私は以前から

と思ってきた。そしてそのなかでも、いわゆる
「神様」
というような存在をどう考え、どう捉えるかというのは、そのひとの人生観に大きな影響を与える要素のひとつだと思う。そしてもちろん今の世界では、そこにはあまりにも多様な立場と、見解があるとも思う。
ときどき私のところに
結局、神様とか仏様みたいなものは本当にいるんですか?
というような質問が来ることがある。
そういう質問に対しては、私はまず
それはあなたが「神様」や「仏様」というものをどういう存在として想定するかによりますね。たとえば「自分のことをずっと見守ってくれる存在」として捉えるのであればそれは私が「守護霊」と呼ぶ存在で、それは確かにみんなそれぞれについていると言えますから
というようなところから始めることにしている。
ただ、そのお相手が事前にある程度私の文章や考えを読み込んできてくれているひとだった場合、さらに
ええ、でもその「守護霊」っていうのも結局は、「自分の一部」っていうか、あくまでも補佐役みたいな感じで、「世界中どんなひとのことでも助けてくれて、信頼に応えてくれて、願いも叶えてくれる存在」っていうわけでもないみたいですよね?「自分と一緒に成長していく」というのは、裏を返せば「それだけ未熟者で、絶対的な存在ではない」ということなんでしょうから
というふうな返しが来ることもあるのだが、実のところ、これはとても核心に迫る問いなのではないかと私は思うのだ。
そう、確かに守護霊は、
「世界中どんなひとのことでも助けてくれて、信頼に応えてくれて、願いも叶えてくれる存在」
という感じではない。
というより、もっと率直に言えば、それはむしろ
「力のある負の霊(団)」
の性質に近いとすら思う。つまり、ある程度の力のある負の霊であれば、ある意味本当に「世界中どんなひとのことでも助けてくれて、信頼に応えてくれて、願いも叶えてくれる」からである。ただ彼らの場合、それがあくまでも
「双方向」(お互い様)
のものであり、
こちらもお前の願いを叶えてやるから、お前もこちらの願いを叶えてくれ(手足となって働いてくれ)
というようなかたちになるというだけだ。だからそういう
「わかりやすさ・即効性」
を求めているようなひとというのは、意識的にであれ無意識にであれ、いつしか負の霊に魅かれていくようにもなる。以前

と言ったのもその一例だと見ることもできると思うし、

と言ったのもこの流れを理解してみるとよりわかりやすいと思う。
つまり、別の観点から言えば
負の霊とは「最終的には自分のところに力が集まるように仕組んでくる」存在であり、一方で守護霊というのは「最終的には私たち自身に力をつけさせるように育てようとする・鍛えてくる存在だ
と言ってもいいと思うのだ。そして私たちがもし
手っ取り早く結果(利益)が欲しい!
と思うのであれば、そのときはむしろ負の霊のほうが魅力的に見えたとしても、なんら不思議はないということになる。
だからここで
じゃあ私たちは本当は負の霊や悪魔のような存在のことを「神様」だと思って拝んできた(力を与え続けてきた)ということなんですか?
という問いにたどり着くとしたら、あなたはとても鋭いと私は思うし、ぜひその意味をもっとじっくり考えてみてほしいとも思う。それにその際には、先日ご紹介した

