即時性の功罪。時代の流れが速すぎるので、私はあなたに「手紙」を書く

インターネットが私も含めた多くのひとに普及し始めたのは、概ね2000年頃からだと言っていいと思う。そしてそこから20年ほど経った現在では、インターネット通信は文字どおりほぼ全世界を網羅するものとなった。

だから私は、たとえばあなたがイギリスにいようが、あるいはアメリカやアフリカにいようが、そうした物理的な距離とはまったく関係なく、インターネットを介して、あなたと交流することができる。それだけでも本当にすごいことなのだが、インターネットはその通信があまりにも高速であるため、現在一般に想定されるような通信速度を前提とすれば、少なくともただの文章やメールくらいならほぼ一瞬で送受信できるという、あまりにも飛び抜けた特性がある。つまり

現代の高度な通信網は、圧倒的な「高速性」を提供し、その「即時性」をさらに高めていこうとしている

ということなのである。

そしてこのような通信網が今の私たちのコミュニケーションの基礎になっていることに、もはや疑いの余地はない。逆にもしそれが全世界的に整備されている状況でなければ、TwitterやFacebookなどのSNS、それにYouTubeやNetflixなどのニューメディアが、これほどの隆盛を誇ることはなかっただろう。

しかしその力や潮流がますます強くなるにつれ、私たちはその「即時性」を内面化し、活用するようになった。それにもちろん、私もそのひとりである。

昔は手紙やはがきで何日もかけて通信していた内容が、やがて「電子メール」でやり取りされるようになったかと思いきや、今ではSNSのコメント欄やダイレクトメッセージに、その比重が移りつつあると言っていいと思う。だからその流れがさらに強まれば、そのうち

「受信トレイ/送信済みフォルダ」

というような区分すら、なんの意味も為さなくなってくると思う。というより既に、主流はそうなりつつあるのだろう。つまり

お互いが「場」を共有していることが前提であれば、発信と受信はもはや一体であり、かつてそこにあった様々な「壁」は、いずれ完全に消滅する

ということだ。そして、これほど凄まじい大転換が起こったにもかかわらず(あるいはだからこそ)、それは厳密には無料ではない(通信費がかかっている)のだが、ひとつのやり取りごとに追加料金がかかるわけではないので、体感としては「実質無料」という感覚に近づいていく。役所やコンビニなどでも「無料Wi-Fi」が整備されているのであれば、なおさらである。だからこの結果、私たちのコミュニケーションにかかる時間的・金銭的なコストは限りなく低くなったということだ。

だからこのような時代の変化は、確実に私たちのコミュニケーションを「手軽」にもした。私たちは言いたいこと・伝えたい想いを、文字どおり全世界のひとに向けて発信することができる。そしてそれを見つけたひとは、いつどこからでもそれに反応したり、返事を送ったりすることができる。そしたらもちろん、その返事が相手からのさらなる反応を引き起こすこともある。お互いにどれだけの物理的距離があろうと、それはほとんど意味を成さない。これは本当に画期的なことだと思う。

ただこのあまりの「手軽さ」は、もう一方では私たちを負の方向にも向かわせやすくした。つまり

それは賞賛や励まし・愛情や親しみだけでなく、怒りや憎しみ、侮蔑や罵倒といったものに対しても、同じように門戸を開いた

ということだ。だからやはり

あらゆる力はその遣いかたによって、善用も悪用もされ得る

のである。

そしてだからこそ、私もこのような力を自分自身がどう遣うか、よくよく考える必要があるということを、私は常々意識するようにしている。そして私はそんな自問自答の末に、とにかく現時点では

もちろん「技術の利便性」やその「即時性」も最大限に活かしたいとは思う。ただその一方で、あるいはそれ以上に、私はやはり「自分自身ともじっくりと間を置いて向き合おう。そしてもちろん相手から届いたものも、よく噛み締めながら受け取ろう」という姿勢を大切にしたい

と、そう強く思っているのである。

私の肌感覚には、今でも「手紙」が強く染みついている。そしてそれは結局のところ、幼い頃からの入院経験の多さが強く影響しているんだと思う。これはあくまで私の個人的な感覚なのだが、

「入院する」というのは、実のところ「投獄される」ことに近い部分がある

と言ってもいいのではないかと思う。入院生活では自由は制限され、面会はもちろんのこと、外部との連絡そのものに、相当な制限を受けるからだ。そしてここには

たとえ病気が原因だとしても、長いこと自由が制限され、大切なひとたちに関われないうえ、一方で自分が多くのひとの手を煩わせていて、それがいつ終わるかの見通しが立たないということになると、それはある種の「罪の意識」(原罪意識)を育むことになる

という感覚も内包されている。

だがそんな私は、だからこそ時折届く「手紙」に、言葉にならないほど励まされていたのである。それは今のネットでのやり取りのように、すぐには決して届かない。しかしそこには確かに想いが込められていて、そこに返事を書いて相手に届くまでも含めた、その「もどかしい時間差」が、自分の気持ちを確かめる時間にもなった。だから私は本当に、手紙に支えられていたのである。

