先日

という文章を公開した。
すると公開コメントも含め、私の予想以上の反応が寄せられ、私自身とても学び深い経験になった。さらにこの文章をきっかけとして、私は生前いわゆる「悪人」の謗りを受けながら生きた霊とも話し合う機会を持つことができたのである。
そこで今回は先日の文章に対するそうした反応や感想も踏まえつつ、こうした問題(問い)について、さらに考えを掘り下げてみようと思う。なお、この文章に限ったことではないのだが、特にこのような微妙な問題については、私の見解が唯一絶対のものでないことは大前提として、あなたの考えや価値観を育んでいくためのひとつの「たたき台」のようなものとして活かしてほしいという私の想いを、改めて強調しておこうと思う。
さて、もしあなたがなにかしらの「罪」を背負うことになった、つまり誰かから加害者と見なされる立場に置かれた場合、あなたがまずいちばん素朴に思うことは、
いつかは、許されたい。どうか許してほしい
ということではないかと思う。もちろん、自分のしたことを思い返すとか、他にどんな選択肢があったかなどを総合的に反省するのは前提だとしても、一般的にはやはりいつかは許されたいと思うのも自然なことだと私は思う。
ただそのうえで、私はここであなたとまずひとつの問いを共有したい。それは、
その「ゆるし」には本当は、いくつかの段階・あるいは種類があるのではないか?
というものなのである。
具体的に言えば、最初に挙げられるのが
「存在の許容・存在許可」
とも言えるものだ。これが意味するところは、その逆から見てみたほうがわかりやすいと思う。
つまり、被害者やその共感者のひとたちが最も強い嫌悪感や憎悪を保っている場合、それは
お前はこの手で殺してやる!
というように表されることがある。あるいは直接自分の手を下しはしないとしても
地獄に堕ちろ!
というような言葉にも同じ想いが込められていると言っていいと思う。つまり、ここにおいては加害者の存在そのものが、本質的に許容されていない。これは最も厳しい「ゆるしの拒絶」であり、それは究極的には
「加害者の消滅(抹消)、または永遠の苦しみ」
までもが意図されている。
だから私が先ほど挙げた
「存在の許容・存在許可」
というのは、
あなたが存在することを許容・許可する
という意味を込めたものである。ここにおいて、被害者は少なくとも
「加害者を積極的に追い詰め、存在を抹消したい」
とまでは思っていない。ただだからと言って被害者は加害者が自分に対して採った行動を容認したわけでもないし、忘れたわけでもない。当然加害者の境遇に(さほどの)同情を示すこともないだろう。ただそれでも、これは「ゆるし」のひとつではあり、許容・許可の意味合いから(このあと見ていく他の「ゆるし」と区別するためにも)「許し」の字を当てるのが適当ではないかと思われる。
一方で、この許しとはまた違う種類の「ゆるし」もある。それは
「自分がされたことも、加害者の存在もすべてを、できるだけ遠くに放り投げ、無視してしまう」
ということである。
これはつまり
私はあなたに対して、一切の興味関心を保たない
という態度であり、同時に
あなたが私になんらかの影響を与えることを、一切拒絶する
という意志が示唆されている。だからこの意志や態度は、実際には加害者に直接知らされることすらほとんどない。文字どおり、被害者は加害者との「世界そのものの断絶」を意図しているのだから。もちろん、自分の体験やそのときの自分の気持ちを完全に忘れることなどできないだろう。しかしそれでも、ここで被害者が示しているのは限りなくそこに近づこうとする態度である。
あなたはもともと私の「世界」にはいなかったし、これからも決して存在しない
ということなのだ。しかしだからこそこれもひとつの「ゆるし」ではあると私は思う。そしてこれは副次的に、先ほどの「許し」にあった
「存在の許容・存在許可」
の要素も含まれていると見ることもできる。だがこれは、本人が意図したものではない。許可した覚えもなく、そもそも許可する対象そのものを、もう意識に上らせないからである。
まずここで確認しておきたいのは、
誰かに対して怒りや嫌悪を保ち続けることは、それ自体がとても大きな負担であり、同時に痛みでもある
ということだ。だからこの負担を減らし痛みを和らげることができるという意味において、そのような「ゆるし」に向かっていくことは、まず誰より被害者本人のためになるということである。だからそれをするかどうかは、あなた自身のために検討すべきことなのであって、加害者のためにゆるすということではない。そして多くの場合、被害者としてはここまでの境地に至るだけでも相当な困難があると思うし、だからこそ今の世間一般における
「ゆるし」
というのは、大方がここまでの過程を指すのだろうと私は思っている。
ただもう一方で、これを加害者の目線から見たとしたらどうだろう?つまり
いつかは、許されたい。どうか許してほしい
と思っている加害者に対して、
あなたが望んでいる「ゆるし」とは、本当に望んでいることは、こういう「ゆるし」のことですか?
