誰が私のことを嫌いで、誰が好きでいてくれているのか、それをはっきりわからせてほしい。そしたら私はきっと、生きかたを間違わなくて済む
私がこんなことを願ったのは、確か14〜5歳の頃だったと思う。そしてこれは今でも、私の大きな願いである。
私のことを嫌いだとわかっているひとから嫌われているのならいい。それは嬉しいことではないが、そう耐え難いことでもない。だが私を応援してくれていると思っていたら、本当は嫌われていた。この衝撃は計り知れない。いや、それでもまだましだと言える。
私のことを嫌っている・憎んでいると思っていたひとから、実は応援されていた
と、気づいたときに比べれば。
自分の置かれている状況を正しく把握・理解できていれば、どんな状況からでもなんとかなる。だから私は、無知を脱したいと思う。だが誤解に塗れてしまうくらいなら、まだ無知でいたほうがいい。だが私たちは、私は、無知で居続けることはできない。
だから私は、
もし世界のすべての誤解が解けたら、たとえ実情が今のままでも、はるかにいい世界になるのに……
と、いつも思っている。もちろんこれは難しいことだし、一瞬で解く魔法はない。だがそれでも、本当は、これは不可能でもないはずなのだ。なぜなら誤解はどこまで行っても、誤解でしかないからだ。だから私たちが本当に真摯に話し合うことができれば、すべての誤解は解けるはずだ。しかしもちろん、その話し合いがうまくいかないから、こんなことになっているのだ。いったいこれは、どうしてなのだろうか?
まず最初に、誤解というものを改めて冷静に考えたとき、
どちらかが完全に正しくて、どちらかが完全に間違っている(誤解している)
ということはほとんどないと思う。だから実際には
お互いがそれぞれに少しずつ誤解し合っている
ということなのだと言っていいと思う。そしてだからこそ、お互いに話し合ってそれぞれの誤解・思い込みを修正し合うことでしか、真実に近づくことはできないと思うのだ。
だが、そうやって誤解し合っているひと同士がしっかり話し合うこと、それどころか
「話し合いの場に就くこと」
自体が、そもそもあまりに難しい。これを
お互いがお互いに対して、「自分は完全に正しくて、相手はどうしようもないほど間違っている。だから相手が間違いを認めるのならまだしも、そうでない対等な話し合いになんて、なんの意味もない」と思っているからだ
と捉えることはできると思うし、おそらくこれも大きくは間違っていないとは思う。
だが私はそれ以上に
お互いがお互いに対して、「たとえ自分の考えにも多少の間違いはあるにせよ、相手の言いなりにだけはなりたくない。相手の都合のいいように誘導されて騙されることだけは、なにがなんでも絶対に嫌だ!」と、そう思っているからではないのか?
と思うのである。
もちろん精確な統計を取れるわけではないのでこれは私の肌感覚でしかないのだが、
現代に生きるひとたちは歴史上最高とも思えるレベルで、騙されることへの嫌悪感・抵抗感を保っているのではないのか?
という感想が私にはある。殺されるよりも騙されるほうがもっと嫌だというのは言い過ぎに思えるかもしれないが、それでも私から見ると、それもそう大げさではないような気がするのだ。実際
嘘つき!
騙したな!
というような言葉には、
殺人鬼め!
と罵られるのに匹敵する衝撃というか、敵意が秘められているのではないかと感じるのだ。そしておそらくそれは、私がこういうひとだからというだけではなく、あなたも少なからず同じではないのかと、私は思うのである。
だからこういう観点に立ってみると、私たちが誤解を乗り越えるのがどうしてこんなに難しいのかという問いに対する手がかりも浮かび上がってくると思うのだ。
あるいはこんなことを考えてみてもいい。
「説得する」
「プレゼンする」
といったもの、これは基本的に中立的な表現だ。営業職なら言うまでもなく、日常生活のなかですら、こういうことはよく起こる。
だがこれに否定的な感情を加えていくと、それは
「言い含める」
「うまくごまかす」
「言い負かす」
「押し切る」
「騙す」
「洗脳する」
「支配する」
といったように、いくらでも悪いイメージで捉えることができる。そして私がここで一緒に考えてみたいのは、まさにこの部分なのだ。私は
私たちは騙されること・相手にいいように誘導されることをあまりにも恐れるあまり、相手の言いぶんを自分のなかに受け入れることに過剰な抵抗・嫌悪を感じさせられているのではないか?
