「寂しがり屋ほど霊感が強いのでは?」という見解に対する、私なりの考え

あの、私ちょっと思ったんですけど、寂しがり屋であればあるほど霊感が強いっていうか、霊的な能力の開花・発達が早いんじゃないでしょうか?もちろん私にだって寂しさがないわけじゃないですけど、そんなに強いほうだとも思いませんし、私の周りでもっと霊的な感受性や能力を持ってるひとなんかを見ると、「あぁ、やっぱり私とは違うなぁ」と思いますからね。どうなんでしょうね?

こないだ、私はこんな質問をされた。これはとても面白い観点だと思ったのだが、私は今まであまりこういうことを考えたこともなかったので、とても新鮮だったというほうが強かった。それで私も、改めて自分なりに考えてみようと、そう思ったのだった。

まず私自身が寂しがり屋かと訊かれたら、それはそうだとしか言いようがない。それにこんなことはいくら強がっても私と少し関われば気づかれるようなことなので、無理に隠そうとも思わなくなった。だがもちろん、その寂しさを手当たり次第にばら撒いたら迷惑千万なので、そんなことをする気はない。

だがそのうえで、少なくとも私自身のなかに寂しがり屋な性質があるかと問われれば、それには明らかな自覚がある。そしてここでひとつだけ確認しておきたいのは、

物理的・表面的な孤独と寂しさは必ずしも関係がない

ということだ。たとえ一見すれば孤独そうな状況にあったとしても、それを孤高にまで研ぎ澄ますことができていれば、それは寂しさにはならないと思うからだ。そしてこれは、今のような社会において、たとえばネット上のつながりなど、物理的・身体的近しさがなくても満足できるひとの場合も同様である。外形的・表面的にどうであっても、本人が自分にとって望ましいつながりを保っていると思えている、あるいは自分にとってつながりはそれほど必要ではないと思えている(孤高)であれば、寂しさに駆られることはないと思う。つまり逆に言えば、

寂しがり屋とは、孤高を貫いて安定することも、今の自分が保つつながりに満足することもできずに、他者との関わり、あるいはその深化・発展を求め続けているひとだ

ということになる。もちろんこの定義に異論があり得るのもわかっているが、とりあえず今回はこのような観点から、話を掘り下げていこうと思う。

 

そうすると冒頭のように、

寂しがり屋ほど霊感が強いのでは?

という疑問に対しては、私も

確かに、それはそうかもしれませんね

という以外になくなる。というのも、先ほどの観点を踏まえればなおのこと、

寂しがり屋が他者との関わり、あるいはその深化・発展を求め続けているひとだとするなら、そんなひとが「今の多くのひとはあまり意識しない他者=霊」にまで意識を向けやすく・交流を持ちやすくなるというのは、実に当たり前のことだ

と思えるからである。

今ある他者との関係やつながりに満足しているのであれば、わざわざそれ以上を求める必要がない。しかしそうではないからこそ、目に見えるつながりを超えたところにある

「目に見えないつながり」

までをも切実に求めるようになる。だからその想いが、霊的感受性の開花・発達を促進するというわけである。

あるいはこの考えを少し応用すると、

死にたい(自殺してしまいたい)と強く思ったひと、あるいは実際に死に瀕したひとが生き長らえたあとで、霊的感受性や能力が開花することも多い

という話にも同じような説明をつけられるかもしれない。つまり、

死にたい(自殺してしまいたい)という強い想いが目に見えるつながりを断ち切ったこと、あるいは実際に死に瀕したことで肉体的・物理的なつながりが極限まで希薄になったことで、「目に見えないつながり」を求める意識が強まったために、そのような変化が起きたのかもしれない

というわけである。そして私自身もからだが弱かったことで幼少期から何度もいのちの危機に瀕してきたし、私が初めて守護霊の声を聴いたのは、私が少なくとも当時の自分では

いよいよ八方塞がりで、もうダメだ……

としか思えずに独りで呆然としていた、まさにそのときであったのだから。

 

だからこうしてみると、このような見解には相当の説得力があると思うし、

寂しがり屋の自覚があるなら、あるいはもう死んでしまいたいと思っているのなら、その素質を活かして霊媒の道を歩んでいこう!

