「ない」と言われたものと生きていく。要らないのなら、私が貰い受ける

「霊媒師」とは、特に今のような時代に霊媒師でいるとはどういうことなのかと考えていた。霊媒師とは、「霊の媒体となる者」であり、「霊存在と肉体人の仲介をする者」であり、「あらゆる世界の存在と関わり、対話し、お互いの意志を伝え合う者」である。そしてなにより、

「自らの意志で、未知に踏み込む」

という決意を抱く者でもある。

このような定義は、どれも間違いではなく、どれも確かに霊媒師の核心を突いていると思う。だがそれでも、どこか足りない面があると、私は感じた。

そもそも、私はなぜ霊媒師として生きることを引き受け、今もなおその道を歩み続けることを選んでいるのか?

そう考えを深めて言った先に、私は先に挙げた要素をすべて踏まえたうえでもうひとつ、大きな要素があることに気づいた。それは、

私にとって「霊媒師」とは、私が選んだ生きかたとは、「『ない』と言われたものと生きていく」ということだ

という、再認識だったのである。

 

少なくとも今の日本のような社会において、霊の存在をはっきりと認めるひとは少数派であると思う。というよりむしろ、

霊など妄想の産物であり、決して実在しない!

という意見のほうがずっと多いのだろうと思う。だから、あなたもそのような考えを保っているとして、私が驚くことはない。

ただ、そんななかでも私個人としては、霊の存在を確信している。そして、ここがとても重要な点だと思うのだが、そんな私だからこそ、私は霊から多くを学ぶことができ、意識的に自らの意志で、

私は、霊存在とともに生きる

という、選択をすることができるのである。

そしてこれはもっと多くのことについても、同じように言うことができる。

たとえばもしあなたが死後の世界を「ない」と思っているのなら、それでもしかたがないかもしれない。だが私は、それが実在することを確信している。だからそんな私は、死後の世界とともに生きることができるということだ。

またもしあなたが、生まれ変わりの仕組みなど「ない」と思っているのなら、それもやはりしかたがないのかもしれない。だが私は、それがあることを確信している。だからそんな私は、あなたとの過去世からのつながりを理解し、来世への展望とともに、今を生きることができるということなのだ。

 

なにかを

「『ない』と見なす」(無視する・黙殺する)

ということは、特にそれを集団で実践するならなおのこと、凄まじい力を保つ態度表明である。それは確かに、

「相手へのいじめ」

であるとも思う。だが少し違う見かたをするなら、それは

「意図的に、自らそれを棄てている」

ということでもあると思う。それこそまるで、それが「ごみ」でもあるかのように。

だがもし、その

「ごみ」

を栄養に換えられる生き物がいたら、それはある意味最強だとは思わないだろうか?それにもし、それが実はごみではないのに、そう決めつけられたがために棄てられた、宝物だったとしたら?

今の時代に霊媒師として生きるということは、少なからずこうした側面を持っている選択だと思っている。そして実際、それは私の性にとてもよく合っている。だから、道中にどんな苦しみやつらいことがあろうと、結局は投げ出すこともなく、続けていられているのだと思う。それになにより、私は日々棄てられている多くの「ごみ」のなかから、数え切れない宝物を、発見し続けてもいるのである。

そしてもちろん、このことは私が最も心を痛めているできごとのひとつである、

「自殺」

にも実に顕著に当てはまることである。

もしあなたが自殺するとしたら、あなたは

自分にはもう希望がない・可能性がない・能力がない・理解者がいない

などと、見なしているということなのだろう。そして、そんなふうに思い込んでしまうひとがあなた以外にも山のようにいるから、世界中で自殺者がこんなにいるということなのだろう。

だが、私は思うのだ。

もし、今までとこれからの自殺者のひとたちが「ない」と決めつけて投げ棄てた、あらゆる可能性としあわせを、すべて一身に貰い受けることができたとしたら、私は全世界の誰よりも、圧倒的にしあわせなひとになれるだろう

と。

だから私は、できることなら本当にそんな方法を編み出してみたいものだと本気で思ってもいる。だが一方で、たとえどんな手を尽くしても、おそらくそんな魔法は完成しないだろうとも思っている。なぜなら、私はあなたではないし、彼でも彼女でもないからだ。あなたが棄てた可能性を、最も存分に発揮できるのはあなただけで、たとえ私がそれを貰い受けたところで、私にできるのはその焼き直し、劣化版がせいぜいである。それにこのことは、

「他者が編んだ人生(計画)を乗っ取った」

ひとが、最も極端で具体的なかたちで、私に示してくれたものでもある。

「悪魔の証明」 と呼ばれるものがある。これはごく簡単に言ってしまうと 「『○○が存在しない(あり得ない)』ということを証明するこ...

そしてだからこそ、自殺したひとが少なくとも私の知る限りひとりの例外もなく後悔しているのは、やはり実に当たり前のことだとも思うのだ。あなたと同じ人生を同じように歩めるひとは、他に誰もいないのだから。

しかし、それはそれとして、ともかく他のひとたちが無造作に棄て続けるというのであれば、私はこれからもできるだけ拾い集めていきたいと思う。単純に、あまりにももったいないからだ。こんな貴重なものが棄てられているのに、放っておけるはずがない。本当に、もったいないことなのに。

 

だがそこで話を終わらせてしまう前に、もうひとつだけあなたにも一緒に考えてほしいことがある。それは、

あなたが言う「ない」というのは、本当はどういう意味なのですか?

ということなのである。

たとえばあなたが

守護霊なんてものはない!

というとき、その

「ない」

というのは、本当は、どういう意味なのだろうか?

