ゼロ・プライバシー。すべてが見られている世界で、あなたならどう生きていくだろうか?

私たちはいつどんなときでも、守護霊にはあたたかく見守られ、逆に負の霊には多かれ少なかれ妨害され、そういう綱引きのなかで自分の意志と選択を基盤として生きていると言える。そしてこれは言い換えると、

私たちの人生は、常に相互作用のなかで動いている

ということだ。だからこそ私も以前から

「すべてが記録されている」ということを味方につけてほしい。そしてあなたの「奮闘の記録」は、いずれ私にも読ませてほしい
ときに 「アカシックレコード」 や 「閻魔帳」 といったような様々な呼び名をつけられることもあるが、 宇宙に起こるすべての物事は記録されている という概念がある。そして私も、それは事実だと思っている。 ...

ということをお伝えしてきたのだが、これをもう少し違った観点からもっと具体的に言うと、これはつまり

私たちにはそもそも最初から、本当の意味での「プライバシー」(誰の目も届かない環境)や「秘密」はない

ということでもある。だとしたらあなたはこの事実を、どう受け止めるだろうか?

 

率直に言うと、私はこの事実を最初に理解したとき、単純に「戦慄」した。それはある種の恐れでもあり、恥ずかしさでもあり、そして少しは、怒りでもあったと思う。そして特に現代の日本のような権利感覚や環境のなかで育ってきたひとたちになら、おそらくかなり共感してもらえることではないかと思う。別に自分が特に「悪いこと」をしているわけではないにしても、霊がその気になればお風呂だろうがトイレだろうがどこにでも忍び込んで自分を観察できるというのは、相当気持ち悪いことだと感じてしまうのはしかたがないことだと思うのだ。

だからこの事実を落ち着いて受け止められるようになるには、私自身の経験に照らすなら少なくとも数年はかかるのではないかと思う。だからこれは霊媒師が向き合うことになる「最初の試練」の一種だと思うし、それを乗り越えるのに数年も要らないと言うのなら、私はあなたのその心意気に敬服する。

それどころか実際には、

いや、そんなの数年かかったって無理ですよ!

というひとも多いのではないかと思うが、それを受け入れるためには、やはり真実の理解を深めることが必要なのだと思うのだ。

まずひとつ言ってしまえば、それは

霊は基本的には想い(心の状態)に共鳴するかたちでひとに関わることが多いので、そのひとがいる場所やそのひとの姿そのものには、それほど強い関心を保っていない。もちろんなかにはトイレやお風呂を覗き見しようとする霊もそれなりにいるが、そんなこともある程度繰り返しているうちに自然と飽きてくるのだから、さほど気にすることではない

ということを腑に落としていければ、必要以上に心を乱さずに済むようになるということである。

 

そもそも、霊はどこの誰を観察したとしても、その「上澄み」を手に入れられはしてもその「核心」には触れられない。それはあくまでも「他者の経験」にすぎず、

「自分自身の体験」

にはほど遠い。さらに言えば、たとえ悪戯心や欲望を満たそうとして誰のどんな姿や行為を覗いてみたとしても、それで相手が「自分自身」を見て、自分に愛着を保ってくれることなどあり得ないのだから、それでは結局は虚しいだけである。だからこそ、そこから

じゃあアイツらも同じところに堕としてやる!

と思い始めると負の霊になるわけなのだが、それはまた別の話である。

それにどんなことでも、延々と数を増やしていくうちにすべてはぼやけていって、ひとつひとつの価値は薄まっていく。要するに、今まで数千人数万人のプライベートを覗いてきた霊が私を見たからといって、実のところそこにはなんの意味もないということだ。そこに残っているのは単なる「惰性」であって、実際にはどこにも焦点」が合っていないばかりか、そもそもその頃には当初の「関心・欲望」さえもほとんど消えかけている。だからそんなものは実質的に、もはやどうでもいいことなのだ。

 

と、いずれこういうことをだんだんと理解していくうちに、どこの霊になにを見られているとか、そんなことはたいした問題ではないと思えるようになるだろうと、私は思っている。とはいえもちろんこれが

「誰かに自分の主体をほとんど乗っ取られて、肉体ごと好きに使われる」

ようなことになればまったく違う深刻さを帯びることになるが、そんな事態はちゃんと生きていれば(自分の意志を手放さず自暴自棄にならなければ)まず起きないことなので、その核心を掴めてさえいればいいことだ。

