「人間は性行為を経て生まれる」
という事実を知ったのは、いつだったか憶えているだろうか?私は確か、10代に入るより数年ほど前だったような記憶がある。私は、今思えばかなり大胆なことだったと思うが、当時は大胆だとも気づかなかったので、親にこう訊いたのだ。
あのさ、男のひとのからだで作られる精子と、女性のからだで作られる卵子がくっついて赤ちゃんになるっていうのは学校で習ったんだけど、なんで男のひとのなかにある精子が、女のひとのなかに入るの?
すると親は、少しだけたじろいだような姿を見せつつも、特段ひどく狼狽するようでもなく、このように答えたのだった。
あぁ、男のひとと女のひとのからだは、くっつくんだよ
そのときはそれ以上深く訊こうとは思わなかったのだが、そこから私は少しずつ、性行為と私たち(肉体)の誕生の関係性について知っていくことになる。私も「性行為」というものがあるということ自体にはそれ以前からなんとなく気づきつつあったのだが、それと私たちの誕生とが深く結びついているということを理解するまでには、さらに数年を要したのである。
そして中学に上がることには、おぼろげながらその大枠を理解した私ではあったが、私はそのとき、性行為というもの、そしてそれに付随する私たちの誕生の仕組みを、醜いとは感じなかった。
だが、今の時代にはインターネットなどの発達もあり、性的な情報に触れ、ある程度の知識を得るまでにかかる時間は、私の頃よりもずっと早いひとが多いのではないかと思う。
そして以前

という文章をまとめたこともあるが、今はまた私のとき(知らない・知る機会が限られている・隠されている)とは違う意味で、性行為が
「疎まれ、避けられる」
という風潮が強まっているのかもしれないと思う。
だがそれは、実のところ肉体人に限った話ではない。
「自分が性行為を経て世界に産み出される」
ということを嫌うために、今の地球のような場所に生まれたくないと言った霊はたくさんいる。それにこないだも、ある霊から私は、
人間には性欲がある。性欲は醜い。だから、人間は嫌いだし、もう2度と生まれたいとも思わない
と言われたのである。だが私自身は、そのような感情を保ってはいない。それにこうした話題は少なくとも今の日本では、まだまだ気軽にも真剣にも語られにくいことではあるが、やはりとても切実で大切なことだとも思っている。だからこの機会に、私なりの考えや想いを、改めてまとめてみようと思う。
この話にはいろいろな切り口があり得るとは思うのだが、私はここで、先の発言のなかにもあった
「性欲」
という言葉をひとつの手がかりにしてみようと思う。するとまず
「性欲が強い」
という表現に、好意的・ポジティブな意味・印象・評価が込められていることはほとんどないことに気づく。ただそう言い出すと、それは別にこれを
「食欲・睡眠欲・名誉欲・金銭欲……」
などの他の欲求に置き換えてみても同じことが言えるかもしれないが、そのなかでも性欲については、その強さに付随する否定的・ネガティブな意味合いが特に強いもののひとつだとも思う。
しかし、私のなかではまず前提として
こうした欲求の強さには、ホルモンバランスなども含む身体的状況・条件に大きく左右されるところがあるので、単なる「個人の意志(精神的資質)の問題」としてだけ捉えればいいことではない
という考えがある。それにこれはここの最初期に