と問いかけていったら、そこからなにが見えるだろうか?
するとまず第1に、
加害者にとっていちばん苦しい状況というのは、最初に挙げた「許し」すらももらえていない状況だ
というのは間違いないと思う。自分の存在を許していない・できることならこの世からもあらゆる世界からも消えてなくなってほしいと思っているひとがいることを知りながら生き続けるというのは、あまりにも苦しいと思う。だからそこから比べれば、せめて
あなたが存在することを許容・許可する
と思ってもらえるだけでも本当にありがたいことだとも言えるとは思う。だがそのうえで加害者に
あなたが本当に望んでいることはこれですか?
と問うとしたらと考えると、私には、本当は、そうは思えないのである。
あるいはもうひとつの「ゆるし」、つまり
私はあなたに対して、一切の興味関心を保たない
という意味でのゆるしについてはどうだろうか?
私は先ほども言ったとおり、被害者自身のしあわせと安らぎのためには、このようなゆるしに至ることも有効な手段だと思うし、それを選ぶ切実な気持ちもわかる。わかりたいと思う。
ただもしこれを加害者の視点から見たときには、まったく違う景色になるとも思うのだ。つまり先ほど言ったとおり、この「ゆるし」の本質は
あなたが私になんらかの影響を与えることを、一切拒絶する
という意志であり、
あなたはもともと私の「世界」にはいなかったし、これからも決して存在しない
という断絶だからである。
つまりここに至って、加害者は自分の罪について考えるときの手がかりを失ってしまうということでもあるのだ。なぜなら
ある意味では加害者も被害者も双方が、「罪から生まれた子」だ
からである。もちろん、両者の立ち位置は同じではない。それどころか、それぞれは「対極の存在」と見なされ得る。だがある意味では、両者は「罪」という親から生まれたものであるという点においては、確かにひとつのつながりを保っているとも言える。だがもしその片割れである被害者がそのつながりを絶ってしまったら、罪という原点に向き合うのは加害者だけになる。そしてそれは明らかに、より難しいものになるだろう。だからその意味において、やはりこの「ゆるし」もまた、加害者が本当に望んでいるものではないだろうと、そう思うのである。
だからここまでを踏まえて、私が改めて思うのは、
被害者にとっては、それがどちらの「ゆるし」であったとしても、そこに至ることができれば(少しは)ラクになれるし、重荷や痛み苦しみを下ろすことにもなる。だがもう一方の加害者にとっては、話は決してそこでは終わらないし、痛みや苦しみが消えることもない
ということなのである。
もちろん被害者からすれば
そもそもそう思われるだけのことをしたお前が悪いんだ!
と言われるのはわかっている。そして先に2つ挙げたいずれの「ゆるし」にせよ、被害者がそこに至るのは決して容易なことではない。だから加害者は、この時点でありがたいと思わなければいけないのだとも思う。
だがそれを重々踏まえたうえで、
いつかは、許されたい。どうか許してほしい
と言っている加害者が本当に望んでいるものはなんなのかということを考えていったとしたら、私はこの想いは本当は
そんな選択肢しか思いつかないくらいに追い詰められていたということを、自分も「あなたとはまるで異質な化け物」ではないということを、どうかわかってほしい
ということなのではないかと、そう思うのである。
ひとは誰しも、追い詰められて心身に余裕を失くすと、そうでないときより判断を間違いやすくなる。それは自分自身か他者、あるいはその両方への攻撃性となって現れることも多い。そしてもちろんそこには負の霊の影響もあるのだから、それはまさしく「負の連鎖」そのものであり、最終的に自暴自棄になったひとは
「よりよい選択肢を吟味しよう」
という気力そのものを殺がれるのだから、それでは破滅を免れることは相当に難しくなる。
もちろんここで
同じ状況に置かれて同じ苦しみを味わったとしても、同じ判断・行動を採るとは限らない。たとえば同じ家のきょうだいを見てもわかる。だから本人の悪行の責任は、あくまで本人にある!