ということを、ぜひ考えてみたいのである。
ただもちろん私たちは生まれたときからそうだったわけではない。それが実際に騙されたり、利用されたり、そういう「被害者」の存在をたくさん見聴きしたりしているうちに、だんだんとそういう抵抗・嫌悪感を育んでいったのだろうと思う。そしてそれはある程度は、確かにやむを得ない反応だろうとも思う。
だが一方で、それがあまりにも先鋭化・肥大化していった結果として、私たちは
「相手の言いぶんをいったんそのまま受け止める」
こと自体に、どうしようもない抵抗・嫌悪感を感じるようになってしまったのではないだろうか?
それは極端に言えば
今の自分も本当はなにか勘違いしている・騙されているのかもしれない。でもそこから「新たな騙し」に引っかかるくらいなら、「慣れ親しんだ騙し」のなかにいたほうがいい
とでもいうようなものではないかと思う。
こういうふうに言えばさすがにそれはおかしいと思うだろうが、一歩引いたところから冷静に見ると、私たちの実態はまさにこんなものなのではないのかと、私は思うのである。
だからもしこういうことなのだとすると、私たちがこれほど簡単に様々な誤解に絡め取られてしまう理由もよくわかる気がしてくる。そしてそういうことであれば、状況は絶望的とまでは言わないにせよ、間違いなくかなり厳しい。だがそれでもこの現状に問題を感じるなら、そしてそれをどうにか打破しようと思うなら、いったい私たちは、私は、どうすればいいのだろうか?
こう考えていくと、私はやはり
「多少騙されてもいい」くらいの気持ちで、いったん相手の言いぶんを受け止めるしかないのではないか?
という気がしてくる。もちろん、私も誰も騙されたくはないし、騙されないほうがいいに決まっているのだが、それでもそれを嫌がる気持ちが最大の壁になっているとしたら、それを超えてみるしかないと、私は思うのである。
そもそも、理解はそのひとの世界そのものを規定する。以前

と書いたこともあるが、理解はそのひとの世界そのものなのだから、その理解の外にあるものは、そのひとの世界にはない。もう少し精確に言うと、私たちは自分の理解の外にあるものをときには意識的に、場合によっては無意識にでさえ、あまりにも簡単に拒絶する。そしてそれは一般的には年を重ね、
「自分の世界の境界線」
がより強固になった場合により顕著になる。だから
今までの理解にないものを取り込むというのは、まさに<世界>の拡張であって、「新しい領域への冒険」に他ならない
ということなのである。それは究極的には、死の危険すら秘めていることがある。だがそこに飛び込む以外に理解を深める方法はなく、理解するということはそもそも本質的に、そういう行為・挑戦なのだと、少なくとも私は、そう思っているのである。
だからそんな
「死ぬかもしれない挑戦」
なんて、そうそうやりたいことではないのだろう。
だからこそ
「みんなと同じ嘘に騙されている」んだったら、それが嘘だとわかってもみんなと同じ衝撃しか受けなくて済む。でも「自分だけが信じたことが嘘だった」ら、そのときの自分はみんなの笑い者でしかないし、みんなの助言を無視した、どうしようもない愚か者だということになる。だから、とりあえず多数派の常識に従っていたほうが賢いし、リスクが少ない
ということになるのだろうし、
「相手の間違いに呑み込まれる」くらいだったら、「自分の間違いのなかに留まる」ほうが、まだましだ
ということにもなるのだろうと思うのだ。
だとしたら、このような現状を踏まえてもなお、いつかはあらゆる世界のあらゆる誤解を解くことを本気で望むなら、少なくともそのために1歩でも近づきたいと言うなら、私にはいったいなにができるのだろうか?
もちろん今までどおり
「私の体験や見解をみんなと共有し、それぞれに検証し、少しでも活かしてもらう」
というのにもそれなりの意義はあると思う。だがそれだけでは、まだまだ足りない。
つまり、
「たとえ今までの間違いを直視することになっても、現時点では少数派の考えかた・生きかたであることをわかったうえでも、それでもなお新たな『世界』に踏み込み、自分を拡げていく」という挑戦の後押しをするためには、どうしたらいいのだろうか?
