自分はいったい何者なんだろうか?
こんなことを一生にいちども考えずに生きられるひとはいないのではないかと思う。
これは特に今のような世界で肉体人として生きる私たちが、生まれる前の世界もからだを離れたあとの世界のことも否定(無視)され続けて、あまりにも狭い視野と時間軸のなかで生きることになっているならなおさらだと思う。
そしてもちろんこの問いにもいろいろな答えがあり得ることは承知のうえで、ともかく今の私としては
私たちは、みんなそれぞれが「信念の匣」だ
と言ってみたい気になっている。というか、そもそも今私が
「言ってみたい気になっている」
と言ったこと自体が、私の考えを端的に示していると言っていい。
つまり私は、
私たちはみんなそれぞれの匣(肉体という器)のなかに信念(想い・感情・価値観……)を詰め込みながら生きている。だからそこになにを詰め、なにを保っておくかによって、たとえ見た目(匣の外形)が同じでも、まったく違うひとにもなり得る
ということを、改めて強く感じているのである。
そして今までにも何度も言ってきたように、この匣の中身となる信念や感情というもののなかには、周りのひとやメディアの影響ももちろん含まれているし、さらに多種多様な霊存在が日夜流し込んでいるものも含まれている。そしてそのすべてを踏まえたうえでの取捨選択の積み重ねが、あなたという存在を日々育んだり、変化させたりしているということなのだ。
だから最初に挙げた
自分はいったい何者なんだろうか?
という問いは、
自分はいったいなにを信じて、なにを実現したいと思っているんだろうか?
という問いに置き換えてもいいということになる。
そして以前

と言ったように、私たちの存在(魂)の核心には、必ずなんらかの
「願い」
が宿っている。だからたとえ今のあなたがそれを忘れてしまっているとしても、その「想い」があったからこそあなたは生まれ、ここまで育ってきたのである。
と、抽象的な話はこのくらいにして、ここからは私自身を例として、もっと具体的に見ていこうと思う。
上の文章にも、あるいは他のいくつかの文章にも書いたとおり、私の存在を創った最も根源的な願いは
すべてを、深く深く理解したい
というものだった。そしてそれは基本的には今も変わっていないのだが、今改めて自分自身を見つめてみると、今の私のなかに詰まっている最も強い信念、言い換えれば行動指針というのは、
すべての争いを、あまりにも深く根を張りありとあらゆるところに拡がった諸々の争いを、終わらせたい
というものなのだろうと思うのである。
とはいえ今の地球というのは、まさにこうした闘いが尽きることがないくらいなので、別にこんな私の願いもごくありふれたものだと思う。だがそれでも実際の闘いの規模や複雑さというのは、おそらく今のあなたが思っているよりずっと大きくて深い。そしてもちろん世界で起きていることは
「すべてそれぞれの個人の映し鏡(拡大鏡)」
なのだから、そういう事例は私たちの周りでもいくらでも見つけられるし、もっと言えば
私たち自身も、いつだってなにかしらの争いの当事者だ
と言っていいと思う。なにせ現状はと言えば、親子・きょうだい・恋人・同僚・隣人・知人・見ず知らずのひと……と、文字どおりいかなる間柄にさえ闘いが起こり得るのだから。
それにこれは、本当には地球(のなか)に限った話ではなく、たとえば
「星と星・銀河と銀河・故郷の星を失った(ために他の星を自分の領土にしたい)ひとたちと自分の星を護りたいひとたち……」
というのもそうだし、
「守護霊と負の霊」
は言うまでもなく
「地球の行く末を案じる、広い意味での『守護霊』同士の意見の対立や相克」
さえあるのだから、やはりこの宇宙は、少なくとも現状においては、まだまだ争いに満ちていると言っていいと私は思う。
ただ、これでも昔から見ればよくなったと思うし、私が直接は知らない、私の生まれる前から見ればもっとよくなっているのだから、やはり長期的には確実にいい方向に向かっているとは思うのだが、
とはいえ、そろそろ本当に終わりにしてもいいんじゃないですかね?どうなんでしょうか?
と思っているのが今の私なのである。
というか、これも本当は今に始まったことではなく、ずっと昔から同じことを願ってきたのだが、なかなか実現させるのは容易ではなかった。だが、最近は
「ひとつのモデルケース」
と目されてきたこの地球上での争いがようやく、やっとの想いで佳境に入りつつあるので、これでなんとかひとつの足がかりは掴めるかなというところではある。もちろん、まだまだ気を抜くわけにはいかないのだが。
ただこういうことを言うと、
そんなに争いを終わらせたいのなら、まずは自分自身が争いのない場所で、争いのない生きかたをすればいいのでは?
というようなことを思うひとも出てくると思う。だが私としては、
少なくとも現状の世界においては、どこでもなにかしらの争いが起きているのだし、仮に自分(たち)だけがそこから逃れられるのだとしても、こんなめちゃくちゃなままに放置して他人任せにしておいたら、いずれ必ずもっと大きくなって自分のところにもやってくるから、それならいっそその渦中に飛び込んで、さっさと片をつけたほうが早い
と思っているということなのだ。
「争いを終わらせるための争い」なんて詭弁でしかない
という意見も理解はするのだが、今の地球のような状況ではそういう考えすらも結局は
「ことなかれ主義・放任主義」
と同じようなものになってしまって、いいように流されて利用されることになる危険が大きいとも思うので、ともかく今の私としては、こういう立場に立っているということなのだ。
それにもし私が今の状況で自分だけは静かなところですべてを無視して暮らそうなどと考えたら、私自身の経験に申し訳が立たないだろうと思うのだ。私はどんな闘いの渦中にいてもそう簡単には潰れないように育てられたので、その私が持ち場を放棄して誰かにその苦痛を背負わせるのは、適材適所の原則に反していると思うから。
ただ、そうは言ってももちろん私にも限界があるわけだし、未来には様々な可能性があるわけだから、たとえば私がもし今生を中途半端なところで終えなければいけなくなったら、そのときは私も「外野」から、内野のプレイヤーを支援するほうに回ろうとも思う。だが、いざそうなったらやはり私は誰かに大変なところを任せるのは性に合わないからと、またすぐ前線に復帰したいと思うのだろうか?
まぁ、それは今はまだなんとも言えないが、少なくとも私はまだ生きているのだから、やれるところまではやることに集中しようと思うし、そのあとのことは、またそのときに考えてみようと思う。
そしてもうひとつ私が改めて感じたのは
自分の信念を受け継いでくれるひとがいる限り、自分が本当の意味で死ぬことはない。なぜなら私の本質はその「外形」ではなく、その信念、中身にあるのだから
ということなのだ。そして先ほども言ったように、私は本当には自分の願いや信念を、特別に珍しいものだとはまったく思っていない。つまり私以外にも、私のあとにも、すべてを理解したいとか、争いを終わらせたいなどと思うひとは必ず現れると思うし、きっともう現れてもいると思う。だから私はそういうあなたにこの私の記録である『闇の向こう側』が少しでも活かされていくことを、心から願っているのだ。私の想いや信念を活かしてくれる限り、私は決して消えることはない。すべてがつながっているというのはきっとそういう意味でもあると、私はそう思っているのである。

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