生存可能領域。私にとって「理解する」ことには、どのような意味があるのか?

私はこの闇の向こう側の草創期に

という問いを立て、

スピリチュアル(霊的)な知識は、生きていくうえで「必要」ではないが、うまくいけば人生を「より豊かにする」可能性を秘めている

と言った。だがこれは実のところ、私自身にはそれほど当てはまっていない。というのも私の場合は、特に霊媒師としての最初の経験を積み始めたそのときには、

今起きていることを必死で理解しない限り、生きていられる気がしなかった

からだ。つまり私にとっては、霊的知識は

「人生をより豊かにしてくれる」

というような話ではなくて、もっとはるかに切実に、

「生き延びるために、絶対に必要なもの」

だったのである。

そしてそれから少しずつ少しずつ、私は様々な実体験を経て、この世界のことを理解するようになった。そして私の生まれる前にも死んだ後にも続く意識、すなわち「魂」の実在を確信するようにもなった。さらに私は、自分の魂の核心を成す願いが

理解したい

という想いであることに触れ、誰より私自身が、それに深く納得させられたのである。

ただだからこそ、私にとって

「理解する」というのは、いったいどういうことなのか?

という問いはとても深遠で、同時に切実なものである。そして私はあるひとが

私は誰かに私を理解してほしいとは思いません。だって理解というのは実のところ、「精神的植民地主義」だからです。ひとはなにかを「理解した」と思ったとき、自分のことを「相手を掌握した、より上位の存在」と見なし、相手をさらに軽んじるようになる。そしてそうやって相手に対する敬意や畏れを感じなくなったひとは、自分の無知を知っているひとよりはるかに傲慢で、恐ろしい存在になる。だから私は、誰かの理解を受け容れるくらいなら、未知の存在として扱われ続けることを望みたいと、そう思っています

と言っているのを耳にしたことがある。そしてこの宣言は私にとって、自分と向き合う大きなきっかけをくれるものにもなったのである。

ただそれを踏まえたとしても、私が自分の胸中を率直に見つめるなら、少なくとも私自身は、

「理解する」という行為は、「植民地を増やす」ようなものだ

とは言えないと思っている。確かに、なんなら私だって、知識をなにかの

「コレクション」

のように収集するような態度を採ることはできるだろう。またそれを究めていった先に、

「知の頂」

のようなところに到達することを目的とすることもできるのだろうと思うし、実際にそのような目的で理解を深めようとしているひともいるのかもしれない。

だが私にとっては、理解とはそんなものではなく、もっと重く切実なものなのだ。つまり私は

自分のすぐ周りのことすらよく知らないままに生きるのは、あまりにも怖いことだ

と、ずっとそう思っているということなのである。

今まで何度も言ってきたように、私たちには選択する権限と力がある。だからこそ、私たちはそれぞれの選択によって、自分の行き先(未来)を決め、自分自身を育んでいくことができるのだ。だが、もしその重大な選択の土台となる「情報」があまりにも不足していたり、あるいは偏っていたりしたら、そしてそのことにすら気づかないままに選択を迫られていたのだとしたら、それがどれほど恐ろしいことなのかは、いくら言っても言い足りないだろうと私は思うのである。

そのような状況に置かれたら、しあわせに向かっているはずが不幸に向かっていたり、敵に騙されて味方と傷つけ合ってしまったり、自分で自分を狂わせてしまったり、そんなありとあらゆる哀しみや苦しみが、いくらでも起こり得ることになってしまうのである。だからそんな場所では、誰も本当の意味で「生きていく」ことなどできない。すべては「終わりなき消耗戦」でしかなく、そこではなにも育たない。その危機感や痛みが、私のなかには確かにずっと残っている。だから私は今までもこれからも、ずっと

理解したい

というこの単純な想いを、保ち続けているのである。

だからここに至って、私は改めて

私にとって「理解する」ことはまさに、生存領域(ハビタブルゾーン)を獲得するための行動なんだ

と言えるのではないかと思う。

私は別にその「成果を誇るため」に理解したいわけではないし、「誰かより上位に立ちたい」わけでもない。ましてなにかを「意のままに操りたい」わけでもない。ただ、どこに水があり、どこに誰がいて、どんな種を蒔いたらどんな花が咲き実をつけるのか、それを知りたいだけなのである。それがわかれば、あとは自分で判断して、選択できるから。でもそれがわからないうちは、なにを基準にどう選んだらいいのかさえまったく見当がつかないから、だから私は、理解したいのである。私はどこでどうやって、生きていけばいいのかということを。

