「自分の痛み」と「他者の痛み」の差。それを乗り越え互いを理解し合うには、どうしたらいいのだろうか?

昔から

我が身をつねって他人の痛さを知れ

という警句がある。これはいわゆる

「自己中心的・独善的態度」

を戒め、他者の痛みや苦しみに想いを寄せることを説いたものだと言っていいと思う。

ただもう少し考えてみると、

いくら自分をつねってみたところでわかるのは「自分の痛み」にすぎないのだから、結局「他者が感じている痛みそのもの」を感じることはできない

ということが明らかになる。だから

私たちはある意味では、「どこまで行っても自己中心的でしかない」とも言える

というわけだ。

 

それならこれを踏まえて、さらに具体的に考えてみたい。これは私の個人的な感覚なのだが、私は

一般的に、自分の痛みは「+20〜50%」、他者の痛みは「−20〜50%」くらいの傾斜がかかったうえで認識されていると思えばいいんじゃないか?

と思っている。

つまりもし自分と相手がそれぞれ同じ「100」の痛みを感じているとしても、自分にとってはそれは「120〜150」くらいに感じられる一方で、相手のそれは「80〜50」くらいに思えてしまうということだ。いったんこのような観点を導入してみると、私たちがわかり合うことがなぜこんなにも難しくなっているのかという問いへの糸口が、うっすらと見えてくるような気がするのである。

だから私は基本的に、

相手が痛みや苦しみを訴えてきたらそれを倍くらいに受け止めて聴き、自分の痛み・苦しみは半分くらいに差し引いて伝えて、それでようやく「実態」に近い認識ができるんじゃないか?

とも思っているのだが、これにはこれでいくつかの懸念というか問題もある。そのひとつが私自身がよく言われる

あなたは自分の痛みを相手に投影して、深刻に捉えすぎているんですよ!

というものである。これは特に

「自分がかつて、あるいは今現在抱えている苦しみ・痛み・傷と似たものを抱えている・訴えてくる相手」

に対して起こりやすくなることである。これは「相手の気持ちを軽んじていない・疎んじていない」という点においてはいいことなのだが、

「自分ごとでないからこそできる冷静な判断、痛みから距離があるからこそ持てる広い視野」という利点を失ってしまう危険もある

ということだ。

そしてもうひとつの問題は、

「自分の痛みは過大評価されている」という認識に基づいてそれを抑制しているうちに、今度はそれが「自分の痛みの過小評価」へと転じてしまうことがある

ということだ。だからこれはこれで、やはりそう単純な話ではないのである。

 

こう考えてみると結局は、

相手の痛みにしろ自分の痛みにしろ、それを過大評価も過小評価もせずに、「ただそのままに受け止め、伝え合うことで理解し合い、助け合う」というのは、やはり実に難しいんだなぁ……

と言うしかないのではないかという気もしてくる。だがだからこそ、私たちは「たった1回限りの人生」ではなく

「何度も生まれ変わり死に変わり、環境や立場を換えながらいろいろな経験を積んでいける環境」

が与えられているのだろうとも思う。そしてこれはある意味では誰でもが

たった1回の、たったひとつの立場からの経験では、なにもわからないのもしかたがない

ということに気づいているということなのだろうと、私は思うのだ。

だから私たちは、私は、これからも何度でも生まれ変わって、いろいろな理解を深め続けていきたいと、心から思っている。そしてその願いが叶えられる環境が、確かに与えられている。こう考えるとやはりこの世界は、少なくともその根源にあるものは、素晴らしいとしか言いようがないのだろうという気もしてくる。

そして私は、きっと誰もが本当は、

みんなと理解し合い、和やかに調和して生きていきたい

と思っていることを信じている。だからこそ、たった1回では、たった数十年ではなにもできなかったと思ったとしても、諦めないことだ。少しずつ、少しずつでいいから進んでいけばいい。深めていけばいい。積み重ねていけばいい。そして私は

私が経験したあらゆる苦しみや痛みや傷は、「かつては誰かが経験したもの」であり、これからまた誰かが経験するもの」でもあるんだろう

と思っている。

だがそれでも、私の痛みはあなたの痛みではなく、あなたの痛みは私の痛みではない。どんなに似ていても、同じではないのだ。

けれどそのすべてを認めたうえで、もしかしたら永遠に不可能なのかもしれないとしても、その可能性を永遠に追求すること、それもまた愛なのではないかと、私は思うのだ。

 

それに本当は、私たちは痛みを味わうために存在しているわけでも、苦しみにもがき続けるために存在しているわけでもない。どこまでも深く愛し合い、理解し合い、しあわせを深め合うために、存在し合っているのである。私は、そう信じている。そして、私がここまで強くこう言い切れるのは、確かに私の痛みや苦しみのおかげでもあると思うから、その意味では私は私の味わった苦しみにさえ感謝できる。ただそれ以上に、私がここまで強い想いを保っていられるのは、それだけしあわせになってほしい、一緒にしあわせを味わいたいあなたがいるからだとわかっているから、私はやはり誰よりも、あなたの存在に感謝しているのだ。

いつかすべての痛み・苦しみが糧となり、互いを深く結びつける絆となりますように。どこまで行っても完全には埋まらない溝を前にして、だからこそずっと手を伸ばし続けるその意志が、どんな変化や荒波にあっても私たちを繋ぎ留めるということを、私はまだ、ちゃんと信じられている。だからいずれは、みんなだいじょうぶなんだと思う。すべては、いずれ癒える。そしてそこからなにが生まれるのかは、まだ誰も知らない、お楽しみだということなのだろう。

*『アムとイムの歌・订正』*
Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2020 Dilettante

コメントをどうぞ (名前・アドレス・サイトの記入は任意です)

タイトルとURLをコピーしました