と改めて真摯に考えてみるなら、そこからなにが言えるだろう?
そうすると、私はこの文章を書き始めたときには思いもよらなかった着地点にたどり着くことになってしまった。それは
じゃあそのためには、私がしあわせになるしかないのではないか?
という結論なのだった。
これは自分でもかなり驚いた結論だったので、いったん改めてここまでの思考を整理してみよう。まず私は、
世界をよくするためには、やはりいずれはすべての誤解を解いていくことが必要(ひとつの柱)なのではないか?
と考えた。そしてそこから
しかし今の私たちは過去の体験から、「騙されること・利用されることへの抵抗感や恐怖」をあまりにも根深く植えつけられている。そのせいでそれぞれの世界はあまりにも遠くバラバラに分離し、相手の<世界>に踏み込む恐怖や不安を乗り越えることはほとんど至難の業になってしまった。だから私たちは、自分を変える大変さを背負ってまで、相手と本当に話し合うこともできなくなっているということなのではないか?
という想いに至った。だから、
じゃあそのリスクや恐怖を踏まえてもなお飛び込んでみようと思わせるためには、つまりその飛び込んだ先の「異世界」に住むひとが、「愚かなはずの少数派」が、意外にしあわせそうに生きているという実態を見せるしかないのではないか?
と思ったのだ。そうやってひとつひとつ考えてみると、始めは
誤解を解くためにはどうしたらいいのだろうか?
という問いから始まったものが、
本気でそう願うなら、私がしあわせになるしかない
という結論に至るというのも、やはりそうおかしなことではないと言わざるを得ないと思うのである。
しかし、これはなかなかというか、だいぶ困った話ではある。というのも、あなたもおわかりのように、私は私をしあわせにするのが、いちばん苦手だからだ。ただ私は前にも

などと言ってきたし、そもそもずっと自分のしあわせを願って生きてきたのだから、その意味ではこれまでの方針を根本的に変えるようななにかが起きたわけではない。
ただ今の私としては、
100年後であれば、私が心からしあわせを感じられる可能性も相当あると思っているけれど、それをもっと早めることができるかとなると、これはかなり難しいことだ……
と思っているということなのである。
だが、それが私自身の問題に留まらず、世界から誤解をなくすという、私の最も大きな目標のひとつにさえ直結するとなると、私が最も苦手としている課題に今よりもさらに本腰を入れて向き合わなければならないということになる。いやいや、これは参った……。
だがだからこそ真剣に正直に言うと、やはり私は
本当のしあわせとは、そもそもひとりでは実現できないものだ
と思っている。私がしあわせになれていない段階でこんなことを言っても単なる言い訳のように見えるところがあるのはわかっているが、それでも私は、本気でそう思っている。
だからもしよかったら、一緒にがんばりましょう。それにこんな生きかたをしている私に限らず、
こんなに大変な時期に地球に生まれ変わってきた私たちは、誰もが「愚かなはずの少数派」と見なされている
ということも事実なのだから、私がどうこうという以前に、
あなたがしあわせになることそのものが、かけがえのない偉業だ
と言えるのだと思う。
だからどうか、しあわせになってください。
あんなヤツが、あんな場所で、しあわせになれるわけがない
と思われてきたのが誤解だったということを、みんなにも、そして自分自身にも示すことができたら、それは本当に本当に、革命的な1歩になるのだから。
そして私も、今まで以上に真剣に、自分のしあわせと向き合っていきたいと思います。どうぞこれからも、よろしくお願いします。

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はじめまして。最近このブログを見つけて深い洞察の記事が多いので色々考えさせられます。
幸せになるのは自分も凄く難しいと思います。よく幸せとは現在の状況に感謝する事だ!