それは実は

「知らない」

だけなのではないか?だとしたら、知ればいいだけだ。望むなら私でも教えられる。だがそもそも

「興味がない」

と言うなら、それは少なくとも今のところはしかたがない。つまり、まったく別の話になってくるということだ。

あるいはあなたは、

「要らない」

と言っているのだろうか?

だとしたら私は、

本当に要らないんですか?

とさらに訊きたいと思う。だって、本当はいつも見守られているのに、それを要らないと言っておきながら孤独を感じているなんて、本末転倒もいいところではないか?それなのに、本当に要らないと言うのか?

だがもし、あなたが本当は、

「足りない」

と思っていると言うなら、それはそれでこれまでとはまったく別の話に発展する。そして私も、

そうですね、守護霊が見守っているというだけでは、すべての孤独を埋めるのは、まだ足りないですよね

と強く同意する。だからこそ私もこんなふうに生きているのだから。

 

だから私は、とりあえずこんなふうに

「『ない』」

の種類を吟味してみることは提案してみたいと思う。

だがそれでもあなたが、「要らない」とか「興味がない」とか、あるいは「信じたくない」などと言うのであれば、棄ててもかまわない。私が、喜んで貰い受けるから。いくらでも、貰い受けるから。

ただ私は本当は、あなたがまだ活かしかたを知らないだけだと思う。だがだからと言って棄てられるのはあまりにもったいないので、私が磨くことにしよう。そして必ず私の糧にして、私の夢に役立てよう。私が、そうしてみせよう。

それに私は、別に

「白いもの・光っているもの」

だけに価値があるなんて、最初からまったく思っていないから。黒いなら、黒いでいいじゃないか。ただ、磨けばいい。純度を高めればいい。

「あなたらしく、澄めばいい」

のだ。

それに本当に光りたいなら、光のもとに集まるのは間違っているのではないのか?電灯のもとに集まるのは蛾だ(私は別に蛾も嫌いではないが)。

対して自ら光る蛍は、闇のなかにいるのではないのか?自分が光っていることに気づきたければ、闇に身を置いたほうがいいのではないのか?そのほうが、淡い光も見落とさずに済むのではないのか?

 

まぁ、いいとしよう。結局は、それぞれの好みの話であり、私の好みはこうだという、それだけの話である。だからともかく私は、私の好みを追求して生きるしかない。そして私が好きなものをあなたが棄てると言うなら、私はこれからも拾い続ける。当たり前のことである。それに本当は、私の好みと被るひとが少ないということは、それだけ競合する・ぶつかり合うことが少なくて済むということなのだ。だからその意味では、少数派であるということは、確かに最大の恵みでもあるのである。

だが、それでも、すべてがそうそう簡単に進むというわけでもない。たとえばあなたが守護霊を「要らない」と棄てたからと言って、その守護霊さんを私が引き入れるなり雇うなりすることができるかと言えば、そんなことはできない。

残念だ。私はできるならひとりでも多くのひとに助けてもらいたい。そうでなければ、負の霊がまだまだ多すぎて手が足りない。だがそれでも、そんなことはできないのだ。なぜなら、あなたの守護霊さんは、

「まず第一にあなたを護りたい、助けたいと思っている存在」

だからだ。その結果として、私のことも助けてくれたり応援してくれることはある(し、守護霊さんというのは基本的にすべてのひとの味方でもある)のだが、そうは言っても究極的には私のことは2の次3の次なのだ。だからこそあなたに嫌われたり要らないと言われたくらいで、あなたの守護霊さんがあなたを見放したり見棄てるようなことはない。あなたは、愛されているのである。

先日、私は知人の赤ちゃんが入院したという知らせを受けた。たまたまそのような知らせに接することができたというのもあったし、都合をつけることもで...
 

だからやはり、私がなんでも限りなく拾えるわけでも代わりに活かせるわけでもないのだが、それでも私も私にできる限りは、拾い続けていきたいと思う。本当にもったいないからだ。あまりにも、もったいないからだ。だから私は、要らぬおせっかいだと思われようと、あなたに伝え続けたいと思っているのだ。だって私では、あなたにはなりきれないのだから。

本当のごみを集めろというわけではない。ときには取捨選択も断捨離も必要かもしれない。だがそれでも、あなたが棄てようとしているそれが、本当に棄てていいものなのかは、もう一度吟味してみる価値があるとも思うのだ。そしてその価値に気づいたら、いつでもいいから、拾い直せばいいとも思う。自殺ですら本当の本当には、取り返しのつかないことではないのだから。この世界は、そういうふうにできているのだから。

ちなみにこのような永遠の世界のなかで、少なくとも今のところは

変わり続けることが、永遠を紡いでいく

無限変化こそが、無限進化である

変わらないものは、なにひとつない

という考えが主流になっているのだが、私はそれに対して、

でもだからこそ、「変わらないもの」も欲しくないですか?

じゃあなんですか、「永遠の愛」もないってことですか?

とずっと言い続けている。あなたはどう思うだろうか?永遠に変わらないものなど、もっと言えば

「永遠の愛」

など、ないと思うだろうか?

もしそう思うなら、あなたがそれを棄ててしまったときは、私が喜んで貰い受けるので言ってほしい。とも言いたいところなのだが、やはり

「それを拾って参考にしつつ、その場所に置いておく」

と言い直しておこう。

あなたたちのその愛は、私には創れないから。だから私は、私たちは、私たちのやりかたで、それを紡ぐとしよう。私は、それができると思っている。ずっと、そう思っているのである。どうしても

変わらないものはなにひとつない

と言い張るのなら、

無限に深化する愛がある

と返す準備もいつもあるのだ。それでもそんなものはないと思うだろうか?私は、あると思っている。だからこそ私は、こうやって生きているのである。