人生の再構想。「今ここから改めて人生を始める」としたら、あなたはどんな人生を望むだろうか?

私たちは永遠の存在である。だから

この人生が終わっても「その先」(いわゆる「死後の世界」)がある

ということなのだが、それは裏を返せば

この人生が始まる「その前」(言ってみれば「生前の世界」)もある

ということを意味する。そしてこれを「生前の世界」と呼ぼうが「死後の世界」と呼ぼうが、それは結局は同じことなのだ。つまり

私たちの本質は霊(永遠の魂・エネルギー体)であり、私たちは霊界(想念界)からここに来て、死んだら(肉体を離れたら)また霊界に帰っていくんだ

ということだからである。

では、もしそんなふうに私たちがもともと永遠性を備えているんだとしたら、そこからなぜわざわざ「有限で一時的な肉体界」にやってくるのかと言えば、それは

私たち自身が、それを望んだから

だ。

そしてここには

「人生に起こるすべてのこと」とまでは言わないにしても、「その大枠のいくつか」や、少なくとも「人生の開始時点での環境や初期設定」くらいは、(もちろん周りに助言を仰いだり、合意できるかどうかを話し合ったりはあったとしても、最終的には)自分の意志で選んできたんだ

という意味も込められている。そしてその結果として、私もあなたも今ここに生きているということなのである。

とはいえ、これはあくまでも

「私の主張」

であって、少なくとも現時点で、あなたにこれを確信してもらうことができるとはまったく思っていない。

そしてその理由はとても単純で、つまりいくら私がそう言ってみたところで、

私はそんなこと、まったく憶えていない

と言われるのが、ごく当たり前だからなのである。

そう、もし自分が望んで生まれてきたことや、自分の大枠についてのいくつかの計画(可能性・案)を事前に構想していたことを、他でもないあなた自身が憶えているのなら、話はとても簡単なのだ。だが、今を生きるほとんどのひとに、そんな自覚はまずないだろう。それは本当には

「それを忘れている・忘れたつもりになっている」

からでもあるのだが、そもそもこの表現自体が、今のあなたにとって受け容れ難いものだろうとも思う。だって、

「確かにあったこと(事実)を忘れた」のか、「そもそもそんな事実はなかった」のか自体が、まったく判断できない

からだ。つまり

今の私たちの周りには、「自分がなにかを忘れている」ということを憶えている・それを思い出させてくれるひとがほとんどいない

ということだ。

もしあなたが記憶喪失に陥ったとしても、あなたの周りのひとの記憶が保たれているのなら、あなたが自分自身を完全に失うことはない。それにたとえあなた自身の記憶が戻ることが生涯なかったとしても、そしてすべてを周りのひとの証言や助けで補うこともできなかったとしても、少なくとも

「自分がなにかを忘れている」

ということ自体は、把握することができるだろう。

だが今の状況は、まったくそうではない。「自分の生前の記憶」を憶えているひとはほとんどいないし、いたとしてもそれはあまりにも少数派なのでなおさら、それを信じていいのかどうかはとても疑わしい。だからそもそも「自分がなにかを忘れている」ということ自体を、ほとんど自覚できないということだ。これが今の私たちの素朴な現状なのであれば、そこでこんな混乱や葛藤が起きるのも、ごく当然のことだと思う。

それにもっと言えば、もし仮に私たちが

自分が今ここにいるのは、自分がそれを望み、選んだからだ

ということを思い出すことができたとしても、それですべての問題や葛藤が解決するわけでもないのだ。そこにはまだ依然として

それでもこれからの未来がどうなるかはわからないし、それは他のあらゆるひととの相互作用の結果生まれるものでもあるから、そもそも自分だけでは決められない

という事実が残っているからである。

たとえば生まれる前に、お互いの合意によって

「その相手と出逢い、恋人になる」

ことを決めていたとしても、それを実際にやってみた結果、それが必ずしもうまく行くとは限らない。そしてそのひととの関係がどうなるかによって、その後の人生(未来)はいくらでも影響を受ける。つまりそれは家族や友人、あるいは仕事や住む場所など、すべてに波及するからだ。

