ひとに対する態度とモノに対する態度の共通性。私も私の「身の回りの存在」と、いい関係を育んでいきたい

同じ人類(ヒト)として生きていて、同じ国に生まれ、同じ言語を遣っているとしても、私たちはそれだけでは到底わかり合えないほど複雑な存在である。

だから特に関係の始まり、あるいは初期において、

このひとは、いったいどんなひとなんだろう?

ということをどう推し量っていくかというのは、誰にとっても切実な課題だと思う。

それに私たちは、実のところ私自身のことでさえ、あるいは自分自身だからこそ、意外なほどよく知らないというのも事実だと思う。

だからこの問いは、

(今の)私は、いったいどんなひとなんだろう?

という問いに置き換えても、やはり同じように切実で、重要なものだと思う。

そしてだからこそ、こうした問いには古来からいろいろな参考意見があって、たとえば

You are what you eat

(あなたの食べものに、あなたが顕れている)

You are what you read

(あなたが読むものに、あなたが顕れている)

という考えもそのひとつだと思う。だからこの考えを実践するなら

あなたは普段、どんなものを食べていますか?(今の私は普段、どんなものを食べているだろう?)

あなたは普段、どんなものを読んでいますか?(今の私は普段、どんなものを読んでいるだろう?)

と訊いてみれば、相手の(今の自分の)人柄や精神状態を推し量ることができるというわけだ。

また他にも、

誰かのことを知りたいなら、「そのひとがどんな相手と付き合っているか」を見なさい

とか、それを少し違う角度から見て

誰かの素顔を知りたければ、「そのひとの同性の友達」に訊いてみるのがいちばんいい

などというひともいると思う。そして私自身も、このどれもがそれぞれに一理ある、重要な智慧だと思っているのだが、実は今の私には、こうした視点と同じくらいか、むしろそれ以上に重視している視点がある。それは

そのひとの核心のひとつは、「そのひとが身の回りのモノをどう選び、どう扱うか」にかなり顕れている(そのひとがひとをどう思っているか・ひとに対してどういう振る舞いをし得るのかは、「そのひとが身の回りのものにどういう接しかたをするか」に顕れる)

という視点・考えなのである。

私たちは誰にだってわざわざ嫌われたくはないし、それなりの年齢や人生経験を積んでくればなおのこと、

「ある程度のマナーや礼儀作法」

のようなものを、自然と身につけると言っていいと思う。だからその意味で

そのひとが周りのひとたちとどう付き合っているかを見るだけで、必ずしもそのひとの核心には迫れるとは限らないんだ

と、私は思う。

だがだからこそ、

そのひとがどんなモノをどう選んで買い(身の回りに置き)、それとどう付き合うのかを見ることができれば、そこにはかなり赤裸々なそのひとの心情やひととの付き合いかたが顕れている

と、私はずっと、そう思っているのである。

まずいちばんわかりやすい具体例をひとつ挙げるとすると、たとえば

「怒ったりイライラしたりしたときに、手近なモノに当たり散らす」

というひとがいる。もし私が誰かのそういう場面を見たら、そのひとが今の私に対してどれだけ親切で優しかったとしても、心のどこかではずっと警戒し続けると思う。それはつまり

いつかはこの態度や感情が、私に向けられる日も来るかもしれない……

と思うからである。

もちろんだからと言って、その1点だけを理由に突然そのひとを避けたり、一気に苦手になったりするわけではない。ただそれまで以上の「危険性」を念頭に置きながら、「ある種の覚悟」を保って、そのひとと関わっていくというだけである。

当たり前のことだが、ひとがひとを傷つけたり、極端に言えば殺したりしたら、それは「暴力」であり、「明白な罪」として糾弾される。またそれがモノであったとしても、それが「他人のモノ」であるなら、それに怒りをぶつけて傷つけたり壊したりするわけにはいかない。そしてそれも、「器物損壊罪」として裁かれることになる。そんなことは、「最低限のマナー」があるひとなら、誰でも知っていることである。

だがそれが

「自分のモノ」

に対してであれば、話はまったく変わってくる。

つまり

自分が所有しているモノをどう扱うかは、自分の自由だ

と見なされるからである。

自分が買ったモノを自分で壊したとしても、他の誰かに損害を与えたわけではない。つまりそれが壊れて困ったのなら、自分が修理するなり買いなおすなりすることにはなるだろうが、それは

自分がバカなことをしたせいで、自分自身を損させた

というだけで、その自分の他には「被害者」がいない以上、罪でもなんでもないというわけだ。

そしてこれは直接的な「モノ」に限らず、たとえば「空間」についても同じことだ。つまりこれが

「怒りに任せて自分の部屋の壁を殴って穴を空けた」

というような行為だとしても本質はまったく同じで、もしそれが「他人の部屋」であれば問題になっても、それが「自分の部屋」(自分の所有空間)であるなら、それは「自己責任」と見なされるだけだ。

