「死んでしばらく経ってから、いつも後悔が湧いてくるんです」。そんな霊の話を聴いて、私が感じたこと

私たちは本当は、永遠の存在である。ただそのなかで何度も生まれ変わり死に変わり、様々な立場で経験を深めながら成長しているということなのだが、やはり生まれる/死ぬ(肉体に宿る/離れる)というのは、ほとんどのひとにとって大きな節目だと言っていいと思う。

だが、以前

「私の人生は、まだ終わっていない」。彼のその言葉が、私の「一生」の定義を鮮やかに塗り替えた
今までに私がいったい何人の霊と対話してきたか、それはもう数えきれない。そのなかで、私は にもまとめたように、そういった数多くの視点や話を総合しながら、私なりの「真実」を見出してきたと言えると思う。 そして今の私は、たとえ...

で触れた彼の話で明らかなように、死んだからといってすぐに気持ちを切り替えられるわけではないし、逆に肉体に宿ったからといって、それぞれの

「魂のクセ」

がすべて消えてしまうというわけではない。だからやはりすべては、ずっとつながっているのである。

そんななかで、ある霊が私に

死んでしばらく経ってから、いつも後悔が湧いてくるんです

と言ってきたことがある。そして彼女は、こんな理由を話してくれた。

 

私は、いつもそんなに大きな失敗をするわけじゃないんですよ。猛烈に苦しむわけでもないし、「こんなことしなければよかった」というような思いを残すわけでもないんです。むしろ、なんでもある程度そつなくこなすというか、それなりの達成感や満足感もあるんですよ。だからいつも人生を終えてしばらくの間は、「いや〜、今回も終わった終わった!」って、ゆっくり休むんですけどね

ここまでであれば、一見すると特に後悔する要素はないようにも思える。だが彼女の後悔は、ここから始まるのである。

でもそうやってしばらくして、何十年とか、何百年とか経ってですね、改めてゆっくりと人生を振り返ってみるとですよ、「なんかひと味ふた味足りなかったな。また中途半端だったな」って思っちゃうんですよね。死んでしばらくはいいんです。「あんなこともあったな、こんなこともあったな。でもそこそこがんばれたよね。悪くない悪くない」って思えるから。それに実際、「悪くはない」んですよ。ただ、良くもない。だから落ち着いてきたらじわじわと「ほんとは、もっとやれたよね?あのときもあのときも、あともう一歩踏み込んでいたら、もっと味わい深い人生になってたよね?」って思っちゃんですよ。これが私のいつものパターン、後悔なんです

私はここまで聴いて、彼女に率直な感想をこう伝えた。

そうですか、「良くもないけど、悪くもない」「大きな不満ないけど、満足も薄い」、そういうのを繰り返すのも、あなたにはそれはそれでつらいんですよね。「それなりにできたんだから、いいじゃん」とは、なかなか割り切れないってことなんですね

すると彼女は、声を大きくしてこのように続けた。

死んですぐとかしばらくは、そう思っていられるんです。肉体を持って一生を生き抜くと、やっぱりそれなりに疲れるというか、終わったらひと息入れるじゃないですか?だからその間は一種の「躁状態」ですよね。「あぁ、終わった終わった!よかったよかった!!」みたいな。でも問題は、その後ですよ。だから私は「後から鬱」なんです。なんていうか、「完全燃焼感」がないんですよね。結局、「こじんまりとまとめただけ」みたいな。「私は私を生き切ったぞ!私はならではの人生だったぞ!」って思えないっていうか、とにかく自分で、そう感じるんです

誰がなんと言おうと、自分がそう感じるんだから、それはしょうがないですよね

そう、そうなんです。誰よりも私自身がそう思っちゃうんだから、どうしようもないんです

 

そして少し間を置いて、彼女はさらにこのように続けた。

こんな言いかたはなんなんですけど、ある意味では「大失敗」も武勇伝みたいなところだってあるじゃないですか?でも私は、そういう大失敗があるわけでもない。もちろんそれなりに失敗もあるんですけど、なんというかやっぱり、「成功も失敗もそれなり」なんですよね。突き抜け感・振り切り感がない。これって贅沢な悩みのように思われるとも思いますけど、実際なってみるとけっこう、つらいものなんですよ

