極悪人でもないが善人ではない。自分を「悪人」と見なすという選択について

最近いろいろな霊から、

そろそろ立場をはっきりさせろ!

というようなことを言われる。ただこういうことを言うのは、ほとんどが私のことをよく知らない若い霊である。というか、私は今までここでも何度も、自分の立場を説明してきたつもりだ。

たとえ賊軍であったとしても、私は私の志に殉じる
現在から過去の歴史を振り返るとき、私たちは結果から遡ってその顛末を見ることができる。だから、誰が勝者(想いを通せた者)で誰が敗者かは最初からわかっている。だがそれは、その瞬間の当事者には決して知り得なかったことである。

だが、それでもまだ腑に落ちないひとも多いようなので、もういちど改めて説明しようと思う。ただ最初に結論を言うなら、

私は極悪人ではない。だがやはり善人でもない。だから私は自分のことを、「悪人」と見なそう

と、そう思っているという話である。

そもそも私は物心ついてしばらくした頃には、既に

「悪人」

と見なされていた。よりふさわしい言葉を遣うなら、

「鬼子」

のようなものである。これは私の家族が世間から「鬼の集まり」のような扱いを受けてきた影響も大きいと思う。

だが無用な勘違いを避けるためにここで強調しておきたいのだが、これは今生の家族の話ではない。今生の家族や関係者がこれを読む可能性はそう高くないと思うが、今回の家族からは本当に多くを学ばせてもらったしいろいろ助けてもらったので、これがそのひとたちに関係する話ではないことは、念のため明言しておきたいと思う。これはもっとずっと前、私が本当の意味で「生まれた」そのときのことを言っているのである。

だからそんな私は、自然に

「善悪」

について想いを巡らすことが多かった。

ただこういうことを言うと、ときどき

そりゃあお前は悪人だよな?だってありもしないことを言いふらしている詐欺師なんだから!

というようなことを言うひとも出てくるので、それについては

私は自分のことを詐欺師だとは思っていない。ただ詐欺師ではないからと言って、善人だとも言えない

と言っているのだということを、わかってもらえたらと思う。

ではなぜ、私が自分のことを悪人と見なすのかと言えば、それは

私は必要とあれば、悪を為すことがあるから

だ。たとえば私は

暴力や体罰は悪だ

という考えに基本的に同意する。だがもしこどもが熱いストーブに手を触れようとしているのを見たら、突き飛ばしてでも避けさせる。私はそれが「暴力」という悪だと知っている。しかしそれでもなお、自分が必要と感じたらそれを行使する構えが私にはいつもある。だからそんな私は、善人ではあり得ないのだ。

とはいえこの例は少し単純すぎるかもしれない。だがもう少し複雑な事例であっても、私の方針は基本的に同じである。悪を為すことが選択肢にある時点で、私は善人ではなく、悪人なのである。

 

だが私は別に積極的に悪を為そうとは思わないし、悪を為すことを誰かに勧めたくもない。その理由を端的に言うなら、

悪を為してなお自分に誇りを保ち続ける(自分らしくいる=自分を腐らせないでいる)ためには、相当の信念が必要だから

なのである。

善を為して誇りを保つのは簡単だ。そしてもう一方で、悪を為して腐り堕落するのも同じように容易い。だが悪を為して、周囲から悪人の誹りを受けてなお自分を保ち腐らせずにいるためには、相応の信念を宿す以外にはない。しかしこれはとても難しいことだし、普通はわざわざそんな「挑戦」をする必要もない。だから私は、悪を為すことを勧めようとは思わないのだ。

 

たとえば

自殺は悪いことですか?

と訊かれたら、

そうですね、悪いことだと言えますね

と私は答える。

ここには、

自殺は、あなたを容易に腐らせ、破壊する行為だ

という含意がある。しかしそれでもあなたが強硬に自殺する道を選んだら、私にそれを止める権限はない。そして自殺をしたからと言って、あなたのすべてが終わるわけでも、すべてが取り返しのつかないことになるわけでもない。だからこそ、やろうと思えばそうできる道があるとも言える。

だが自殺してたとえ一時的にはなにかを得られたつもりになったとしても、それより失われるもののほうが常に大きい。そして自殺をしてなお自分をまったく腐らせず見失わずにいることができる可能性があるとは、私にはどうしても思えない。

だから私はそういう意味において、

自殺はやはり悪だ。それも最も哀しく、つらい悪だ

と断言するのである。

だが自殺ほど極端な行為ではなくても、あらゆる悪には実行される余地が用意されている。そして何度も言うように、それを最後に決めるのはあなただ。だから私にできるのは、せいぜい

どうか、やめていただけませんか?