で表明されている態度と通じていると思ってもらっていい。
まずこれを踏まえたうえで、私はそもそも、相手との性行為に至る動機・背景としての一般的な意味での
「性欲」
という概念自体に、根本的な無理・欠陥があるのではないかという疑いを抱いている。
というのも、たとえ本人が
私は性欲が強いです
と言っていたとしても、そのひとが誰とでも性行為をしたがっているというわけではまずないと思う。これは本当には、
私は性(性行為)に前向きな印象を保っています
ということであると見たほうがよく、そのひとが誰に触られてもなにをされても喜ぶと捉えるのは、ほとんどの場合大きな間違いである。
誰でも基本的には、
「自分が好きな相手とは積極的に望むことも、嫌な・よく知らない相手とはまったく望まない」
ものだと考えておいたほうがいいわけで、それは
「食欲が強い」からと言って、なんでも食べたいわけではない。食べたいものを食べたいのであって、食べたくないものは食べたくない
というようなことと同じことだと思う。
だからそのような観点から、私としてはいわゆる「性欲」をもっと
「個人的、具体的なもの」
として、
「他の誰でもない、このひとに対する欲求(を感じるか?という問い)」
として捉えたほうがよく、それを無理に一般化・普遍化しようとすると、その本質を見誤る一方なのではないかと、そう思っているのである。
だから私は冒頭に挙げたように
人間には性欲がある。性欲は醜い。だから、人間は嫌いだし、もう2度と生まれたいとも思わない
というようなことを言われたら、
人間はそんなふうに、「誰でもいい・なんでもいい・細かいことはどうでもいい」なんて思って性行為をしてるわけじゃない。だから私は、性欲を醜いとも、性欲を持つ人間が嫌いだとも思わない
というふうに伝えたいと思う。
ただそれでももしかしたら、
あなたはそう言いますが、実際に「誰でもいい・なんでもいい・細かいことはどうでもいい」と思って性行為に及んでるひともいると思いますよ?相手を「性の対象としてだけ見る」とか、それこそ、「愛なんかなくてもいいし、特に求める気もいない」みたいなひともいるわけで、それが原始的な性欲の根源だとすると、やはり性欲は醜いのではないですか?
というようなことを感じるひともいると思うし、実際このときもそんなことを言われた。
だが私としては
そういうひとたちがしていることというのは、確かに表面的には「性欲の表現」のように見えるとしても、実際には「哀しみ・寂しさ」であったり、「怒り」であったり、場合によっては「憎しみ・破壊衝動」の顕れであることのほうが多いのではないか?
というふうに捉えているのである。この場合
「哀しみ・寂しさ」
というのはわかりやすいと思うが、
「怒り・憎しみ・破壊衝動……」
というのはわかりにくいかもしれないので補足すると、これは
どんな人間も、あなたも、「一皮剥けば本性はケモノだ」ということを見せつけてやる!その「真実」を知らしめてやる!
ということである。つまりこれは
「他者(そして自分自身も)を貶めるための武器として性行為を利用している」
のであって、その場合これの本質は
「自傷行為も兼ねた他害・破壊行為」(テロリズム)
であり、、性行為はそのための有効な手段ではあってもそれ自体はどうでもいいといっていい。つまりこうしたことの存在を理由に性行為の本質を貶めるのは早計というか、
「ミスリーディングに乗せられた洗脳」
だと、私は思う。
そしてこうしたかたちでの性行為の歪曲・悪用には、もちろん負の霊の思惑も絡んでいるわけだし、実際この策略もかなり効果的だからこそ、現在のような状況が生まれているのだとも思っている。
だが私は、どんなに曇らされ、歪められているとしても、その本質は悪でも醜くもないと思っているし、
私たちの誕生は、そしてその背景にある性行為は、少なくとも本来は、愛と慈しみに満ちているものだ
と、言い切りたいのである。そしてそのうえで、確かに私たちは喜びによっても、安らぎによっても、あるいは哀しみや怒りや憎しみによっても、その他いかなる感情によってもよらなくても、性行為に及ぶことはできる。それは以前の文章でも言及した
にもまとめられているとおりである。
だがだからこそ、私は性行為を
「このうえなく、人間らしい行為」(あらゆる選択肢・要素に満ち、人間らしさが凝縮された行為)
であると思っているし、それは別に生殖と直接結びついていなくても失われない、かけがえのない尊さだと思っている。