私は少し笑いながら、

でもその「大失敗」の渦中にいる肉体人の目線からすると、なかなかそんなふうには思えないものですよ。だからやっぱりこれはないものねだりと言うか、立ち位置の違いなんだろうなぁとも思うんですけどね

と言ったのだが、彼女はやはり

もちろん、わかってるんですけどね……

とは言うものの、晴れ晴れとした心境には至っていないようだった。

ただ私は一方で、そんな彼女の気持ちにも共感できるところがあった。というか私自身が、自分の全力を尽くさないことにある種の

「アレルギー反応」

にも近いほどの抵抗感を感じるほうなので、私も場合によっては、まさに彼女と同じようになるかもしれないひとなのだ。そのうえで彼女の「生の声」を聴いたならなおさら、翻って自分自身の生きかたを顧みずにはいられなかった。

 

そんなことからしばらく経ったある日、私は別のひとからこんな質問をされた。

支援者がどんなに許容量広くても、有能でも、支援される側が荒れて依存しすぎたり支援者を切り捨てたりしたら、もう手の差し伸べようがないですよね。あなたにもそういうことが何度もありましたよね?そういうことについて、あなたはどう考えているんですか?

私はその場では、

そうならないために私も含めみんなで協力し合っていこうと思ってますと言うしかないですね

と言うに留めたのだが、これは私が

ここから未来に向かってたくさんの可能性があるなかで、あえてそんな哀しい可能性を念頭に置く必要はない

と思ったことからでもあり、今この場でなにを言っても、相手に納得してもらえるとは思えなかったからでもあった。それにやはり、そのひとは直接はなにも言ってこなかったが、私の返答に納得はしていないように思えた。

 

ただ本当は、私は

たとえ相手が助からなかろうが、手を振り払われようが、せめて「自分は全力を尽くした。最後まで手を伸ばし続けた」という想いを持てる努力をしなければ、私はその先に進めなくなるから、だから私は自分の後悔の芽を少しでも摘み取るために、せめてもの全力を尽くすんです

と、そこまで言うべきだったのかもしれないと思う。

だがそれならそれで、

じゃああなたは結局、自己満足のためにやっているだけじゃないですか?

と言われるかもしれないと思ったから、やはり言わなかったのだ。そう言われてしまったら、そういう観点から私を見るのであれば、私には特に、返す言葉がないからである。

ただそれでも少しだけ言うとしたら、私は

私たちの「共感性」が存分に発揮されれば、「利己主義」と「利他主義」の間の差など消えてなくなる
あなたは利己的なひとですね! 自分勝手なことばかりしないでくれ! 誰でもこんなことを言われれば落ち込むだろう。自分が責められていることがわかるからだ。つまり、他にも ジコチューだ! お前のためだけに世界があるわけじゃ...

と思っているということだ。だから私は単純に

あなたが助かれば、私も助かる。あなたが満足すれば、私も満足する

と言っているわけで、それを自己中心的と見るかどうかは、視点によるとしか言いようがない。逆に私のことを

ただ一心に相手のためだけを想って生きているんですね

というひとがいたら、それもそれで間違っているということだ。どちらも同じくらい正しくて、同じくらい間違っている。だからこそ、視点によるということなのだ。

 

だがいずれにせよ、もし私がこのままの生きかたを貫き通すことができたら、私は彼女の話を糧にできたとは言えると思う。だがそんなことより私は今生を終えたら少しゆっくり休もうかと思っているのだが、なんだかんだ言ってここ100年くらいは仕事が山積みなんだろうか?

まぁ、それならそれで、またそのときに後悔の少ない道を選ぶとしよう。彼女の言うとおりなのだ。すべては自分が自分自身に対して思うことなのだから、他にどうしようもないのである。

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