「歪んだかたちで確立されたシステム」を揺さぶるために、それぞれのバグ(例外)を投げ続ける

私たちの現状の社会においては、苦しんでいるひとが多すぎる。しかもそのなかには、いわゆる「先進国」と呼ばれているはずの国でこそ顕著に見られる種類の苦しみさえもある。だから私たちが生きる社会は、明らかにどこかが間違っていて、歪んでいて、不具合を起こしていると言い切っていいと思う。

だがだからこそ問題なのは、

今の社会は明らかに歪んでいるのだが、それがあまりにも長いこと続いているために、それがある種の「力」を帯びてしまい、ほとんど「確立」したかのような状態にある

ということなのである。

これがもし

「黎明期・草創期」

であれば、まだそれは弱くちいさいからこそ小回りが利くので、おかしいことに気がついても比較的修正しやすいだろう。

だがそれが長年に亘る歴史を帯び、多くのひとにとって

「最初からあった基礎・土台」

だとしか思えないようなものになってしまうと、その後でいざ誤りや不具合に気づいても、修正はそう容易ではなくなる。

というよりそれならまだいいほうであって、そこからさらに進んでいくと、もはやそれを「修正・改善できるもの」として捉えること自体が難しくなってくる。つまり、

確かに問題があるのはわかるけど、だからと言ってどこからどう手を付けたらいいのかもわからないし、これはもうこういうものなんだから、実際にはどうしようもない

という諦めや無力感が、全体を覆い尽くすようになるのである。

ここまで事態が深刻化すると、そこにいるひとたちは、本当にはどこか間違っている・歪んでいるとわかっているものを

「基本原則・絶対定理」

と見なすようになる。つまり

歪みを矯正する代わりに、歪みに全体を合わせる

という選択をするということだ。ここまで来ると、この仕組み・システムの力はほぼ磐石になる。

「歪んだまま確立したシステム」

が、ここに根を張ったということだ。

そしてここまで強力になったシステムは、たとえ本当には歪んでいたとしても、そう簡単には壊れない。歪んでいるものが「標準」(基準)と見なされるようになったら、その「基準」に合わない存在は、その土台を壊すより先に、自らを壊すようになるからである。そしてそこには当然、「数の力」も宿るようになる。

つまり、

異端者が多数派になったら、それはもはや異端ではない。正典が失われ、ひとびとがその存在さえも忘れ去ったのなら、そこで改めて「正典」を創りなおしても、誰に問題にされることもない

ということになるわけだ。だからますますそれは強力で、安定したものになっていくのである。

だがこうした背景を知ったからと言って、やはりおかしいものはおかしいし、歪んでいるものは歪んでいるのである。ではそれをどうしても壊したい・修正改善したいと思ったら、私たちはいったい、どうすればいいのだろうか?

この切実な問いに向き合い続けたとき、私はその解決の難しさに打ちひしがれそうになりながらも、

それにはやはり、システムの歪みを見つめ続け、それを突き崩すための「バグ」(例外)として、屈さずに存在し続けることだ

という方針を、そこに見出すのである。

いかなるシステムであっても、それが重要で強力なものであればあるほど、そこには

「自己修復機能」

が存在する。だからたとえそこに「少数のバグ・エラー・例外・異物」が出現したとしても、それほど造作もなくそれを排除することができるというわけだ。

だがもしそれが「あまりにも大量のバグ・圧倒的な数の異物」になれば、話はまったく変わってくる。つまり、

異物の生命力・存在感が相手の「自己修復機能」を上回ったら、それはついにシステムの内部を侵食・制圧することになる

ということなのである。だから、あらゆるシステムには、根本的に崩壊する可能性がある。言い換えれば、

あらゆる世界は、変わる可能性がある

ということだ。そう、世界は変わるのである。

あらゆるシステムの根幹には

「基本思想」

が存在すると言っていいと思う。

そしてそのシステムに取り込まれた存在は、ほとんどの場合、たとえその自覚がなくても、そのシステムを維持・延命するのに役立てられることになる。つまり、その基本思想を継承し、再生産することになるというわけだ。

だがそれがたとえどんなに強力・強固なものであっても、それが歪んでいるならなおさら、遅かれ早かれいずれどこかに「反発」が生まれる。しかしそれが少数でか弱いものである限り、それはほとんど意識されずに淘汰されることになる。だからこの時点ではまだ、世界は変わらない。

だがたとえそうであったとしても

何度排除しても排除しても、どこかから必ず異物が湧いてくる

のであれば、もういつまでも基本思想の歪み・間違いから眼を背け続けることはできないだろう。だから淘汰された多くの存在は、別に無駄だったわけではないのだ。

ただ事態がそこに至っても、基準を定めることができる立場(≒多数派)というのは強いもので、彼らにはまだ「伝家の宝刀」がある。それが

例外は本質ではない

という教訓なのである。それに私自身、これは至言でもあると思ってもいる。

ただだからこそ私が言いたいのは、

もし「例外」があまりに多いなら、それは理論(原則・仮説)のほうが誤っていることを意味するんだ

ということなのだ。そしてこれこそが世界が変わり得るという、確かな証なのである。

この世界のすべては、

「思想・想い」

に端を発する。そしてどんな想いが広く受け容れられるかで、その世界が基礎づけられる。だからその基本思想が変わったとき、世界は文字どおり一変するのである。

そしてだからこそ、私は自分がどうしても受け容れられない思想については、たとえそれがどんなに強力なものであっても、気に入らないと思い続ける。しかも今の現状は

好みの違いで、どちらにもいい面と悪い面がある

というようなものではないと思うのだ。これはあまりに、どう考えても、悪いほうに偏りすぎている。

だから私は、歪んでいるものは歪んでいるし、間違っているものは間違っているし、好きじゃないものは好きじゃないと思い続けるのである。そしてたとえシステムが私を「例外として排除」しようとするとしても、私はなんとかして自分を保ち続けようと思うのだ。たとえそれですぐにシステムを壊すことはできなくても、せめてほんのわずかでも揺さぶり続けることができたら、「今とは違う世界もあり得る」という可能性を示し続けることができたら、それは絶対に無意味ではないと思うから。だってすべては必ず、未来に影響を与えるんだから。

だから私は、ここに私の

「悪戦苦闘の歴史」

を書き残しているのである。これはあなたへの置き土産でもあるのだ。もし私が直接手を出せる間に終われたらそれでいいのだが、もしそうならなかったとしても、私の記録を残しておけば、それはあなたには、きっと参考にしてもらえるだろうと思うから。

世界は永遠に未完成だし、私たちは永遠に不完全なんだけど、少なくとも今よりはよくなるし、よくなれる

という想い、これが私の基本思想なのだ。というかこれは世界の根本にずっとある思想だったはずだと、私は思っている。だからたとえ今はそれを忘れてしまっていたとしても、それに共感してくれるなら、あなたも私(たち)の同志であり、仲間なのである。

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