みたいな事がよく言われますが、まあある程度はその通りなのですが、でも現在の自分が何の不満もなく本当に幸せだと心から思えるかと言ったら違います。
過去の記憶に戻っても本当に満たされた子供時代を送った訳ではないですし現在社会人として生きてますが何の不満もなく満たされているかと言えばやはり違います。
自分は高卒で大学に行きたかったけど色々な事情で諦めてしまった過去がありますし現在本当に好きな仕事が出来て給料も多く貰えている訳でないですからね。
仮に大学に行き本当に好きな仕事につき給料も多ければ本当に幸せなのかなとも考えます。仮にそれが叶ったとしても満たされない何かがあるかもしれません。
現在自分が言える事は現在の置かれた状況から少しでも良い方向に変えていくしかないと思います。不満なんて言ったらキリがないのでまずは自分が望んでいる未来に少しづつでも努力する事かなと思いますね。
未来は変えられると言いますが良い方向に人生を変えるのは本当に難しい事だと思います。まあそれでも諦めずに人生を変えていく努力をしていきます。いつか諦めずに努力していけば本当に心の底から幸せだと思える日が来るかもしれません。
永遠の旅人さん、ようこそ、闇の向こう側へ。
ええ、そうですね。それにこういうことを腑に落としているあなたであれば、改めて私の文章を読むまでもないのではないかという気もしますけどね。
ただ人生にも気持ちにもいろんな波があるものだとも思いますから、そういうときになにか少しでもこの『闇の向こう側』があなたにとって居心地のいい場所で在れたら、私もとても嬉しいです。
あとはこれももう言い古されたことだとも思いますが、学びはどこまで行っても尽きるものではないですし、いつからでも深めていけるものですから、ぜひこれからもあなたなりの知の探求を続けていっていただければと思いますし、私もそうしたいと思っています。
それに大学という場所は今回の新型コロナで最も大きな影響を受けた場所のひとつだと思いますし、これからは学びの意味そのものが、改めて大きな問いに直面することになるでしょうから。だから結局は自らの意欲によって学んでいるひとが、最も深く本質的な喜びと収穫を得ることになるだろうと、私は思っています。
そのうえで、永遠に旅を続けていろんな景色を見たり探求したりするのも本当に意義深く素晴らしいことだと思うのですが、そんなあなたにもいつかには少し腰を落ち着けて留まっていたいと思える場所が見つかることも、私は心から願っています。もちろんそれは、なんなら自分で創ってしまってもいいんですけどね。
ともかくそうやってあなたが少しは歩を緩めてもいいかなと思えたときには、そのたくさんのおみやげ話をぜひみんなにも話していただければと思います。きっとあなたの話を聴きたいひとも、今のあなたが思う以上にたくさんいると思いますから。特に今回の地球の変わり目に立ち会ったひとならなおさら、みんなそれぞれの物語は想像以上に貴重なものになるんだろうと、私もそう思っています。
ただいずれにせよまだ幕は下りてませんからね。だから私もあなたもこれからまだまだ、いろんな展開を迎えることになるのでしょう。でもまずは今日明日、1日1日ですね。というわけで今後とも、どうぞよろしくお願いします。
返信嬉しいです。ありがとうございます。心からずっといたい場所があれば本当の幸せが何なのかわかる気がします。自分は独身なんで結婚してそこが心から幸せを感じられる場所なら凄く良いと思いますね。
ただ今はずっといたい場所がまだわからないので人生が終わるまで歩みを進めて行こうと思います。現在の人生でもまだまだやりたい事があるので諦めずに挑戦していかないといけないですね。
そうですね、本当にはこの世界で「完全な孤独」になることはないのだとしても、そこからさらに1歩踏み込んで、かたちはどうあれ誰かと人生を伴にするというのは、人生を左右する大きな要素だと私も思います。
ただそれは本当に難しいことでもあるので、いったんそこに入っていくとますます様々な立場や見解の差が出てくるでしょうし、自分ひとりを軸に人生を歩んでいたときとはまるで違う景色になってくるとも思いますね。なんというか、
自分ひとりを軸に歩んでいたときの歩みや努力の積み上がりかたが「足し算」だとすると、誰かと一緒に歩み始めてからは「掛け算」になる
という感じで。
そしてさらに言うと、足し算が掛け算になるということは、
「プラスへの幅も大きくなるぶん、マイナスへの幅も大きくなる」
ということであって、だからこそ誰にとっても本当に大きな決断というか、人生の岐路になるんだろうとも思うわけです。