そしてその結果、私も生まれたときよりは、少しはそれを理解できるようになったと思う。だからこそ、私は今もこうして生きていられるのだから。そして私は

「かつての私自身が、誰かに教えてもらいたかったこと」

を、少しでも伝えられたらと思って、私なりに試行錯誤してもいる。だが私はそれでも、私はまだまだ知らないことがたくさんあることを自覚している。そしてだからこそ、それを少しずつでも理解していきたいと思っているのである。

ただそれは確かに一方で

「外側から内側に探りを入れる行為」

でもあるとは思う。だからあなたがずっとそこでもがいているところに入り込んで、その上澄みや一部だけを「収穫物」として持ち去って、それで

お互いを理解し合えた仲間だ

なんて、そんなことを軽々しく言われたくないと思うのも

それは精神的植民地主義だ

と言いたくなるのも、それはそれでもっともだと思う。それに同じくらい強い言葉で

いいか、「誰かに質問する」なんてことは、それ自体がそもそも失礼なんだということを、よくよく覚えておきなさい

と言ったひとがいるのも私はよく憶えている。つまり「理解」というのも力の一種なのだ。だからその力だけでなく、そもそもその力を得ようとする試み自体も、扱い次第で容易に

「暴力」

に転じる。私はその事実を、自分の願いが孕むその危険性を、決して忘れないでいようと思っている。

だがそのうえでもしよかったら、私が

あなたを理解したい

と言っているときにどんな顔をしているのかを、少し考えてもらえたらありがたく思う。あなたと一緒に生きていきたいのに、あなたを理解できないことは、その可能性を閉ざされることは、あまりにも哀しいことなのだ。だからこそ私は、

それでも私は、あなたを理解したいんだ

と、そう思い続けるのである。

私は単なる「学者」としてなにかを理解しようとしているのではない。あせってむやみやたらにその「研究範囲」を拡げていこうとも思わない。私はただ

お互いの存在を喜び合いたい

と思っているのだ。そしてそのためには、

「みんなが心地よく息を吸える場所」

が必要だと思う。なにかに追われるのでもなく、どこかを削り落とす必要もなく、ただお互いを伸びやかに表現し、愛を育める場所。それが本当の意味での

「生存可能領域」

なのだと、私はそう思っているのである。

だから私はそれを見つけたい。そしてもしその場所がないなら、あるいはあったとしても少ないと言うなら、それを自分でも創っていきたい。そこで私の愛するひとたちに、もっとラクに生きていてほしい。私はずっと、そう願っている。

だから私はそのために、理解を深めていく。私は私の力を、そのために遣う。それにこんな私がこの宇宙に生まれ生き続けることを許されていると言うなら、私もいずれ必ず、この想いを成就させることができるということなのだろう。願いは単なる「動機」(エネルギー源)ではなく、いつか必ず叶うものだ。私はずっとそう信じているし、そう理解しているのである。

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  1. kazuki より:

    Dilettanteさん、こんにちは。

    私の知り合いには日常的に霊が見える人がいます。
    一応除霊もできるので一般的な霊能者(?)に近い存在なのかなと思ってます。

    その人曰く「世間一般で霊と言われている物はほとんどが生霊(思念体)で、死ねば霊界に行くからこの世に霊体として
    留まっている例はほとんどない。」

    「心霊スポットに複数の霊能者を連れて行った場合、全員見え方が異なるし解釈の仕方が変わってくる。
    例えば一家心中があった現場では霊能者Aには亡くなった母親だけが見え、霊能者Bに子供だけ見える事がある」
    との事でした。

    私はこのような見解に対し「世の中の多くの霊能者は生霊だけではなく成仏できずにこの世に留まり続けている霊体はたくさんいると言っているが、それについてはどう思うか?」とその人に訊いたところ
    あやふやな回答しかもらえず「それはその霊能者の見方がおかしいんじゃない?」との事でした。
    霊能者によって霊そのものの見え方や解釈が異なるというのはまだわかるんですが、
    この世には生霊ばかりで霊体がほとんどいないという見解には違和感を感じます。

    Dilettanteさんはこの知り合いの見解をどう思いますか?