と懇願することだけだ。だがもしそれでもやると言うなら、ましてそこに

「どうしても譲れない信念がある」

と言うなら、それはやむを得ないことだと思う。その場合は、しかたがないのだから。

 

だが普通一般的には、ひとはみんな善人でありたいと思っているはずだ。だから基本的には、やはり悪は為さないに越したことはない。まして自分を善人と見なすことそのものが精神的支柱になっているような場合、そんなひとが悪を為すと確実に自滅する。だからそういうひとは、絶対に悪を為すべきではない。そして真の善人とは、絶対に悪を為してはいけないのである。

 

ただ私にはそんなふうに「絶対に悪を為さない」という覚悟もないので、やはり悪人なのである。そしてこれはより精確に言うなら、

どこの誰がどう評価するにせよ、私は私が誇りに思えること、すべきだと思えることをする

ということであって、ここには

究極的に、自分にとっての善悪は、自分で決める

という意志が示唆されてもいる。しかしそもそもこうやって

なによりも自分自身の信念・理想・価値基準によって自分の道を決める

ということそのものが、特に「善人」から見ると、既に悪の始まりなのである。だからこうしたあらゆる意味において、やはり私は「悪人」でしかないのである。

 

だが私は別に悪を拡げようとは思っていないし、自分を悪人と見なすことで開き直っているわけでもない。それになにより、誰かが苦しんでいるのを喜ぼうとも愉しもうとも思ったことはない。だからやはり私自身は自分のことを

「極悪人」

とまでは思っていない。ただなかには私のことを実際に極悪人だと見なす存在・集団もいる。そしてたとえばそれが

  • 多くのひとが死んでいったなかで、生き残ったこと
  • 多くの「悪」とぶつかるなかで、その「悪」を身に宿したこと

を根拠とする判断だと言うなら、私はそういう解釈の余地があることを認める。だからあなたがもしそういう解釈によって私を極悪人と見なすのであれば、それもしかたがないとは思う。

ただそれでも私は、

そんな悪人(極悪人)だからこそ、善人にはできない役目もある

とは言っておきたいのである。

 

たとえばあなたがたは今もこれからも多くの「悪」を処断していこうとしているわけだが、その際にあなたがたでは、彼らを愛することはできないと思う。しかし考えてもみてほしい。自分を愛してもくれないひとに処罰されて、誰が心から受け入れられると思う?

もちろん、ずっと上の上の、大本の大元のあのひとたちは、すべての存在を愛している。それはわかる。今の私にはわかる。だがあのひとたちの愛は深すぎて、悪人には愛に見えづらい。まるで現代日本人にヘブライ語で話しかけるようなものだ。だが私なら、彼らと共通の語彙がある。それでもそこには現代日本語に対する旧仮名遣いくらいの隔たりはあるかもしれないが、ヘブライ語よりはずっとましだと思う。

だから私のほうが、彼らに愛を伝えられる余地があると思う。簡単に言うと、私はあなたがたより、彼らのレベルに近いからだ。そしてもしあなたがたが彼らに正義と排除の論理だけを持って迫ろうと思っているなら、それは論外である。悪に憎しみを保って対するひとは、実質的に極悪に似る。なぜならそこからやがて、さらなる悪が生まれることになるからだ。それについこないだだって、私は結局同じことを伝えようとしていたのである。

「負の霊に手紙など出すな」。ならばそう憤るあなたにも、心を込めてお手紙を
先日私は、 という文章を公開した。 するとこれを読んだ霊の一部から、私に憤りの声が届くようになった。 負の霊に手紙を出すなどどういうつもりなんだ! 前から思っていたが、お前はいったいどっちの味方なんだ! ...
 

ただ今のあなたにそれが理解できないのなら、それは私が補おうと思う。それは悪の領域だからだ。そして私を生んだのは、その悪とグレーの世界である。しかしだからこそ私は、誰よりも善に憧れ、自分の色を澄ませることに懸けたのである。だが善がそれを理解してくれないなら、私は悪でもいい。それに私がもし万が一

「本当の悪」

に染まったら、そのときは私を止めてくれるひともいる。今のままでは、あなたにはできないからだ。愛そうと思わなければ、理解できない。善になりたいと誰より思う悪には、善以上のことができる可能性がある。私は、そう思っているのである。

 

だから私は別に、どっちでもいいのだ。昔からあせったり騒いだりしてきたのはいつもあなたがたのほうで、私ではない。それに結局善悪はあなたが決めるものなのだから、好きに捉えればいいと思う。それでもどうしても自己認識を問うと言うなら、私は自身を悪人だと見なす。私はいつだって、善人ではないのだから。

そのうえでそれでもあなたがたが

善人ではないから悪人だというのは詭弁だ

と言うなら、

じゃあ悪人でなければ善人なのか?