の証言も、もちろんとても参考になると思う。
と、ひとまずこれはこれとして、ときにはまた別の視点から
「『神様』というのはなにか幻想的・空想的な存在ではなくて、実は『宇宙人』のことだ」という話を耳にしたことがあるのですが、これについてはどう思いますか?
といった質問を投げかけられることもある。その場合私としては
ええ、そういう解釈・考えかたも充分にあり得るでしょうね
と答える。
というのも、地球は別に宇宙史上最初の星ではない(し最後の星でもない)ので、その生成や発展、そしてもちろんそこで大きな役回りを背負うことになっている人類の起源や発展には、他星人(宇宙人)も大きく関わっている。そして彼らのなかには当然今の地球人よりもはるかに進んだ技術や知識を保っているひとたちもいるので、それが地球人に対して好意的であるか敵対的であるかは別にして、ある意味では私たちより「上位」だと言える部分も確かにある。だから
「自分たちより上位の存在=神」
という立場から捉えるのであれば、
神とは宇宙人のことだ
とする考えも充分にあり得ると思うし、実際今でもどこかの宇宙人と協力してなにかを行っているひとというのも1人や2人ではなく、いるところにはけっこういるのだろうと思うから、いずれはそうしたことがもっとはっきり明かされるときも来ると、私は思っている。
またある意味ではもっと単純に、
神様や仏様というのは神社やお寺にいる、たとえば「国常立尊」とか「千手観音菩薩」とかのことだと思っていたんですけど、そういうのは本当はいないということなんですか?
という観点から考えるひともよくいると思うのだが、こう訊かれると私は、
いえ、私は「そういうものはまったく存在しない」と思っているわけではないです。ただ私からするとそれは「想像霊」だったり、「かつては実際に肉体人として生きていた霊」(人霊)だったり、あるいは自然のなにかのはたらきを「象徴」として凝縮したものだと捉えたほうがスッキリと整理できるところですね
というような答えを返すことになる。そもそも歴史というのはどうしても誰かの意図によって「編纂」されることになるし、昔と今とでは
「霊的なことへの理解や親和性」
もだいぶ違っただろうから、今のひとたちからすると信じられないような「奇跡」でも、ある程度なら本当に実現できていたとしても不思議ではないと思うのだ。するとそういうひとたちについて、
「肉体人として実在したひとりだった」
という実感がだんだんと薄れていって、「神様」として崇められるようになることもよくあったのだろうと思う。
そう、たとえば今でも聖徳太子や老子について実在の人物と見なすひともいればそうは見なさないというひともいる。だからこうやって「神様」とひとの境界線はときが経つほどに曖昧になっていくということなのだ。だがそこに「力がある」と信じるひとが増えれば、その想い自体が力となって、たとえ「もともとはなかったもの」でさえ在るようになる。そしてそれこそが
「想像霊」
の核心を成すものである。だから
「千手観音菩薩」
というのもそのひとつだと捉えればいいと思うし、もしこのままさらに何百年・何千年と経っていったとしたら、たとえば
「空海」や「織田信長」
のようなひとについてでさえ、実在のひとだったのかなにかの象徴だったのかが曖昧になっていくかもしれない。つまりそういうことの積み重ねが「神話」や「伝説」になっていくということなのである。

またこういうことを踏まえていくと、普段からなにか神仏のようなものを信じているわけではない、いわゆる「無神論者」のひとたちが、なにか困ったことになったとき
ほら、やっぱり神も仏もないじゃないか!
と言いたくなるのも当たり前だというか、ごく自然な流れだと言うこともできると思う。
つまり、
いわゆる「神様」や「仏様」の存在が曖昧なものであって、その力の根源はむしろ「私たちがそれを信じる想い」にこそあるのだと考えれば、それを普段から意にも介してない(相手からエネルギーをもらえるつながりを育ててきていない)ひとにたいした力が感じられないのも当然だ
ということなのである。そしてこれはもちろん、守護霊にも当てはまることだ。守護霊は誰にでもついてはいるのだが、そのつながりの強さや深さはそれぞれであるし、さらに言うと現代人は平均してそれほど強いつながりを保っていない。
意識されなければ弱くなる
というのは、特にそれが直接の実体(肉体)を保たない霊存在であれば、なおさら当たり前のことなのだから。それに今はかなり状況に変化が起きたとはいえ、かつてのタルパが他の霊よりずっと弱く脆い存在だったのも、結局は
「存在を認知しているひと(=与えられている想い)が少ない」
ということが原因だったと言っていいと思うのである。

