賢い人は葉をどこへ隠す? 森の中だ。森がない時は、自分で森を作る。一枚の枯れ葉を隠したいと願う者は、枯れ葉の林をこしらえあげるだろう。死体を隠したいと思う者は、死体の山をこしらえてそれを隠すだろう。
これは
に収められている
「折れた剣」
という作品の一節である。昔から「謎解き」や「ミステリー」というのには、私たちを強く魅きつける力がある。そしてそれはきっと、この世界があまりに多くの「謎」に満ちているからでもあるのだろうと、私は思う。
だから私たちはときどき、その謎をどうしても解き明かしたくなることがある。それが科学を発達させ、あるいは哲学を生み、様々に世界を色づけ、解釈することにもなった。そしてそれはたとえば
「宇宙の起源」
といった大それたものに限らず、私たちの日常やこの社会のすぐ傍にも、大小様々なものがあると思う。
だがいずれにせよこうした真実の探求に興味・関心を抱くようになる前提には
真実は、どこかに隠されている!
という想いがあるのではないかと思う。というのも、もし私たちがそこで普通に公開されている情報がそのまま真実だと思っているとしたら、そしてそれになんの疑いも違和感も覚えずにいたとしたら、なにもわざわざ「真実の探求」なんかに乗り出す必要はないのである。それは既に、明らかになっているのだから。
だがもしその<真実>に納得がいかず、どこかおかしな感覚を覚えてしまったら、そのときそのひとたちは、そこで公表されている情報を鵜呑みにすることなく、自分自身の探求を始めることになる。隠された真実にたどり着くには、そうする以外にないのだから。
今までも何度も言ってきたように、現代は明らかな「情報社会」である。そこでは情報の取捨選択こそが、そのままそれぞれの人生を左右する。そして私たちは、きっとどこかで
この世界は、やはりどこかがおかしい、なにかが間違っているのではないか?
という想いを共有しているのではないかと思う。
だからこそ、私たちはその謎を、その違和感の正体を解き明かすために、真実を探求するようになる。そしてそれはほとんどの場合、当初の予想をはるかに超えて大掛かりなものになる。まさにそれは迷宮であり、真実がそのなかのどこに隠れているかは、大まかな見当をつけることさえ容易ではない。
だが先ほど言ったように、こういう場合の私たちにはまず前提として
真実は、見つかりにくいところに隠されている
という想いがある。だから、真実の探求にあたって情報を取捨選択していくときにも、この前提は無意識であれ大きな影響力を発揮する。
つまりもしここに
「厳重な金庫のなかの記録媒体に保存されていたパスワード付きファイル」
があったとしよう。するとそのなかには
「図書館で誰でも読める本」
よりも重要で、貴重な情報があると予想されやすいというわけだ。それにもちろん、その予測が正しいこともある。
だがもしその情報を隠したいひとがいたとして、そのひとがそういった私たちの想いの裏をかこうとしていたらどうだろう?