しかしだからこそ、

自分の身の回りのモノに対する態度は、それ以外のあらゆる関係に対しても、将来的に応用される可能性がある

というのが、私の根本にある認識なのである。

だからあとはどんなことでも同じだ。たとえば世のなかには

モノはどうせいつか壊れるんだから、安いモノをどんどん買い替えていきたい

と思うひとと、

いいモノをできるだけ長く遣い込んでいければいいと思うし、なんなら愛するひとに受け継いでほしいとも思う。それに愛着のあるモノなら壊れても直したいと思うし、たとえ完全に壊れてしまっても、かたちだけでも残しておきたいとさえ思う

というひとがいる。そしてこの態度は本質的にひととの付き合いかたにも必ず派生し得るというのが、私の認識なのだ。

だがこう言うと、

私の生活はギリギリだから、そんな「いいモノ」を買うほどの余裕資金はないんですよ!だから安いものでなんとかやりくりしていくしかないんです!

と言うひともいるかもしれない。だがここで私が言いたいのは、

たとえ今すぐには無理だとしても、「できればいいモノを長く遣っていきたい」という想いがあるのかないのか、「たとえすべては無理だとしても、これだけはいいモノを遣いたい」という気持ちがあるかどうかに着目したい。それにここで言う「いいモノ」とは、「自分が愛着を保って、その関係を大切に育んでいけるモノ」という意味なので、それは必ずしも「高価なモノ」であるわけでもない

ということなのだ。そして実際こういう視点を保ったうえで誰か(相手)と付き合い続けたあと、最終的にこの感覚(判断基準)が大きく外れた・間違っていたと思ったことは、少なくとも今までのところ、まずなかったのだ。だからこそ私は年々、この視点を大切にしていこうという想いを、密かに強め続けていたのである。

ただこれにもちょっとした「特殊例」というか、「少しわかりにくいパターン」もある。それはつまり、

一見「モノをとても大切にして、心を込めて遣い込んでいる」ように見えても、それがそのモノの「実用性」や「利便性」を重視しているだけだった場合、それが人間関係に派生すると、「『この相手から得るものがある・このひとは私を助けてくれる』と思われているうちはいいが、そう思われなくなったら途端に冷淡になり、徐々に縁を切られる」ということになる

という事例である。だから私は誰かのこういう一面を知ったときも、内心にやはり多少の警戒心を持つのである。逆に「絵画」などの芸術作品、あるいは別にそこまで「高尚なモノ」ではなくても、

「いったいなにがそんなに面白いのか、なんのためにそこにあるのかわからないモノ」

なんかが少しでも置かれているのを見ると、私は内心、かなり安心するのである。

とはいえもちろん、ひとはみんな変わっていくし、もともと多様で深遠なものである。だから先ほども言ったとおり、私は別に誰かの「モノに対する態度」ひとつを以って、そのひとの人間性のすべてを断定するつもりはない。

また

昔はもっとモノを大切にするひとだったし、少なくともこんなふうにモノに当たり散らして壊すようなひとじゃなかったのに……

と感じたときは、

今のこのひとには、見た目以上に相当なストレスがかかっているのかもしれない……。なんとかできないだろうか……

と考えることにもなる。

それにもちろん、こうしたことは個々人だけの想いやエネルギーだけでなく

「社会全体の風潮や刷り込み、そしてもちろん、様々な存在との相互影響」

のなかで考えるべきものだと思う。だから端的に言えば、

いわゆる「大量生産・大量消費社会」を推し進めて、「すべてのモノには替えが利く」という考えに誘導したら、それが人間関係にも影響を及ぼすのは当たり前のことだ

ということなのだ。なぜ

自分のモノなら壊してもいい

と思って当たり散らせるのかと言えば、壊れてもまた同じモノ(あるいはさらなる改良品)を買うことができる(と思っている)からだ。そしてそれはひとであっても同じなんだと、つまり

このひとにも誰にでも、そしてもちろん私自身にも、「本当はいくらだって替えがある・代わりがある」んだから、つまり私たちは本質的に、みんな「消耗品」なんだ

と思い込まされることになったら、そんな社会で誰もが傷つき苦しむのは、ごく当たり前のことだと思うのである。

だが実際には、私たちはそれぞれにかけがえのない、唯一無二の存在なのである。究極的には「モノ」でさえそうなのだ(たとえば「あるパソコン」が「私のパソコン」になった瞬間から、それ(との関係性)は私にとって唯一のものとなるのだ)から、ひとがそうでないはずはない。そして本当には、私だけでなく誰もがそれをわかっていて、だからこそこんなにも苦しんでいるんだと、私はそう思うのである。

そしてもちろん、結局すべてはつながり合って、お互いに影響を及ぼし合っている。だからこそ、私も私の「周りの存在」と、なんとかできるだけいい関係を創り育んでいけたらと思っているし、それぞれがそのなかで少しでもしあわせにいられたらと、ずっとそう願っているのである。

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