私たちは0でも100でもない。すべては連続的につながっていて、影響を与え合っている

私たちは言葉によって世界を把握する。そしてなにか新しいもの、今までの認識のなかになかったものを見つけると、なんとかしてその特徴を見出し、全体の体系のなかに位置づけつつ、それに応じた名前をつけようとする。そしてそれが概念となり、私たちはその言葉や概念を他者への情報伝達や意見交換、それに自分自身の思索の基として、互いに気持ちを通わせていく。

だがここでとても大事なことは、

言葉は決して、実態(現実)そのものを表してはいない

ということだ。ただし、

「言葉は実態の把握を縛りつける」

ことが多いということは注意しなければならない。このことをわかってもらうために、具体例に沿って見ていこう。

たとえば、

「男性」

という概念がある。これは、

「女性」

という概念と対になっている。そしてこの2つは、私たちの性を表すときの、両極に位置づけることができる概念だとも言える。

だがだからといって世界には男性と女性の2種類しかいないわけではない。もっと詳しく言えば、

言葉は概念なので、それに縛られて現実を見てしまうとそれがまるで普遍的で、自立的で、恒久的なものと思えるかもしれないが、実際の私たちの有り様は、それよりはるかに複雑で、そんな便宜上の2極のどちらかにはっきり分かれるものではない

ということなのである。

もっと具体的に言えばこうだ。たとえば私も含め10人のひとを集めたとしよう。

すると、そのなかの何人かが男性の極に立ち、もう一方の何人かは女性の極に立つ。

というこの想定に違和感を覚えないなら、それが言葉に縛られているということなのだ。

ではその縛りを乗り越えて実態を理解しようとすると、どのような方法があるだろうか?

 

たとえば私がどこかに立つ。そして私より女性らしいと思うひとに私の左に立ってもらい、逆に私より男性らしいと思うひとには、私の右に立ってもらう。これは誰を基準にしても同じだ。

「このひとより女性らしいひとはこのひとより左側に立ってもらい、そのひとより男性らしいひとにはこのひとより右側に立ってもらう」

ということをそれぞれ全員について言えるまで考えて並んだもの、その並びがそこでの答えになる。そこにできあがるのは、

「この10人のなかで、より男性らしいひとから、より女性らしいひとへ並べていったもの」

である。そしてさらに厳密に言うと、ここでそれぞれが並ぶ間隔は一定にはなり得ない。あるひととあるひとを比べたときの差と、別のあるひととあるひとを比べたときの差が、まったく同じになるはずがないからである。

ではこれを踏まえてそこにさらに90人を呼んできて、同じことを続けたらどうなるだろう?もちろん新しく入ってきた90人は、その並びの誰かの誰かの間、あるいは外側に配置されることになる。ではこれを1万人、100万人でやったらどうなるだろうか?もちろん、並びの端から端までの距離は長くなる。しかしそれと同時に、それぞれのひとが立つ間隔は狭くなっていく。それは隣のひととの違いが、よりちいさくなっていくからである。そして言うまでもなく、これは本当は、この地球すべてのひとを含めて行うことができる。これが

「私たちは全員がつながっている」

ということの意味であり、揺るぎない事実なのである。

 

そしてもちろん、これは男性/女性についてだけではなく、あらゆる要素について同じように考えることができる。たとえば

「白人/黒人」

という概念があるが、それで世界のひとびとを2種類に分けることができるだろうか?あるいは、

「白人・黄色人種・黒人」

という3種類に分ければ、それで現実を、私たちの実態を把握したことになるだろうか?

