今の社会では一般的に、主観と客観とでは、客観のほうが優れている・好ましいものと捉えられているのではないかと思う。辞書を引いてみても、「客観的」という言葉が
大辞林 第三版の解説
かっかんてき【客観的】
[形動]
「きゃっかんてき(客観的)」に同じ。
きゃっかんてき【客観的】
[形動]
個々の主観の恣意(しい)を離れて、普遍妥当性をもっているさま。 ⇔ 主観的
客観的(キャッカンテキ)とは - コトバンクデジタル大辞泉 - 客観的の用語解説 - [形動]1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。⇔主観的。2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。「客観的な意見」「客観的に描写する」⇔主観的。
と説明されているのに対して、「主観的」はというと
デジタル大辞泉の解説
しゅかん‐てき〔シユクワン‐〕【主観的】
[形動]
1 表象・判断が、個々の人間や、人間間の心理的性質に依存しているさま。⇔客観的。
2 自分ひとりのものの見方・感じ方によっているさま。「主観的な考え」⇔客観的。
大辞林 第三版の解説
しゅかんてき【主観的】
( 形動 )
主観に基づくさま。また、自分だけの見方にとらわれているさま。 ⇔ 客観的 「 -な判断」
精選版 日本国語大辞典の解説
〘形動〙 主観に基づくさま。自分だけにしか通用しない、ひとりよがりなさま。表象、判断、評価が、個々の人間の心理的性質に依存しているさま。また、体験する人間同士の間の心理的性質に依存しているが、客観的存在にはかかわらないさま。⇔客観的
主観的(シュカンテキ)とは - コトバンクデジタル大辞泉 - 主観的の用語解説 - [形動]1 表象・判断が、個々の人間や、人間間の心理的性質に依存しているさま。⇔客観的。2 自分ひとりのものの見方・感じ方によっているさま。「主観的な考え」⇔客観的。
などと言われていることを対比すれば明らかだと思う。
だが私は、以前から

とも言ってきたように、必ずしも客観的なものを主観的なものよりも重視していないだけでなく、
「それぞれが、どこに主観(主眼)を置くか」
というのが、世界に計り知れないほどの影響を与えていて、その意味でその主観こそがずっと重要なのではないかとも思っている。そして今の社会における
「客観重視」
というのは、結局のところ現在の科学が
「普遍性・再現性重視」
になっていることとも深く関わっていると思うのだが、これもいずれ量子物理学などの発展によって、かなり違った色合いを帯びて来るのではないかと思っているのだ。

そしてずっと以前、私はある霊から
宇宙は今お前たちが認識しているものだけではなく全部で8つあって、今後もさらに分化・拡散していく
と言われたことがあって、
そんなこと私に言われてもわけわかんないから!しかもどうしたって確かめようがないじゃん!
などと思っていたのだが、これももっと時代が進めば、もっと切実で重要な話になってくるのかもしれないとも思っているのである。
ただ、私は今は科学者でも物理学者でもないし、こうした薄ぼんやりとした輪郭の周りをうろうろしていても埒が明かないので、いったんこうしたことを確認したうえで、私なりの見解をざっくりと言ってしまおうと思う。つまり率直に言えば、
「客観」を文字どおり「客(部外者)として眺める」ということとして捉えるなら、それを徹底した先には、なんの意味も価値も残らない。だから私たちはあらゆる意味で、「主」(あるじ・主体者)であることから逃げることはできず、逃れるべきでもない。だがたとえ葛藤や苦悩が付いて回るとしても、世界の真価・意義・真意は、そこにしかあり得ない
と、私は思っているのである。
たとえば私は果物が好きで、今生では海外に出たことはなく、夕方に最も調子がよくなる日が多い。これは私にとっては自分を表すものとして重要な説明の一部を成すものだが、客観的に見れば、どうでもいいことだ。そもそも嘘か真実か、そんなことを確かめることにすら意味はない。
さらに言えば、これから地球がどうなっていくのか、素晴らしい星になるのか腐敗の末に滅びるのか、そんなことも地球に関わっていたり関心を寄せていたりするひとにとっては重要だが、客観的にはどうでもいいと言える。つまり私は、
「客観」というのはそういう意味で「ズームアウト」であり、「相対化・均質化・無価値化」なんだ
と、そう思っているのである。
たとえば私が、
私のことをどう思っていますか?