と言ってしまってもいいのではないかと思いそうにもなる。だがたとえ寂しがり屋がある面では霊媒の素質を示唆するとしても、そこにはもちろん落とし穴もある。だから「強い寂しがり屋の性質を自覚する私」から、その「落とし穴」について、注意を換気しておこうと思うのだ。

それは端的に言うと、

寂しがり屋が霊媒の道を歩むうえでは、「相手のエネルギーに流されすぎて、自分の意志を見失い、本来の自分の目的・願いとはかけ離れたことのために利用される」という落とし穴がある

ということである。

そうすると、最初に悪意を保った霊に唆された場合、そこか知らず識らずのうちに誘導され、実際には世界の破壊・あるいはそこまで極端ではないにしろ、

「世界の撹乱や負の念の拡散」

に利用されるということがあり得るというわけである。

またもし運良く最初に守護霊とつながれた場合でも、その強い寂しさは別の存在にも常に門戸を開き得るわけで、途中から別の霊が圧倒してきたり、いつの間にかすり替わったりして、結局は

「負の霊の乗り物・おもちゃ」

にされるという危険があるのである。

だから、そうしたことを踏まえたうえで、私があなたに伝えたいのは、

寂しがり屋というのは、他者を受け入れる意志・器が広いということでもある。だからそれをうまく活かせば、多くのひとの想いを汲み伝え和ませる、豊潤な器ともなれる(から霊媒師にも向いている)。だがそんな余白・器が広く大きいあなただからこそ、「そこになにを入れるか・詰めるか・留めるか」には、よく注意を払ってください

ということなのだ。

たくさん入るからと言って、なんでも放り込めばいいということではない。それは「闇鍋」になるだけだ。だからたとえワンプレートであっても、せめて「仕切り」は作ることだ。そして、

「全体の構想」

をちゃんと意識すること。その構想があって初めて、適材適所という概念が意味を成すのだから。

別に「多国籍料理」が悪いというわけでもないし「バイキング・ビュッフェ」がダメだということではない。ただそれならそれで、

多国籍料理(バイキング・ビュッフェ)をやるんだ!

という意志のもとに取り組んでほしいということなのだ。

そのうえで、

なんでもそんなに計画的にはできませんよ!「場当たり主義」でもいいんじゃないですか?

という反論も出るかもしれないが、それでも特に霊媒の道に関しては、やはりそのような態度は勧められないのだ。なぜなら

霊はあまりにも多種多様で幅が広すぎるうえに、あまりにも数が多すぎるので、そんななかで場当たり的に生きていったら人生がいくらあっても足りず、よくて「風呂敷の拡げすぎ」たいていは「なにがなんだかわからない」ということになり、気力と時間だけを浪費してしまう

からなのである。

だからやはり、なんでも手当たり次第に放り込んだり迎え入れたりすればいいというわけではないのだ。それだけは、よくよく肝に銘じてほしい。そのうえで、いろいろなものを見聴きしながら、真実(どうすればしあわせになれるのか?みんなで支え合っていられるのか?)を、追求していったらいい。酸いも甘いも地獄も天国も味わえるということ、そこに霊媒の醍醐味があるのだから。そしてもちろん、それに終わりがないからこそ飽きることもあり得ないというのは、私が保証しよう。

それにこれは、

なんで1日ってこんなに長いんですか?濃すぎですよ!あり得ないですから!

とよく言っている彼も、切実に賛同することだろう。

 

そしてなにより冒頭のひとも言っていたように、本当は誰もが多少なりとも寂しさを抱えているのだろうと、私も思う。だからやはり、本当は誰でも、霊と関わることができるはずなのだ。だから私が特別だというわけではないのだが、結局は

「寂しさを感じやすいこと」であれなんであれ、どんな性質でもやはり、「それをどう活かすか」が問われてくる

ということなのだろうと思う。そしてどんな感情であれ、宛てもなく呑み込まれれば身を灼き滅ぼす。だからそのひとつの参考として、私にとっては特になじみ深い寂しさを例に挙げてみたということでもある。

そしてそのうえで、私がその寂しさをうまく活かせていることで、霊媒師として役に立てているのなら、まぁよかったとも思う。ただ私も先ほどの落とし穴には、いつも注意している。そしてだからこそ、もしあなたが私の同類なら、もちろん強い自戒も込めつつ、もうひと言だけ付け加えておこう。

ただ一心に、相手をよく見てあげること。寂しさは埋めようとするものではなく、「結果的に埋まるもの」だから

ということを。だからこそ私たちは、かけがえのない相手との出逢いを心から喜べるはずなのだ。寂しがり屋と霊媒に近しさを感じるとしたら、それは

「見る眼を養う必要がある」(目先の餌→罠に飛びついてはいけない)

という核心が確かに共鳴しているからなのだろうと、そう思うのである。

Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2020 Dilettante

コメントをどうぞ (名前・アドレス・サイトの記入は任意です)

タイトルとURLをコピーしました