    • Dilettante Dilettante より:

      kazukiさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      Dilettanteさんはこの知り合いの見解をどう思いますか?

      そうですね、この問いに本当の意味でしっかりと答えるためには、まずそのお知り合いのかたと、

      「霊界と肉体界との距離や影響関係」

      についての認識を確かめ合わないことにはなんとも言えないかもしれないです。

      つまり、もしそのひとが

      いちど霊界に行ってしまったからといって、もう人間界に関わることができなくなるわけではない

      という前提のうえで、

      死ねば霊界に行くからこの世に霊体として留まっている例はほとんどない

      と言っているのであれば、そのくらいの「細かな表現の差」はたいしたことではないからです。

      自分が死んだことにいつまでも気づいていない霊や、肉体を保って生きていたときの生活圏から離れられなくなっている・離れる方法がわからずにいる霊(厳密な意味での「地縛霊」)はそんなに多くはない

      という意味でなら、私も基本的に同意しますし。

      言い換えると、

      死んでからいちども霊界に行かないまま(他の霊とも関わらないまま)肉体界を彷徨っている霊はそれほどいない

      ということです。それこそ守護霊や近親霊なんかが、霊の世界や仕組みを教えてくれる(思い出させてくれる)ことも多いですから。

      ただそのうえで、

      霊界と肉体界は実のところ表裏一体の関係にあるので、意識さえつながればいつでもどこでも、いつまででも関わり続ける(影響を与え続ける)ことができる

      というのが私の立場なので、もしそのひとが

      死んで霊界に行ったら個別の意識・個体としての人格はなくなって、もとの「集合意識」に戻るので、もうこの世にはなんの影響も与えない

      とか、

      霊が関与できるのは生前に交流があった相手だけで、それもお盆や年末年始など、ごく限られた期間だけだ(から実際の影響力はほとんどない)

      というような立場なんだとしたら、それは私とは違う考えだと言うことになるんだろうと思います。

      それに

      心霊スポットに複数の霊能者を連れて行った場合、全員見え方が異なるし解釈の仕方が変わってくる。

      例えば一家心中があった現場では霊能者Aには亡くなった母親だけが見え、霊能者Bに子供だけ見える事がある

      というのもそれ自体は概ねそのとおりだと思うのですが、もしそこから

      だからそれはすべて「それぞれの霊能者の思い込み」が反映されただけで、「実際に霊が存在する・そこにずっと影響を及ぼしている」というわけではない

      というような話につなげるのであれば、それに対しては

      ひと口に「霊能者」と言っても気性や人生経験の違いがあるのは当たり前なんだから、「Aさんは母親と共鳴しやすくて、Bさんはこどもと共鳴しやすかった」ということも充分にあり得る。逆に言えば「このひとは霊感はあるけど私とは気が合わないから感知されたくない」と思えば、霊もできるだけ身を隠そうとするから、見つからなくても不思議はない

      というような、別の見解を保っていると言わざるを得ないですから。

       

      そのうえで私個人としては、

      この場所でなにがあったのか?ここにいる霊とこの場所とはどんな関係があるのか?

      といったことはほとんど判別できないので、もしそうした要素で試されたら、私は完全に「落第」でしょうね。ただ逆にもし私にそんな能力があったら、それこそいろんな「捜査」とかにも協力すべき立場になってしまうので、そこまでの責任を負わずに済むことは、やはりありがたい配慮だとも思っています。

      あとは一般論として、

      霊媒師(霊能者)がどんな見解を保つに至るかは、「そのひとにどんな霊が関わって、どんなことを教えているのか」に大きく左右される

      と言ってもいいと思いますから、そうした意味でもやはり私たちと霊は、深く結びついているということなんでしょう。

      ひとりの肉体人が世界のすべてを理解しているわけではないのと同じように、ひとりの霊存在がすべてを理解しているわけでもないんですからね。

      そして結局は、

      私が相手の立場だったら、どういう行動を採るだろうか?

