神の公平さ。「あなたにとって神とはなんですか?あなたは神を愛していますか?」と訊かれたら、私の答えはこうなる

先日、私は

「神様」に対する様々な立場や見解。今のあなたは、どんなふうに考えるだろうか?
私は以前から と思ってきた。そしてそのなかでも、いわゆる 「神様」 というような存在をどう考え、どう捉えるかというのは、そのひとの人生観に大きな影響を与える要素のひとつだと思う。そしてもちろん今の世界では、そこには...

において

「神様」(仏様)

という存在(概念)に関する様々な立場・見解を私なりに整理してみた。しかし、そこに

「私自身の考えや立場」

は書いていなかったし、それについて向き合うのにちょうどいい質問を提示してももらったので、今回はまずそれを入口として、今の私なりの見解・個人的考えを、ここで共有してみようと思う。

その質問というのは、

あなたにとって神とはなんですか?あなたは神を愛していますか?

というものだったのだが、先日の文章にまとめたように、今よく言われる「神様」(仏様)というのは、あまりにもいろいろな概念が雑多に混ぜ合わさったものであり、私としてはそれぞれ別の名前で区別したいものである。そして前にも少し書いたように、おそらく私の思う「神」というものにもう少しはっきりとした輪郭を与えるのであれば、それは

「森羅万象の総覧者」

森羅万象の総覧者。神は私たちを創ったのではなく、私たちを生み出し得る仕組みを創った
私が霊媒の経験を積み始めた最初の頃、ある霊が私にこう言ってきたことがあった。 俺が神だ!お前たちが古来からずっと崇め、敬い、探し求めてきた存在、それが俺だ!だからお前は、俺を敬い付き従え! そう言われた私は、彼に畏怖の念を覚える...

という表現で表すこともできると思うのだが、これでもまだぼんやりとしているとも言えるかもしれない。だから今回はもっと端的に言ってしまうと、つまり私は

神とは「与えられたものを少し大きくして返すプログラム」そのものであり、いずれ必ずその帳尻を完璧に合わせる、そういう仕組みそれ自体だ

と捉えているのである。

 

これは私が初めて言うことでもなんでもないが、

神はすべての存在(特徴・感情・エネルギー)を併せ保つ存在だ

と言うことはできると私も思う。だから神は男性でもあり女性でもあるし、こどもでもあり老人でもある。そしてそのなかでは、「ある」と「あり得る」の間にもほとんど区別がない。だから私が保つ神の印象は、別のひとから見ればまったく違うように見えるとも思う。だが私にとっては、神の印象はいつもそう変わらない。私にとって神は、とても「勤勉」な存在なのである。

神は存分にその仕組みを発揮する。誰かから与えられたものを、少し大きくして相手に返しては、また与えられたものを、少し大きくして返す。それはまさしく

「絶対的公平さ」

に基づいている。それが「公平さ」なのか

「公正さ」

なのかということについては、かつて私も少しだけ議論したことがあるのだが、私からすると神が「善悪」を判断しているようには見えない。守護霊は判断するし、負の霊も判断する。そしてもちろん私たちも判断する。だからそこからそれぞれの判断と選択、つまりそれぞれが与え育むエネルギーが分かれていく。

だが、そのすべてを見守り愛する神は、それ自体がなにかを判断したり色づけたりはしていないのだと私は思う。だから私はそれを、

「絶対的公平さ」

と呼ぶのである。正しいとか間違っているというのはそれぞれが判断することであって、神はただそれを、少し大きくして返すだけだ。

ではそれで神はなにをしているのだろうか?

何度も言うようにこれはあくまで「私にはこう見える」という話でしかないというのは注意してほしいのだが、私は

あのひとはきっと、「それぞれの核心・本質を見究めよう」としているんじゃないのか?

と推測しているのである。

 

たとえば私たちはひととして生まれるようになってからも、あるときは早く、数か月や数年で死んでみたり、または飢え死にしたり焼け死んだりしてみることもある。しかしまたあるときは、100年近く生きてみたり、病気も知らずに生きてみたり、事故死してみたりもする。だがそういう

「いろいろな冒険」

を自由奔放に試してみるうちに、だんだんと

自分としては、こういう人生が好きだな

という好みというか、本当の色合いのようなものが出てくるのだと思う。まさに、

それぞれが、いちばん落ち着くところに落ち着く

というわけである。おそらく神はそれを、そしてその先を見ようとしているのではないかと、私には思えるのである。

そしてだからこそ、神はそれぞれが与えたものを、それぞれに少し大きくして返すのだと思うのだ。

これを送ってきたってことは、このエネルギーを育てようとしてるってことは、あなたはこれが好きなんだよね?