現実は、簡単に想像を超える。逆に言えば

すべてが「予想どおり」にしかならないなら、わざわざ実践する必要もない。だからその意味で、「予想を超えた現実の経験」こそが私たちの認識(世界観)を深め、私たち自身を成長させてくれることも確かだ

ということであり、先ほど

「自分の大枠についての『いくつかの』計画(可能性・案)を事前に構想していた」

と言ったのも、そういうことなのである。

それに私自身、先ほども言ったとおり

「人生に起こるすべてのこと」とまでは言わないにしても、「その大枠のいくつか」や、少なくとも「人生の開始時点での環境や初期設定」くらいは、(もちろん周りに助言を仰いだり、合意できるかどうかを話し合ったりはあったとしても、最終的には)自分の意志で選んできたんだ

ということはわかっている・認めている・思い出しているとはいえ、

じゃあこれから先の私の未来は、いったいどうなるんだ?

ということは、まったくわかっていない。それに

そもそも今までの人生で起きたことは、どこまで「生前の計画どおり」で、どこからが「予想外のできごと」なのか?そして今の私は、どれくらい計画どおりに進んでいるんだろうか?あるいはもう完全に、当初の予定からかけ離れてしまったのか?

ということすらも、まるで見当がつかないのだ。だからその点では、私の立場もあなたの立場も、実のところほとんど違いはないだろうと、そう思っているのである。

ただそれでも、私は

私たちには未来を構想する力と権利がある。そしてその構想や想いは、たとえ他との力関係によって弱められることはあっても、必ず未来になんらかの影響をもたらす

ということを知っている。だからもしあなたがこれを受け容れてくれるのであれば、あなたはここで、本当の意味で私と立場を同じくすることができると、私は思っている。それはつまり、

今の自分の状況が、どこまで自分が望んだこと(計画どおり)なのか、あるいは知らず識らずに道を外された(予想外のことが起き続けた)結果なのかは、今はほとんどわからない。ただだからこそ、「今まで経験したすべてを踏まえて、今の自分が、改めてこれからの未来を構想しなおす」としたら、これから先の未来に、自分はいったいなにを望むだろう?

ということを、お互いに考えてみるということなのである。

もちろん今の私たちは「既に人生を始めてしまった」のだから、生まれる前のときのように、

「すべてをゼロから構想・構築すること」

はできない。だからその「自由度」はかつてとはまったく違う。いいことも悪いことも、計画どおりであろうが予想外であろうが、とにかく

「ここまでに実現したすべてのこと」

は、基本的にすべて引き継いでいかないといけない。

しかしそれでも、私たちにはまだまだ「未来」がある。それはつまり

「この人生でまだ実現していないあらゆる可能性」

があるということであり、たとえそれを私たちが信じられないときがあるとしても、それは確かに事実なのだ。だってもしそうでないなら、今生の未来の可能性がすべてなくなっているなら、そのとき私たちは今生の役目を終え、向こうに帰っているはずなのだから。つまり

私たちがまだ生きている(寿命・迎えが来ていない)ということそのものが、私たちの今生にまだ未来(可能性)が残されている証なんだ

ということなのである。

だから私はここでもういちど、未来を構想する。もちろん、すべてを変えるわけでも、今までの過去を全否定するわけでもない。ただ、

今の私がすべての「私」の最前線にいる者であるという事実は事実なのだから、たとえ「生前の自分」の想像すら超えたとしても、それも含めて私の人生なんだ

という立場・認識のうえで、その責任を「生前の自分」でも「どの過去の自分」でも、ましてや「意図的に邪魔をする誰か」でもない、今の自分として、改めて引き受けなおすということなのである。私たちには、いつだってその力がある。それに以前

と言ったのも、

と言ったのだって、結局はつまり、そういうことなのである。

そしてだからこそ今の私は、本当に本当の意味で、がんばろうと思っている。生前の私がどこまで予測していたのかはわからないが、やはり実際に生きることは、いつだって予想以上に大変なことだった。だが私はだからこそ、なんとしてもこれを糧にして、生前の予想以上に、成長していこうと思う。予想以上の苦しみを越えた先には、予想以上の成長があるんだから。そしてもし私が本当に予想以上の成長を遂げることができたら、私は予想以上に早く深く、しあわせになれるということなのだから。

