先日も何度も書いたように、自分というのは、誰にとっても極めて影響力の高い存在でありながら、いちばん厄介な存在であると言ってもいいと思う。
そして、そんな自分自身のことを好意的に捉えることが多いか、それとも否定的に捉えることが多いかという問題は、一般に
「自己肯定感」
という言葉で表現され、それが高いか低いかというのはそのひとの性格や人生に多大な影響を与えると考えられている。
そして私も以前から
それに実際、私は過去に傷つけたり哀しませたりしてしまった多くのひとたちに対して罪悪感を保っているという自覚もあるし、そもそもずっと昔から、いわゆる
「自己肯定感」
のようなものは低いと断言できる
時間帯による負の念の変動。私が「精神病患者」だと見なされるのも無理はないが、だからこそ私が伝えたいこと私たちは、日々たくさんの負の念を受けながら生きている。これが 「異常事態」 であることは間違いないのだが、少なくとも現時点では、世界全体がまだまだ異常なので、そこに生きる私たちも、当然のようにそのようななかに置かれているというこ...
と言ってきたし、その認識は、基本的にはずっと変わっていないと思う。
ただ私は、こうした自分自身についてずっと私なりに向き合ってきたなかで、最近になって
一般的な意味では確かに私の自己肯定感は低いと思うけど、それとは別の視点から見ると、意外にそうでもないとも言えるのか?
ということに気づき、また少し、今までより視野が拡がったような気がしているのである。
その「新しい視点」とは、
自分のすべてを理解されたら、いったいどうなると思うだろうか?
という問いなのである。
私は前にも
あなたは、自分のことが好きだろうか?
私は、好きなようで嫌いで、嫌いなようで好きだ。これは、煙に巻いているのでもふざけているのでもなくて、私が私自身に抱いている感情をできるだけ率直に表現すると、こう言うしかないのである
「それが、あなただもんね」。ある守護霊から苦笑いでそう言われて、私のなかに湧いた想いあなたは、自分のことが好きだろうか?私は、好きなようで嫌いで、嫌いなようで好きだ。これは、煙に巻いているのでもふざけているのでもなくて、私が私自身に抱いている感情をできるだけ率直に表現すると、こう言うしかないのである。
などと言ってきたし、こういうふうに表現する以外にはないと思ってきた。だがそんな私が、もし先ほど挙げたように
自分のすべてを理解されたら、いったいどうなると思うだろうか?
と問われたら、私はやはり
もし本当に私のすべてを理解してくれるひとがいるとしたら、私はきっとそのひとにだけは、絶対に嫌われないし、見放されることもない
と思わずにはいられないのである。
こうした問題はあまりに繊細なものなので、なかなか他のひとの想いと比べる機会が少なかったのだが、どうやら世のなかには
自分のことをぜんぶ知られたら、そりゃあ嫌われるに決まってますよ!
などと感じるひとも多いということを知った。それで私は、
ということはもしかして、私はこういう部分・観点から言えばむしろ「自己肯定感が誰より高い」とさえ言えるのではないか?
という可能性に初めて思い至ったのである。
ただこれも極めて微妙な概念であり、私が
自分のすべてを理解されたら、いったいどうなると思うだろうか?
という問いを立てたのに対して、
自分のことをぜんぶ知られたら、そりゃあ嫌われるに決まってますよ!
という答えは、
「理解される」ことと「知られる」ことが表す深みには差があるのではないか?
という問いに派生する。そしてさらに言うと、
「理解される」ことと「知られる」ことと「共感される」ことはどこがどう違ってどこがどう似ているのか?
などという話に発展させると、いよいよ簡単にはまとまらなくなると思う。
だがともかく私としては
「理解される」というのは単に「知られる」ことよりも深い段階を指す。ただ一方で「共感」というほど「全面的に好意的な受け止め」ではないものも含む、ともかく「そのひとの成り立ちや行動の背景・理由を全体的に把握されること」が理解だ
と捉えていて、そのうえで
もし私のすべてを理解してくれるひとがいたとしたら、私は絶対に嫌われないし、見放されることもない
と思っているのだが、ここまで説明しても、やはり
いやいや、私はあなたのようには思えませんよ
と言われることも多いとわかったので、これは
今までの私が思っていたよりさらに深いテーマなんだなぁ……
と、改めて認識を深めたということなのである。
ただこれは、私が
「理解」
というものにこの上ない希望と期待を保っている存在であるから、そうでないひとから見れば違う答えが出るのも当たり前なのかもしれないとは思う。それになにより、
「理解する」
ということに終わりはなく、本当に本当に難しいことだ。だがそれでも私は、
もしすべての存在がお互いを深く理解し合えるようになれば、間違いなく今よりもはるかに素晴らしい世界ができるし、憎悪や嫌悪もほとんど存在しなくなる
と思っているのである。
たとえば私がこの『闇の向こう側』なんてサイトでこんなことを書いていることから、私のことを
お前なんか詐欺師なんだろ!じゃなきゃ病人か、ひとの心を弄ぶ悪人だ!
などと言って一方的に私を嫌うひとはいるわけだし、だから私も日常生活ではあえてそんな
「火種」
になるようなことを言いふらしたいとは思っていない。ただそんなひとたちも、
「私がいつもどんなことを想い、なにを目指し、なにをしているのか」
を本当に理解するときが来たら、そんなふうに私を嫌うことはなくなると私は思っている。そしてこれは別に他のどんなことでも同じだ。たとえば私の年齢や性別、出身地や職歴、あるいは好きな食べものや音楽、そんな「一部」を知ったことによって、私を嫌ったり軽蔑したりすることはいくらでもあり得ると思う。つまり
あなたが私の「汚いところ」を探してそこにだけ注目しようとすれば、もちろんそんなものはいくらでも見出される
ということなのである。
たがだからと言って、もしあなたが私のすべてを理解するときが来たら、あなたの言うその「汚れ」がどうしてできたのかも含め、その全体の背景を完全に把握することができたら、私はあなたに今のように嫌われ続けるとは、到底信じられない。だってそもそも、あなたは「私がどれだけ私に厳しいか」をよく知らないようだから。それに「私がどれだけ自分を成長させたいと思っているかも、その切実さの背景にあるもの」も、あまり知っているようには見えないから。だからそんな今のあなたの眼に映っているものは、私の実像では決してないのである。
ただせっかくだからもう少し言っておくと、私はさっきも少し触れたように、
私のすべてを理解されたら、そのすべてに共感される
とも、
すべてを理解されたら、私はみんなに好かれる
とも思ってはいない。それにそもそも「理解したいと思わない限り本当に理解することはできない」のだから、私にそれほどの関心や興味を保つひとがそうそういるとも思っていない。だから私は、別に「幼稚な楽観」からこんなことを言っているわけではないのだ。
だがそのうえで私は最近改めて、
私を理解することなしに、私を殺すことなどできるはずがないのではないか?
という想いを強くしている。だから私を理解しようともしないうちは、あなたがどんなに私を嫌おうが憎もうが、私を殺すことはできないのではないかと、私は思っている。もちろん、場合によってはこの肉体を引き剥がすことくらいならできるかもしれないが、私の存在そのものを消滅させるとか、魂の墓場に送るというのは、まず無理だろう。だって、あなたは私の虚像に手をかけているにすぎないのだから。
ただ、もし私のすべてを理解してなお、私を殺そうとする存在が現れたとしたら、私は「理解された」という1点においては喜びを感じながらも、やはり全力を以って抗う。そしてそのひとがまかり間違っても私の大切なひとを傷つけることのないように、ありとあらゆる手段を講じる。だから、私は最低でも相討ちに持ち込むので、そのつもりでいてほしい。この計画とこの私の想いの深さを見誤ると、やはり最後にはあなたの計画は潰えることになると、私は断言する。
だから
まぁ、結局闘いなんていいことないんだからやめましょう
という、それだけの話なんだけれど、あなたはどう思うんだろうか?
なにはともあれ、こういうふうに
もし私のすべてを理解してくれるひとがいたとしたら、私は絶対に嫌われないし、見放されることもない
と思っているのが私だということなのだが、この感覚は今のあなたにとって、共感できるものだっただろうか?それとも今のあなたは、
自分のことをぜんぶ知られたら、そりゃあ嫌われるに決まってますよ!
という想いのほうに近いだろうか?
ただいずれにしても私は
他の視点から見ると一見「自己肯定感が高いように見えるひと」が、この問いに対しては悲観的だったり、逆に私のように、他の視点から見ると一見「自己肯定感が低いように見えるひと」がこの問いに対しては楽観的だったりする。だから本当に私たちは、複雑で多面的な存在なんだなぁ……
と、改めてつくづく思うようになったのである。
そしてこうしたことをすべて踏まえたうえで、改めて
じゃあ結局あなたの自己肯定感は低いんですか、高いんですか?
と訊かれたら、正直なところよくわからない。ただ前にも