とでも言うように。そして神は、明らかに私たちの力を自覚させようとしている。だから、こちらが送ったものはいずれ必ず、たとえ本人が忘れていたり自覚していなかったりしたものでさえ、ちゃんと大きくして返すのだ。私たちを軽んじているなら、こんなことはしない。だから神は本当に、本当に、公平なんだと思う。

愛があまりに深くなって完全に平等になると、ああいうところに行き着くのかな……

と、私もときどき思う。私たちは、任されている。そしてずっと、成長してほしいと願われている。私にも、そのくらいのことはわかる。そしてあるとき少なからず文句を言いたくなることはあっても、この世界が未だに存続しているということは、結局誰もが最終的には、この仕組みに反論できない(これ以上に公平な仕組みを思いつかない)からなのだろう。

「自分が与えたものが少し大きくなって返ってくる」

というこの大原則は、見れば見るほどどうにも非の打ちどころがないものだと思うし、実際私自身もまだ、これ以上に優れたルールを提案することはできていないのだから。

 

だから

あなたにとって神とはなんですか?

と訊かれたら、私の答えはこのようになるのだが、そのうえで

あなたは神を愛していますか?

と訊かれたら、それは少し答えに困ってしまうのである。

というのもそれはまるで

重力を愛していますか?

酸素は好きですか?

と訊かれているのと同じようなものだからである。だから私にとって、神というのはそもそも「好き」とか「愛する」という対象になるようなものではないのだ。それはもっと素朴に

「ずっとそこ(ここ)にある」

ものであって、ある意味ではもっと「無機質」なものだとも言える。神に「人格」があると言ってもないと言ってもいいということだ。

アインシュタインが

神は老獪だが悪意はない

と言ったという話はよく知られているが、この日本語訳について

‘Subtle is the Lord …’ というタイトルは、実験でエーテルが見つかったのではないかという噂を聞いたときにアインシュタインが言った

Raffiniert ist der Herr Gott, aber boshaft ist er nicht.

(Subtle is the Lord, but malicious He is not.)

という有名な言葉(同書 p. 113)の前半を取ったものです。 これ(ただし英訳)を虚心坦懐に訳すと、

神はとらえがたし。されど悪意はもたず。

という感じになると思います。実際、アインシュタイン自身のこの言葉の解説

Die Natur verbirgt ihr Geheimnis durch die Erhabenheit ihres Wesens, aber nicht durch List.

Nature hides her secret because of her essential loftiness, but not by means of ruse.

自然は、その本質的な高遠さゆえに真実を隠す。策略によって隠すのではない。(英語からの適当な重訳)

を読んでも、上のような訳でいいかなと思われます。

とっころが、Pais の本の日本語訳(手元にありません)のタイトルは、「神は老獪にして」ですよね?  たしかに subtle を辞書で引くと「老獪」みたいな訳語ものっていますねえ。 でも、日本語の「老獪」ってのは、悪賢いっていう意味でしょう?  老獪な神ってのは、まさしく

「ひっひっひっ、愚かな人間たちが気づかないように、この法則はこうやってこっそり隠しておこう。」

という感じで「策略で真実を隠す」んじゃないのだろうか?

よって「神は老獪にして」というのは、もう単純素朴明快な誤訳だとぼくは思うのです

Hal Tasaki's logW 0408

と言っているひとがいるのを今回知った。だとしたら、この立場はほとんど私と同じものだと言ってもいいと思う。

そして私は先ほども言ったとおり、私は神のことを、そもそも「好き」とか「愛する」という対象になるようなものとしては捉えていない。というかそれを言うなら、私は本当には人間(人類)がいちばん好きだ。そして他のどの星にいるひとたちよりも、今この地球に生きるひとに魅かれる。と言っても私は動植物を嫌っているわけではないし、人間が今やっていることすべてをそのまま好んで受け入れたいわけではなく、もちろん変わるべきところはたくさんあると思う。だが私は結局、

人間はもっともっと素晴らしい存在に変われる

と信じているのだ。そしてその責任の重さに比例して、人間は他のあらゆる動植物よりも圧倒的に劇的な変化を遂げられる立場にいる。だからやはり、人間でいるのがいちばん面白いし、今は動物として生きている魂たちも、私たちがそうしたのと同じように、いずれは自ら望んで人間に生まれ変わりたいと思えるようになるときが来ると思っている。そしてその想いもいずれ確実に私に返ってくるというのであれば、それはつまり世界が私の願いに近づくことを意味するのだし、万一そうならなかったら、この際自分の居場所は自分で創ればいいと思っているのである。

だから結局のところ、私は別に神をいちばんに愛しているわけではないということなのである。そして私はそれを悪いことだとも思っていない。なぜなら私には神以上に好きなひとがいるからだ。だから私はずっと

まずひとつでいいからなにかを見つけたら、そこからすべてを変えていける
先日 という文章を書いた。今回書くこともこれと深く関連していると思うのだが、 結局それが「癒やし」でも「愛」でも、その他どんなことについてでも、「どこのなにが出発点でもいいから、まずできることからやる」ということでいいの...

と思っているのだ。なにかを愛すれば、それはあなたの原動力になる。だからあなたが愛するものをあなたの神と呼んでもいいと思うし、

神はすべてに宿る

というのはこういうことでもあるのだろうと、私は思っている。そしてだからこそ、私はあなたの愛がどこまでも永遠に深まることを、ずっとずっと心から、願い続けているのである。

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