その場合、その
「いかにも貴重そうなデータ」
こそがフェイク(目眩まし・囮)なのかもしれないということになる。あるいは昔から、
大事なものを運ぶときには、「さもまったく大事ではないかのように」持っていろ
というような話もいろんなところで伝えられていると思う。これも、私たちがいかに「見た目」に左右されやすいかを理解しているからこその助言だと言える。
だからこうしたことを踏まえてみると、真実の探求を巡る話というのは、またいっそう奥深いものだということに気づかされることになると思う。
またここで少し違った視点から見てみると、こうしたことはたとえば
「守護霊さんからのメッセージ」
にだって共通することなのだろうと思うのだ。というのも、確かにあなたの守護霊(団のまとめ役)さんというのは、
「あなたがこの地球に生まれたときから、あるいはその前からずっとあなたを見守り、応援してくれている存在」
であるのだが、そのメッセージは、少なくとも今のような社会では、そう簡単に触れられないように思える。そもそも守護霊さんの存在自体が隠されている・無視されている現状なのだからなおさらだ。
そしてだからこそ、そこには
「特別な価値」
があるような気がする。というかもちろん、そこには確かに価値もある。今の社会では励まされるより貶されたり蔑まれるほうがずっと多いと思うから、そんななかで自分を昔からずっと応援してくれるひとの言葉を聴くことは、確かに大きな意味があるとも思う。
だが私自身の経験から言うと、そんな守護霊さんからの言葉だからといって、なにか
「他のひとからはいちども言われたこともない、圧倒的に独創的な珠玉の言葉」
がもらえるのかと言えばそんなことはないし、おそらくあなたの守護霊さんも同じではないかと思う。だから本当には、それはあなたを大切に想うひとであれば他の誰かにも言われるかもしれない(あるいは実際に言われたことがある)言葉だと言ってもいいだろうと、私は思う。だから本当は、守護霊さんの言葉でさえそんなに
「特別」
なわけではないのだ。ただ
守護霊さんに言われたなら素直に受け入れられる
と言うのであれば、それはもちろん本当にいいことだと思うし、だからこそ私も自分にできることはしようと思っている。
だが私は一方で
ということも強く意識している。そう、だから私はやはり
隠されたものが、隠されていないものよりいつも重要で貴重なものだとは限らない。むしろときには「あまりにもありふれていて気に留められていない」ことにこそ、本当に大切な真実が秘められているのかもしれない
ということも、決して忘れずにいたいと思うのである。
それにこういう見解もたとえば
『青い鳥』
などの作品を見てみれば、既に何度も表現されてきたことだと言えるかもしれない。チルチルとミチルの兄妹がしあわせの青い鳥を探す物語は、一般的に
チルチルとミチルは、とうとう青い鳥をつかまえることが出来ませんでした。
でも、チルチルとミチルが、ふと鳥カゴを見ると、中に青い羽根が入っているではありませんか。
「そうか、ぼくたちの飼っていたハトが、ほんとうの青い鳥だったんだ。しあわせの青い鳥は、ぼくたちの家にいたんだね」
二人はお互いに顔を見合わせて、ニッコリしました。
魔法使いのおばあさんは二人に、しあわせはすぐそばにあっても、なかなか気がつかないものだと教えてくれたのです
青い鳥 メーテリンクの童話 <福娘童話集 きょうの世界昔話>
というような解釈をされることも多いのだから。
ただ私自身は、このような解釈にももちろん一理はあると思いながらも、もう一方では
だがだからといって、この2人の旅が「まったくの無駄・本来はする必要もなかった回り道」だったのかと言えば、そんなことは決してないだろう。だって、仮にふたりが最初から家のなかをくまなく探していたら青い鳥を見つけることができたのかと言えば、そうとも限らないのではないか?「2人は一緒に様々な旅をして成長したからこそ、そこにいた鳥の青さに気がつけるようになった」という解釈もできるのではないか?
と、そんなふうにも思っているのである。
そしてだからこそ私は、そんなかけがえのない体験を積み重ねたあなたの存在が、なによりの真実を体現していると思っているし、前から
たとえ目に見える成果が上がらなかったとしても、あるいはさんざん探したものが本当にはすぐ目の前にあったと気づくことになったとしても、それでもそこからなにかを学び取ることができたなら、その過程そのものが、かけがえなく尊いものなんだ
と言っているのも、そういうことなのである。
だからいずれにしても、今のこの霧はそのうちに晴れる。それは私たちがもうそろそろ本当に、しあわせになりたいと思っているからでもある。私たちは意味もなく苦しむためにではなく、すべてを踏まえてしあわせになるためにこそ、ここで経験を積んでいるのだから。私たちがその素朴な真実を掴んでいられれば、あとはすべて時間の問題で、最後にはきっとうまくいく。私はずっと、そう思っているのである。

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