よく
どの道から登っても、結局は同じ頂上にたどり着く
というようなことを言うひとがいる。それにこれをもっと詩的に
わけ登る麓の道は多けれど
同じ高嶺の月をこそ見れ
(「月を見るかな」だとするひともいる)
と表した歌もある。これは一休宗純の詠んだものだという説が有力だが、それもあってかこのような見解を特に宗教的に、あるいは「真理の追究」における心構えとして受け止める向きも多いと思う。それに実際私も、長らくこのような考えを素朴に受け入れてここまで生きてきたのである。
だが最近の私は、必ずしもこのような考えに与しなくなってきたと言うか、少なくとも今までとは違う観点から改めて考え直したくなってきた。つまりひとつ簡単に言ってしまえば、
「山」と言っても本当はいろいろあるからどれを登りたくなるかもそれぞれだし、そもそも山登り自体が好きではなくて、永遠に登らないひともいるかもしれない
というような観点をもっと深く掘り下げたほうがいいと思うようになったのである。
たとえば魂の成長といったものを考えるとき、それを山登りに喩えるのはある意味でとてもわかりやすい。だが、魂の成長過程というのは一本道ではないし、明確に「ゴール」が定まっているものでもない。だから今の私としては、それを単に「景色」として捉えたほうがいいのではないかと思うのだ。もちろん、
頂上に立ったひとにしか見えない景色がある。そしてその素晴らしさは、実感してみないとわからない
というのは理解できる。だがそれは別に山に限ったことではなく、海でも庭でも同じことだと思う。そして私個人的には、山にも海にもさほどの興味はない。私が好きなのは
「川辺の草原」
であって、そこに花が咲いていればもっといいと思う。私は、そういう場所が好きなのだ。そして実際に私たちの道のりというのは一方向に定まっているものでもないので、とても曲がりくねった道を辿るひともいれば、円を描くようにしながらも少しずつ少しずつ拡がっていくひともいる。そしてそれは最初からそういう方針や計画を立てていたわけではなくて、
結果的にそのひとの場合はそのような軌跡(旅路)になった
ということなのだと思うのだ。
だからそういう意味において、
何歳くらいになったらだいたいこんな考えになる
今の時点でここにいるということはだいたい出発からこのくらいなんだろうな
というようにすべて(全員)を一般化できるという保証はない。そもそもそのひとは、いったんもっと先に行ったうえで、改めて引き返してきてここにいるのかもしれないのだから。
つまり今の私は、
結局、すべては好みの問題なんだなぁ……
ということを、本当にしみじみと痛感するようになってきたのである。そしてそのうえで、
同じような景色を好むひと同士は、「そのような景色を好むようになるだけの、どこか似たような経験をした」のかもしれない
というくらいなら言えるとは思う。だが、それ以上はよくわからない。山を登ったからといってみんなが頂上を目指すとも限らないし、道中で山を見上げるとも限らない。ただ、
わざわざこの山を登りたいと思うということは、この登山者同士にはなんらかの共通点(似たような好み)があるのかもしれない
ということは言えるかもしれない。だからそれはそれで、そのなかでできるだけ協力し合えたら、励まし合えたらいいなとは思う。
そもそも私が今になってこんなことを考え始めたのは、最近私が改めて、私よりはるかに年上のひとたちを見る機会を得たからだ。そして私は
よくよく考えてみると、このひとたちは本当に、それぞれ個性豊かだなぁ……
とつくづく感服したのである。もし
「理想的な存在・その在りよう」
というのがひとつ、あるいは限られた種類しかないのだとしたら、私には想像も及ばないほど様々な経験を潜り抜けてきたこのひとたちの間にこれほどの多様性が存在していることを説明できない。というかそもそも、私は私と同年代のひとたちが今や本当に様々な在りかたをし、ときには互いに敵対したこともあったりした時点で、そのことに気がつくべきだったのだ。だが最初に言ったとおり、こないだまでの私は
どの道から登っても、結局は同じ頂上にたどり着く
という見解に素朴に影響を受けすぎていたので、いつかはみんな同じような想いに至るというのを、一種の
