「自分探し」
などという言葉が流行り始めたのは、いつ頃だっただろうか?今はひと昔前ほどそんな言葉を耳にすることも減っているような気がするが、それでもこうした
「アイデンティティ」
の問題、つまり
自分とはなにか?
という問いは、本当はいつだって私たちのなかにあり、折に触れて浮かび上がってくるものなのだろうと思う。
だからまずこのような問いに対する私なりの答えを先に書いてしまうと、それは
自分というのは、「絶対に逃れられず、どんなに嫌いでもずっと傍に居続けるもので、たとえ一時的に放り投げてもいずれ必ずまた戻ってくるもの」だ
というようなものになると思う。
たとえばこれが職場(仕事)だったら、
こんなにつらいんだからもう辞める!
と言うことができるし、実際にそれを実行することもできる。同じように、たとえどんなに長く一緒にいたひとであっても、「離婚」したり関係を解消したりすることはできる。もちろんそれは簡単ではないかもしれないが、少なくとも可能ではある。そして今の日本のような社会では、そのように
「嫌なもの・不快なものからは無理をせず逃げる・離れる・区切りをつける」
ことが昔よりはずっと奨励され、実行しやすくもなってきていると思う。
それによく
家族・肉親との縁は切っても切れない
というようなことを言うひともいるが、それすらも本気で切ろうと思えば切れないことはない。もちろん、その「縁」というのを
「遺伝子的影響、あるいは幼少期に刷り込まれた強固な世界観・クセ……」
といったものにまで拡大して捉えるのであれば、それは確かにゼロにはできないかもしれない。その意味で、やはり家族や肉親の影響力には格別なものがあるというのも事実だとは思う。だがそれでも、その関わりや影響力を限りなくゼロに近づけていくことは、やはりできなくはないのだ。
だがこれが
「自分自身」
となった途端、話はまるっきり変わってしまう。
たとえ自分がどんなに嫌いでも、厄介で不快で手に余るとしても、自分自身からだけは、離れることも逃れることも絶対にできない。だからそれと比較したら、先ほどの家族や肉親の影響力など塵のようなものだ。たとえ私が誰に疎まれようが嫌われようが憎まれようが、私だけは私から離れることはできない。それが、自分というものなのである。
だとしたら、
そんな自分と、どうやって付き合っていけばいいのか?
という問いは、誰にとってもこれ以上なく切実な問いだということになる。そしてこれに万能の答えはもちろんないのだが、それでもこれをよくよく理解することで、
「これよりもう少し簡単な問題」
を解決する糸口くらいは、見つけることができると思う。
つまり私はさっき
自分とはなにか?
という問いに対して
自分というのは、「絶対に逃れられず、どんなに嫌いでもずっと傍に居続けるもので、たとえ一時的に放り投げてもいずれ必ずまた戻ってくるもの」だ
という答えを挙げたが、その答えを裏返すと、
逃げようと思えば逃げられるもの、切り離そうと思えば切り離せるもの、放り投げたらもう返ってこないし、拾いにいこうとも思えないもの、それは少なくとも「自分」ではない
ということになる。つまりそう考えていくと、私たちはいずれ間違いなく、少なくとも今よりはずっと深く、「自分自身」のことを理解できるようになると、私は確信しているのだ。
もちろんその「自分自身」をもう少し広く捉えて、いろんなものを巻き込みつつ大まかに自分を捉えていても、普段は特に問題ないし、それでいいと思う。
だが、ときとして私たちが
「自分の本当の核心」に迫りたい!それを確認したい!