そしてそれは私が、人間の在りようやその本質について、様々な葛藤や懸念もありながら、やはり最終的には好意的に見ていることとも、もちろん相通じることなのである。
それでは、今までの話を踏まえて、こうしたことについて今度は
「アセクシャル・エイセクシャル(Asexual)・無性愛者」
について私がどう考えているかを入り口に、もう少し掘り下げてみようと思う。
これは比較的新しい概念なので、まったく知らないひとから耳なじみのあるひとまでいろいろいるのではないかと思うが、微妙に定義の揺れがあることも承知のうえでとても平たく言ってしまえば、これは
「どんな相手に対しても、一切の性的欲求および恋愛感情を持たないひと」
(これに関連して、性的欲求は持たないが、恋愛感情は持つひとを「ノンセクシュアル」と呼んで区別することもある)
を指す概念であると言えると思う。
そしてまず前提として、私は
誰に対しても性欲や恋愛感情を抱かないのはおかしい
ひととしてなにかが欠けている
などとは思わない。そしてもしかしたら、彼らのようなひとというのは、冒頭の彼女のように
性欲は醜い。だから私は、そんなものは持たない存在でいたい
と思った霊が生まれ変わってきたひとたちなのかもしれないとも思う。
だが、このようなアセクシャルのひとたちの存在が少しずつ知れ渡るにつれ、
もしかしたら、俺もアセクシャルかもしれない
実は私も、アセクシャルなんです
というようなひとが増え、それが事実ならいいのだが、もしかしたらそのなかには
「その概念に縛られて、自分で自分を枠に嵌め、可能性を閉ざしている」
ひともそれなりに混ざっているのではないかと、私は思うのである。
そして、なぜ私がこのように思うのかと言えば、それは私が
「デミセクシャル」(Demisexual)
だからである。これは日本語で
「半性愛」
と訳されることもあるのだが、訳すとなおさらわかりにくいのでこれも簡単に言ってしまうと
「『一定以上の親愛の情を感じた・絆が結ばれた』と思った相手にだけ、性的欲求を抱く素地が生まれるひと」
というような定義で示されるものであり、なぜこれが
「デミ」(半)
になるのか詳しく知らないのだが、
「親愛の情が閾値(とりあえず便宜的に半分くらいとしよう)を超えたら性的欲求も持つ可能性が出てくる」
という
「半分」
から来たというくらいの解釈でいいと思う。
そしてもちろん、これは
「親愛の情さえ深まれば誰にでも性的欲求を持つようになる」
ということではない。
そして私自身、自分の性指向がデミセクシャルと言っていいようなものであるというのはここ数年で気づいたことなのだが、ともかく私が自分自身でどう思っていようと、私が好きになったそのひとは、私がデミセクシャルであることに気づくことはないだろう。というかむしろ、そんなことを言えばおかしな冗談か、そうでなければなにかの「言い訳」だと思われるのではないかと思う。なぜなら、私はそのひとの前では
「まるで普通のひとと変わらない(ように見える)」
からである。
だが逆に言えば、もし私がそういう気持ちになれる相手に出逢うことがないままであれば、私も自分のことを
「アセクシャル」
だと誤解していたかもしれないのだ。
だから結局、私が言いたいのは
自分のことだからと言って、むしろ自分のことだからこそ、よくわからないことも多い。特に自分の性的な部分については、固定された枠で測ったり診断できるようなものではなく、ときにもっと躍動的で、劇的な転回を見せることもある。そしてこれはよく言われることでもあるのだが、性は結局のところ、グラデーションなのだ
ということなのである。
それにもっと言えば、私は今、そういう気持ちになれるひとと、少なくとも肉体的には一緒にいない。そしてもちろん、その気持ちは他の誰かによって代えられるものではない。つまり今の私は、実態としてほとんど、アセクシャルと見なされても遜色ない立ち位置にいるとも思うのだ。
だからそんな私は、そんな私だからこそ、アセクシャルを自認しているあなたにも、
もしかしたら、あなたもデミセクシャルなのかもしれませんよ?
という可能性くらいは、提示しておこうと思うのである。
そのうえで、
それでも私はやっぱりアセクシャルでした
と言うなら、もちろんそれはそれでいい。それにそれはもしかしたら
「性欲を醜いと思い込んでいる・嫌悪している」
ということだとも限らなくて、たとえば
「自分のなかに他者のエネルギーが混ざってくる」
ということに強い抵抗があるとか、そういう理由(が潜在的にある)なのかもしれない。
あるいは、今まで地球(やそのような星に縁の深い霊界)にいたことがなく、もっと淡白な感情を保って生きてきた経験しかないのかもしれない。私自身は自分の性に合わないのでそうした星にいたことはない(少なくとも、今のところそういう記憶はない)ので実体験として語れるものではないが、そうした
「すべての振れ幅がちいさい世界・星・環境」
に慣れ親しんだひとたちは、性的欲求もほとんどなく、肉体も
「人工的に生み出され、培養される」
というようなかたちで増えるらしいという話は耳にしたことがある。
だとしたら、やはりそれはどちらがいい/悪いとか、優れている/劣っているというような話でもないだろう。私はあなたが本当にしあわせでさえいてくれたら、それこそ
「細かいことは、どうでもいい」
のだから。

さて、こうして一緒にいろいろと考えてみたうえで、最後にもうひとつだけ、お伝えしておきたいと思う。様々な事情のなかで、
「性行為を生業にしている」
あなたにである。
これは前に