そしてたとえば今の日本でもできる映画体験・あるいはゲームやVRなどの手段に深く傾倒してみればみるほど、霊になるのを待つまでもなく、このような実感に近いものを味わっていけるのではないかとも思うのである。やはりすべては、自分自身の経験には遠く及ばないのだ。だからこそ私も、こうして自分自身が直にここに生まれてくることを選んだのだし、あなたも今は忘れてしまったとしても、きっとそういうことなのである。

 

ただ、こういう霊存在の話とは別に、現代社会では肉体人自体が、私たちのあらゆるプライバシーを剥ぎ取ろうと躍起になっているとも思う。実際ネット上ではGoogleやAmazon、それにFacebookやMicrosoftのような企業体の保つ力があまりにも強大になっていることもあり、実質的に私たちの行動履歴はほとんど隠しようがなくなっているとすら言えると思う。もちろん、そもそものインターネット通信の仕組みを考えてみれば、各プロバイダーやネットインフラ企業から完全に自由で匿名な状況などないと言ってもいいと思うし、もはや自分だけの判断ですべてのオンラインネットワークから逃れて生活することなどできるわけがないところまで来ていると思う。

それに加え、現在では監視カメラの増加や様々な社会的施策もあるのだから、最終的にはネット上だろうがオフラインだろうが関係なく、

「あらゆるひとが肉体人にも常時監視されているシステム」

というのを構築したいと思っているひとたちも確かにいるのだと思うし、もしかしたら本当にそんな状況が実現する可能性もまったくないとは言えない。だとしたらそういう事態というのは、

「霊がいつも私たちを見ている」(そしてすべての記録は宇宙と魂に刻まれている)

というのとはまた違ういやらしさと言うか、気持ち悪さを帯びているとは私も思う。

だから少なくとも私(たち)の想いが通るのであれば、そこまで気持ちの悪い監視社会は実際には訪れないと思う。だがもし万々が一そんな社会が実現したとして、それで

すべてのひとのすべての情報を得られれば、自分(たち)が世界を支配できる!

と思い込んでいるひとがいるのだとしたら、それも大きな間違いだと私は断言する。すべての情報を遍く見渡せるとしても、それではまだ「理解」には至れない。

そのひとを本当に愛することなしに、本当にそのひとを理解することはできない

のである。だから私は

愛によって眼が曇ることもあるし、絶望しなければ見えないものもある。だがそれでも、愛がなければ見えない真実がある
誰かが誰かのからだを切り開き、そのなかに手を加えている という説明を聴いて、あなたはどう思うだろうか?これは、犯罪かもしれない。だとしたら通報したほうがいい。相手のいのちの危機も迫っているかもしれないし、それどころかもう死んでいるのか...

と言っているのである。

また仮にひとつの究極的状況を想像するとして、たとえば私が裸に剥かれ排泄の自由(秘密)さえ奪われたとしたら、それで私の尊厳は完全に奪われたと、私は完全に支配されたと言えるだろうか?

いや、私はそうは思っていない。確かにそんなことは起きないほうがずっといいし、もし実際にそんなことになったらかなり嫌だし苦しいとも思う。だがそれだって結局は、私の

「上澄み」

にしかすぎないのだ。それだけでは私を「再構成」(再現)するには足りないのだから、それでは私のすべてが奪われ掌握されたとまでは言えないということだ。そしてその理由も明白で、私を含めたあらゆる存在を生み育てる核心でありカギである

「愛」

がそこにないからである。そして愛のあるひとは、そんなふうに誰かを貶めるためにその力を用いることはない。つまりここで、その道は行き止まりになる。だからたとえ99.9%までは目論見どおりに進んだにせよ、それは決して「完成」しない。これはたとえば

一厘の仕組み

などの表現で、昔からあらゆる先人が伝えてきたことのひとつだと思うし、私が

「本当にはプライバシーなどない」

という事実と向き合わされながら生きてきた結果として得た、確かな感慨でもある。だから私はずっと、

あなたがあなたとして生きているということは、かけがえなく尊い

と言い続けているのだ。あなたの存在は、本当はあなたのすべてを記録したもの以上のものであり、あらゆる想像や予測を超え得る奇跡なのである。だからこそ世界から「謎」が完全に消えることはない。そしてそれは結局のところ、

「嬉しい驚き」

なのだと私は思っている。本当に驚いたとき、私たちは少しの間息を呑み、いずれは笑うしかなくなるのだ。でもそれを「シミュレート」するだけではやっぱりつまらないから、それを直接味わってみよう。だから私たちはこうして直に、みんなで一緒に生きているのである。

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