と問いたいのだが、わからないならいい。

ただ悪人らしく少しだけ皮肉を言うなら、

この会話をより楽しめたのは私なのだから、その点ではあなたがたより私のほうが善なのかもしれない

とは言ってみたい気がする。そしてそもそも自分から話を振っておいてこんな私の口を塞げないあなたがたはいったいなんなのかということを、もう少し真剣に考えてみたらいいと思う。だが考えたくないなら別にいい。それを考える意義すら感じられないと言うなら、今のあなたにはそんな必要もないということなのだろうから。

Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2020 Dilettante

コメントをどうぞ (名前・アドレス・サイトの記入は任意です)

  1. 永遠の旅人 より:

    自分の勝手な考えですがDilettanteさんは悪人ではないですよ。自分で悪人と思い込んでしまうのはDilettanteさんが優しすぎるからだと思います。優しすぎるから他の人が気づかない微細な事にも気にとめてしまって自分に厳しくしすぎるのかなと思いますね。自殺して後悔しなかったひとに出会った事はないの記事でコメントに対して一人一人に丁寧な返信をしていてたりするのでそんな人が悪人であるはずがないです。

    普通に生きている人はそこまで赤の他人を救おうと行動なんかしませんからね。もっと悪質なのは自殺した人間に対してざまあーみろと平気で書き込みをするような人がいる事です。悪人と言うのは人の不幸を笑えるような人間だと思いますよ。

    Dilettanteさんは絶対にそんな事しないでしょうしむしろ救ってあげれなかったと思うでしょうからそんな方は善人に決まってますよ。

    負の霊の奴らには好き勝手言わせとけば良いんじゃないですかね。生きてる人間もそうですけど批判する奴らは何もしませんから。

    • Dilettante Dilettante より:

      永遠の旅人さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      負の霊の奴らには好き勝手言わせとけば良いんじゃないですかね

      ところが今回の場合、相手はいわゆる「守護霊」なんですよ。だから彼らは地球やいのちの味方であり、あなたの味方でもあります。ただ私に味方してくれるのかどうかはわからないというだけで。

      なのでこういう善悪の問題というのには本当に、いろいろな立場や視点があるということなんです。

      そもそも

      なにを基準に善悪を判断するか?

      自体がそれぞれなので。

      ただあなたが私を善人だと見なしてくれているというのは、そのままありがたく受け取って心に留めておきますね。

      本当にありがとうございます。

      これからも、どうぞよろしくお願いします。

  2. 浮遊人 より:

    この1か月くらいの記事が非常に鮮烈で、こらえきれずにコメントしました。

    自分の弱い側面を知りつつ、そこに苦しみながらも生き続ける人。

    『善』について深く理解しようとしつつ、自分に不純物を認める人。

    かれらは本当は「強く」、そして決して「自身を善人と認めない」でしょう。

    それゆえに何をされても、何が起きても、一時はネガティブな感情を認めつつも、なを他者の為に想いを向けるのでしょう。しかし、他者からは恐怖の対象とされてしまう。皆は彼らのつらい生き方を認めたくないから。幸せな世界であると思いたいから。

    誰もが自身を弱者と認めたくはないし、悪人(という存在があるのであれば)も自身を悪人とは認めていない。というか、こういったことを考えたことがないのだろう。そういった意味では、他者や世界に対して責任を背負わなくてもよい生き方であり、ただ、自分を生きており、人の進化の到着点といえないこともない。楽ですから。

    私はこの1か月くらい、急激な心理的変化がありました。それは今も続いており、特にここ数日は苛烈を極めています。理由がわからずに戸惑っています。

    春に訳(思うところが)あり退職意向を出して、今は次の生き方を考えています。前々から朧気ながら考えてきたことではあるので、決して無計画ではないのですが、考えれば考えるほど、なんというか「居場所がなくなる」感じがします。有給休暇中で、サラリーマン時代にはできなかった趣味の教室に通っていますが、のんびりしているつもりで、本来、好きなことをしているにも関わらず、周囲の人になじめません。こんなことは今までなかったのですが。

    みんないい人たちです。でも、(私の方がおかしいのですよ!)なじめなくなってしまった。

    人から見たら充実していて、他者承認も得られている芸能人が立て続けに自殺されています。そこに隠れていますが他にも多くの方がいることでしょう。

    なんだか、このところの自分の急な心境の変化と似たようなことがあったのかもしれないとも想像しています。いままでは我慢(???)できたことが急に我慢できなくなる(←「我慢できなくなる」は違うかな。でもうまい言葉が見つからない)。

    強者と弱者とか、善人と悪人とか、そもそも我々が断じることができないことですが、お互いに混ざれなくなってしまう状況が起きそうで怖い。

    そんなのは、本当に嫌で、平和で安定していることが一番であると、そういう状態を願います。

    最近の心境を持てあましており、でも本当は行く末を感じているのかもしれませんが、コメントしました。ご意見を頂けますと幸いです。

    • Dilettante Dilettante より:

      浮遊人さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      自分の弱い側面を知りつつ、そこに苦しみながらも生き続ける人。

      『善』について深く理解しようとしつつ、自分に不純物を認める人。

      かれらは本当は「強く」、そして決して「自身を善人と認めない」でしょう。

      それゆえに何をされても、何が起きても、一時はネガティブな感情を認めつつも、なを他者の為に想いを向けるのでしょう。しかし、他者からは恐怖の対象とされてしまう。皆は彼らのつらい生き方を認めたくないから。幸せな世界であると思いたいから。

