私たちそれぞれの未来には流動性と可変性があり、決して最初から最期までひとつに定まっているわけではない
ということは、今までにも何度もお伝えしてきた。
ではそれを踏まえて、
もし「自分が生き得る最高の人生の可能性」というのがあったとして、自分は今それをどこまで体現しているのだろう?
と考えることはないだろうか?
私はもうずっと前に、そんなことを考えたことがあった。するとその思索に興味を持ったある霊が、逆に私に向かってこんなことを訊いてきたのである。
そうだな、もし「そのひとが人生で味わえる最高にしあわせな可能性」を100%とすると、今の平均的なひとたちが一生で味わうのは、その何%だと思う?
私はその質問に私なりの答えを出そうと少し考えた末に、
今のひとたちの平均的な人生を考えるなら、どう考えてもその数値は高くない。50%?30%?いや、それならこんなたくさんのひとが自殺したりなんかしない。だからおそらく……10%くらいじゃないか?
と判断した。だが彼はそれを聴いて少し笑うと、
ふむ、そうか。しかしその見立てはまだだいぶ甘いと思うな。もちろんひとによっていろんな感覚はあるだろうが、私の見たところそれは、1%くらいに見えるな
と、あっさりと言い放ったのである。
私も思考の過程でだいぶ控えめな予測を立てて出したのが「10%」だったにもかかわらず、彼はそれよりもさらに低い
「1%」
という見解をこともなげに言う。これには私も少しあっけにとられてしまって、
ちょっとそれ本気で言ってるの?ひとが生まれてから死ぬまでの間のいろんな喜びやしあわせは、本来の最大限のうちのたった1%しかないってこと?しかもそれが、全世界のひとの平均値なんだって?
と訊き返さずにはいられなかったのだが、相手は実に落ち着いて、
そう、だからほとんどのひとは、人生の喜びの多くを味わえずに死んでいると、そういうことなんだ
と、重ねて言うだけなのだった。だから私も
それはたとえば、負の霊の妨害があるからってこと?
とさらに投げかけてみると、彼は
もちろんそれも大きい。だがたとえそれがなかったとしても、今のひとたちはしあわせや喜びについての理解があまりにも浅すぎるというか、ほとんどないに等しい。だからそんな状態でただ漫然と生きるだけでは、本来の1%の喜びを味わうことさえ容易ではないということなんだ
と、これまたさらりと言う。
だがいったん今の自分が肉体人であるといった個人的感傷を抜きにして考えると、彼の言う
「1%」
という数字もそれなりに妥当な気がしてきた。
それに彼の言うとおり、私たちは一般的にあまりにも多くの知識・基盤を失ってしまったために、
「自分がいったいなにを見逃し、取りこぼしているのか」
ということ自体がよくわかっていないのだ。つまり
自分は本当は、どのくらいしあわせになれるはずの存在なのか?(=100%というのは、どのくらいの量なのか?)
ということ自体を知らないのだから、そんな状態ではせいぜい1%がいいところだとしても、なにも不思議ではないのだ。そしてたとえば

と言ってきた彼女の想いも、こういう状況・事実を思い知るところから生まれてきたのだろうとも思う。
だがだからと言って、こんなことがこの先も延々と続いていくのはあんまりなので、彼の話によって私も改めて、この社会の現状を少しでもいい方向に向けるために自分にできることを続けていきたいと、そう思ったのである。
と、ここで話を終わってもいいのだが、これはもちろん今を生きている私自身にとっても他人事であるはずがないので、その意味でもう少しだけ話を続けよう。
つまり私はこのあと、彼にこう訊いてみたのである。
なるほどね、じゃあそういうあなたから見て、今のこの私は、私の人生をどこまで味わえてるように見えるの?
すると彼は、特に迷う様子もなくこう言った。
そうだな、あなたの場合は、5%くらいかな
私はこれを聴いて、少し笑ってしまった。というのも、自分のことながら実にいいところを突いてくると思ったからである。
そのうえで、彼の講評はもう少し続く。
まずあなたには、死の恐怖がない。そしてこれはもちろん、霊界の存在、永遠の魂の本質を理解していることも大きい。だからこの時点で、世間のひとびとが生涯に亘って悩み得ることのひとつを完全に解消している。そしてそれによって、人生の方針も少しははっきりさせることができているので、総じて5%くらいのところに見えるというわけだ
私はこれになんの反論もなかったのだが、だからこそこう言った。
でもこれって、「平均点が1点のテストで、あなたは5点です。でも本当はもちろん、この満点は100点です」ってことでしょう?だったらこれ、ぜんぜんダメダメだよね?
すると彼も、少し笑ってこう言った。
もちろんそのとおりだ。だからあなたにもまだまだはるかな伸びしろがある。もっともっと、人生を味わうといい。そしてそのためには、あなた自身の意志を保つことが、なにより重要なんだからね。こんなところで、死んでいいと思っちゃいけないよ
というわけで、私は別にあなたより立派なわけでも、もう既に人生の課題を終えて悠然と構えているわけでもない、未熟者にすぎないということなのだ。それにさらに正直に言えば、この対話があった頃に比べて、今の私が人生の喜びを多く見出せているかと言えばそんなことはなく、率直に言えば若干下がって、現状はよく見積もっても3%かそこらだと思う。そしてその原因も、当人である私がいちばんよく知っている。だから私は彼に言われるまでもなく、まだこんなところでは、終わっている場合ではないのだ。それは遺していく誰かのために言っているというよりまず第一に、私自身のためなのである。
だからそんな私はあなたと今同じ星と時代を共有している仲間として、あなたにももっとしあわせになってほしいと思う。そして私も、もっとしあわせになりたいと思う。そして本当はみんなそう思っているはずなのに実際にはその1%くらいしか味わえないのが「普通」になってしまっていると言うなら、それはどこかに重大な見落としか、思い込みがあるということなのだろうと思う。だから私はその可能性のひとつを模索するために、あなたにもこう言ってみたいのだ。
あなたは、私は、私たちは、本当は自分が思っているよりずっとずっと、しあわせになれるのかもしれません。ただそれを隠されているか、無防備なのをいいことに邪魔されているか、あるいはもっと単純に、あなたが諦めているだけなのかもしれません。だから一緒に、もう一度信じてみませんか?「私はいずれ必ず、もっともっとしあわせになれる。本当はそれが当たり前なんだ」と
おそらく、すべてはここからなのだ。自分にももっともっとしあわせになれる可能性があるということを信じ続けること。そしてそれに向かって1歩でも、半歩でも、歩みを続けようと思うこと。それが簡単なことだとは、私には言えない。だがもしそれができさえすれば、あとはすべて、時間の問題なのだ。そして本当は時間は無限にあるのだから、遅かれ早かれ、みんなだいじょうぶなのだ。だからまずはこのことを確認しよう。そして一緒にもう少し、生きてみよう。私は今もこれからも、ずっとそう思って、生きているのである。

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