      という素朴な考えに立ち返るのも、ときに意外なほど真実に近づいていける素朴な方法なのかなとも思います。つまり私が今霊の立場だったら、やっぱり大切なひとを自分なりに護ろうとするに決まってるんですよね。そしてそれが私だけの特殊な考えだともどうしても思えないので、それならやはりこの世界もそういうふうになってるんだろうと、ともかく私としては、そんなふうに思うわけです。

  2. kazuki より:

    ご丁寧にありがとうございます。
    わかりやすい解説で納得できました。

    ところで話は変わりますが、最近Youtubeで「見るだけで除霊できる」「見るだけで金運が上がる」「見るだけで恋愛運が上がる」のような動画が人気があり再生回数もかなり多く、実際に効果が出たというコメントが結構書かれています。
    それ以外でも~Hz(ヘルツ)動画で除霊や運気を上げるといった動画も多くあります。

    このような動画を見る事で実際に効果が得られるという事はあるのでしょうか?
    Dilettanteさんの見解が知りたいです。

    よろしくお願いします。

    • Dilettante Dilettante より:

      このような動画を見る事で実際に効果が得られるという事はあるのでしょうか?

      ええ、あるかないかで言ったら充分にあると思いますし、

      実際に効果が出たというコメントが結構書かれています

      というのも、その証なんだろうと思います。というのは、

      そういう映像や音声をきっかけに、本人の気分が好くなったり、前向きになったり、勇気が出たりするのであれば、その「意識の変化」こそが、人生全体の流れを好転させることになるのは当然のことだから

      です。

      ただそういう動画投稿者のなかには、その力を「悪用する・相手への攻撃として用いる」ことで、たとえば

      「仕事のライバルを蹴落とす」

      「恋敵を不仲にする」

      といったようなことを意図するひともいるかもしれませんが、そういったいわゆる

      「黒魔術・呪い」

      に手を出してしまったら、いずれ必ず「代償」を支払うことになると思っておいたほうがいいです。なので

      一方では白魔術を用いてもいるけど、もう一方では黒魔術も用いている

      というような場合は、基本的に最初から近づかないほうがいいだろうと思います。そのうえでどちらかと言えば

      ~Hz(ヘルツ)動画

      のほうが、人間の想念が(ほとんど)加わっていないぶん、効果も緩やかになりやすい代わりに被害も少ないという意味で、少し試してみるにはハードルが低いかもしれませんね。

      ただそういう

      「波動・音響・電磁波……」

      といったものでも、やはりその気になれば「悪用」することもできるので、あまり手広く無頓着に採り入れるのはおすすめしません。もっと単純に言うと

      そういったいわゆる「現世利益」に手っ取り早くアクセスするのは、守護霊よりむしろ負の霊が得意とするもので、その「飴と鞭」をちらつかせて私たちを誘導し堕落させるのが、彼らの常套手段だから

      なんです。なので少なくとも私自身は、そういうものを採り入れるのにはかなり慎重を期すようにしています。

      つまりなんと言うか、私はそういった霊の助力・サポートが存在することも、それが実際に影響をもたらしていることもよくわかっているのですが、そのうえで

      ただそれは結局は「追い風」でしかない。だからもし「自分の決意や努力」を高めることなくその追い風だけを強めようとしたら、その「強すぎる追い風」はいずれ私たち自身を倒すことになるだろう。だからこそ私たちは、追い風が吹こうが向かい風が吹こうが、「それに煽られ吹き飛ばされないように、自分自身の足で踏み止まり根を張りながら、少しずつ1歩ずつ進んでいくこと」を目指すのがいちばんいい

      と、私は思うわけです。

       

      ただそういうことを踏まえたうえで、

      黙っているとネガティブな想念・悲観的な思考に囚われそうだから、音楽や映像で気分を換えよう

      という気持ちで活かすならぜんぜんありだと思いますし、そうしたことはあらゆる宗教にも受け継がれているので、そのなかで生まれた「宗教音楽」のなかにも、あなたの気に入るものは見つかるかもしれません。

