「今」というものはなく、あるのは「過去に対する解釈」だけだと捉えてみたら、そこからなにが言えるだろうか?

「今」という概念は、特に精神的なことを語る際にはよく重要なものとして取り上げられる。これは「現在」とか「今ここ」などに置き換えてもいいが、

今ここに集中すればすべてが変わります

過去も未来もなく、ただ今があるだけです

といった言葉は、誰でもどこかでいちどくらいは耳にしたことがあるのではないかと思う。

それに私自身も

今を変えれば過去も未来も変えられる

というような理解というか視点を、基本的に大切なものだとずっと考えていた。

だが私は最近、このような視点に立つよりも、

「今」というものはなく、あるのは「過去に対する解釈」だけだ

と考えてみたほうが、私やあなたにとってずっと有益なのではないかと、そんなことを思うようになってきたのである。

 

そもそも、

「今」というものはない

という主張は厳密には言い過ぎだということは私にもわかっている。ただそれでも、

本当は「今」もあるのだとしても、それは私たちが捉えようとした瞬間に「過去」になっているのだから、「今」を「今」として捉え、ずっとそれを続けることは、実際には不可能だ

とは言えると思う。そして同時に、

もし「今」をそのままに捉え続けることができたとしても、それは「カメラで撮られた連続写真」のようなものになって、実際にはなんの意味もない。なぜなら私たちにとっていちばん重要なのは、「過去の瞬間の記録」そのものではなく、過去から現在そして未来へと流れゆく「物語」にあるのだから

ということを私は言いたいのである。

 

私たちは「瞬間そのもの」ではなく「物語」によって存在する。これはいわゆる

「記憶喪失」

になったら、つまり自分が過去の「自分」から完全に切り離されたら、どれだけの不安を感じるかを想像するだけでわかるのではないかと思う。さらに言えば、これはわざわざ仮定の話を想像するまでもなく、

基本的に生まれる前のすべての記憶を封印されて、「突然生まれさせられた」と思い込んでいる私たちが、普段どれほど不安になっているかを考えれば明らかだ

と思う。

また、私たちが誰かと関わるとき、その会話の6〜7割、あるいはそれ以上が過去についての話であることを考えてみればいい。仕事の面接でも、日常会話でもいつでもだ。相手を知るために、相手に自分を知らせるために、私たちは「今」や「未来」よりずっと、「過去」を伝え合うことのほうが多いのである。

だから、私たちは過去によって支えられ、過去とのつながりを保つことで「自分」を保っていると言っていいと思うのだが、ここで大切なことは、

この過去は実際にはほとんどの場合「記憶」に基づいているが、記憶はそれ自体が「物語」であり、いつも純度100%の真実を保存しているとは限らないし、そうでないことのほうが多い

ということだ。それはたとえ私たちが同じ時間に同じ場所にいても、「どこに意識を向け、どの部分を切り取って保存するかに違いがある」ということであり、今についてさえそうなのだから、それが今より遠い過去になればなるほど、そこにはあらゆる

「改変・偏向・脚色・虚偽……」

が混ざり得るということなのである。

 

そしてだからこそ、負の霊はよく記憶を改変する。これは言い換えれば

「過去の解釈を捻じ曲げる」

ということでもある。過去はもうここにないのだから、あとは私たちの記憶のなかにしか存在しない。そしてその記憶は、保存の瞬間にも、そしてそれを思い出すときにも「解釈」によって色づけられる。そしてその総合が今の「自分」に多大な影響を与える。負の霊も当然その仕組みを熟知しているからこそ、そこに手を加えるのである。

私は以前

負の霊団が私たちに影響を及ぼすときの「古典的な戦術」を知ってほしい
私たちは古代から現代に至るまでの間に多くの変化を経てきたし、同じ「日本」という枠組みのなかで見ても100年前と今の姿は大きく異なっている。しかし、実のところそこで生きる私たちの性質は、それほど変わっていないとも言える。これを端的に言い換える...