たとえば、たったひとりで生涯を生き通すのもそれはそれで孤独を感じるというのはもちろんですが、「いちど大切なひとと出逢って、一緒に生きたうえで、それを失った」という孤独は、やはりまた別格のものだろうと思いますから。
ですがもちろんそこからだって、
「一緒にいたときの想い出をずっと大切に、そこから力をもらい続ける」
ということもできるわけですから、やはり答えはひとつではないわけです。だからこそ、それぞれのひとが自分なりの答えを見出していけばいいんだと思いますし、要するにそのひとがそのひとのしあわせを見つけることが、いちばんなんですからね。だから私は別に全員が結婚したほうが(誰かと一緒にいたほうが)しあわせだとも思いませんし、いったん結婚したら絶対に離婚してはいけないとか、そういうこともなにも思ってません。それは、ひとそれぞれだと思いますから。
ただあなたが
とおっしゃるのであれば、そんなあなたが今度は自分自身で家族を築いていくことができたら、それがあなたのしあわせにかけがえのない影響を与えてくれる可能性も充分にあるとは思います。
というのも、やはりそれぞれの「家族」というものの色合いを決めるのはおとな(親・保護者)だと思うんですよね。ごく単純に言ってしまうと、両親の在りかたや関係性がこどもに影響を与えないわけがないと思いますし、こどもやきょうだいがいくら努力したところで、その色合いを根本的に塗り替えることはほとんど無理だと思うんです。結局のところ、家族の基盤や決定権はこどもにはないのですから。
ですがそのこどもがいずれ大きくなって今度は自分自身が土台と色合いを生み出す『家族』を創ったときには、その意味合いは「生まれたときにいた家族」とはまったく違うものになるでしょう。逆に言うと、それだけの「責任」を負うということにもなるからです。でもだからこそ、そこで自分のすべてを問いなおし試しながら、みんなで素晴らしい世界の基礎を育んでいくこともできるんだと思います。
ですから、もしあなたがあなただからこそそこに大きなやりがいと価値を見出すと言うなら、私もそれを心から応援したいと思います。
ただそれはそれとして、あなたが
と思っているのであれば、もちろんその可能性もぜひ追求していただければと思います。
それに結局は、すべては縁やタイミングとの相互作用でもありますからね。でもたとえ思ったほど早くない、あるいは今生の終わりに間に合うこともなかったとしても、
種を蒔いたなら、いずれなんらかのかたちで芽を出し育っていく
というのは確かなんですから、努力や想いがまるで無駄になるなんてことはあり得ないのだろうと思います。
ですからどうか、よき永遠をお過ごしくださいね。私がここに書き残しているのは、そのためのささやかな参考資料だと思っていただければと思います。それで少しでもお役に立てれば、とても嬉しいです。
大分遠くまで来てしまった。
町の光はもう見えない。
絶対失われることは無いと思っていたものまで、
今は無くなってしまった。
これまでの私は無くなり、
私は誰でもなくなってしまった。
私が唯一誇りにしていたものは
私が傷つけてしまった人、
見下していた人に
一つづつ
贖罪として受け渡してしまった。
最後の一つを、
最後の一人に受け渡し、
もはや持つものはなく、
私を笑う声が響く中、
明日を迎えられない感情にのまれる。
暗闇の中、
ただ一人立ち尽くす。
しかし、
ようやくここまで来たのだ。
私の求める光は
この暗闇の中でしかみつからないのだ。
贖罪の念、喪失感、絶望、
感情の嵐は不意に収まり、
私は静かに暗闇のなかで呼吸する。
光は、
私を見つける光は。
この暗闇の中、
恐る恐る腕を前にのばす。
その指先はまだ触れぬあなたの指先を求め彷徨う。
だれでしょうさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
深い闇のなかに身を置くひとにとって、光はあまりにも魅力的に映るということ、そしてそれ以上に厄介なのは、この事実があまりにも広く知られていることだと思います。
だから闇でもがき苦しむひとの前には、ときとしてたくさんの
「救いの光」
が齎されるわけですが、それにもし悪意が、あるいは毒が混ざられていたとしたら、それは単なる「まやかし」以上の痛みを伴うことになるのでしょう。
だからこそ私はずっと
光を見るときには、闇を見るときよりもさらに注意深くいないといけない
と思っているわけですが、それでもそれは本当に、難しいことだと思っています。
それに、たったひとつの願いをずっと保っているような場合にはなおさら、知らず識らずにその願いが周りにも知られていて、その渇望と切実さを逆手にとって
