愛の極致。「究極の愛」と呼べるようなものがもしあるとすれば、それはどんなものだろうか?

私たちにとって、愛ほど厄介で、魅惑的で、強烈で、圧倒的で、避けがたく、変幻自在なものはないと思う。愛は文字どおりあらゆるものを生み出し、力づけ、変化させる。

その意味において、

この世界の根底には愛がある

と言うのなら、私もきっとそうなのだろうと思う。

だから、私たちはその気になりさえすればどんなもののなかにも愛を見出すことができるし、逆にどこにも愛などないと言い張ることもできる。あまりに大きく広く深いものは、一見すると限りなく無にも見えるのだから。

そしてそういうことなのであれば、

あらゆる愛は相対的なもので、あとは「好みの問題」だ

と言ってもいいのかもしれないし、私もそう言われたらそうなのかもしれないというくらいには、それにも一理あると思う。それにだからこそ私は前に、

すべてが愛とも言えるからこそ、自分が好きな愛を見つけ、それを大切に育めばいい
先日、私はこんなことを書いた。 そしてそのさらに前には、こんなことを書いた。 私は、こんなことに想いを巡らせるのがわりと好きだ。というよりも、気づいたらこのような取り留めのないことを考えている。そしてそれはやはり...

とも書いた。

だから今から私が書くこともある意味では

「私の好み」

にすぎないとも言えるのだが、それでも私も愛を求め、愛を宿し実践したいと願う存在のひとりとして、今までに書いてきたことも踏まえつつ

「愛の極致=究極の愛」と呼べるようなものがもしあるとすれば、それはどんなものだろうか?

というような問いにどう答えるか、今の私なりの考えをもう1歩深く共有してみたいと思う。

 

そうすると私にとっての「愛の極致=究極の愛」には、大きな3つの要素が併存しているのではないかと思う。それは

「不屈・無償・永遠」

の3つだ。だからそれぞれ、もう少し詳しく見ていこうと思う。

まず

「不屈」

についてだが、私は誰からも狙われず攻められない愛を見たことがない。それどころか

その愛が強く大きく深いものに育ち得るものであればあるほど、徹底的に攻撃され、潰そうとされる

と言ったほうがいいと思う。だからこそ愛は、不屈である必要がある。あらゆる動揺・攻撃・中傷にも耐え抜く不屈さを保ち続けることなしに、愛の極致には至れないと私は思うのである。

 

そして次の

「無償」

についてだが、この表現はあまりにも使い古されたものでもあると思うから、もう少し別の表現で補足すると、

「『自分がそれを好きだから好きだ』という、自分に根ざした想い」

であるということだ。つまりこれは、たとえば

相手が好きだと言ってくれるから好きだ

などというものとはほとんど対極にあるということだ。なぜならこれは結局は

相手が自分を嫌いになったら、自分も相手を嫌いになる(少なくとも、好きではいられなくなる)

ということに通じるからだ。だからたとえ最初は相手からの想いに連れた好意であったとしても、いずれはそれを

「自分自身に根ざしたもの」

にしていかなければならない。そうしない限りそれは本質的に

「返礼」(恩返し)

の域を出ないからだ。

だからその意味で、たとえ相手に好かれていなくても、報われなくても、なにひとつ自分に「見返り」や「報酬」がないように見えても、それでも

私が愛すると決めたから、愛する

と言い続けられるかどうかが、いずれ必ず問われることになるのだと、私は思う。

 

そして最後の

「永遠」

という要素、これはある意味なによりも「ありきたり」に思える発想とも言えるだろうが、やはり

「愛の極致=究極の愛」

について考えると言うのなら、これを避けて通ることは不可能だと私は思う。

そしてそもそも、それが愛であれなんであれ、

永遠に変わらないものなどなにひとつないのではないか?

という問いは強烈で、常に厳然としてそこに存在する。それに前にも

「ない」と言われたものと生きていく。要らないのなら、私が貰い受ける
「霊媒師」とは、特に今のような時代に霊媒師でいるとはどういうことなのかと考えていた。霊媒師とは、「霊の媒体となる者」であり、「霊存在と肉体人の仲介をする者」であり、「あらゆる世界の存在と関わり、対話し、お互いの意志を伝え合う者」である。そし...