そう、だから私は

この人生さえ乗り切れば、この山場さえ乗り切ればきっと先が拓けるから、だからそれまではなんとしても、耐え凌ぎきってみせる

とか、そんなことを言うだけでは足りなかったのだ。もちろんこの想いにもいいところはあるし、今の私にだってこういう想いはある。ただ今の私は、

確かに今は未来のためにあるものでもあるけど、「未来のためにだけ」あるものではない。だから私はもっともっと真剣に、「今」と向き合わないといけない。だってこれは本当に本当に、貴重なものなんだから

という想いを深くしたということだ。そしてこれは、

不幸に耐え抜くだけではなく、しあわせになるのにも覚悟がいる。だから私は「不幸や哀しみ、それに逆境や葛藤にも耐える覚悟」だけでなく、「本気でしあわせに向かっていく覚悟」を、もっと強く保たないといけないんだ

ということを、ようやく本当の意味で、腑に落とせてきたということなのである。

はっきり言って、今の世界は予想以上にめちゃくちゃだった。そしてこれはもちろん、私自身が私の自覚していた以上にめちゃくちゃだったということでもある。だからそんな私が本気でしあわせになりたかったら、

「自分がしあわせになることをゆるす」

とか、そんな程度ではまだ足りないということなのだ。もちろん、それだけでも私にはまだまだ難しいことではあるのだが、生前の私は

それができればゴール(ひとまず今生の目標は達成した)

と思っていたフシがあるのである。

だが、今の私はそれがまだまだ甘かったことを理解した。つまり今の私は、

しあわせというのは、「自分ががんばってがんばって、それを受け容れる気になれたら自然と与えられる」ものではない。それにもっと言えば「『しあわせになればいい』というわけでも、『そこまで行ったらなにかが終わる』(ゴールだ)というわけでもなく、むしろ『そこからまた新しいステージが始まる』もの(スタート)なんだ」ということを理解して、強い覚悟を保って手を伸ばさないといけないものだったんだ

ということを、ようやく理解し始めたのである。

そして実のところ、これは言い換えると

早くしあわせになれるなら、それは早いほうがいいはずだ。それなのにいつまでも「覚悟」を決めないのなら、それは「かわいそう」というより、単に「臆病」なんだ

ということを理解してきたということなのである。だから私は、もっと勇気を持ちたいと思う。そして生前の私の予測より、1歩でも先に進もうと思う。人生に「前座」も「舞台裏」もないのだ。そこは常に「本番」であり、「最前線」なのである。そしてだからこそあらゆる「計画」や「構想」の力の核心には、いつだって「意志」と「覚悟」がある。大切なのは、そこだったのである。

ただもしそれを本当に理解することこそが私の目的だったとするなら、それも含めて

「私の計画どおり」

だと言うこともできるのだろう。だから別に、どっちでもいいのだ。いずれにせよ私は、これ以上私自身と喧嘩をしようとは思っていないんだから。ただともかく私は、まだ生きている。だったら今日も私なりに、1歩を踏み出してみよう。それにこれは別にあのときともなんら変わらないのだ。

ただあと1歩でも前へ。みんなで本当に喜べる、未来へ。

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  1. なみだ より:

    耐え凌ぐだけでは足りないというのは強く共感します。
    私はこの強い強い虚しさをどうにかしたくて生まれることを望み、飽きた、退屈だを繰り返しているのでしょう。

    予想外もたくさんあったと思います。
    生かされている、守られていると思い知ることもありました。
    実際すごい存在、仕組みだと思いますよ。
    ただ、その程度の気付きではどうにもならないというだけで。

    心から笑いたいし楽しみたいのです。
    場を、状況を、関係を壊さない為の演技ではなく心から。
    まるで労力と見合わない学びも、理不尽も、それが無駄ではないという事も、もう飽きましたから。
    けれどどうにもならないとも思ってますけど。

    頑張れとは言いませんよ。
    dilettanteさんはもう十分頑張っているでしょう。
    覚悟が足りないとも思いません。
    望むものを望むままに掴み幸せになってください。

    • Dilettante Dilettante より:

      なみださん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      私はこの強い強い虚しさをどうにかしたくて生まれることを望み、飽きた、退屈だを繰り返しているのでしょう。