      誰もが自身を弱者と認めたくはないし、悪人(という存在があるのであれば)も自身を悪人とは認めていない。というか、こういったことを考えたことがないのだろう。そういった意味では、他者や世界に対して責任を背負わなくてもよい生き方であり、ただ、自分を生きており、人の進化の到着点といえないこともない。楽ですから。

      とても興味深い考察を共有していただいてありがとうございます。

      そうですね、これもあくまで私の個人的な想いなんですけど、なんと言うか私には

      「善の椅子取りゲーム」からはもうずっと前に下りた

      というような感覚があります。

      もちろんこれは今の社会があまりにも歪であることも大いに影響しているとは思うのですが、今の社会で本当に

      「善」

      と見なされる在りかたというのは極めて限定的なものでしかないのに、みんながその少ししかない椅子を巡って戦々恐々としながら苦しんでいるんだとしたら、そんなものは早く譲り渡してしまったほうが(争奪戦からさっさと下りてしまったほうが)、私にとってもっと大切なことに集中できていいという判断をしたということです。

      そもそも

      お前が悪い!悪いのは断然お前だ!

      などと言ってくる(思っている)ひとに

      私は悪くない!絶対に間違ってない!

      なんて言い張ってもほとんど埒が明かないので。こちらの事情を酌もうという意志がないひととは、話し合いになりようがないんですよ。だからそれならもう悪人でいいですという感じでもあるんですよね。

      そしてこれは

      「そうかい?」。相手との衝突を避けながら、自分の道を粛々と進んでいた師
      先日私は

      と書いた。また以前には「距離を置く」という知恵についても触れたことがあるのだが、

      実はこういった考えかたに至った背景には、私の師の存在が強く影響している。師は表立って特段目立つ活動を行ったわけではなく、...

      の影響も大いにあると思っています。あんなひとにさえ誹謗中傷をするひとがいると言うなら、私なんかは言うまでもないじゃないかというわけで。

       

      ですがそんなことよりなによりも、

      私はこの1か月くらい、急激な心理的変化がありました。それは今も続いており、特にここ数日は苛烈を極めています。理由がわからずに戸惑っています。

      春に訳(思うところが)あり退職意向を出して、今は次の生き方を考えています

      というのが今回の最重要トピックじゃないですか。

      そしてこんなことはあなた自身が誰よりわかっているとも思いますが、あなたは今まさに、人生の交差点にいるんだと思います。ただだからこそなにより大きなポイントは、

      今のその状況は周りの状況・変化により「強制されたもの」ではなく、あなたが「自らの意志で飛び込んだ」ものだ

      と言えるものだということです。そしてこれはあなたを冷淡に突き放そうとしているのではなくて、むしろ最大限の敬意を込めて言っていることだというのを強調しておきたいと思います。というのもそんなふうに人生(未来)を左右する大きな分岐点に自ら望んで立つというのは、実のところ今の社会ではとても貴重な機会であり、それ自体がかけがえのない決断なのだと、私は思うからです。

      もちろん本当は誰でも、自分が望みさえすればいつでもそういう状況に飛び込めるんですが、今はその心意気を削り取られているひとがほとんどなので、結局

      「そのときが来て初めて、半強制的に動かされる・選択や変化を迫られる」

      ということになるんだと思いますから、その意味であなたが自らこれからの道を拓こうとしているのは、実に素晴らしいことだと私は思っています。

      それに

      それが半強制的であるか意識的であるかに関わらず、そういう変化の過渡期にあるひとにこそ、この『闇の向こう側』の真価が発揮される

      というのも確かだと思いますから、主宰者である私としては、ぜひ一層ここを活かしていただければとても嬉しいです。たとえば今のあなたが改めてどれか文章を読んでみたら、同じものでも前とは違った捉えかたができるとか、そういうこともきっと充分にあり得ると思いますから。

      そのうえで、

      強者と弱者とか、善人と悪人とか、そもそも我々が断じることができないことですが、お互いに混ざれなくなってしまう状況が起きそう

      という感覚は私も実に共感するところなのですが、まぁなんと言うか

      それがこの世の多数派が望んだことだと言うなら、それはそれでしかたがない

      という想いも私にはあります。そもそも、霊存在(霊界)でさえそれをよしとするのが主流派だと言うなら、それが全体の流れなのかもしれませんし。

      なので私としては

      ともかくそれならそれで今後の流れももう少し見極めて、そのうえで私にとっては気に入らない結論が出た場合には、その可能性は地球以外の場所で追求しよう

      という心構えも保っています。そしてそんな私だからこそ、あなたの

      考えれば考えるほど、なんというか「居場所がなくなる」感じ

      というのにも私なりに共感したうえで、

      それでも意外にどこかには居場所はあるものですし、それでもどうしても見つからなかったら、自分で創ってしまえばいいんじゃないですか?