と全国・全世界・全宇宙のひとに訊いていったとする。
すると好き/嫌いという以前に、そもそもほとんどの場合、
興味がない。っていうかお前のことなんて知らない
となるのが当然である。そして
どうでもいい・知らない・自分には関係ない
というひとの割合は、私から遠いひとたちに訊けば訊くほど増える。これは当たり前である。
そしてもちろんこれはそのまま霊に対しても同じことが言える。普段私は負の霊に罵倒されたり嫌がらせを受ける一方で、守護霊から援護されたり励まされたりしているが、もっともっと広い視点で見ると、私を知らない霊のほうが圧倒的に多いのだ。だから客観的に見れば見るほど、私は本当に
「どうでもいい存在」
だということになるのだ。
ではそこから誰かが私の存在を新たに知り、私を「客観的」に評価しようとしたとする。
すると私は
こいつはあるひとたちからは好かれている一方で、あるひとたちからは嫌われている。あるひとたちには慕われているが、あるひとたちには疎まれ、憎まれてさえいる
というふうに捉えられる以外にないと思う。だとしたら、私はいいひとなのか?あるいは悪いひとなのか?そんなことは言いようがないということになる。強いて言えば
いい面も悪い面もある。だからどっちつかずであり、これからどうなるとも言えないし、どうにもならないかもしれない。そもそも、どうでもいい
と言うしかないだろう。これが
「客観的評価」
というものである。
そしてこれは本当には、私だけではなくどんなひと・もの・存在にも言えることである。つまり
私が慕い・好み・心から愛おしいと思うどんなものでも、あるいはあなたが心から慈しみ、いつまでも忘れられず、自分の核心を成すとさえ思っているどんな存在ですらも、「客観的には他と変わらない・他と同等に価値があり、一方でなんら特別ではない・無意味・無価値なもの」でしかない
ということなのである。しかしだからこそ私は、
そんな事実を理解したうえでも、それでもなお「私にとって価値があるもの・意味があるもの・自分が生きるに値すると思える特別なもの」をどこに見出すかに、このうえなくかけがえのない意味がある
と、そう思うのである。
以前私は

という文章を書いたが、私の理解における
「森羅万象の総覧者」(今の一般的解釈における<神>に近しいと言ってもいい)
というのは、
「すべてに絶対的な興味・関心・慈しみ・愛情を向けている」
という意味で、
「客観的な存在の極致」
だとも言える。その存在にとって、すべては愛おしく、同等にかけがえがない。だからこそ誰にも特別には与せず、どこにも肩入れせずに、すべてを見守っている。
そして私はそんな存在があることに意味がないとも価値がないとも思っていない。ただ
そんな立場に立つひとがたくさん増えたとしても、なんにもならない
とは強く思っている。だからそうした意味でも私は、
「客観的な存在」
になりたいとは、最初から思っていない。それにそんなものになれるはずがないとも思っている。
だって私には
「私の視点」
があるし、
「私の好きなもの」
がある。それが
「誰かの嫌いなもの」
だとしても、私が好きなんだからしょうがないじゃないか?それが、私なんだから。そういうことの総体が、私を私にしたんだから。
そもそも私は
客としてここに来た
わけではなくて、
自分で主体的に選んでここに来た
のである。そしてそれはあなたも同じだ。だから少なくとも、その状態でこの地球やこの世界に対して客観的にいられるわけがないし、そうあるべきでもないと、私は思うのだ。
それに客ではないからこそ、いろいろなことを変えられる。他のひとの家の模様替えはできないが、自分の家ならできる。そこが借家だとしても、部屋に好きなものを置くくらいはできるだろう。それは私たちに主体があるからだ。それは素晴らしいことではないか?