という意見が出るのも当然だとは思う。それに私も本人にまったく責任がないとまでは思わない。ただ
ある種の状況に置かれると、そこから本人だけの力で破滅を免れることは「相当に難しくなる」のも確かではないですか?
と言いたいだけだ。そのうえで
そんな余裕のない状態に置かれているひとがたくさんいるなかで、それが「相当に難しいこと」であるならなおのこと、その「難しいことを成し遂げられずに失敗する」ひとも、それなりに出てくるだろう
と思うのだ。だからこそ私は、彼らが願っていることは
そんな選択肢しか思いつかないくらいに追い詰められていたということを、自分も「あなたとはまるで異質な化け物」ではないということを、どうかわかってほしい
ということなのではないかと思う。というかもっと正直に言えば
あなたと同じ状況に置かれたら、きっと私でも同じことをする
と被害者に言ってもらえたら、あるいはどこかに少しでもそんな想いを持ってもらえたら、それでようやく加害者は本当の意味で「ゆるされた」と思えるのではないかと、私は思うのである。
ただもちろん私は、被害者であるあなたに
だから「あなたも実は私とそう変わらないひとにすぎなかった。それにあなたと同じ状況に置かれたら、きっと私でも同じことをする」と思ってあげなさい。それが、加害者の本当の願いなんだから
なんてことを言いたいわけでは決してない。たとえどれほどの時間をかけたとしても、実際にそんな境地に至れるひとはほとんどいないと思うし、もし本当に
すべては環境の問題で、立場が代わればみんな誰でも同じことをする
というのであれば、私たちに本当の意味での改善・成長の余地はないということにもなってしまう。だから本当には
私だって追い詰められたらあなたと同じ選択肢が浮かんでくることもあると思う。それにそのときのあなたにとっては、それがほとんど唯一絶対の選択肢に思えたんだろうとも思う。だけど本当は、こんなこともできたんだよ。あなたには、違う道もあったんだよ。だから今度は、あのときは選べなかった、違う道を選んでみよう?
と言ってあげられたら充分だと思う。というか、それだけでもほとんど不可能に思えるほど難しいことだと思う。しかしだからこそもしあなたがそこにたどり着けたとしたら、言葉では言い表せないものを得られるのだろうと思う。
そう、だから加害者が
いつかは、許されたい。どうか許してほしい
と言うのを、先ほどとはまた別の言いかたで言い換えるなら
あのときの自分にはああすることしかできなかったということをわかってほしい。そしてもしあなたが私とはまったく違う正しい判断ができるって言うなら、それで私を悪人だと見なすなら、「あのときの自分には本当はどんな道があったのか」を教えてほしい。そしてもしそれがあなたにもわからないって言うなら、せめて一緒に考えてほしい
ということなのだろうと、私は思うのである。
最後にもうひとつだけ、関係者の了承を得たうえで、あなたとも共有したい話がある。
私はつい先日、ある「被害者」の、もっと精確に言うなら「被害者ととても親しかったひと」の立ち会いのもと、ある「加害者」の霊を呼び出して話をした。彼は最初話し合いの場に来ること自体に難色を示していたのだが、結局はその場に来ることになった。
その「できごと」の詳細をここに公開することはしないが、ともかく「加害者」と見なされた彼は終始一貫して
あれは復讐だったんだ!俺は「被害者の母」に恨みがあった!でもアイツには直接手を出せなかったから、こどもを通して復讐したんだ!先に苦しめられたのは、俺のほうだったんだ!
と言っていた。それに対してその場に立ち会っていた被害者の友人は
でもあなたはこどもを傷つけることを愉しんでいたんでしょう!