      とお伝えしたいと思っています。ですから実際

      いままでは我慢(???)できたことが急に我慢できなくなる(←「我慢できなくなる」は違うかな。でもうまい言葉が見つからない)

      というのも、いよいよ「あなたの番」が回ってきたということなんでしょう。それにこれは本当にはこれから全員が経験することになるのですから、それなら早く飛び込んで目処を立ててしまったほうが後々ラクになるということなんだとも思います。まぁ、今の私もまだそこまでは突き抜けていないんですけど、でも私はあなたと比べたら早く「そのとき」を迎えたので、私なりの記録を残してきたということなんです。

      ですからいずれあなたがまた一段と違う景色を見られる場所まで来たときには、ぜひその記録も誰かと共有していただければと思います。本当は今なんて、こんなところでなんて、ヘンに安定している場合ではないんですから(そもそも今は安定していないし、部分的にそう見えるとしてもそれは「未来の安定を喰い潰しているだけ」なんですから)ね。だからいずれもっと多くのひとがその事実と向き合うことになったときには、あなたの体験や声も、とても貴重なものとして活かされることになるでしょう。

      まして「浮遊」にはもちろん

      「地に足が付いていない」

      という解釈もあるでしょうけれど、本当には

      「フロー状態」

      でもあり得るでしょうし、

      「どこにも根付いていないからこそしがらみもなくとても自由で、そこからどこにでも行ける状態」

      だとも言えると思いますので、そんなあなたの今とこれからを、どうぞ存分に活かしていただければと思います。そして自分のこととなるとなかなかそう思えないのも百も承知ではありますが、私はあなたのこれからを心からの祝福とともに、楽しみにしていようと思っています。あなたがずっと「奇跡が起こる準備」をしてきたのは、まさにこれからのためなのでしょうから。

  3. 永遠の旅人 より:

    守護霊って絶対に味方する者だと思っていたのですが違うのですね。びっくりです。その守護霊の善悪の基準は高いかもしれませんが優しさはあまりないと思います。善悪の基準が高いのは構わないと思うのですがその基準に至っていない人(霊)に対して悪人と決め付けるのはどうかと思いますね。

    人(霊)は変われる余地があるのですから今はその基準に至ってなくてもいずれその基準に到達するかもしれないのですから。

    そもそも善悪の基準が高すぎるとこの世界に生きてる人間はほとんど悪人になってしまうと思います。

    この世界で苦しいながら必死に生きてる人に対しての侮辱行為だと思ってしまいます。自分の考えは善に向かって生きていこうと思っているだけで立派な善人だと思いますよ!

    • Dilettante Dilettante より:

      守護霊って絶対に味方する者だと思っていたのですが違うのですね。びっくりです。

      あ、これは私の説明不足でもあり、「守護霊」の定義についての少し込み入った話にもなるのですが、要するに私をいちばん身近で見守ってくれている

      「私の守護霊(団)」

      に関して言えば、基本的に私の味方ですよ。というか、私に敵意や疑心を保っている存在だったら、そもそも私の守護霊になろうとはしませんので。

      もちろん、叱られたり諭されたりすることはありますけどね。

      ただもっと今回のように広い意味で言った場合の守護霊というのは

      「喜びやしあわせが拡がることを喜び応援している存在」(負の念が拡がることを喜ぶ負の霊とは対極の立場・概念)

      というくらいの意味合いでしかないので、それぞれの細かな価値観の違いとか経験の差だとかは当然あって、結果として私に対する印象や接しかたもいろいろ違ってくるということです。

      それに私はなんと言うか、ある部分では彼らの

      「同僚」

      のようなものでもあるので、そうなるとなおさら、いろんな意見・態度が分かれてくるのも当然なのかなと思っています。

      それに私って結局、声かけられたらなんだかんだ真剣に応えますからね。彼らにとっても、「ときどき絡むと息抜きになる相手」みたいな感じなんじゃないですかね。まぁ、そもそも私が彼らの「同僚」だと思われているのかどうかすら、本当はよくわからないんですけど。

      ただ私に対してはともかく、負の霊全般に対してだったり、肉体人の苦悩や葛藤に対する理解や態度にはやはり問題というか、改善の余地があることも確かだろうなと思います。

      ですから本文のなかでも触れたように、以前

      「負の霊に手紙など出すな」。ならばそう憤るあなたにも、心を込めてお手紙を
      先日私は、

      という文章を公開した。

      するとこれを読んだ霊の一部から、私に憤りの声が届くようになった。

      負の霊に手紙を出すなどどういうつもりなんだ!

      前から思っていたが、お前はいったいどっちの味方なんだ!

      ...

      において彼らに伝えようとした懸念もまだまだ残ったままなんですが、まぁそれもいずれはもう少しまっすぐに受け止めてくれる日も来るかとは思っています。

      それに私としては、

      善悪の基準が高いのは構わないと思うのですがその基準に至っていない人(霊)に対して悪人と決め付けるのはどうかと思いますね

      人(霊)は変われる余地があるのですから今はその基準に至ってなくてもいずれその基準に到達するかもしれないのですから。

      善に向かって生きていこうと思っているだけで立派な善人だと思いますよ!