と、こうして改めて見てみると、ひとくちに
「神様・仏様」
などとざっくりぼんやり把握されていた存在・概念が、実際はいかに多様なものをごちゃまぜにしたものであるかというのがわかるのではないかと思う。
だがもし世界の実態を本当に理解したいということであれば、
自分はいったいなにを拝み、誰に力を与えているのか?
ということをいったんよくよく考えてみることは大切なことだと思う。
そうしたら、
神社や仏閣にお参りするのに意味はないんですか?
お守りや御札は買ったほうがいいんですか?
といった細々とした疑問に対しても、それぞれに自分が納得できる答え・選択を見出していけるのではないかと思うし、あなたが生きていくうえでいちばん大切になるのもきっとそういうことなのだろうと、私は思っているのである。
そしてこれを踏まえたうえで、私自身の立場や見解については、

に続けて書きました。

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端末を変えてからのコメントは初になります。
今回の記事は特に興味深く感じましたし、腑に落ちるものがありました。
というのも仰るとおり、あまりにも多様な解釈で溢れているように感じた為です。
・「ご利益のみを目的とした信仰ではなく、己が生まれたことや『当たり前』の有り難さを噛み締め、お礼を伝えることが大切である」
・「神仏様にはただ困った時だけ頼ればいい。それより自分がいかに面白おかしく生きるかが重要」
・「どんなことがあっても決して良心を捨ててはいけない。過ちをおかしたならばそれを認め繰り返さないよう自分なりに努力をすることが大切。決して自分を責めすぎてはいけない」
・「良心などという重いものを持ち続けていたら苦しいだけだ。そんなものは捨ててしまえばよい。全ては愛で許される」
極端な表現を使いましたが、上記は今まで見かけた神仏様や己の気の持ちように関しての解釈の一部の例です。ほかにも挙げていけばキリがありませんが、とにかく良くも悪くもいろんなものが混ざっているのだなと。
まるで敢えて多様な情報を晒し、その中で己が何を大切にし・求め・選び取るのかを見られているかのように。
正直なことを言えばこうした話は今までは特に気にも止めてなかったのですが、このサイト等に触れ僅かであっても自身を見つめ直すようになってからは「へーそうなんだ」で流しては何となく危ない気がしました。
いつの間にやら「○○な考え方・行動ができず・年齢や性別も加味して××の立場にいない人は異常である」という漠然とした概念が用意され、多様性を重んじる自由な社会という見せかけとは逆にがんじ絡めにされているかのように感じたからです。
特に昨今は不安を煽らせる出来事やニュースが多く、限度はありますがお気楽に意見を書いて交流できる筈のネット上でさえ僅かなことで対立し、文字という言葉で殴り合ったりする(議論と呼べないようなレベルで感情をむき出しにし、罵倒にも躊躇がない状況を指す)
どこもかしこも抑圧・不満・不安が抑えきれなくなりつつある。
そんな中で、「こうすれば楽だよ」「私を信じていれば願いを叶えてあげるよ。天国に連れていってあげるよ」なんて言われたらイチコロになってしまいそうで、例え従ってはダメだと頭で理解していても少しでも楽になるのなら…と靡いてしまいそうで恐ろしい。
だからこそ今回の記事に書かれていることや
過去の記事(『かつての負の霊が俺たちには絶対勝てないと言ったお話』『想いは力になり、主体は己にあること』etc)に触れることで、僅かでも良いので一息ついてリセットするかのように思考をスッキリさせることが大切なのだろうなと。
長文&乱文失礼いたしました。
ここまで長々と書くつもりは無かったのですが、
「○○○ウィルスのワクチンを打たないと社会で普通に活動できなくなる」
「そのワクチンには遺伝子を改変するRNAが組み込まれており己の身体を滅茶苦茶にする。そんなものを生き残りたい一心で打つのは神様が与えてくれた恵みに反することなので、死後ろくな目に遭わない」
という説をネット上で見かけて不安に駆られたことが大きいなと。