と問い詰めたのだが、彼は
いや、ぜんぜん愉しくなんかなかった!それに俺は自分があんな目に遭ってからずっとおかしくなってたんだ!でもそれを独りで耐え忍ぶこともできなかったから、少しでも憂さを晴らそうと思ってやっただけだ!愉しくなんかない!ただ少しでも、復讐してやりたかったんだ!
と言い続けるだけで、両者の溝は埋まらないまま、彼は帰っていった。そして被害者の友人は私に
まさにあのひとだなぁと思いました。生きていたときとなにも変わっていなかった。ああやって絶対に、自分の非を認めないんです。ほんとにちっとも、変わっていない。まったく反省してないんでしょうね
と感想を述べたのだった。
だが私は、わずかな間とは言え彼の媒体となり、私のからだを貸してエネルギーを共有した者として、少しだけ違った印象も保ったのである。それは
もしかしたら、彼だって少しは反省していたし、自分のしたことを悪いとも思っていたのかもしれない。でもそれをいくら言っても受け入れてもらえるとは思えなかったから、だから「変わらない加害者像」を、「みんなが見たいだろう自分の姿」を、どこかで演じたのではないだろうか?たとえ本人にすら、「演じた」自覚はないとしても……
という感覚だったのだ。
もちろん私は加害者をただ擁護したいと思っているわけではないし、
そもそも、加害者がいなければ被害者は生まれていない
というのもわかる。だが一方で彼は
本当は俺が被害者なんだ!俺が先にやられたんだ!
と言っていた。そしてその話を聴きながら、私は一方で

の話を思い出してもいた。さらにもうひとつ付け加えるなら、今回彼の「被害者」となったこどもは既に生まれ変わり、しあわせに向かって歩んでいるということだ。だからその子は既に、未来を生きている。しかし加害者はずっと、苦しみ続けているのだ。ただ彼があれ以上自分と向き合えないと言うなら、今の私にできることは、これ以上なにもないのだろうとも思う。実際彼はそれ以上、私とも誰とも、話す気がないようなのだから。
ただひとつ間違いないことは、私はこれからも、このような問いを考え続けるということだ。それはどこまで行っても、尽きることはないと思う。そして私は別に、加害者を甘やかしたいわけでもすべての責任を免除したいわけでもない。ただ被害者意識がそうであるのと同じように、加害者意識を保ち続けるのもまた、とても苦しいということ、そして罪というのはある部分では、加害者にとってこそ決して逃れられない鎖であることを知っているだけだ。だからこそ、加害者はときにゆるしを得ることを諦めてしまおうとしたり、開き直ってさらなる悪で上塗りすることで感覚を麻痺させてみたりすることで、その「加害者意識」と本気で向き合い続けることをやめようとするのだろうとも思う。たとえそれでは本当の意味で「鎖」から解放されることはないとわかっていてもだ。
「真っ当に加害者意識と向き合い続ける」
なんてことを選んだら、自分が本当に狂ってしまうかもしれないから。
しかしもちろん、被害者にそれを解く義務などない。被害者も、とても苦しいのだから。追い詰められ苦しくなってしまったら、誰だってちゃんと見ることはできないのだから。
おそらく「ゆるし」の究極形は
「受容」
なのだと思う。自分と相手の連続性を理解し受け入れること。お互いは違う存在でありながらもつながっていることを理解すること。それができれば、私たちは「加害/被害」の関係さえも超えてつながることができるのかもしれない。ただそれは誰にでもできることではないし、実際にはほとんど無理なのかもしれないとも思う。だから私には、被害者にそれを強制することはおろか、要求することさえできない。だからそれは誰の義務でもない。だがだからこそ、その
「挑む必要もない難しいこと」
に飛び込める唯一の力があるとしたら、それはやはり愛だけなのだと思う。だから私は願っている。あなたがたとえ誰に誤解されても嫌われても、せめて愛するひととだけは、いつかわかり合える日が来ることを。愛するひとと傷つけ合ってしまうことほど哀しく苦しいことはない。だからそんなことは起きないのがいちばんなんだけれど、もしそんなことになったとしてもいつかには、互いにその傷を癒やし合える日が来ることを。それはほとんど奇跡にしかできないことだ。だが奇跡は起きるときには起きるものだ。特にそれが起きるということを、知っているひとのところには。

