知識と見識。「自分はこう思うからこう生きる」という指針を保っておくことは、これからますます役に立つ

現代社会は、明らかに「高度情報化社会」であると言える。そして先日

私が見る夢の変化と、さらに激しさを増す情報戦。そのなかで私が、今伝えておきたいこと
こないだ年明けを迎えたかと思いきや、もうすぐ5月を迎えようとしています。いかがお過ごしでしょうか? 私は今年の始め という文章に、私の率直な想いや考えをまとめたのですが、そこに記した 東京オリンピック・パラ...

と書いたように、その情報はますます複雑化し、大波となって日々私たちを呑み込もうとしてきている。

しかしこれはもともと私たちがずっと

「必要とされる情報をまとめ、知識として与える」

という教育を受けてきたことから始まっていることであり、真新しいことではない。そしてそのような選択は、

「ゼロから自分だけで見出すよりも、ずっと効率的に素早く、先人の発見を共有できる」

という点では、確かに優れているとも言える。そのおかげで、私たちは先人が苦労して培った果実を、本人よりはるかに簡単に吸収し、さらに先へ歩んでいけるのだから。

ただこれにもいくつかの注意点があることも忘れてはいけない。それは、

先人から共有されてきた知識が必ずしも正しいとは限らない

ということ、そして

与えられる知識を吸収することに気を取られるあまり、「自分のアタマで考える」ということに不慣れになったままではいけない

ということだ。そしてこれはこれからますます世界が激しく動いていくのであれば、絶対に欠かせない心構えだと思うのである。

 

ここでいったんこの先の定義を合わせておくと、世のなかにいろいろな情報があふれているなかで、それを一定のまとまりや体系のなかに位置づけたものを「知識」と呼ぶことにする。そしてその知識のなかでも、特に多くのひとから支持されたり受け入れられたりするようになったものはさらに「常識」と見なされるようになる。ここまで来ると、それは様々なかたちで教育されることで自然と再生産・強化されるので、ますますその力は強くなっていく。

ただ、先ほど言ったとおりこうした知識や常識は、必ずしも正しいとは限らない。たとえば

霊などというものは存在しない

というのは日本も含む現代社会ではほとんど「常識」と言っていいほどの知識かもしれないが、これは私からすれば正しくない。

では私が、

霊存在は確かにいるし、みんなに影響を与えている

と思っているということ、これはいったいなんなのかと言えば、私はこれを先ほどの

「知識」(常識・多数意見……)

と対比して、

「見識」(見解・自分の意見……)

と呼んでみたいのである。

 

この知識と見識は、両者とも「情報」を素にしているという点では共通している。ただここで言う「知識」が他者の経験・解釈に依っているのに対し、見識は

「自分自身の経験や考察、あるいは従来の知識に対する再検討」

を土台にしているという点に特徴がある。だから私は私として、

霊存在は確かにいるし、みんなに影響を与えている

という見識を保っているのである。

 

私は特別に宗教的な家に育ったわけでもないし、なにか特殊な教育を受けてきたわけでもない。だから私がもしたいした経験もなく育っていたら、周囲の常識に強く抗うこともなく、「常識的な宗教観・死生観」を保つひとになっていた可能性は高いと思う。

しかし私は、どうしても無視できない経験をすることによって、ほとんど否応なく常識の再検討を迫られることになった。そのことが、私にこのような見解を持たせたのだ。

そしてこれは、今となっては文字どおり私の「血肉」のようなものになっているので、誰かに多少のことを言われたくらいでは、ほとんど揺れることすらない。だからこそ、こうした「見識」は、今の私の人生に色濃く反映され、圧倒的な影響を与え続けているのである。

 

ただ私は別にありとあらゆる分野のことについて自分で「見識」を保っているわけではないし、その必要もないと思う。それに、知識と見識はいつも対立するというわけでもなく、知識をいったん受け止めたうえで、自分でもそれに納得して「見識」として採り入れることも多い。そしていずれにせよ最も重要なことは、

自分にとって大切なこと、自分の人生の基礎に関わることくらいは、なんとか自分なりの「見識」を見出しておく

ということなのではないかと、私は思っているのである。

ただこう書いてみると明らかなように、この

自分にとって大切なこと、自分の人生の基礎に関わることくらいは、なんとか自分なりの「見識」を見出しておいたほうがいいのではないか?