「疑似餌」
を撒かれるようなことも起こるので、本当に大変なんですよね。そしてそれが最も極端に歪んだ事例を見せられたときには、私も言葉を失ったほどでした。
でも、そんな私だからこそ言えることもあります。それは
たとえ掠め取られたものであれ騙し取られたものであれ、あるいは罪悪感や責め苦の果てによく考えもまとまらないままに渡してしまったものであれ、その想いを本当の意味で理解し、それを本当に贈りたいと思われている相手でなければ、それを本当に受け取ることも活かすこともできない
ということです。だからたとえあなた自身が
と思ったとしても、あなたは今でもたくさんのものを持っているわけですし、それは私が
本当に隠したいものがあるなら、自分自身さえその存在を忘れるのがいちばんだ。そうしたらそのときが来るまでは、絶対に奪われない
と思っていることそのものでもあるんですよね。だから
とかも同じです。別に自分が自分のことを忘れてしまったとしても、誰かが自分のことを憶えていてくれているのなら、そのひとと共鳴するだけであなたはいつだってあなたに戻れるんですからね。
あとはもう1回改めてさっきの話に戻ると、私はそういう
「目眩ましの光」
に利用されるのがいちばん癪に障るので、だったらむやみに光なんて探さずに
「気づいてももらえないのに静かに寄り添ってくれている闇」
の大切さを理解しているほうがずっといいかななんて思ったりするので、だからこんなところに居続けてるんですよね。
それに実のところ、自分にとって毒でしかないものほど甘かったり、逆に特効薬ほど地味で効きが遅くて苦かったりもするので、自分に本当に必要なもの(本当の光)を見つけるのと同じくらい、あるいはそれ以上に、あふれるほどある「偽りの光」に対して
消えろ!
とちゃんと言えるかどうかのほうが大事なのではないかと、そんなことも思ったりします。またそういう観点で
とかを読んでみると、とても感慨深かった想い出もありますね。
ただ現状はどうであれ、
差し出されてきたものをそこまで吟味しなければいけない(偽りの光・目眩ましの光がそこらじゅうにある)こと自体が、本来は明らかに異常なんだ
ともわかっていますので、いずれはそういう狂騒も整理され然るべきところに落ち着いて、もっと静かであたたかい光を大切に育めるようにしたいしそうなるだろうと、私は思っています。
また今のような時期や年始なんかは特に、周りの光が眩く見えすぎて、私なんかはむしろ少し疲れるわけなんですけど、だからこそもしあなたも同じような気持ちなのであれば、周りのリズムや歩幅がどうであれ、あなたはあなたのペースとタイミングで、夜明けと言うか日の出と言うか、要するにしあわせを味わってもらえたらと、そう思っています。
ところでこれも何度も言っているのでおわかりかとも思うのですが、たとえ
と訊かれても私には判別できないですし、たとえばまた別の機会に別の名前で連絡してこられたとしたら、やはり私はそれぞれを「別人」としてしか捉えられないわけで、だからこそあなたが知られたくないことを勝手に知られてしまう心配もまったく要らないのですが、でもせっかくこんな日にコメントをいただいたわけですから、
メリークリスマス
くらいは、心を込めてお伝えしておきますね。それに実は私、けっこうこの言葉が好きなんですよね。それはキリスト教とはまったく関係なく、この言葉にひとつ大切な想い出があるからでもあり、あとはまったく個人的に、この言葉を好きな理由がもうひとつあるからでもあるんです。だから、そのあなたがくれた謎のお返しに、私からはこれを置いておきますね。
とはいえもちろん、こんなことを私から言われるのが不本意であれば、別に受け取らなくてもいいんです。それに先ほども言ったとおり、たとえ贈り手はまったく同じものを贈ったつもりでも、誰でも同じように受け取れるわけではないのですから。だからたとえあなたがあなたでなくても、あなたを通して最終的にあなたに届けばいいということです。
そしてこれもやっぱり、私からあなたが見えていないからこそできることなんですよね。だってもし私があなたが誰なのか確信を保っていたら、こんな方法は通用しないし、選びもしないんですから。だからこれは
「闇に曖昧さがあるからこその魔法」
なわけです。それにこれはそんなこともなにも考えずに、ひとつの
「言葉遊び」
と見られたってそれはそれでいいわけなんですが、いずれにせよあなたが意味深なコメントを書いてくれたおかげで、私もこんなことができました。
本当に、ありがとうございます。そしてどうか少しでも、いい日々をお過ごしくださいね。