のなかでも、負の霊の代表的な戦術について具体例を挙げながら説明したが、ここにも

「過去(歴史)の捏造」

というのはよく見られるものである。

たとえばある日ある時間を、あなたは大切なひとととても楽しくしあわせに過ごすことができたとする。だからそれは本来

「しあわせな記録(思い出)」

として残るはずのものである。しかし私たちは、常に流れ来る「今の奔流」に呑まれてしまうので、「ある特定の瞬間」のことをずっと意識することはできない。そこに負の霊は知らず識らずに手を加えていく。そして半年後、あるいは1年後10年後、もしくはたった2日後かもしれない。あなたは相手から突然

あの日は、本当に最悪だった!それにあなたが気づかなかったのは、私がずっと耐えて、我慢してたからだ!

と言われてしまうのである。これは本当に、本当に、よくある話なのである。

 

また私たちにとって共通する

「最も古い過去(記憶)」

と言えばだいたいが

「幼少期の記憶」

だと思うが、それも当然のように隙を狙われるものだと思っておいていい。そしてその「幼少期の記憶(解釈)」がどれだけ今の自分に影響を与えるかについては、筆舌に尽くし難いものがある。

もし誰かに

私はちいさい頃から、親家族にも誰にも愛されなかった……

という確信を与えることができたら、そのひとの人生は絶対的に暗くなる。重要なのは「事実はどうだったのか・本当に誰もあなたを愛していなかったのか」ではなく、

「本人が、『私はずっと、誰からも愛されてこなかった』と確信していること」

なのだ。この確信(解釈)が本人のなかにある限り、それは絶対的な重しとなってそのひとを引っ張り続ける。そしてそれは

今の私は、誰にも愛されていない……

という認識(解釈)よりずっと根深く強力である。なぜなら

「私はずっと、誰からも愛されてこなかった」という基盤の上にいる限り、今の自分に愛が与えられていることにもほとんど気づけないし、もし本当には気づいていたとしても疑心暗鬼で無視してしまったり、うまく受け取れなかったりするから

だ。そしてそうであるならもはや必然的に、未来においてもそのひとは暗い翳のなかに生きることになる。そして私が言いたいのは

これは「今」から生まれたものではなく、「記憶(過去に対する解釈)」から生まれたものだ

ということなのである。

 

だから私たちが本当に変わりたいのなら、過去に向き合うことは必須なのだと思う。そしてもし過去の解釈を変えることができたら、その瞬間にあなたは変わる。これは、間違いなく断言できることだ。

だがもちろんそれは容易ではない。だから私はまずその前段階として

今の自分に大きな影響を与えている過去の解釈はいつのどんなものなのか?

を自問することから始めることを提案したい。それができれば、まず

「課題を浮き彫りにする」

ことには成功したと言えるからだ。ただだからこそ、それと向き合うのはとても難しく、つらく、苦しい。だがこれは本当は、誰にも見せることなく、ひとりでもできることだ。だから誰にも気兼ねする必要はなく、ゆっくりじっくり取り組んでみればいい。そこにはそれだけの価値がある。そして何度も言うが、

私たちは「事実」ではなく、その解釈によって苦しめられているのだ

ということを理解することが大切だ。そしてだからこそ、それはあなたひとりでもできることであり、あなたにしかできないことなのである。

 

たとえば私は幼い頃、外に放り出されたことがある。だが今の私は、これを虐待とは捉えていない。

自分がどうでもいいと思われていたから、あんな扱いを受けたんだ

とも思っていない。

ただ、誰にも勘違いや思い込みはあるし、心身に余裕がないときには、それはなおさら起こりやすくなる。そして当時の私はその勘違いを解く器量がなかった。だから、ああいうことが起こることもある

と解釈している。だから、私はこの記憶(解釈)から、今はもう一切のダメージを受けないのである。

ただもちろん、「事実」はもうここにないのだから、それは究極的には誰にもわからない。だからもし私が、

少なくともあのときまでは、私は確実に疎まれ嫌われていた。それがそのあとだんだんとよくなったように見えるのは、相手が罪悪感を感じるようになったか、ただ単に弱くなったから下手に出始めたんだ