もちろんそんなのは早合点と言うしかない。もしここでもさっきと同じように

「このひとより肌が白いひとはこのひとの左側に、このひとより肌が黒いひとはこのひとの右側に立ってもらう」

ということを続けていったら、最終的には世界中のひととでもそれができる。そして人数が増えれば増えるほど、その色の移り変わりはより微妙になり、より微細なグラデーションを成すようになるだろう。もちろん一方では、

「現時点でいちばん肌が白いひとと、現時点で肌がいちばん黒いひと」

も決まるだろうが、最も重要なことは、

「そのふたりの間には、数え切れないほどのひとたちが、ずっと並んで立っている」

ということなのである。これが、世界の実態なのだ。

 

私が

言葉による表現はあくまで「便宜的なもの」だ

というのは、こういう意味である。

ただ先にも言ったように、言葉はあまりにも便利で強力な道具でもあるので、まるでそれが普遍的・恒久的なものであるかのように見せるだけでなく、それを固定されたものであるかのようにも錯覚させる。そしてそれがさらに進むと、それぞれが、まるで独立してそれぞれにあるかのようにも見えてきそうになる。だがそれは

「便利な道具にいつしか呑み込まれた」

ということであり、強力な思い込みなのである。

そのことを理解しておかないまま言葉だけを扱うと、世界は言葉の数が増えるにつれて、ますます細分化され、断絶してしまう。だからそんなことにならないためにも、私はあなたとも一緒に

「言葉の限界と世界の連続性」

を、ちゃんと確認しておきたいのである。

 

そしてここからもう一歩踏み込んでいくと、この現実の連続性は、一般的に

「悪いもの・特徴」

とされるものについても、同じように言える。たとえば

「暴力的なひと/温和なひと」

という2極を想定したとしてもそうだ。

それに特に今のような社会・価値観のなかにあっては、言葉は自動的に増え、世界からいろいろなものを発見し、個別に採り上げていくので、日々新たな概念や名前が生まれても来るが、たとえばそんな言葉の例として

「サイコパス」

を挙げても同じだ。そしてひとつの概念が生まれると、そこからいつか必ずその対極が生まれるのだが、このサイコパスにもたとえば

「エンパス・HSP」

のような、対極となる概念を想定することができるというわけだ。

そうするとほとんどあらゆるひとが、

あなたは暴力的なひとだ

お前なんかサイコパス野郎じゃねぇか!

なんて言われたいとは思わないと思う。もちろん私もそうだ。

だが特に

「サイコパス(良心を持たないひと)」

などという概念において、誰かが

このひとはサイコパスだ(このひとには良心がまったくない)

などと、どうやって判定できるというのか?本当はそれはただ、

このひとは私より良心が薄い・少ないように見える

というだけなのではないか?

もっと言えばたいていのひとは自分より良心が薄そうなひとを好まないので、その感情が判断を歪めている可能性は誰にも否定できないと思う。

そして私自身、誰かと比べれば私は良心が薄い(感情がない・冷血人間)だと言われてもしかたがないと思っているし、実際にそう思われたり言われたりしたこともある。だから私はこのことを、自分自身が誰かに対して

どうしてこんなことを平気でできるんだ!

と思いそうになったときに、よくよく思い出して戒めにするようにしているのだ。相手が「平気」かどうかということを、私が判定できるはずはないのだから。

 

つまり私たちは

「言葉という暫定的な目安を、印象という曖昧なものに基づいて用いながら、現実に枠を嵌めている」

にすぎないということだ。だからそんなものが、これほど具体的で多様な世界を、完全に描写できるはずがない。それになにより、世界は、私たちは、本当は連続している。かけ離れているように見えるのは、その間が見えないからにすぎない。だが私がいちばん苦手としているひとでさえ、私とつながっている。もっと言えば、

あのひとは自分の対極にいるひと・自分と真逆のひとではない。ただ自分ならそこだけは踏み越えないというラインを踏み越えたから、「なんでそこまでできるんだ!」と思っているだけで、本当は多くの部分で、私と共通する要素も持っている

ということを、私は知っている。だから私は、もしその気になれば、そのひとと同じようになるかもしれないのだ。そこに至る道は、連続して私のいる場所とつながっている。だがだからこそ、もしそうなりたくないのなら、そこに至るまでのどこかで、止めなくてはいけない。それが、良心なのだ。だからこそ私は、

「できないからやらない」のではなく、「できるけれどやらない」のが良心だ
なぜひとを殺してはいけないのですか? かつてこの素朴な問いがテレビの討論会で聴衆のこどもの口から発せられ、その場の誰もが明快な答えを提示できなかったことから、道徳を巡る大議論が喚起された。 普段は、「ひとを殺してはいけない」とい...