      ええ、そういう面は確かにあるのかもしれないですね。

      ただそのうえで私としては、その気持ちはあなただけではなく、私も含めた誰もが、多少なりとも共通して持っているものではないかとも思います。

      そしてだからこそ私は

      あなたが何度も何度も飽きたり退屈になったりする経験(人生)を繰り返してきたにもかかわらず、それでもなお今回もまたこんなところに生まれ変わってきたことは、実に勇気ある決断だったと思うし、まずそれだけでも本当に、素晴らしいことです

      と、心からお伝えしたいと思います。だって何度もやってもうまく行かなかった(ほとんど同じところを堂々巡りしているとしか思えなかった)ことに、さらにもういちど挑むというのは、実際そう簡単にできることではないからです。

       

      ただたとえそうしたことを認めたとしても、やはりそれだけではどうしても満たされない気持ちが湧いてくる、つまり

      そうやっていくら「挑戦する勇気」や「日々の苦労や努力」を褒められたところで、いちばん肝心の「結果」(自分が本当に望んでいるもの)がいつまで経っても得られないのなら、やっぱりそんなものにはなんの意味もないじゃないか!

      と言いたくなるのも当たり前だと思いますし、なにより私自身が、ずっとこうした想いを保ち続けているという自覚があるんです。

       

      だから、そろそろ本当に、少なくともある程度の、「結果」を出してみたいですよね。

      だってさっきも言ったように、あなただって今までのすべてを踏まえて、わざわざもういちどここまでやってきたんですから。

      それに

      どうにもならないとも思ってます

      とおっしゃるなかにも、確かに

      「も」

      という留保が入っているんですから。

      つまり私は、

      たとえその結果がすぐには顕れないんだとしても、それでもずっと長い永い間願い続けてきて、何度似たような「現実」を叩きつけられようとも諦めきることはできなかったと言うのなら、その努力や想い、そして葛藤や悩み苦しみは、いずれなんらかのかたちで報われてほしいし、そもそも世界はそういうものであるべきだ(から、もし万が一そうでないなら、それは絶対に改善されないといけない)

      と、ずっとそう思っているんです。

       

      だからそんな私としては、せめて私自身の全力を尽くして、あなたにもはっきりわかるかたちで、いずれ一定の「成果」をお見せしたいと思っています。

      それにあなたが

      心から笑いたいし楽しみたい

      とおっしゃるその気持ちは、そのまま私自身の気持ち(願い)そのものなんですからね。

      だからあなたがこんな私に対して、

      望むものを望むままに掴み幸せになってください

      と思ってくださるのであれば、それと同じ気持ちをあなたにも返したうえで、

      一緒に、しあわせになりましょうね

      と、心からお伝えしたいのです。そしてそれは結局、

      これからも一緒に、毎日を生き抜いていきましょうね

      ということでもあるのですが、でもそれよりもなによりも

      そんなに飽きや退屈を感じているあなたが、それでもまだここに来て、私の文章を読み続けてくれているということが、本当にありがたいですし嬉しいです

      という気持ちを込めたものでもあります。

      ですから改めて本当に、ありがとうございます。

      そしてあなたが本当にすべてに飽ききってしまう前に、あなたの心に真の灯りや潤いを取り戻すことができますようにと、ずっと願っています。

       

      でも一方では、あなたが私のことを応援してくださっているのなら、きっとだいじょうぶだとも思うんです。

      だってあなたが私のしあわせを願うということは、たとえその自覚はないとしても、結局あなたもあなた自身のしあわせを願うことになるからです。それが、私がこの場所に託した最大の「仕掛け」のひとつなんです。

      だからよろしければこれからも、どうか私とこの場所を見守っていてください。このドラマは

      「全員参加型のリアルタイムドキュメンタリー」

      なので、その展開を完全に制御することなど誰にもできないとは最初からわかっていたのですが、いずれにせよ私は「尻すぼみ」を好むひとではありませんので、その私が構想に参画したということは、つまりいちばんの盛り上がりはこれからなんです。それにあなた(たち)の退屈や憂さを晴らすためにも、そのリズムや展開は、ある時点で一気に変わるかもしれませんから。

      どうぞ、よろしくお願いします。

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