で書いたように、
私には高い理想があり、いつかはそこにたどり着けると思っているからこそ、それと「現状の自分」とのギャップに辟易して、自分を責め卑屈になっている
というのは確かだと思う。そしてさらに言うと
私がそこまでして「成長したい」とか、「自分らしさをもっともっと存分に発揮したい」などと思うのは、「もっと理解し合いたい・愛し合いたい・慈しみ合いたいと思うひとがいるから」なのだから、それはやはり厳密な意味での「自己肯定感」とは呼べないだろう
と思っている。だから私はやはり、独りではここまで来られたはずがないのだ。私は、あなたの存在にいつも感謝している。この私の想いをどうしたらあなたにそのまま伝えられるかはわからないのだが、それを理解してもらえたらおそらくはあなたも喜んでくれるのではないかと思っているので、私はそのためにどこまでも努力し続けていきたいと、そう思っているのである。
この後メールなどでさらに何人かのかたから
もし自分のすべてを知られたら、私は到底耐えられないです
というような声をいただきました。
なかには、
もしそんなことになったら、恥ずかしすぎていくら穴を掘っても足りないので、宇宙に飛び出してしまいそうです
とまでおっしゃったひともいたのですが、私としては
「あなたのすべてを知っていて、ずっと見守り続けている守護霊さんが、あなたを愛している」という事実を、よく考えてみてください
と言いたいのです。

にもあるように、たとえ守護霊さんがメールでなにかを伝えたとしても、その内容は私にはわからないのですが、私の肉体を通して行われることであるならなおのこと、その
「残り香」
のようなものは、私のなかにもしばらく残ります。
だからこそそのような体験を経て、私も
守護霊さんは間違いなく、あなたのことを愛しています。たとえ厳しく思える言葉があっても、その根底には必ず、愛があります
ということを断言することができるのです。
そしてそういう私の立場を踏まえれば、
あなたはすべてを知られたら嫌われてしまうような、少なくとも誰ひとりにも愛してもらえないような、そんなに恥ずかしく感じないといけないような、そんな存在ではあり得ません
と私が言うのもご理解いただけるのではないかと思います。
もちろんそれを受け入れるかは最後にはあなた次第ではあるのですが、それでも私は私なりに、ずっとそう伝え続けていきたいと思っています。

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