だから私はあなたにも、それを思い出してほしいと思うのだ。あなたは誰かに強制されて、無理やりここに連れて来られたわけではない。あなたの独断ですべてを動かすことはできないにしても、少なくともあなたの人生については、あなたが主権者である。だからこそ、あなたには、私たちにはもっともっといろんなことができる。外野には好きに言わせておけばいい。地球に来たこともないひとに地球のよさはわからないし、あなたを知りもしないひとに、あなたのことはわからない。そもそも本当は彼らにとって、私たちなどどうでもいいのだ。
だが私たちにとっては、そうではない。私は、あなたをどうでもいいとは思っていない。このことのほうが、この想いのほうが、私にとってはなにより大切なことだ。だから私はここにいて、今日もあなたになにか伝えてみようと、そう思っているのである。

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「自分の意志で産まれてきた。」という事実を認識(もしくは信じる)できた人は、主観的に生きやすくなると思います。 少なくとも「親が勝手に産んだだけだろ」「人生ガチャ外れ引いたw」とか想う事は少なくなってゆくでしょう。
人生ぶん投げそうになる事もたくさんありますが、周りの人間、生き物、自然、守護霊、様々なものに見守られているという事を理解すればする程、「生きる」という意志が強くなっていくのを感じます。
独りじゃない、周りに誰かがたくさん居るからこそ、未熟ながらもなんとか主観的に生きていけています。
Rマンさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
そうですね、どんな経緯・理由にせよ、それを受け入れることはある意味では
「逃げ道を塞ぐ」
ことでもあるので、少なくともその意味では、確かにつらいことでもあると思います。ですがだからこそ、
ことを理解することができるなら、
と言える自分になれると言うなら、やはりそこには確かにかけがえのない価値もあると言えるのでしょう。
あなたがいつも言っている人生の目的を達成することができることを、私も心から願っています。
お互いに1日1日を、乗り越えていきましょう。
「宇宙は全部で8つあって」とのことですが、その霊はどうやってどうやってその事実を知り得たのでしょう。と言うのも、私には霊というものは地球の近辺からあまり遠くには行けないように思えますし、行けたとしても、我々の宇宙の外にある別の宇宙を観測することまでは、さすがに不可能ではないか、と思えるのです。
一体その霊は何者なのでしょうか。そして、その霊の言うことが本当だとして、それぞれの宇宙にはどのような特色があるのでしょうか。霊や霊媒のことが良く分からないので失礼な要望でしたら恐縮ですが、その霊と再度コンタクトを取っていただくことは可能ですか。
だれかさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
そうですね、私も宇宙が(現在)全部で8つあるのかどうかはよくわからないのですが、もっと素朴なところから話を進めるなら、あなたが
のだとしても、私はそれはそうとも限らないと思えますので、少なくとも私としてはその部分に対する疑念は特にないとは言えます。
ただ私は、むしろその霊が言う
「宇宙」
の定義をいずれちゃんとすり合わせたいという想いはあります。
というのも、いわゆる
「パラレルワールド」(可能世界・並行世界)
という概念(仮想・想定)はずっと以前からありますし、なかには
選ばれなかった可能性は、それぞれどこかのパラレルワールドですべて実現している
という説まであるくらいですから、そうするとこの8つという数字は、むしろ「少なすぎる」ということになるでしょう。
かと言ってそれがもし、
「今の私たちが慣れ親しんでいる物理法則・世界のつくりとは違う世界・環境」
という意味だとするなら、そんなものは地球以外の星に行けばいくらでもあるのですから、わざわざそれに
「宇宙」
という語を当てる必要はないと思うからです。
ですから私が追究するとしたらまずはそこからになるでしょうし、
と言われればできなくはないのですが、今のところその霊は、というか他の霊も少なくとも私にはこれ以上の情報を明かす気はないようですし、私も現時点では「この宇宙」や「この地球」のことで充分に手いっぱいなので、まぁいいかという感じです。
ただ
「多元宇宙論」
というもの自体は既に知られているものですし、少なくとも私はその霊から悪意や嫌な印象を受けることはなかったので、
今はまったく検証・証明できない(その糸口すら見当たらない)けれど、いずれはもっと真剣に研究されるかもしれないこともある
ということの一例としてこうした話も少し出してみたという、現時点ではそれくらいのものとして受け止めていただければ、とりあえずはそれで充分だと思っています。