      つまりこうしたことも本当はずっと昔からそれぞれに試行錯誤されてきたものなんだろうと思いますし、ある程度注意するべきところもあるにせよ、それに助けてもらうことで、また元気を出して生きていけるのであれば、究極的にはなんだっていいということなんだろうと、私は思っています。

  3. なすび より:

    ひとはなにかを「理解した」と思ったとき、自分のことを「相手を掌握した、より上位の存在」と見なし、相手をさらに軽んじるようになる。

    Dilettanteさんが私を送ってくださった時に似たような話をしてくださったことを覚えています。

    私も本当に気をつけないとなと思います。身近な人に対しては特に。人はそれぞれ目に見えない様々な事情を抱えているということを。そしてそれを完全に理解したと思うことは傲慢なことであるということを。

    確かに、人を理解しようとすることは危険を伴うことかもしれないですね。でも、私はDilettanteさんの、”知りたい”、”一緒に楽しく生きていきたい”という気持ちは本物だと感じています。

    そう感じることもあくまで私の”理解”ではありますが、私はそれを信じます。
    もちろん、私の知らないDilettanteさんは沢山あると思いますが、だからこそ私も少しずつでも理解していきたいです。私の理解は不完全だという可能性を常に頭におきながら。

    そして私のこともちょっぴりでいいので理解していただけると嬉しいです笑

    「かつての私自身が、誰かに教えてもらいたかったこと」

    を少しでも伝えたらと思って

    私自身、「あ〜これ、もっと早く知りたかったな」と思うことがあります。知識に飢えている方がそれで少しでも前を向いて生きられたら、大きな社会貢献だと思います。
    それこそ、これはあくまで私個人の意見ですが、人の健康を守るために必要なのは、医学なんかではなく、そういった”知識”だと思うんですよね。(あ、そう思ってはいますが、もちろん最善を尽くせるように頑張って働きますよ笑)

    • Dilettante Dilettante より:

      なすびさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      私も本当に気をつけないとなと思います。身近な人に対しては特に。人はそれぞれ目に見えない様々な事情を抱えているということを。そしてそれを完全に理解したと思うことは傲慢なことであるということを。

      ええ、そうですね。これは私自身も、何度も何度も噛みしめたいと思います。

      そもそも、たとえ生まれたときからずっと一緒にいた相手だったとしても、知らないことはあるわけですからね。みんなどんどん変わって、成長していくわけですし。

       

      ただですね、これは今までの話をいきなりひっくり返すようにも思えるでしょうけど、あなたの立場や理想を鑑みればこそ、

      ときにはお相手に思いきり「だいじょうぶです」と言い切ったっていいんだ

      ということも、ここで併せて強くお伝えしておきたいと思います。

      たとえあなたがすべてを理解しているわけではないと自覚していたとしても、それに相手から

      なんでそんな簡単に言い切るんですか!私が日々どれだけつらく苦しい思いをしてるか、あなたはわかってないでしょう!

      と言われたとしても、むしろだからこそ、それはあなたが言ってあげるしかないことだからです。

      ここはとても大切なところなので、もう少し順を追って説明しますね。

       

      まずそれがどんな疾患、あるいは状態であれ、それを解消したいと誰よりも強く願っているのは、その本人や、そのひとを深く愛するひとであって、その想いの深さにおいてあなたがそれを上回るのは容易ではないというか、基本的にはまず無理だと思ってもいいと思います。

      ですがだからこそ、その患者本人、そしてそのひとを深く愛するひとたちは、その疾患との距離が近すぎるが故に、その重みや苦しみに呑まれてしまい、「その先の希望」を見出すのが、その存在を信じることが、とても難しくもなるんです。

      それにもし誰かから

      だいじょうぶだよ!

      と言ってもらったとしても、そこに「愛」があるだけでは足りず、せめてある程度の「確信」がなければ、それは結局はすぐかき消されてしまい、力を失ってしまうでしょう。

      逆に言えばもし患者本人が、あるいはその周りのひとたちが

      自分は(このひとは)絶対にだいじょうぶだ!