      というあなたのご意見も実に真っ当で清々しいものだと思います。

      ただ実際に「守護霊」という括りのなかには

      今の人類は地球に与える害が大きすぎる!これならいっそ大部分を滅ぼしてしまったほうがいい!

      というような意見を保つ一派もあるんですよ。これはある視点に立てば「負の霊」のようにも見えるんですが、

      「地球や他の動植物の痛みを思えばこそ人類を嫌っている」(つまり破壊や殺戮を第一目的にしているわけではない)

      という意味ではこれも「守護霊」だと言えるんです。

      だから本当は善悪についてと同じように、

      どこまでを守護霊/負の霊として捉えるか?(どこにその線を引いて分けるのか?)

      というのも細かく見ていくといろんな見解があるので、実情は思った以上に多様だということになるんですね。

      ですがだからこそ、あなたもこれからさらにいろいろな経験を積んでいって、また向こうに帰ってからもあなたの目線でいろいろな問いに向き合い、場合によってはすべてをあなたらしく変えていっていただければと思っていますし、もちろん私もそうしたいと思っています。だからやっぱり永遠があっても、どこまで行っても、終わりが来ることはないということなのでしょう。

  4. だれか より:

    失礼致します。あくまで通り掛かりではあるのですが、
    こうして公共のネットワークに文章を掲載していて
    コメント欄が活性化されている以上は、意見表明の受け入れ余地がある。
    と言う認識で浮かんだ疑問を幾つか挙げさせて頂きます。

    ■善人でないなら、悪人である。悪人でないなら、善人である。

    二元論に則るなら全く以て正しいのですが。
    極悪人、と言う単語が出る時点で上記の善人、悪人には段階がある物
    と解釈出来ますので、この前提は棄却します。

    とすると、凡そ殆どの人間は平時は善人でも悪人でもなく、
    同時にある場面では善人にも悪人にもなる。と言えますので、
    自分は○○である。と言う定義自体が殆ど意味を為さなくなります。

    例えば、人命を救った人間は善人でありましょうが。
    そういった人間が暴力を奮った瞬間悪人になる訳で。
    その悪人が困難に面した他者に手を差し伸べたら
    これは善人なるや悪人なるや。まあ、言ってしまえば禅問答ですね。

    罪の過多、徳の過多何て言い始めたなら猶更で。
    そも、善悪の起源は宗教です。善とは相対的な物で、悪もまた然り。
    その基準を個々人が持つのは勿論自由ではありますが、
    と言って。それを一般論化は出来ない物でしょう。
    どう言ったところで、定義など不毛ではないですか、これ?

    ■普通、一般的には人は善人でありたいと思っている筈だ

    これがNoであることは、恐らく御存知の通りです。
    自認が悪である人間がそんなに少なく特別だとお思いでしょうか。
    万人に自分が善人であるか、悪人であるかを問うたとして。
    その中間を許さなかった場合、大多数は悪人を選ぶでしょうね。

    と言うのも、善と言う物の定義がどう。ではありません。
    自分が善人であると認識することは、とても窮屈だからです。
    善である事に徹する集団と悪である事に徹する集団が
    戦争したら、必ず悪に徹する集団が勝利する。
    と言う思考ゲームがありますが、これは社会の縮図でもあります。

    つまり、善(規範)と悪(ルール無用)では自由度が違うのです。
    そして現代人は好んで自らを規範で縛ったりはしません。
    社会に属すると言うことは、不自由を感じ続けると同義です。
    そんな人間が態々不自由になりたがる訳がないではないですか。

    彼らは善人ではなく、単に自分らしく居たいだけで、
    自分らしくいるとは、つまり我儘であるだけです。
    あなたが言う“一般人”がどういった存在であるか、
    少しはご理解頂けたでしょうか。

    ■自殺は悪いことですか?

    尊厳死、と言う言葉をご存知でしょうか。
    人間が人間としての尊厳を保つ為に死に臨むことを言います。
    例えば末期がんの人間が。例えば全身不随の人間が。
    或いは筋ジストロフィーの人間が。
    自らの人生と誇りを生かす為に死を選ぶ。自殺の一種です。

    これを、悪と断じることは勿論可能です。
    そして、これを善と定義することも、また可能です。
    では尊厳死は真実、どちらだと思われますか?
    答えは有りませんし、誰かが定義出来る物でもありません。

    世の中には、こういった一面的には悪とされ
    異なる一面においては善とされることが無数に転がっています。
    暴力を奮う親から子供を引き離すことは保護だと言われ、
    善行であると社会的には承認されていますが、
    その際親と子とが互いを心、底から愛していたとしても。
    やはりこの前提は覆ることがありません。
    さて、その「よし」は善ですか?その「あし」は悪ですか?