と、そう思っているのである。

 

だがこれは確かに身の引き締まる認識であると同時にもう一方では、とても嬉しいことを示唆してもいる。つまりこれは逆に言えば

どんなに私とはかけ離れた立派な素晴らしいひととも、私はつながっている。だから私もその憧れを、そのよさを、自分のなかに育むこともできる

ということだからである。そしてさらに言うと、これは

誰かが傑出した飛躍を遂げたとしても、その断絶はすぐに他のひとたちによって埋め合わされ、他のひとたちともつながっていく

ということでもある。だから私たちは、孤独ではないのだ。そしてすぐ隣のひとと比べたら

「なんの変哲もない・まったく代わり映えのしない存在」

にすぎないように見える私たちそれぞれの色が、実はそれぞれに、本当に、かけがえのないものなのだ。だから私は、やはりそんな世界を美しいと思っている。あなたと一緒にいられることを、ありがたいと思っている。

ですからたとえば前に書いた

半分ではなく「4分の4」のすべてを踏まえて、あなたの人生を創っていってほしい
この世界で生きていれば、おそらく10年もしないうちに、私たちの身につく基本的な世界認識がある。それは、 この世には、「いいひと」と「悪いひと」がいる というものである。この「いいひと」と「悪いひと」というのは、さらに単純化すると...

といった文章についても、このような観点を踏まえてご理解いただければと思います。世界の存在がたった4種類に分けられるわけでは決してなく、これはあくまでも「便宜上の目安」であるということです。そしてだからこそあなたがそう生きるかこそが、このうえなく大きなことなのです。

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  1. ぴーすぬ より:

    こんばんは。

    本筋から外れるかもしれませんが、言葉と思考について常々思っていたことがあります。

    私は話したり、文章を書いたりするのが苦手だと思っています。

    うまく伝えられないと感じることがよくあります。

    なのでよく、自分の思いを言葉にせずに伝えられたらなと思ったりするのですが、ここでDilettanteさんと霊存在の方々のやり取りをみると、言葉で話し合いをされているようなので、人間にしろ霊存在にしろ言葉にして表現することは大事なんだろうなと思っています。

    言葉によって相手や自分の認識が、各自の認識で固定化されてしまう可能性がある一方、言葉にすることでお互いや自分自身がどう考えているのかを確認できる。

    言葉にしないといつまでもフワフワした感覚で、相手も自分も、細部には何を思って何を思っていないのか分からなくなってしまうのでしょうか?

    うまく伝えられない思いとは、自分でもどう思っているか分かっていないのと同じ事なのでしょうか?

    自分が霊存在になっても上手く伝えられないままだったら、思考がまとまらないままだったら悲しいなと思うのですが、これは訓練していくしかないのでしょうか?

    何だかやっぱり上手くまとまっておらず、すみません。

    • Dilettante Dilettante より:

      ぴーすぬさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      そうですね、これはなかなか微妙な話なのですが、ひとつひとつ整理しながら考えてみますと、まずよく言われるように、

      霊存在は、お互いの想いが筒抜けにわかる

      というのは、「ある程度は」そのとおりです。

      というのは、

      「霊存在は基本的に、自分のエネルギーや想いが、いつも流れ出しているから」

      です。

      ですから、これは特に負の霊との会話の序盤においてよく起きることなのですが、相手が

      「ただ不機嫌そうにじっとこっちを睨みつけている」

      というような場合でも、相手から流れ出ているエネルギーをちゃんと受け止めていけば、相手の想いや考えの輪郭のようなものは、だんだんと掴めていけることも確かです。

      が、それだけで相手の遍歴や核心なども含むすべてを読み取れる・感じ取れるかと言えば、互いの器・経験によほど圧倒的な差があるというような特殊な例外を除けば、基本的にはまずそんなことはないのです。