で触れたように、

永遠のなかで永遠に変化を続けていくのがこの世界なのだから、変わらないものはなにひとつない

と言うのが、現段階でのひとつの主流を成す解釈であるというのも確かだと思う。

だがそれでも私は、

多少の変化はあるにしても、核心はずっと変わらずに、『無限に深化する愛』があり得るはずだ

と思っているし、誰になんと言われようが、そう言い続けている。

ただ言うまでもなく、永遠というのは文字どおり永遠なのだから、

永遠の愛があった

と証明することは、永遠をかけても不可能である。

だからその意味ではすべては「未完成」であり、「発展・成長の途上」でしかないのだということは、私もわかっている。ただそのうえで私が言っているのは、

だからこそなにを願って、どこを目指して、なんのために存在し続けるのか?

という、そういう話なのである。

 

それに私は別に、

脆く打算的で一時的なもの、そんなものは愛じゃない

とまでは言うつもりもない。本人がしあわせであるなら、それを喜べるのなら、それはそれでいいんだと思う。そもそも

「永遠の愛」なんてそんなもの、重たすぎて疲れる

と言うひともいるのを知っているから、それも結局は

「好みの問題」

なのだとわかっている。

それに少し話を派生させると、たとえば今の日本にも見られるような

「結婚(婚姻)制度」

というのも、どれだけ控えめに言っても

「再検討の余地がある」

のは間違いないと思うし、それこそ未来では確実にかたちを換えることになると思う。

ひとつの「理想形」ではあるにしても、それを「義務」(唯一無二の正義)であるかのように万人に押し付けるのは、明らかに無理と歪みを生む

のだから。

だがだからこそ私には私の好みがあるわけで、

「私の思う愛の極致・究極の愛」

というのがある。そしてそれはつまり

「私にとっての、愛の理想像」

がこういうものだということなのだ。だから誰より私自身がこういう愛を追い求め、自分自身のなかに育み続けたいと、そう思っているということなのである。

それに少し考えれば明らかなように、この

「不屈・無償・永遠」

という要素は、実際にはお互いに深く結びつき、重なり合ってもいる。だからやはり、愛は複雑であるようで、実は単純なのだと思う。だが単純だからと言って、簡単だとは限らないというだけだ。だがだからこそ、それには永遠をかける価値がある。私は、そう思っている。

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  1. 浮遊人 より:

    『好み』という前提の話ではありますけれど、他人の私も共感するところが大いにあります。

    その上で、です。何億、何兆と自問を繰り返してきたことですので自分に向けての、毎度の問いかけでもあります。

    もっとシンプルなものではないの?

    この、想いを持ち続けた後でなければ得られないものなの?

    そうであるならば、私があまりにも駄目であるから、成長しなければならないから、なの?

    確かにね。そういうところはあるね。未熟者だものね。自覚している。

    ・・・

    ・・・

    ・・・

    ええっ!!?

    やっぱりそうなの???

    でも、自分はそんな生き方、求めてないよ!

    ・・・

    ・・・

    いや、

    求めてはいないけれど・・・

    今まで(今も?)の自分は幸せになる資格はないかなぁ・・・

    ・・・

    幸せになる資格かぁ・・・

    ・・・

    ・・・

    って、みんな持ってるのかよ???

    ——————————–

    はい。

    概ね、このような感じです。

    幸せそうな人達、いますねぇ。本当に素晴らしい。

    でも、苦しそうな人もいますね。

    さて。

    私は不幸と感じているかというと、

    そうでもない。幸せではないけれど。

    幸せになる可能性(自分が不幸でない。人を意図して不幸にしていない)はあるかもしれない。

    そう、考えています。

    しかし、これが『愛』における『好み』かというと、頭を抱えます。

    何と言いますか、そう生まれついた、という感じです。

    だから、もっとシンプルにしてくれ、と願うのです。

    そして、真相は常にシンプルで、

    私がマイノリティーなだけなのです。

    だからこちらの記事をよく拝見します(失礼!)。

    だから、こちらの記事を見ている誰かが、

    誰でもいい。

    『私は幸せになった!』

    と宣言してほしい。

    ・・・

    ・・・

    ・・・

    未だ、そのコメントがない。

    だから、だれか宣言してほしい。

    とういうか、dilettanteさん、

    あなたが幸せを宣言しなければ。

    地に足をつけた存在として。

    いつかね。

    • Dilettante Dilettante より:

      浮遊人さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      もっとシンプルなものではないの?

      この、想いを持ち続けた後でなければ得られないものなの?