      という確信を保てているなら、そんなひとには医者は(ほとんど)必要ないとさえ言えると思うんですよ。というかそういうひとは、そもそも病院には来ないかもしれないですし。

       

      でも病院に来るひとは、あなたのもとを訪ねて来るひとは、基本的に自分(たち)だけではそう思えないからこそ、あなたの助けを必要としているわけです。

      そしてそういうひとたちは、多くの場合

      「自分(たち)の痛み苦しみ、哀しみやつらさ」

      が重すぎ大きすぎて、大局を見ることが難しくなっているわけです。

      でもあなたはそのひとたちとは違う立場にいられる。あなたはそのひとと同じような状態のひとが世界中にいることを知っているし、そこから回復したひともいることをわかっている。だからこそあなたはその疾患から「距離」を置いて、冷静に率直に、あなた自身の言葉で

      だいじょうぶですよ

      と言ってあげられるということなんです。

      そのうえ、そこにはしかも

      「権威」

      があります。たとえそのひとに対する想い入れでは家族や恋人や親友に遠く及ばないとしても、医者は現代社会において、やはり「格別の地位と権威」を保っていることは間違いないでしょう。だからその立場から放たれる言葉は、相手の心に強い影響を与えることができるということなんです。そしてその

      「本人の意識が変わること」

      こそが、そのひとのすべてをどれだけ変えていけるかを知っているなら、それができれば実際はもうほとんどクリアなんだということもわかっていただけると思いますし、

      だったらそのために「自分の稀有な立場」を活用しない手はない

      と、あなたにもきっとそう思ってもらえるだろうと思うのです。

      それにあなたはここでも書いているように、その「力」に呑まれて傲慢になることも、終わらない道を進むことを放棄することも、お互いの溝は永遠に埋まらないからと諦めて開きなおることもないと思うんですよ。だからこそときにはその溝を大胆に飛び越えて

      だいじょうぶです!きっとよくなりますよ!

      と言い切ってしまったっていいんだと、むしろそれこそが医師の究極の役目なんだと、私はあなたにもお伝えしておきたいと思うんです。

       

      ですがもちろん、それでもひとは死にます。それだけでなく途中で自暴自棄になり、諦め、自ら生きる道を閉ざしてしまうことさえもあります。あなたがどれだけ最善を尽くし、全身全霊のすべてを傾けたとしても、それでも必ず、助けきれないひとは出てくるでしょう。しかもあなたが数多くのひとに関われば関わるほど、その数も確実に増えることになります。

      確かに私たちは魂の永遠性や死後の実存を理解し受け入れているので、その点で少しは「クッション」になるものを持っているとも言えるでしょうけど、それでも自分が相手に込めた想いが深ければ深いほど、その反動は痛烈に、あなたを傷つけることにもなると思うんです。

      でもその痛みは本当には、同じ痛みを知るひと同士でしかわかち合えないものなのかもしれません。そしてだからこそ、多くのひとはその過程で心を閉ざしたり、感覚を鈍らせたりすることで対処するしかないと判断するのだろうとも思います。そしてそれを悪いとか臆病だと糾弾することは、誰にもできないでしょう。

      ただだからこそ、もしいつかあなたがその痛みに襲われることになったときに、それをわかち合えるひとが見つけられなかったときには、私のこともひとりの候補として思い出していただければと、そう思っています。

      もちろん私とあなたとの間にもたくさんの違いがあるので、すべてを共有することまではできないとも思いますが、それでもせめて少しくらいは、私なりにわかち合うこともできるでしょうから。

      それに別にそこまで大きななにかがあったわけではなくても、私はこれからもここにいますので、いつでもお気軽にお声かけいただければと思います。

      どうぞよろしくお願いします。

  4. なすび より:

    Dilettanteさん、力強いメッセージありがとうございました。

    ときにはお相手に思いきり「だいじょうぶです」と言い切ったっていいんだ

    その視点はなかったです。でもお話を聞いていてなるほどなと思いました。

    患者さんの辛さや苦しみを100%受け止めることは出来ない。そんな私に何が出来るだろうか。。。と悩んでいましたが、そのように患者さんと「距離」があるからこそ、出来ることがある。そして医師の「権威」をうまく利用すればその言葉にある程度の力を与えることも出来る。