「誤った希望・願望」
として保ってしまっていたのだと思う。今の私は、そのように理解するようになったのである。
だからこれはある見かたをすれば
「哀しいこと」
なのだが、一方で別の視点から見れば
「嬉しいこと」
でもあるはずなのだ。なぜならそれが
他にも多くの選択肢があるなかでこの道を選んだひとがいる
それぞれにかけがえのない景色があるなかでこの景色を気に入っているひとがいる
ということなのだと言うなら、それこそが
「最高の希望」
そのものなのだから。
ただそのうえで、今の地球にいるひとというのはある部分では
それぞれの好みを見つけるとか追究するという以前に、その判断材料となる基礎知識すら与えられていない(意図的に隠されている)
というところがあるとも思うので、それはやはり改善されたほうがいいと思う。だがその「基礎学習・基礎練習」が終わったら、あとはそれをどう解釈し、どこに向かいどう活かすかはそれぞれの選択次第なのだろうと思う。私はようやくそれが本当にしみじみと、腑に落ちてきたのである。
だから一方で今の私は、自分の保つ責任の大きさを理解したことで一層身の引き締まる想いでもいる。つまり私がこの先百年千年1億年後にどうなっているのかは、本当に誰にもわからないということなのだから。

だがだからこそ、私は私の好みと信念を貫くことで、
私とはいったいなんなのか?
ということを、もっと理解していきたいと思っている。それに私は昔ほど、この道の最終地点が「孤独」だとは思わなくなってきている。だって私がなぜこのような生きかたを好むようになったのか、行けないかもしれないところにさえなんとか行ってみたいと思うようになったのかには、すべて私なりの理由があるのだから。だからその「理由」を見出すひとが私以外には誰もいないなんて、私はそんなふうには思っていない。だから今回私は、
この道を進んでいけばまたいつかみんなに会える
というわけでもないということを噛みしめはしたが、そのことでむしろ愛の底知れない深さを認識することができた。ひとによってこんなにも好みが分かれるからこそ、違う道を選ぶのも当たり前だからこそ、愛し合えるということは本当に、かけがえなく尊く、貴重なことなのである。だからそれをより理解できた私なら、昔の私の想像よりもっとはるかに成長していけるのだろうとも思うのだ。だからやっぱりまだまだ、がんばってみようと思う。諦めずに、進んでみようと思う。私の願った景色を、ここに実現するために。あなたと一緒に、しあわせを深め合うために。

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このことは恐らく仏法というものを聞き求めて阿弥陀如来の本願に救われ解脱して仏になることを言われているのかなと思います。
最終的には生きている時に阿弥陀如来に救われますが、その過程は人それぞれということを表しているのかなと思います。
私も今、仏法を聴聞している身です。
この仏法に出会えたのも何故か心の声(悪霊の声?)が暗いもので
「バカバカしい労働なんかに時間をかけているなら死んだほうがいいんじゃない?」
「何をやっても無意味なのに頑張る必要なんてあるの?」
「苦しいことの方が多いのに生きる必要なんてあるのバカバカしい」というような声がきっかけで生きる意味を探していたら偶然、仏法に出会えました。
小岩井優さん、ようこそ、闇の向こう側へ。
なるほど、あなたの場合は仏教によって助けられたんですね。
仏教は現代日本において最も身近な宗教のひとつだと言っていいと思いますが、微妙な宗派の違いなどもありますし、本当の意味で日々の人生に活かしているのかと言えば、やはりそこまでではないのかなとも思います。
ですからその意味において、その最初のきっかけがなんであれ、あなたがそこに「意志」を添えることで、仏教をご自分の力の源としていることは、本当に尊く素晴らしいことだと思います。
ただこれから細かく見ていくと、私の見解とあなたの信じる教えとの間に多少の食い違いを感じることも出てくるかもしれないとは思うのですが、ともかくこれからもお互いに心を支え合いながら、つらさや苦しみも乗り越えて、1日1日を生き抜いていけたらと、そう思っています。
どうぞよろしくお願いします。