3つの「とう」がひとを鍛えるという話に、あなたはなにを感じるだろうか?

ひとはな、「さんとう」を喰らってようやく大きくなれるんだぞ

こんな話を私が最初に聴いたのがいつだったか、誰からだったのか、今となってはもう思い出せない。しかしもう相当前になるだろうその言葉は、私の印象に強く残っていた。

その

「さんとう」

というのは実のところ

「闘病・投獄・倒産」

「3つの『とう』」

を指しているのだが、この話を聴いて、あなたはなにを感じるだろうか?

 

まず私自身の話をすると、私は「闘病」については幼い頃からずっと経験してきている。そして「倒産」(「勤務先の倒産」に置き換えてもいいと思う)も経験はある。そして

「投獄」

については、さすがに

「直接的に監獄に入れられた」(逮捕された)

というような経験はないが、

「監獄を思わせるほど自由のない環境に置かれた」(さらに見かたによっては、「入院」も似たようなものだと言えなくはない)

ということならある。

だから一応「甘い判定」ではあるが、私はこの3つの「とう」のすべてを喰らったと言えなくもないというわけだ。

さらに言うと、私の「霊媒師」としての立場は、

そんなもの、詐欺師じゃないか!

という批判にさらされることがよくあるので、それも加味すると

「自ら獄中に飛び込んでいる」

と言えなくもないのかもしれない。

そのうえで、この話というのはもともとはどうやら明治から昭和を生きた大人物

松永安左エ門 - Wikipedia

が言ったとされる

闘病・浪人・投獄・破産のような大きな挫折を味わったことのない人間は、たいしたやつにはならない

という言葉で、そこから語感よくアレンジされたということらしい。しかしそうならそうで、私はいわゆる

「浪人生活」

も経験しているので、その意味でもますます他人事ではない話だということになる。というよりもこの浪人というのを

「社会的に安定していない立ち位置のひと」

という意味に取るなら、やはり今の私自身が、まさに「浪人」そのものだということにもなる。

 

ただその結果として、私自身が今

「たいしたやつ」

になっているのかと言えば、少なくとも私自身には大いに疑問がある。それにこの3つないしは4つのどの状況にしても、一般的には

「つらい・苦しい経験」

としか言いようがないものであり、その意味で

「わざわざ飛び込むどころか、できるだけ避けたい」

と思うひとのほうが多数派ではないかと思う。

さらに言えば、こうした意見や思想に対して

「生存者バイアス」

の観点から、

そんなの、苦しみを乗り越えた(過去のものにできた)ひとだけが言える戯言(余裕の発言)じゃないか!大概の人間は、俺は、苦しみを受けすぎたら潰れて歪むんだよ!

という反論をするひとが現れるのも当然だと思うし、これはたとえば

乗り越えられない試練はない(乗り越えられるひとにしか、試練は与えられない)のです

というような意見に対しても、同じように言えることだと私は思うのである。

 

ただおそらく、こんな「さんとう」の話を私に伝えてくれたひとというのは、

「からだが弱く、病気を抱える私をなんとか力づけたい」

という気持ちで言葉をかけてくれたのだとは思うし、それが今でも私の心に残っているというのも事実だ。

だがだからと言って私は、こうした言葉に安易に、全面的に賛同することはできないし、あなたが苦しんでいる最中に、そんな言葉をかけたいとも思わない。

ただそれでも、そんな私がなんとか言えることがあるとすれば、

あの苦しみがなかったら、私は今の私ではなかった。今までの苦しみが、私を育て鍛えた

ということなのである。そしてこれは先日ここに書いた

苦しみが「必要」だとはどういう意味なのか?ある守護霊さんたちと私の、率直な意見交換
幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである 自身の作品でこのように著したのはトルストイであるが、これを少し言い換えて しあわせのかたち(理想形)はみんなだいたい同じよう...

で想いを巡らせていたこととも、もちろん深く関わっている。

だがそうは言ってもやはり、

できることなら、苦しみや痛みを経験しなくても、しあわせや喜びのなかでも成長できると言うのなら、本当はそのほうがずっといい

という想いはもちろんある。それに、苦しみや痛み、あるいは松永安左エ門の言うところの

闘病、浪人、投獄、破産のような大きな挫折

を味わった私が、

「それを味わわなかったとしたときの『私』」

に比べて

「いいひと・たいしたやつ・よりよい存在」

になったのか、

「単にひねくれた・スレた・斜に構えた・澱んだ存在」

になったのかは、なんとも言えないと思う。だから、そんな私はやはり、このような話・思想を、軽々しくどうと言うこともできない。そしてこれはある意味では

こんな私のことを、そして私が創った『闇の向こう側』を、あなたがどう捉えるか?

ということでもあると思う。そしてそれはもちろん、千差万別で、決してひとつにはまとめられないものだとも思うのだ。

 

ただいずれにしても、私はやはりあなたにもいずれはしあわせになってほしいと思うし、私もしあわせになりたいと思う。この基本姿勢はずっと揺らがない。そしてだからこそ私は

不幸だから死ぬのではなく、不幸だからこそまだ生きなければいけない
生きていることは罰ではない。私たちはしあわせになるために生まれてきた。しあわせにいるために生まれてきた。だから本当には、いつもしあわせを感じられていて当然だとも言えるし、そうでないような状況は、「異常事態」である。

と言っているのである。さらに言うと、これは

いちばん大切なのは、究極的には「あなたが自殺したり絶望しきったりせずに生きていること」そのものなので、そのためにあなたを力づける(あなたの肌に合う)思想ならば採り、そうでなければ聞き流してください

ということでもある。だからこの

「3つの『とう』」

の思想についても、そのような観点から見てもらえたらいい。そのうえで最後にもうひとつ私からつけ加えるとしたら、

私はあなたに生きていてもらいたいので、私なりにできることで助けられたらと、ずっと思っています

ということである。私は、あなたにあなた自身の尊さに気づいてほしいと思っているのだ。しかしそれは自分ではなかなか見えないものでもあるから、私もなんとかしてあなたに伝えようとしているという、そういうことなのである。そして本当の意味でそれが理解されたとき、私たちはどんな世界でも創ることができると、私はずっと、そう思っているのである。

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