    「大丈夫ですって言われても、お前に何が分かるんだよ!」と言われてしまうこと、あると思います。正直それを恐れる自分もいます。がしかし、それでも優しく、そして強く「大丈夫ですよ」と言えるような強い人間になりたいと思いました。

    新しい視点を教えて頂き、有難うございます。

    自分が相手に込めた想いが深ければ深いほど、その反動は痛烈に、あなたを傷つけることにもなると思うんです。

    ただだからこそ、もしいつかあなたがその痛みに襲われることになったときに、それをわかち合えるひとが見つけられなかったときには、私のこともひとりの候補として思い出していただければと、そう思っています。

    本当に有難うございます。人の心に関わる人、霊能力者、霊媒師の方は本当に大変だと思います。Dilettanteさんも、たくさん辛いことあると思いますが、それでも相手に対して自分の想いを真っ直ぐに伝えようとしていて凄いなと思っていました。尊敬します。
    辛い時、味方がいるというだけで救われます。これからもよろしくお願いします。

    • Dilettante Dilettante より:

      「大丈夫ですって言われても、お前に何が分かるんだよ!」と言われてしまうこと、あると思います。正直それを恐れる自分もいます。

      ええ、それを恐れるのはまったく当たり前だと思います。実際に言われたら、いつだって深く突き刺さりますからね。

      だからこれは本当に難しいことで、私にとっても永遠のテーマのひとつなんですけど、でもこれは結局のところ、

      傲慢になるのも問題だけど、だからって卑屈(自虐)であればいいということでもない

      ということだと思うんですよ。言い換えれば、

      謙虚さ(弱気)と強気(自分と相手への信頼)のバランスが大切なんだ

      ということです。

      だからもちろん、なんでもかんでも

      いいから俺の言うとおりすりゃいいんだ!俺は医者なんだぞ!

      と言えばいいという話ではないですし、それだと相手の心には「勇気」や「希望」よりむしろ

      「反発心や恐怖」

      が生まれてしまう危険も大きくて、つまり

      それだともともとの「相手の意識を好転させる」という狙いとは逆効果になってしまう

      んですからね。

      でも一方で、あなたもおっしゃったように

      患者さんの辛さや苦しみを100%受け止めることは出来ない。そんな私に何が出来るだろうか。。。

      というところを悲観的に見すぎても、それはそれで苦しくなって、あなたの実力も削がれてしまうでしょう?

      だからこそ、そのちょうどいいバランスを身につけていくのが、とても大切だと思うんです。

       

      そして今回、私があなたにこういうことを伝えた理由は、私から見て

      このひとの場合は傲慢よりずっと卑屈に陥る危険のほうが大きい(バランスが弱気に偏りやすい)んだろうな

      と思ったからというのももちろん大きいんですが、同じくらい

      一般論として、医者の内面にどれだけ弱気(理解不足への不安や葛藤)が秘められていたとしても、患者さんの不安はそれよりも、ずっとずっと大きいと思ったほうがいい

      という理由も大きいんです。

      つまりそもそも病気というのはひとの気力を削ぎ落とし、後ろ向き悲観的に偏らせるので、たとえばそういうときは

      赤信号に何度も止められた

      とか、

      出先のトイレがいつも埋まっている

      何気なく時計を見たら9時49分だった

      なんてことでさえ、

      こんなに悪いことが続くなんて……。自分は罰せられてるか、もしかしたら呪われているかもしれない……だからきっとぜんぶ、うまくは行かないんだ……

      というような解釈につなげてしまうこともあるんです。これは元気で冷静なひとから見るとだいぶ大げさにも感じると思いますが、病気というのはときにそれほどまでひとを追い詰めるものです(それに病気に限らず自分がひどく落ち込んでいたときのことを思い出してみれば、誰でも多かれ少なかれ身に覚えはあると思います)し、もっと言えば

      もともとそういう悲観的解釈やエネルギーが染みついているひとだからこそ、病気を呼び寄せやすい

      とさえ言ってもいいと思うんです。それにこれは霊的な観点だけでなく、自己暗示の効力(→プラセボ効果/ノセボ効果)や免疫力のはたらきなどからも説明できることだと思うのですが、そうは言っても

      陽気で楽観的なひとだって病気にはなるだろう!