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自分の場合父親が許せない相手です。理由は厳しい体罰と貧乏なせいで進学を諦めなければいけなかった事です。まあ自分にも多少落ち度はあると頭ではわかるのですが心から納得していないです。
Dilettanteさんの無視をして存在を忘れるのも許しの内の一つの形だと知って大分心が救われました。許しとは相手を受け入れて相手のした事を全部受け止めないといけないものだと思っていました。
今の自分では絶対に出来ない事なのでいつも父親の事を思いだすたびに地獄に落ちろ!存在すらも消えてしまえ!と思っていたのでその様に思うたび心がすさみ何もやる気がおきず無気力になったり全てどうでも良くなったりもしていました。
そう思う事が頭では良くないとわかっていても心が過去のトラウマに刺激されると自分の思いをコントロール出来なくなっていました。
無視をして忘れる事も許しの一つだとしたら今の自分だったら出来るかなと思います。それだけで自分の心が救われますね。
それと質問したい事があるのですが子供が言う事を聞かなかったら教育の一環として厳しい体罰顔をビンタしたり子供を張り倒したり食器を投げたりして言う事を聞かせるのも有りなのでしょうか?それは悪行になるのでしょうか?
自分は何か悪い事をしたらこの様に厳しい体罰で躾けられてきているのでそれが悪行なのかよくわかりません。愛情があれば子供が悪い事をしたら暴力を行使して身体でわからせるのも有りなのかなとも思うのですが、自分がトラウマになっているので自分も結婚して子供が出来ても出来ればしたくはないですね。
それと貧乏そのものは悪ではないと思いますがいずれお金持ちになると子供に言い聞かせるのは良くない事でしょうか?
親がいつもいずれお金持ちになるから進学とかは心配しなくて良いと言われて育ってきたけど実際は貧乏のままです。それを鵜呑みにしてしまいお金の事はどうにかなると思いこんでいました。貧乏なら貧乏と正直に言ってくれた方が奨学金について真剣に考えたかもしれないです。結局奨学金を何百万も借りたくなかったので進学は諦めました。まあ進学したとしてもどこにでもある大学か専門学校なので借金してまで行く意味は無かったと思っているのですが大学に行った人を見るたびに羨ましく思います。
今も実家は貧乏で父親は既に亡くなっていますが母親は今も健在で母親に対しては恨みがほとんどないですね。昔はありましたけど今ないのは多分子育てに対して良くしてやれなかったと言う思いがあり昔色々と謝られたからだと思います。
永遠の旅人さん、ようこそ、闇の向こう側へ。
ええ、あらゆる状況には様々な可能性が秘められているので、長期的に見ればどこまでも発展・深化していくこともあり得るというわけなのですが、いずれにせよ
というのはお互いにとってあまりにも苦しく哀しい事態なので、それなら今のあなたなりのゆるしに至っていただいたほうがずっといいかと思います。
それに本文にも書いたとおり、そこまでの過程でも既に相当な葛藤があるものだと思いますし、もしそこで終わることを選ぶならそれもそれでいいと思います。
実際私も現時点で1人だけ、そのような態度を採ることを選んだ相手がいます。まぁ、私の場合「理解したい」という想いがあるのでなおさら、相手のことをまったく意識しなくなるということはないと思いますし、そこから得た学びはぜひずっと活かしていきたいとも思っていますが、少なくともそのひとと直接交流するようなことは、今後生まれ変わった先でも避けるつもりです。それに私はそのためにできるだけたくさんの霊にも協力を仰いでいるので、私の場合はおそらく本当にそうなるんだろうと思っています。
別に私だけが相手だったら、たとえ同じことをされたってもう少し違う対応もあり得たかもしれないとも思うんですけど、私の最愛のひとまでも巻き込んでというか、むしろそちらを主な標的としたとさえ言えるあんなことをされたからには、もうそれ以外にないと判断したからです。それにこういう場合は、もはや私だけが相手をゆるせばいいとかいう問題でもないと思っていますし。ただ、そのひとにもしあわせになってほしいとは思っているんですけどね。むしろそのほうが、お互いのためにもなると思っていますから。ただ私(たち)とはもう関わらないでもらえたらと思っているだけです。それにそのような私の意志については本人にも直接伝えていますから、もうこれ以上私がすべきことはないと思っています。