    最低限。詭弁でないと仰るのであれば、
    この程度の範囲は網羅的に反論・反証を本文に組み込んでおいて下さい。
    でなければ、視野の狭さを露呈するだけにならざるを得ません。
    厚みが、足りません。視点が、足りません。論証が、足りません。
    知識が、足りません。経験値が、足りません。

    勿論、それを指して悪と呼ぶことはしません。未熟なだけです。
    要精進。今後とも頑張って下さい。

    • Dilettante Dilettante より:

      だれかさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ■善人でないなら、悪人である。悪人でないなら、善人である。

      二元論に則るなら全く以て正しいのですが。
      極悪人、と言う単語が出る時点で上記の善人、悪人には段階がある物
      と解釈出来ますので、この前提は棄却します。

      とすると、凡そ殆どの人間は平時は善人でも悪人でもなく、
      同時にある場面では善人にも悪人にもなる。と言えますので、
      自分は○○である。と言う定義自体が殆ど意味を為さなくなります。

      例えば、人命を救った人間は善人でありましょうが。
      そういった人間が暴力を奮った瞬間悪人になる訳で。
      その悪人が困難に面した他者に手を差し伸べたら
      これは善人なるや悪人なるや。まあ、言ってしまえば禅問答ですね。

      ええ、私も概ねあなたと同じような考えだと言ってもいいと思います。というのも今回の話の発端は、私に対して何人かの守護霊が

      そろそろ立場をはっきりさせろ!

      と詰め寄ってきたところにあるので、もしあなたのようなお考えのひとがお相手であれば、そもそもこんな話にはなってもいないと思うんですよね。

      ただそれはそれはそれとして、

      ■普通、一般的には人は善人でありたいと思っている筈だ

      これがNoであることは、恐らく御存知の通りです。
      自認が悪である人間がそんなに少なく特別だとお思いでしょうか。
      万人に自分が善人であるか、悪人であるかを問うたとして。
      その中間を許さなかった場合、大多数は悪人を選ぶでしょうね

      という部分については、ここでの私の視点は

      「善人でありたい(少しでも善の方向に向かいたい)と思っているかどうか」

      にあるので、

      「今現在の自分を悪人だと思うかどうか」

      は問うていない(それぞれはとりあえず無関係だと見なしている)ということは改めて確認しておきたいと思います。ただそれでもあなたとしては

      と言うのも、善と言う物の定義がどう。ではありません。
      自分が善人であると認識することは、とても窮屈だからです。

      つまり、善(規範)と悪(ルール無用)では自由度が違うのです。
      そして現代人は好んで自らを規範で縛ったりはしません。
      社会に属すると言うことは、不自由を感じ続けると同義です。
      そんな人間が態々不自由になりたがる訳がないではないですか

      というご意見なんだとも思いますので、

      善の方向に向かいたいと思っているひとはそれほど多くない

      ということで、やはり私とは違う立場なのかなとも思うんですけどね。

      ただそれでも私としては

      究極の自由があるはずの霊が、なぜ自ら不自由な世界に生まれ変わるのか?
      私たちは誰かに押しつけられた人生を生きたいとは思っていない。それぞれ違った価値観のなかで生きていて、なにを喜びと感じるのかも違うのだから、自分の人生は自分の意志で切り拓いていきたいと思う。だから、私たちは自由を求めるのだが、自由が大きくなれ...

      と書いたこともあるとおり、

      そもそも本当に自由を最優先したい(ルール無用の立場にいたい)ということだったら、最初からこの世に生まれ変わろうとはしなかったのではないか?それなのに自ら望んでここに来たということは、やはりどこかに「今とは違う立場から、違う可能性を追求したい」という想いがあったのではないか?

      と思っているので、そう考えるとやはり、このような意見になるということなんです。

      あとはこれも定義によるとは思うのですが、

      自分らしくいるとは、つまり我儘である

      というのもちょっと私の立場というか、言葉遣いとは違うんですよ。つまり私自身、

      あなたが少しでもあなたらしくいられますように

      なんてことを言うひとなんですが、これは言い換えると

      少しでも、あなたの素晴らしさ(魅力)が発揮され、あなたが育みたいものが、のびのびと育まれていきますように

      ということであり、さらに言い換えると

      あなたがあなたとして在ることを少しでも喜んでいられますように

      というような想い・願いを込めたものなんです。ですからそういう観点から言うと、自分らしくいることとわがままは必ずしも一致しないというか、むしろ実際には相反することさえ充分にあると、私は思っているわけです。

      ■自殺は悪いことですか?

      尊厳死、と言う言葉をご存知でしょうか。
      人間が人間としての尊厳を保つ為に死に臨むことを言います。
      例えば末期がんの人間が。例えば全身不随の人間が。
      或いは筋ジストロフィーの人間が。
      自らの人生と誇りを生かす為に死を選ぶ。自殺の一種です。

      これを、悪と断じることは勿論可能です。
      そして、これを善と定義することも、また可能です。
      では尊厳死は真実、どちらだと思われますか?
      答えは有りませんし、誰かが定義出来る物でもありません。

      おっしゃるとおりこれは確かにかなり微妙な話で、それはつまり特に現在の日本における

      「尊厳死」

      という言葉の定義にとても広い振れ幅があるからでもあると思います。ただ私としてはともかくひとつの柱として、

      「それを実践して死んだ本人が、そのあと後悔しているのかどうか」

      に沿って考えていきたいと思っています。そのうえで今の私としては

      「延命措置をしなかった」ということで本人が後悔することはほとんどないように思えるけど、いわゆる「積極的安楽死」については、死後本人が長く葛藤することが多いように見えるので、私としてはやはり勧められない

      という見解を保っていて、私自身の最期についても、このような立場から判断していけたらと思っています。

      ただもちろん、私もすべての自殺者や尊厳死者と話をしたわけではないので、まだまだ母数が少ないのはわかっています。

      私が

      自殺したら必ず後悔しますよ!