      だから、もっとシンプルにしてくれ、と願うのです。

      そして、真相は常にシンプルで、

      私がマイノリティーなだけなのです。

      ええ、おそらく究極的には、

      私たちは誰もが愛によって生まれ、育まれ、無限に変化・成長を続けられるようになっている

      という点において、誰もが無限の愛を受けていて、絶対的にしあわせであるというのが、

      「真相」

      なのだろうとは思います。だから、本当はシンプルなものだというのも、きっとそのとおりなのでしょう。

      ただ私は

      どうせ永遠に存在するというなら、いつだって「その1歩先」を目指してもいいんじゃないのか?存在できることが愛だからそれに感謝するということだけで、話をまとめてしまうのはつまらないんじゃないのか?私たちは、私は、存在するために存在しているだけじゃないんじゃないのか?

      と、こう思ってしまうのが私なので、まぁ、しょうがないのでしょう。そのうえで、

      だから、こちらの記事を見ている誰かが、

      誰でもいい。

      『私は幸せになった!』

      と宣言してほしい

      というところに関しては、おそらくこの『闇の向こう側』を気に入ってくださるようなひとならなおさら、

      「しあわせになった」なんて思ってしまったら、またいずれそれが壊されるような気がするから、決して油断したくない

      と思っていたりするからなのではないかなと、そんなことを思ったりします。そしてもしそうだとしたら、私個人的にはそのような慎重さを愛おしく思います。というか、こんなめちゃくちゃな世界で何十年も生きていたら、そのくらい慎重になるのも無理はないと思うわけです。

      ただだからこそ、どんなに慎重なひとでさえ、どうしたってこれはしあわせとしか言いようがないというところにまで、圧倒的に素晴らしい世界を実現したいと思っていますし、すべてがうまく行ったらきっとそうなると思います。あとはそのうえで、それぞれの個性を存分に発揮していけばいいんですし、今はその

      「本来当たり前の前提」

      から根本的にめちゃくちゃになってしまっているので、もうそろそろさすがになんとかしたいと、そう思っています。というか、いつだって私はそう思ってきたのですが、ここまで時間がかかってしまったことは、言いようのなく歯がゆいことです。

      まぁ、だからこそ今生でやりきれれば、それでよしとしようと思っているんですけどね。

      と、ここまでの一般論を踏まえたうえで、

      とういうか、dilettanteさん、

      あなたが幸せを宣言しなければ

      という部分について言いますと、私もいずれは必ずしあわせになれると思ってますし、私の理想にいつどこまで近づけるかをいったん措いて、たとえば10年1000年1万年と過去に遡れば遡るほど、あのときよりはずっとしあわせに近づいているというのは間違いないと思います。それにきっとあと100年もすれば、私も自分の肩の荷を下ろしてもいいと思える日が来るんじゃないかとも思っています。

      ですがこの答えでは、あなたの

      地に足をつけた存在として

      という条件には適さないですよね。ですからもちろん、今生でもできる限りのしあわせを追求していきたいと思っていますし、すべてが凄まじくうまく行ったら、今生の間に私が心からそう言える日も来るのかもしれないとは思います。なので私は私のできる限りを尽くしたうえで、あとはもう、見てのお楽しみというところでしょう。まさに

      人事を尽くして天命を待つ

      というのが、今の私の心境なのです。

  2. 浮遊人 より:

    そう。

    人事を尽くして天命を待つ。

    『奇跡が起こる準備はできている。』

    こう言いたくて、

    奇跡が起こる準備をしています。

    色々と、苦しいと言える経験をしてきましたが、

    それは人それぞれ、程度の差は有れ、感じ方の差は有れ、

    してきていると思いますが、

    後悔は無い。

    こうしておけば良かったと思えることは有れ、

    当時の私としては最大限の努力をしてきたと思えること。

    『愛』というテーマの記事でしたが、

    そこから何を想起するかも人それぞれですが、

    何を見ているかは違っていても同じ方向を向いているのでしょう。

    前のコメントで『私は幸せになった!』と宣言してほしいと書きましたが、

    皆が方向を見ていれば、

    理想を追求していれば、

    その実現は時間の問題で、

    すでに素晴らしい世の中であるのかもしれませんね。

    私はこのような感覚を誰かと一緒に感じながら生きていきたいのだと思いました。

    せっかく生まれてきたようですし、生きているわけですから。

    個人として何かを実現したいというのではなく、

    共有したい。

    『愛』は個人では完結しませんからね。

    よし。

    明日もがんばろう。

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