というもの自体が、私の「見解」のひとつに過ぎないのも確かだ。それに自分で培った見識(見解)だからと言って絶対不変というわけではないし、そこには異論が出され得るだけでなく、あとではっきりとした誤りが見つかることも充分にあり得る。だからこそ、それはいつも検証され、適宜練りなおされていくべきだと思っている。だがそうしたことも踏まえたうえで、私はやはりこうした見識をみんなそれぞれが見出していくことは、今のような激動の時代を生きていくのに欠かせないことだと、そう思っているのである。

 

たとえば昨今の新型コロナウイルス(COVID-19)についてもそうだ。これについては世界中で様々な説が唱えられ、いろいろな情報が乱れ飛んでいるのだが、そのなかで仮に

「日本政府の公式見解」

として出されているものをそのまま採り入れるにしろ、または別の誰かの説を信じるにしろ、自分なりになんらかの「見識」を育んでいかないことには、ただ闇雲に混乱してしまうだけだと思うのである。

そしてたとえば2011年の東日本大震災のときもそうだったが、こういった広い範囲に影響を及ぼす事態が起きたときにこそ、それぞれの見識や選択が人生そのものを大きく左右する。あの震災を機に住む場所や仕事や生きかたを換えたひとはたくさんいたと思うが、今回もここが人生の転機になるひとは大勢いると思うというか、これでまったく影響を受けないひとはどこにもいないだろうと思う。そしてこういうときには、自分自身の見識しか、最後に頼れるものはないのである。

自分が知識によって動いているのか見識によって動いているのかを確かめる簡単な方法は、

もしそれが間違っていたときに、自分はどう思うだろうか?

と考えてみることだ。もしそのときに

騙された!

と感じるのであれば、それは「知識」でしかない。少なくともあなたはそれを腑に落とせてはいなかったのだ。

対してそれが「見識」であったなら、それが間違っていたときには

私の見立てが間違っていたんだな……

と思うことになる。つまりここで私は「私の責任」において結果を受け止められるのである。自分で責任を取れない判断に、自分の核心を預けられるわけがない。これは、当たり前のことだと思う。

そして私は、必ずしも今回の新型コロナウイルスだけが

「変化の旗手」(決定打)

になるとまでは思っていないのだが(なれるならなってくれてもいいのだが)、いずれにせよ本当に必要な大変化が余すところなく起きるときが来たら、そのときに

「国」

というものは重すぎて、そんな判断を待っていたのではどうにもならなくなると思うのだ。そもそも国というのは

「経済的・あるいは物理的戦争の際に団結して力を集める」

ためにこそ、ある程度の規模が必要なのであって、

戦争なんかしている場合ではなく、カネがどうとか言っている場合でもない

というような本当の正念場のときには、そんな広い範囲のことを一手に引き受けられるはずはなく、せいぜい「都道府県」とか、あるいはもっとちいさな「地域」単位で判断しなければどうにも間に合わないだろうと思う。

そしてもちろんそんなときにはどこにも「正解」などないことは明らかなのだから、それぞれが「自分の見識」によって判断するしかないのだろうと、そういうわけなのである。

 

もちろん

国が機能停止するような非常事態なんて、そんなことが起きるわけないだろ!

というのがあなたの見解ならそれはそれでいいと思うし、私も今すぐにそうなると思っているわけではない。ただ私がずっと願い協力している未来図がどんなものだったかということを踏まえたうえで、

もし本当にここまでの変化が起きるのだとしたら、その過程ではどんなことがあり得るだろう?

と考えたら、私がこういう立場に立つのも自然なことだとわかってもらえると思う。私はずっと、

あなたがびっくりするほどの変化が起きる

と、あなたよりずっと強く深く、信じているのだから。私はそういう見識を保ったひとなのだから。

 

そしてそんな私は、

その過程になにがあろうと、最終的には今よりもずっと素晴らしい世界になる。というか、それに協力したいから、私もこうして生まれてきたんだ。だから私も、そのために全力を尽くす

と思っているので、その点では確かに

「楽観的」

だとも言える。なにも起きようが起きまいが、最終的に今よりもいい世界になっていれば、それでいいのだ。そして私は、実際にそうなると思っている。これが私の「見解」だ。あなたは、どう思うだろうか?そしてあなたはこれから、どう生きていきたいだろうか?

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