      と言い切っているわけではなく、

      自殺して後悔しなかったひとに出会ったことはない
      自殺者は世界全体で年間100万人ほどと言われている。日本だけで見ると、年間3万人ほどだと「公称」されているが、実際はもっと多いだろう。なぜなら、ここには「変死」が含まれていないからである。このあたりの諸事情は、今では誰でも調べることができる...

      という事実(現状)を示すに留まっているのもそういう理由です。ですがそれでも私に想いを伝えてくれたひとたちがたくさんいる以上は、そういう体験を自分なりに伝えていくことも、彼らに対する誠意というか恩返しになるのではないかと、私はそう思っているわけです。

      それから

      暴力を奮う親から子供を引き離すことは保護だと言われ、
      善行であると社会的には承認されていますが、
      その際親と子とが互いを心、底から愛していたとしても。
      やはりこの前提は覆ることがありません

      という部分については、とてもいい機会をいただきましたので、厚生労働省(家庭福祉課)に電話して、現状の運用方針を問い合わせてみました。その結果

      虐待を受けた(とされる)当事者であるこどもが親(保護者)と離れたくないと言っているのであれば、それはもちろん考慮されます。ただこうしたことはもちろん総合的に判断されるものなので、こどもがそれを望んでいない場合でも保護者から離されるということもあり得ます。ですがその期間は(期間延長の特例が認められた場合を除いては)最長でも2か月と定められているので、双方の意志に反して強制的にずっと引き離されるということではありません

      という趣旨の回答がありました。そのうえで

      なるほど、これはもちろんこどもの年齢や状況にもよると思うのですが、たとえば保護者やこども本人もそれを「虐待」だとは見なしていない状況で、第3者が「あれは私たちからすると保護者から引き離したほうがいい状況だと思います」という趣旨の通報が続いたとしたら、その場合の対応は最終的にはどの要素・どのひとの意見を優先して判断されるのでしょうか?

      とも訊いてみましたところ、

      それも一概には言えないのですが、ただこれはいわゆる「周囲の多数派の意見・価値観」によって決められるようなものではなく、最終的には児童相談所が様々な比較事例や知見に基づいて対応を決定することになります

      ということでした。

      ですから確かに

      親と子とが互いを心、底から愛していた

      という要素だけに則ってすべてが左右されるわけではないでしょうが、それがまったく影響を及ぼさないというわけでもないということなのでしょう。そして然るべき期間保護者とこどもが離れた場所で暮らすなかでお互いの気持ちを整理して、その後の生活にどのような変化があるのかないのかを、改めて見守ってみるということなのだろうと思います。だとするとこれは一方では児童相談所の責任や負担の大きさを示すものでもあるとはいえ、その姿勢・態度そのものは、それなりに安心・信頼できる(=よい)ものではないかと私は感じました。

       

      そしてここで改めて全体を振り返ってみますと、あなたの想いの核心のひとつは、

      善とは相対的な物で、悪もまた然り。
      その基準を個々人が持つのは勿論自由ではありますが、
      と言って。それを一般論化は出来ない物でしょう

      というところにあるのではないかと感じますし、私もそれは非常に強力な意見だとも思うのですが、それでもある観点、つまり私の場合は

      本人が後からその行動や選択を思い返したときに、それを清々しく振り返ることができるか?

      という視点に立ってみたとしたら、絶対的な善悪の本質とまでは言えないまでも

      「善悪の輪郭」

      のようなものは見えてくるのではないかとは思うのです。つまり私は別に悪を断罪したいわけでも、そのひとの選択を蔑んだり責め立てたりしたいわけでもなくて、ただ

      そのひとが長く葛藤したり苦しんだりする選択は、できるだけやめてほしい

      と思っているということなんです。

      私が自殺を無くしたいと思っているのもそうで、そこには「遺されたひとたちが哀しむ」という理由ももちろんあるにせよ、本当はそれ以上に

      「その本人がとてもつらい想いをする」

      というところからの考えであり懇願なんだということを、私がここで

      自殺は、あなたを容易に腐らせ、破壊する行為だ。だからそういう意味において、自殺はやはり悪だ。それも最も哀しく、つらい悪だ

      と言っているのもそういう意味なんだということを、どうかご理解いただけたらと思っています。

      ただいずれにせよ

      要精進

      というのはまったくそのとおりですので、これからも私なりに考え続け、できることを実践していきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。

タイトルとURLをコピーしました