ですからそんな私としては、あなたが無理にその先に進むことを勧めようとも思わないです。
というのは愛の究極形のひとつだと思っていますので、全員に対してそのような気持ち(関係性)を保つというのは、ほとんど無理と言ってもいいくらい難しいと思っていますし。
そうですね、まずひとつ言えることは、
たとえ親や家族からであっても、あるいは家族だからこそ、「暴力(体罰)を受けてなおそこに秘められた愛を感じる」というのは相当難しい
ということだと思います。ですから
それはお互いのすれ違いや断絶を深める結果になることがほとんどだと思うので、やめておいたほうがいい
という意味で、私もそれは「悪行」(避けたほうがいいこと)だと言ってもいいと思います。もっと単純に言うと、まさにあなた自身がそうであるように、それはこどもに嫌われたり憎まれたりする結果につながることがほとんどだからです。でもそんな関係は本来親子のどちらも望んでいることではないはずなので、その意味で「悪いこと」(望ましい結果につながらない・少なくともつながりにくいこと)だというのは間違いないと思うのです。
それでも
私はたとえ嫌われても憎まれてもこれで伝えたいことがあるんだ!
と言うのならしかたがないとも言えるのかもしれませんけど、やっぱりそれもあまりにも、哀しいですからね。
そうですね、これもかなり微妙な話だとは思うんですが、もっと根本的なところで
「自分が本当には信じられていないことを、体裁を繕うために無理やり言う」というところに問題があるのではないか?
とは思います。
つまりたとえ表面的には同じ言葉であっても、「実は本人も不安に思っているのに、それを無理やり抑え込んでねじ曲げた」結果として出たものであれば、むしろそこに隠された「歪み」のほうが伝播するというか、力を保つことになるのではないかと思うからです。
それに実際、そんなふうに
と言っていた親御さんご本人がいちばんお金の不安と闘って苦しんでいたのではないかとも思うんです。
だから本当はせめて、
今のままだったら進学させるのはかなり厳しいとも思うけど、なんとかいろいろ努力してみるからな
というくらいに言えていたら、だいぶ違ったのかなとも思いますけどね。ただ実際にはそれもかなり難しかっただろうなとは思いますし、私がその立場でもそう率直に言える自信はないです。
ですから実のところ私としては、お父様があなたのことをまったく愛していなかったとも思いませんし、だからこそ子育てや経済的な面についての葛藤や不安をうまく伝えられなかったことについても
不器用なひとだったんだなぁ……
という感想がいちばん先に来るわけなんですが、それは私がお父様に対して感じることであって、あなたが同じ想いになれないとしても、それをおかしいとは思わないです。家族というのは、まして父と息子というのは本当に、難しい関係だとも思いますから。
ただそれでもあなたが今でさえ
と言える部分を保っていると言うなら、これから先あなたがもっといろんな経験を積んでいった先に、今とはまた違う視点からお父様を見てあげるようになって、もっと違った気持ちになれるときも来るかもしれないとは思いますね。
ということは
「お互いが生きている間にこれ以上深く話し合う(理解し合う)ことはできなかった
ということでもありますが、一方では
あなたが死んで再びお父様と同じ世界に行くまでの間に、ゆっくり考えなおせる時間がたっぷりある
ということでもあるんですから。
ですから最初からお伝えしているとおり、私はあなたになにかを強制しようとか無理をさせようなどとはまったく思っていないのですが、一方でまったく悲観してはいないというか、むしろ楽観的とも言っていいくらいの感覚を保っているんですよね。
もちろんこれはあなたからするとかなり奇妙にも思えるでしょうが、無理に信じようとしなくてもいいので、気をラクにしてというか
そんなふうに思うひともいるんだなぁ……
というくらいに思っておいていただければと、私としてはそんなふうに思っています。