それでもせっかくこの世に生まれる許可を頂けたのですから、難しくともきっと未来は良くなると信じて、そして自分の求める本当の意味での幸せのために生き抜いてみようと思います。
以下は私事で恐縮ではありますが
実をいうと最初にコメントした頃はいくら前向きに解釈してもまだ半信半疑だったのです。
それでも何度か自殺への後悔に関連した記事や死後の世界への記事を読むうちに、そして幾つかの不思議な夢や体験を重ねるうちに「やはりこのままではいけない」と感じ、改めて己の道を歩み始めることができるようになりました。
とは言え年齢・社会経験などあらゆる面で今の社会においての常識からは大幅に遅れていますし、喪失した自信の回復や思考・生活の習慣の改善も含め絶対に出来るかは断言できません。
それでも紛れもなく私が望んだことなのだから、出来る範囲で出来る事に挑戦していきたいと思ってます。
改めて、このブログに出会えたこと・何よりもブログを立ち上げて下さったことに心より感謝しております。
本当にいつもありがとうございます!
No Nameさん、ようこそ、闇の向こう側へ。
ええ、ここまで雑多な、しかもそれぞれが相反することもざらにある見解が濫立していれば、そのなかで混乱したり「真実の追究」を諦めてしまったりするのもある程度しかたがないことではないかと思いますし、あなたのように
という選択をするのも頷けるところなのですが、だからこそそこから
という認識に至り、
という意志を育もうとまで思えたことは、本当に素晴らしいことだと思います。
そのうえで
というところについては、以前
をまとめた。そのときも、あるいはそのあとの
のなかでも、私は
今はあまりに多くの情報が混在しているときではありますが、どうかその波に呑まれることなく、ご自分なりの見解や人生を、育んでいって...
でも少し触れましたが、私としては
確かにウイルスの脅威を喧伝することと並行してワクチンの接種を推進する動きはさらに強まるかもしれない。ただ今回はスピードを重視した結果、様々な「異例の手続き」が踏まれていることもはっきりしているのだからなおのこと、それを「強制的に接種される」ところまではおそらく行かないだろう(それまでに止められるだろう)。それにもし仮に本当にワクチン接種が義務化され、それによって遺伝子が多少なりとも本当に改変されるんだとしても、それで「もう手も足も出ない一巻の終わり」とまではならないだろう
と思っています。それにもともと日本では、
「ワクチンの副作用」
に心理的拒否感を覚えるひとも特に多いと思いますから、それを強制化するまでには、実際かなりのハードルがあるのではないかとも思っています。
またそれはそれとして、少なくとも
というようなことが本当にあるんだとしたら、そんな「神様」には私が先頭に立って猛抗議しますね。まぁ、実際はそんなことにはならないと思いますけどね。
それにもし実際にワクチン接種が義務化されたとしたら、私はおそらく
「基礎疾患がある」
と見なされて「優先的」に接種させられることになるでしょうから、その場合はその後の経過について、ここでも共有していきたいと思います。まぁこれは何度も言うとおり、
「もし義務化(強制)されるところまで行ったら」
という話であって、少なくとも現時点において、私はそうなるとは思っていないんですけどね。
ただこうしたことも最終的にはすべてそれぞれの選択だと思っていますし、いずれにせよワクチンやなにやごときで
「魂」(=存在の核)
まで穢せるとはまったく思っていませんので、本当の意味で「取り返しがつかないこと」にまではならないと、私は思っています。究極どんなふうに生きて死んだとしても、その経験を(来世以降も含む)未来に活かせれば、それでいいんですからね。
なのでやはり私としては、あなたのこれからをますます応援しつつ、私も私なりに真剣に生きていければと、そんなふうに思っていますし、なによりそうやって私(たち)の文章や想いを、少しでも力に換えてくださったことに、こちらこそ心から感謝しています。ありがとうございます。これからもどうぞ、よろしくお願いします。