という気持ちになったときには、自分以外のものを極限まで削ぎ落としてみることにも、大きな意義があると思う。
たとえば私はカレーもラーメンもそれなりに好きだが、この世界からカレーもラーメンも消滅したとしても、それで私が生きる意味を見失ったり、腑抜けて動けなくなったりするようなことはない。だからそれは、「あったらいいもの」くらいではあったとしても、私自身の核心を成すものではない。つまり、カレーもラーメンも私ではないということだ。
だがたとえば私がある日、私がまだ生きていて、それを書く力が残っているにも関わらず
「『闇の向こう側』の活動を強制的に止められる」
というようなことをされたら、私はとても困るし、ショックを受けると思う。そしてそのうえでなんとかして、別のかたちで似たようなことを続けられないかと、できる限りの模索を続けると思う。
つまり私にとって『闇の向こう側』は、それ自体が私自身の核心を成すとまでは言えないにしても、少なくとも
「私自身の核心と深く結びつき、共鳴している」のは間違いない
と思う。そしてだからこそ私は、この活動に力を注いでいるときに、
これはとても私らしい
と感じ、他のこと以上の力が湧いてくるのを実感できるのだと思う。
それにそうでなければ、ここはもうずっと前になくなっていたか、そうでなくても保守管理されなくなっていたはずなのだ。それに、たかがこの8年の間でさえ、その選択肢がちらついたことは何度もあった。だが、私は「やめることができなかった」のだ。それどころか、
絶望的な状況・心境になればなるほど、それをこの『闇の向こう側』の糧にし、なんとか活かそうとしてきた
というわけなのである。
だからあなたはここを深く理解すればするほど、そこから私を理解することになると思う。だから、ある意味・ある観点から見れば、
ここは私と直接会って話す以上に、私を理解する素材・手がかりになり得る
とさえ言えるかもしれない。
そしてだからこそ、私はそんな私から、もう絶対に逃れることはできないのである。それは来世の私がこのからだでなくても、今のような活動をしないとしても、それでも変わらないものだ。なぜなら私は、私でしかないからである。
今まで数限りなく言ってきたことだが、今のような社会ならなおさら、
「あなたに『あなたではないもの』をくっつけ、染み込ませる仕掛け」
というのは山のようにあって、四六時中蠢いている。
だから私は、あなたにあなたを取り戻し、掴んでいてほしいと、ずっと願っているのだ。
もちろん、あなたがあなたらしく変わるのはいい。それは成長だから。だがあなたがやりたくもないことをやらされ、言いたくもないことを言わされ、それにすら気づかないまま流されているのは、そしてそれを
私は前とは変わったんだから!
と思い込まされて無理やり正当化されるのは、どう考えても間違っている。だからその落とし穴・罠は、なんとしても避けるか、あるいは這い上がらないといけない。
私には、自分なんてものはないんですよ!
というひともいるが、それも思い込みなのだ。もし本当にあなたに「自分」がないなら、あなたはここに生まれてきていない。というかそもそも、魂自体が存在しない。だから、あなたにも必ず自分がある。今それを見失っていたとしても、
それはもともとなかったのではなく、「見失っているだけ」だ
ということは、覚えておいてほしい。そうすれば、そこからすべてを変えていける。
そしてもっと単純に言ってしまうと、
自分というのは、「自分が本当に好きなもの」だ
そしてこの「自分が本当に好きなもの」というのは裏を返しても同じことだ。つまりこれは
あなたが本当はなにが好きなのか、あるいは本当はなにが嫌いなのか、それがあなたの核心を成すものだ
ということなのだ。そしてこれも何度も言ってきたとおりこの
「本当に」
というのがまた肝である。だから

と言うのである。
だが逆に言えば、この
自分とはなにか?
ということを理解している、あるいは理解を深めようとしているのなら、あとはもう時間の問題で、いずれすべては必ず晴れる。別に自分のことを好きである必要さえない。それはいずれなるようになるから。そんなのは枝葉の部分なのだ。大切なことは
自分からは決して逃れられない
ということを理解することだ。そうすれば自殺は当然のこと、いろいろな迷いや思い込みは自ずと消えていく。そしてできることならそこからもう一歩踏み込んで
どうせ逃げられないのなら、逃げないと自分で決めた
と言える自分でいることだ。そうすれば、あとは自動的にすべてがあなたを成長に導いてくれる。というか本当は、
あなたがあなたである以上、あなたはあなたらしく成長していくに決まっている
のである。ちなみにこのことを完全に腑に落とした状態を
「無敵」
というのだが、私はそこまで達してはいない。というか、私がそんな境地に達することがあるのかどうかはわからないが、ともかく私は私なのだから、ともかくこれからも私として、できる限りはやってみようと、そう思っているのである。

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