      ですから、霊であるからといって一切の隠しごとや偽証ができないわけではないので、やはりお互いを理解し合うのには、それなりの時間と努力が必要になるということです。

      そのうえで、たとえば霊同士であれば、

      「相手に受け入れられているなかで、相手に触れる」

      といったことで情報を共有することもできますし、これは実は肉体人同士でも、霊ほどではないにしろ、起きなくはないことです。

      ただそれでも言葉を介することにはそれなりの意味があると言え、特に私が現在肉体人であるなかで、霊存在との対話に言葉を介する大きな理由のひとつは、

      「ただでさえいろんな霊・エネルギーが錯綜しているなかで、この意識、この思考に焦点を絞りたいというときに、言葉がとても役立つから」

      というものがあります。つまり、言葉を介さないこのようなコミュニケーション(意思疎通)というのを一般的に

      「テレパシー」

      と呼ぶのだとすると、それはたとえば

      「ラジオの電波を受信する」

      ようなもので、いろいろな電波が干渉し合ったり混線し合ったりすると、結局歪んだりおかしくなったりして、クリアな意思疎通にならないわけです。

      ですがそこに「言葉」というライトを当てることで、意識・思考にはっきりとした区切りがつくという意味で、お互いにそこに集中しやすくなるということなんです。

      ですから私は、たとえこれから私たちのテレパシー能力が再び発達していったとしても、言葉による明示的なコミュニケーションはそれはそれで意味を保ち続けると思っています。

      そしてそのことは相手のためだけでなく、自分自身のためにもなると思いますので、あなたが

      言葉によって相手や自分の認識が、各自の認識で固定化されてしまう可能性がある一方、言葉にすることでお互いや自分自身がどう考えているのかを確認できる。

      言葉にしないといつまでもフワフワした感覚で、相手も自分も、細部には何を思って何を思っていないのか分からなくなってしまうのでしょうか?

      うまく伝えられない思いとは、自分でもどう思っているか分かっていないのと同じ事なのでしょうか?

      というのは、まさにおっしゃるとおりではないかと思うのです。

      つまり想いというものはとても複雑なものでもあるので、そこに言葉という「道筋」をつけてあげることで、その「取り留めのないエネルギー」を整理し発散するという意味でもです。

      ただだからこそその複雑で掴みどころのない想い・エネルギーをすぐにまとめて言葉としてかたちづくるというのはそうそう簡単ではないでしょう。

      ですから私はやはり最終的には、

      今は誰もがみんな時間的ゆとりをなくされすぎているけど、いずれもっと時間をかけて相手と向き合えるようになったら、コミュニケーションはもっとラクになる

      ということなのだろうと思っています。

      そしてそれは文字どおり

      「時間の問題」

      なのだから、そんなに悲観することもないと、私は思っています。

      そもそもわかり合うというのは、ものすごく時間がかかることなんですからね。

      それに私があなたの意図をどこまで汲めたかはわかりませんが、少なくとも私はあなたの文章をわかりにくいとは思いませんでしたので、これからも私でよければいつでも遠慮なくお声掛けいただければと思います。

      どうぞよろしくお願いします。

  2. ぴーすぬ より:

    お返事ありがとうございます。

    私が聞きたかったことを汲み取って、丁寧に答えて頂きありがとうございます。

    テレパシーの世界に憧れを感じますが、言葉で伝えあうことには敵わないんですね。

    時間がないから、というのは仕事で特に感じます。

    短いやり取りで、情報を的確にわかりやすく過不足なく伝える。これができないと、マイナス点になる。私にもとても難しいですが、相手に対して求めている自分がいます。

    今回のお話とは次元が違いますが、言葉が足りなくて誤解を生んでる人と、言葉通り受け取って怒っている人、傍から見るとお互いの心情を理解できるのですが、自分のこととなると難しくなります。

    いつか、できれば生きているうちに、ゆとりをもってコミュニケーションが取れる環境になったら良いなと思いますが、ゆとりがない中でも、自分のこともそうですが、相手の本当の思いは何か考えるのも忘れずにいなくてはと思いました。

    Dilettanteさんのお話は分かりやすく、そして相手の思いを汲み取っていらして、それは表現が上手いだけじゃなく深い愛があるからなんだろうなと思います。

    いつかは私もいつかDilettanteさんのようになれたら良いなと思っています。

    大変でも、言葉で伝えあうことを諦めずに頑張ります。

    ありがとうございます。

    • Dilettante Dilettante より:

      テレパシーの世界に憧れを感じますが、言葉で伝えあうことには敵わないんですね

      ええ、そしてこれはつまり、

      想い・思念が伝わっているからといってはっきり表現せずに油断していると、知らず識らずに思い込みや勘違い、それに疑心暗鬼や決めつけに侵される余地が増えて、厄介な罠に嵌まることも多い

      ということでもあります。

      これはそもそもほとんどテレパシーをなくされてしまった今の肉体人の感覚ではわかりにくい(だからこそテレパシーに憧れやすい)とも思うのですが、むしろ霊になったときにこそ気をつけるべきことだと言えます。

      その隙を突かれかき回されて痛い目に遭うのは、あまりにも哀しすぎるので。

      時間がないから、というのは仕事で特に感じます。

      短いやり取りで、情報を的確にわかりやすく過不足なく伝える。これができないと、マイナス点になる。私にもとても難しいですが、相手に対して求めている自分がいます。

      今回のお話とは次元が違いますが、言葉が足りなくて誤解を生んでる人と、言葉通り受け取って怒っている人、傍から見るとお互いの心情を理解できるのですが、自分のこととなると難しくなります。

      いつか、できれば生きているうちに、ゆとりをもってコミュニケーションが取れる環境になったら良いなと思いますが、ゆとりがない中でも、自分のこともそうですが、相手の本当の思いは何か考えるのも忘れずにいなくてはと思いました。

      そうですね。コミュニケーションというのは特に口頭の場合突発的で、なにを言われるかはその瞬間までわからないわけですし、最も適切な答えが浮かぶまでずっと考え続けるわけにはいかないので本当に難しいのですが、私も私なりに試行錯誤を重ねながら、少しずつでも成長していきたいと思います。

      Dilettanteさんのお話は分かりやすく、そして相手の思いを汲み取っていらして、それは表現が上手いだけじゃなく深い愛があるからなんだろうなと思います。

      いつかは私もいつかDilettanteさんのようになれたら良いなと思っています

      もちろんあなたにそこまで褒めていただけるのはとてもありがたいのですが、これは私からすると、

      それはあなたが私に敵意や猜疑心を保たず、できるだけ好意的な面を見ようとしてくれているからです

      と言ったほうがずっと実情に近いと思います。

      これはもちろんお互い様でもあるのですが、コミュニケーションの双方あるいは片方が、相手に敵意や猜疑心、あるいは怒りや恐れのようなものを保っている場合には、そのコミュニケーションは歪みねじ曲がり、本来の力を10%、それどころか1%も発揮できないことになるからです。

      そしてそんななかなら、なおさらこんな争いや不和がそこらじゅうにあるのも当たり前なんですよね。

      でもだからこそ、私も伝え合うことを、理解し合うことを、諦めずにいようと思います。

      これからも、どうぞよろしくお願いします。

  3. ぴーすぬ より:

    お返事ありがとうございます。

    霊になったときこそ、ですか。私も甘んじてしまいそうです・・・

    瞬発力もあったら良いですよね。

    考えていたら、人と親密になりたいけどさらけ出すのが怖い、そんな思いもある気がしていますが、やっぱりいつかは親密になりたい、分かり合いたいので、頑張ります。

    敵意や猜疑心を保たず好意的な面を見ようとしてくれている

    これはDilettanteさんがそうされているから、私もそうしているのかもしれません。

    誰に対しても相手を分かろうとする思い、良いところを見ようとするのは大事ですね。忘れずにいたいと思います。

    こちらこそ、よろしくお願いします。

    • Dilettante Dilettante より:

      霊になったときこそ、ですか。私も甘んじてしまいそうです・・・

      そうなんですよね、お互いに気をつけましょうね。

      考えていたら、人と親密になりたいけどさらけ出すのが怖い、そんな思いもある気がしています

      それにこういう想いというのは、もちろん私のなかにもあります。大切な相手だからこそちゃんと伝えたいのに、そのことがかえって

      「臆病さ」

      みたいなものにつながって、なにも言えなくなったりとかです。

      だから本当に大変だというのはよくわかっているし、私も明快な答えは持っていないのですが、だからこそお互いを励まし合いながら、少しずつ少しずつでも成長していけたらと、そう思っています。

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