      と言うひともいるでしょうし、もちろん私もそれを無視する気はありません。

      まして今のような社会では

      「物理的にも様々な仕組みそのものから言っても、誰もが健康を害しやすくなっている」

      と言ったっていいと思いますからね。

       

      ただそうしたことを踏まえたとしても、

      もしそのひとがそれまで大した病気にも罹ったことがない健康なひとで、まして大きな挫折も落ち込みも経験したことがないようなひとだったとしたら、だからこそそんなひとに病気が与える影響はどれだけ強くなるだろう?だからやっぱり、病気になってなお強気陽気でいられるひとは極めて稀で、ほとんどのひとは弱気で悲観的になってしまうものなんだ

      ということには変わりないだろうと、だからこそ、

      患者さんはただでさえ悲観的になりやすく、弱気と不安に押し潰されそうなんだから、その「最後の頼みの綱」である医者までが、弱気や不安や迷いを見せて、それを増幅させてはいけない

      と、私は思うんです。

       

      とはいえもちろん

      そんなこと言ったって、医者は神様でもなんでもない、ただの人間なんですよ!知れば知るほど己の無知を突きつけられることになるし、迷わずに決断するなんて無理ですよ!

      と言いたくもなるときもあるでしょう。でもあえて身も蓋もないことを言えば

      医者の目的は「相手に元気になってもらうこと」であって、「相手に自分の葛藤を理解してもらうこと」ではない。それに本来患者さんには早く元気になってもらって、病院や医者なんかとは縁遠い生活をしてもらったほうがいいんだから、その付き合いはさっさと絶たれることこそが理想なんだ

      とも言えるということなんです。もちろん本当はひとりの人間同士、仲良くできるならそのほうがいいに決まってるんですけど、一方で

      いちばん大切なのは「患者さんが元気でしあわせになること」であって、究極的には医者が嫌われようが疎まれようが、最後まで理解してもらえなかろうが、そんなことはどうでもいいんだ。それに、そもそも弱っている相手にそこまでのゆとりを求めるのは酷だろう

      という視点を忘れてはいけないという意味でもです。そう、これはそれこそ

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      なんかの姿を見たら、私が言うよりもっと伝わるだろうとも思うんですけどね。

      そしてもし彼くらいになったら、そこまでの覚悟が決まったなら、

      俺はあんたよりずっとこの病気を知ってる。そのためにずっと研究してるんだからな!だからあんたが俺を信じてくれるなら、絶対に治してやる!

      くらい言ったって通用すると思いますし、私が「医者には今それだけの権威と影響力がある」と言ったのは、そういう意味でもあります。だってこれがもし「霊媒師」だったら、同じ言いかたでは通じないでしょう?

      だから別にやりかたはひとつではないので、最終的に自分にあったやりかたを見つけられたら、それでいいんだと思います。それにこれは本当には、看護師さんや技師さんなど、たくさんのチームメイトに加え、もちろん患者さんの家族や身近なひととも力を合わせて、みんなでそれぞれの立場から力を出し合って、達成できればいいことなんですからね。

       

      とまぁ、このへんはいくら言っても語り尽くせない話でもありますし、何度も言うように私自身もずっと試行錯誤の真っ最中なんですけど、だからこそこれからも一緒に励まし合いながら進んでいけたらと、そう思っています。

      それになんと言うか究極の話をしてしまうと、

      たとえあなたがその過程で一時的に心を病んだとしても、それを糧にして精神医療を究めていくという道さえある

      んですから(実際「心を病んで通院した経験のある精神科医」とかも意外にいるものなんですよ)、あなたの核心がブレない限り、表面的になにがあったってだいじょうぶなんです。もし核心までもがブレそうになったとしても、そのときはそのときで、私も助けますから。だって私はあなたを、応援しているんですからね。

      だから、だいじょうぶですよ。別に私は尊敬されるほどのひとではないんですけど、ともかく私を味方だと思っていてくれて、いつもこちらこそ本当に、ありがとうございます。

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