という解釈を採れば、それが成り立つ余地もどこかにはあると思う。

それに私がもし必死に探したとしても、もう当時のことを憶えているひとはいないかもしれない。あるいは仮に相手が

そんなこと憶えてないなぁ……

と言ったとしても、それを嘘やごまかしだと解釈して、ますます疑心暗鬼を強めることもできる。だから

やはりすべては、自分の解釈次第だ

ということになるのである。

 

さらに言うと、負の霊は過去のできごとについて

「偽記憶」

を植えつけるという方法を採ることもある。それは刷り込みやマインドコントロールの一種と思ってもいいが、そういうことを個人にも、社会にも、国家に対しても行うことで、不和を生み出し拡げようという策略である。挙げ句の果てにはその記憶の集積、いわゆる

「アカシックレコード」

そのものさえも改竄しようと試みられたのだが、これは彼らがいかに

「過去(解釈)の影響力」

を熟知しているかの表れだと私は思う。だからやはり、すべては解釈の問題だとも言えるのである。

 

だから本当は、自分に大きな影響、特に悪い影響をもたらす解釈を植え付けたできごとの当人に対して、直接話し合えるうちに話し合い、誤解を解くことができるのなら、それがいちばんだと思う。だが、なかなかそううまくは向き合えなかったり、そもそもそんなことは負の霊からすれば是が非でも潰したいものの筆頭だから、向き合えたと思ってもますます印象を悪くこじらせてしまったりすることもあると思う。それに、そうこうしている間に相手が死んでしまって、自分も死ぬまでは直接話せないという状況になるのも、実にありふれたことである。

だからそういう場合の現実的な代替案として、私はやはり

「自分自身で、自分を苦しめる過去の解釈と向き合う」

ということを提案したいのである。これならあなたがどんな状況であろうとできる。もちろん霊であってもだ。何度も言うようにこれは容易ではないことなのだが、だからこそそれを乗り越えたときの効果は計り知れない。具体的に言えば

私はこのことを(実際にあったことと見なしたうえで)こういうふうに解釈して苦しんでいるけど、これに別の解釈の余地はないだろうか?

と考えてみるということだ。

相手には、なにか自分の知らない・あるいは見ようとしてこなかった事情があったのではないか?あるいはもっと単純に、相手は私が思っていた以上に、ずっと苦しんでいたのではないか?またはもしかしたら、相手も自分のことを誤解し、恐れ、だからこそ攻撃していたのではないのか?

そんなふうに問い続けることができたら、そしてほんの少しでもいいから、その「解釈」を変えることができたら、その瞬間からあなたは、文字どおり一変し始めるのである。

 

もし私から「過去」が消えてなくなったら、それはある面では私を解放し、ラクにしてくれるかもしれない。それはまさに

「魂の消滅」

にほど近い。

なぜなら魂とは

「記憶の集積」

であり、それは表面的にはどんなに忘れ封印したつもりでも、いつどんなときもすべてを記録しているものだからだ。そしてそれこそが、

「私そのもの」

なのである。

だからもしその記憶をすべて喪ったら、私は部分的・一時的にはラクになるかもしれないが、それ以上に空虚になるということだ。だとしたらそれは、なによりもつらく、苦しいことだ。というより、

「完全な空虚」に陥ることは、どんなつらさや苦しみより、そもそも他のなにものとも比べようがないほどに、最悪の事態だ

ということなのである。

 

私は

私を最も苦しめるものは、私の過去にある

ということを知っている。それに比べれば、今の苦しみやつらさなどなんでもない。だが同時に私は

私を最も元気づけ励ますものも、私の過去にある

ということを知っている。あの体験や想いがなければ、今の私はなかった。そしてあの想い出があるから、今も私は生きていられるのである。だから私はこれからも、そのすべてを引き連れて、未来へ歩んでいこうと思う。あなたと、生きていこうと思う。

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