そう思っています。

      ただこうしたことに関して少し違った観点から見てみると、近年ロボットやいわゆる

      「人工知能」(AI)

      のほうがむしろ

      「感情・情緒」

      の獲得に近づいているというのは、感情の意味や真価を考えるうえで、とても興味深いことに思えます。

      もし人間が感情を殺し機械に近づく一方で、機械が感情を求め人間に近づいたら、なにが起こるだろう?

      と考えると、本当に複雑な気持ちになります。ですがやはり

      冷たく静止している存在と、あたたかく動き回っている存在と、どちらがより永遠に近いか?

      と問われたら、私としては迷いなく

      あたたかく動いているほうに決まってる

      と、そう答えるところですね。

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