先日、私は

という文章を書いた。
そこでも私はかなり率直に私なりの想いを書いたのだが、
いやいや、そんなこと言われても、やっぱり嫉妬は止められないですよ
というご意見をくれたひとがいたので、それならもう少しだけ、さらに補足して私の考えをお伝えしてみようと思う。
それでは今回は、また少し違った視点から考えてみるために、こんな問いを立てるところから始めてみよう。
もし誰かと人生を取り換えられるとしたら、あなたは本当にそれを選ぶだろうか?
こう訊かれたときに、もしあなたが嫉妬で本当に苦しんでいるならなおのこと、
そりゃあもちろん、今すぐにでも取り換える!
と言うかもしれない。
ではここにさらに
その場合、それはまるで「生まれ変わり」のときと同じように、取り換える前の自分の経験や想いは、すべて忘れ去られるとしても、そしていったん取り替えたら最後、もう2度とその人生からは逃れられず、死ぬまでずっとそのままだとしてもですか?
という条件を加えてみよう。それでも、やはりあなたは誰かと人生を取り換えることを選ぶだろうか?
1日や2日、もっと言えば半日や1時間なら、そういうことも面白いのかもしれない。そしてそれはある意味
「私たちの肉体を欲しがっている・操りたがっている霊がたくさんいる」
という事実からも明らかだと思う。だが
じゃあそんなにからだが欲しいなら、自分で正式に生まれ変わってみればいいんじゃない?
と言ってみると、彼らのほとんどはそれを拒否する。
嫌だね!なんでそんな面倒くさいことをしなきゃならないんだ!
というわけだ。だからやはり、
「ひとつの人生を最期まで生き抜く」
というのは、それがたとえ途中からだとしても、そう簡単なことではないのだろうと思うのだ。
だからあえて極端な話をすれば、
「いちど誰かと人生を取り換えてそのことを忘れてしまったひとが、自分の元の人生を見てまた嫉妬してしまう」
ということでさえ、あり得るかもしれない。というか私としては、そんなことも別に珍しいことではないのではないかと思うのである。私たちは他者の人生について実際にはほとんど知らないし、どんなひとの人生にも、必ず浮き沈みがあるからだ。そしてさらに言えば、
あまりにも多くのひとから愛されるということでさえ、どこかに痛みを伴いかねない
と、私は思っているからである。
とはいえ私は別に
誰もがそれぞれの地獄を背負っている
とまで悲観的に捉えているわけではない。ただ
どんな人生にも喜びも苦しみもある
と思っているということなのだ。そして私は、
生まれる前の私が生まれたかったこの人生に意味・価値・味わいと呼べるものが本当にあったと言えるかどうか、この人生を生き抜くことで確かめたい
と、そう思っているのである。

それに私はかつて、
ほとんどのひとは、人生の喜びの多くを味わえずに死んでいる
「一般論として、ひとは人生の喜びの多くを味わえずに死ぬ」。その割合の目安を聴いて、私もいろんなことを感じた私たちそれぞれの未来には流動性と可変性があり、決して最初から最期までひとつに定まっているわけではない ということは、今までにも何度もお伝えしてきた。 ではそれを踏まえて、 もし「自分が生き得る最高の人生の可能性」というのが...
と断言されている。だからなおのこと
じゃあ今のこの世界で「本当にしあわせなひと」なんて、実は何人もいないんじゃないか?
と思ってもいるのだ。
もちろん、なかには本当にしあわせなひともいると思うし、たとえそれが
「本来のしあわせ100%」
ではないのだとしても、多少のしあわせを感じられているだけで、それは充分に素晴らしいことだとも思う。
ただいずれにしても、私は正直に言うなら、
「メディアに出てくる様々な芸能人・有名人・成功者……」
や、
「『自分の輝かしいしあわせ・あるいは穏やかで静かなしあわせを噛みしめている』とされるあらゆるひとたち」
を見ても、特に羨ましいとは思えないのだ。
それは、まず第一に
どんなひとにも哀しみや苦しみの翳が感じられて、心からしあわせそうには思えない
という理由もあるのだが、それと同じくらい
あのひとたちと同じような人生を自分が送ることに、「私でなければいけない必然性」のようなものを感じられない
という理由も大きいのだ。だからたとえ彼らのうちの誰かと人生を取り換えられるとしても、それは多少の刺激にはなるかもしれないが、別になんということもないという気がして、どうにも気が進まないのである。
そしてこれは逆に言うと
私は私が選んだこの人生に「私でなければいけない必然性」のようなものを確かに感じている。それに誰かが私の人生をここから、あるいは最初からやり直したとしても、私以上には味を引き出せないだろうと思っている
ということでもあるのだ。だからやはり
私は私の人生をなんとか生き抜かなければいけないので、誰かに嫉妬している場合ではない
と、そういうことなのである。
と、いろいろと言ってはみたものの、これでもまだ、世界から嫉妬をなくすには、まったく及ばないだろうとは思っている。それに私がこう思えるようになったのは私が霊媒師として様々な霊(人生を終えて振り返っているひとたち)からも話を聴いてきたおかげでもあるし、それ以上に
私自身が(同年代と比べても)はるかにたくさん生まれ変わってきた魂だから
というのも大きいと思う。だからこないだも言ったとおり、あなたがどうしても嫉妬から抜けられずに死んでしまったら、今度は「今生の自分が嫉妬せずにはいられなかったような人生」を、選んで生まれてみたらいいと思う。そしたら、きっとわかるから。それにこんなことを言っている私だって、今生の出来次第によっては、そういう道を選ぼうとするかもしれないのだから。
ただいずれにしても、私たちはお互いにまだ生きているのだから、まずはこの人生をなんとかしていくしかないのだろうと私は思っている。それに私も
「嫉妬を育てないこと」
はわりと得意かもしれないが、その代わりと言うかなんと言うか、基本的に「弱気」であるし、それほど「楽観的」でもない。だからこそ、



などといろいろ言いながら、なんとか自分を奮い立たせて生きているというわけなのだ。
だから結局はいつも同じような結論に行き着くのだが、まぁ私もできるところまでやってみるので、そこからなにかを参考にしてもらって、あなたの生きる力に換えていただければ、とても嬉しく思う。そして私はたとえなんだかんだと言いながらでも、あなたがあなたの人生を生き続けてくださっていることを、いつも心から、嬉しくありがたく思っている。だからこれからもまた伝えるつもりではあるけれど、このことをどうか、忘れないでいてほしい。どうぞ、よろしくお願いします。

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