そしてそんな私が今を改めて見回すと、

四六時中この速度に歩調を合わせるのは、私にはかなりしんどいなぁ……

と思わざるを得ない。そしてもうひとつ、

今はあまりにも「与えられる情報」が多すぎ速すぎて、それを「いったんじっくり吟味して、自分ともしっかり向き合って、想いを込めて送る」ということが、かなり難しくなっている

という自覚・危機感が、私にはずっと強くある。しかし一方では、

私が今こうしてここからあなたと交流できるのも、現代技術があってこそだ

ということも、私は当然理解している。だからそのすべてを踏まえたうえで、そこに

「私なりの着地点」

を見出そうとした結果、今の私は

あなたに「手紙」を書く・書き残すつもりで、ひとつひとつの文章を書いていこう

と、そう思っているのである。

だから今までいろいろな紆余曲折を経て、私は今この『闇の向こう側』に、基本的に1週間に1度の頻度で新しい文章を公開している。そしてこれはメールでのやり取りでも同じだ。つまり私はあなたからメールをもらってからそれに返信するまでの1週間の間に、何度も何度もそのメールを読み返す。じっくり黙読したり、音読したりしながら、自分になにが言えるか、できるかを考えようと思っている。

そしていったんざっと返信を書いたら、それをひと晩寝かしてから読み返したり、その結果手直ししたものをまた数日寝かしたりしたうえで、あなたに送るようにしているのである。そしてこれは言い換えると

もし「これを手書きして、便箋に詰めて糊付けして、切手を買って貼って、ポストを探して投函する」という手間がかかるとしても、そしてそれが「相手が捨てない限り、基本的にずっと残り続ける」んだとしても、それでも私は、あなたにこれを送りたいと思うだろうか?

ということを、私なりにずっと考え続けているということなのである。

ただ、特に公開コメントについては、

メールと違いそれが確実に送信できたかをあなたに判断していただくのが難しい(送信済みフォルダに残るわけではない)

こと、そして

同じ文章に対して、同じような疑問や感想を持つひとがたくさんいるかもしれない

ことなどの理由から、メールよりは早く(概ね数日以内に)返信・公開するようにしています。

ですがそれでも、だからこそどういう返信を書けばいいかは、いつも私なりによくよく考えてから送るようにしています。

ただいずれにせよ、こんな場所にいるこんな私が、これだけたくさんのメールやコメントをいただけるようになるとは、開設当初にはまったく思っていませんでした。おかげさまでこの『闇の向こう側』は、想像以上に味わい深い場所に育ったと思います。それにもちろん私自身も、あなたにどれだけ助けられているかは、言葉で表しきれません。いつも本当に、ありがとうございます。

ただ先ほども言ったとおり、現代社会の流れを見る限り、そう遠くないうちにこうした「電子メール」のやり取りでさえ、遠からず「旧時代的なもの」となるだろう。というか、もう既にそうなりつつあるとも思う。

だからもちろん、ときと場合によっては私もそこに合わせなければいけないだろうとも思ってはいるのだが、私が本当の意味で「自分らしさ」を表現しようと思ったら、今の私にはこの「電子メール」がギリギリのラインなのである。そして私は本当には、あなたに手紙を送りたいのだ。だから私はここで、私なりの手紙を、書き残し続けているのである。

戦後から何十年もかけて進歩発展した

「物流」

のシステムを、インターネットの発展は一気に「別次元」へと押し上げた。このまま行けば

3Dプリンターなどの発展で、「製作者が送ったデータを、受信者がその場で制作する」のが当たり前になって、「現物を送る必要」自体がなくなる

ということも、充分にあり得るのかもしれない。それにそうなったらそうなったで、私だってその「恩恵」を受けることになるし、それをむやみに拒絶すればいいという話でもないことは、よくわかっているのだ。

ただそれでも私は一方で、確かに

「旧時代的なもの」

を愛してもいる。というか私はいつでも、

「すべてがこのままでいい」わけではないのと同じくらい、「なにもかもを変えればいい・変えなければいけない」わけではない。だから私は、「過去と未来のいいとこ取り」をしたいんだ

と、そう思っている。

そしてそれは、私が

どんなに世界が高速化したとしても、だからこそ「待つことの大切さや必要性」を、忘れてはいけないんだ

ということを、強く確信しているからでもあるのだ。

「手紙将棋」とか「押し花付きの手紙」なんてものがどんなに遠く離れてしまっても、私はそれを憶えている。あれが私に「待つことの意味」を教えてくれたから、私はどうにかここまで生きて来られたのである。

それに私は今でも、ときどきすべてを諦めそうになったり、投げ出しそうになったりすることもあるのだ。だから私はまだまだ、待つことを学ぶ必要がある。根気よくやらないと、根を張ることはないのだ。そしてなにより、愛は手間暇そのものなのだから。

だから私はこの時間をかけて、より深い心を育もう。そしてそのすべてを込めて、あなたに送り続けよう。この世界は、時間差の世界である。でもそれはなにかの罰でも、拷問でもない。それは

「お互いの想いを確かめながら、味わいを深める期間」

なのだ。病室で泣いていたときから、私は本当にはそんなに変わってないんだけれど、でもだからこそ今の私もまだこれを、ずっと信じ続けているのである。

Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2021 Dilettante

コメントをどうぞ (名前・アドレス・サイトの記入は任意です)

タイトルとURLをコピーしました