のなかでも少し触れたことの補足のようなものなのだが、私はまずあなたのやっていることを
「あなたのからだ、およびそれを用いた性行為を提供している・売っている」
のだと捉えている。
ここで
「売っている」
という些か強すぎるようにも見える言葉を遣ったのは、第一にあなたが
「生活費」(お金)
のためにそこに従事しているという本質を確認していることに加え、
それはあくまでも「からだと行為」の提供であって、「愛や魂」の売り買い・取引ではない
ということを強調したかったからだ。愛や魂は、売ったり買ったり、取引したりできるものではない。つまり、あなたの意志に反しては決して奪われない。だから、そんなあなたを不当に貶める必要はない。あなたの魂はそんなに簡単に汚れたり、穢れたりするようなものではない。そのことは、決して忘れないでほしい。
ただもしあなたが望むなら、あなたがその行為に、あなたの意志で、あなたの愛や慈しみを乗せて与えてあげることもできる。そしてその場合にも、
愛は与えても減らず、不特定多数に分割され(た結果ひとりひとりへの愛が薄くな)るものでもなく、ただただ無限に湧き起こすこともできる
ということを忘れずに、ただあなたの望むことを、してあげたらいいと思う。あなたが望むなら。
そして本当には、お金のためでもやむを得ない事情によってでもなく、あなた自身の意志・願い・喜びによって、そうしたことをたくさんのひとにしてあげているひとがいることも私は知っている。だからそれはそれでもいい。だがいずれにしても、もし辞めたくなったら、辞めてもいい。辞めても生きられる方法はある。これからは、そうなっていく。世界はこれから、もっともっと変わっていくのだから。
それからもちろん、私は女性だけでなく、男性にもそういう状況にいるひとがいることを知っている。だから今書いたようなことはそのままあなたにも当てはまるのだが、あなたが男性である場合はなおのこと、女性よりさらに輪をかけて、からだに気をつけてほしい。なぜならからだの機構的に見て、男性は部分的に女性より弱く脆いところがあるからだ。まぁ、本当には、精神もそうだと思うのだが、究極的には霊には性別はないというのも事実だし、ともかく、今のところは、このくらいにしておこう。
ということで、ある霊との対話をきっかけとして、私なりにいろいろなことを書いてはみたものの、やはり性や愛については、どれだけ掘っても考えても充分ということはないのだろう。そして私は、今回の文章を書いたことで、
愛の在りかた、特に性の在りかたを書こうとすれば、やはりどうしても個人的な事情・気持ちを避けては通れない
ということを、改めて思い知ることができた。だからこそ私も今回の文章には、今までよりも相当個人的なことを書くことにもなったが、これもまた、当然のことなのだろう。そしてこれは、

と決めたあとの今だからこそ、書けるようになったことなのだろうとも思う。
そしてもうひとつ
性の在りようも、それに本当はどんなことも、「外野から見れば醜く・滑稽で、くだらないものに見える」のだが、それが本当にどんな意味を保つのか、自分にとってのそれは、どれだけ素晴らしいものなのかそうでもないのかは、「前線に飛び込んで、自分で体験し、味わってみなければ、本当にはわからない」ことなのだ
とも思う。
だから、冒頭の彼女のような霊があのように言うのも、ある意味当たり前なのだ。だが私は、「観察したい・評論したい」わけではなく、「理解したい」のである。だから、私はここにいる。そしてそんな私だからこそ、私は性を、愛をいのちを人間を、醜いとは思わないのだ。きっと、そういうことなのだと思う。そしてそんな私としては、本当には、彼女にもあなたにも、また生まれてみることを、おすすめしているのである。そこには少なくとも、なにかしらの
「発見」
があるはずだから。
それに私は実際に、
「性愛の探求」
を生きる主軸とし、数え切れないほどの人生のほとんどをそれに費やしてきた霊がいることも知っている。だから本当に、こんな話題に底があるわけはなく、どこまで行ってもキリはないのだが、とりあえずこれで今のところの大きなテーマは縦断的にまとめられたと思うから、ひとまずは、これで結びとしよう。あなたも私もすべてのひとが、自分のいのちに、人生に、もっともっとたくさんの愛を見出すことができることを、心から願いながら。

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こんばんは、Dilettanteさん。
久しぶりにサイトを拝見しました。
すごく勇気のいる内容に切り込んでいて、読み応えがありました。
性の見方は本当に幅があって、人によって様々だということを改めて思いました。
でも、そういう”違い”を理解しようとする姿勢がDIlettanteさんらしいなと思いました。
なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
あなたにそのように思っていただければ、とても嬉しくありがたいです。
そうですね、ちょうどこれもあなたのコメントへの返信でしたが、前に
と書いた。あるいはさらに以前には、
とも書いた。
ここで私が向き合おうと試みたのは、端的に言えば私たちが
理不尽だ!割に合わない!
なんであいつには、なんの罰もないんだ!
と思...
でも少し触れたように、私たちは
「人類という共通の遺伝子プールを保ち、『お互いの遺伝子を組み合わせたこどもを産み出せる可能性がある』という意味における共通基盤と連続性を保ちつつも(だから本質的に「人種の違い」という概念は机上の虚構である)、同時にそれぞれの在りかたがとても多種多様である」
という意味で
というのがいちばんしっくり来るなぁと、今の私は思っています。
まぁ、私ほど
「今の一般的想定とは著しく違うひと」
が、違いに眼を向けないわけにはいきませんからね。ですがあなたにもこうしてお褒めに与ったのですから、これからもなおのこと精進していこうと、そう思っています。