与えるしあわせを与えるしあわせ。「受け取る」ことと「与える」ことは、まさに表裏一体で深化していく

私は「受け取る」ことが苦手なんです

というひとはけっこういる。それに私自身も、どちらかと言えばそのひとりだと思う。そしてこれは別に

「(物質的な)贈りもの」

に限ったことではなく、そこには

「精神的安らぎや喜び、褒め言葉や称賛……」

など、多くのものが含まれている。たとえば私も実際に、

友達と楽しく会話して別れたあとで、「自分なんかがあんなに笑っていいわけがない」というような思いに駆られて、かえってひどく落ち込んでしまうんです

という話を聴いたことがあるが、こうしたことももちろん

「受け取り下手」

の一例である。そしてそういうひとも、意外に多くいるものなのである。

とはいえもちろん、

「与えること」

もとても難しいことだ。

これは「一方的な押し付け」ではないのか?

これは本当に、相手に喜んでもらえるものなのか?

相手は本当はこんなものなんて望んでいないのに、無理に気を遣わせて疲れさせるんじゃないのか?

など、そうした懸念を細かく考えていけばキリがない。

だが一方で、

「受け取る」

場合にも

相手には本当に感謝しているんだけど、その気持ちは充分に伝えられているだろうか?

ここまでしてもらったからにはなにかお返しをしなきゃいけないだろうし、相手も実はそれを期待しているんじゃないか?だとしたら急がないと、とても無礼で恩知らずなひとだと思われてしまう……

私はこういうことにすごく気疲れしてしまうし、そもそも自分のものは自分で選びたい気持ちが強いんだけど、「ありがとうございます。でももうこんな気遣いは要らないですから」なんて言ってしまったら、それを「自分自身への攻撃や拒絶」だと捉えられて、かえって関係を悪くするかもしれない……

というような不安・懸念があって、これもこれでやはりキリがない。

だから結局は

「与える」のも「受け取る」のも、間違いなく同じくらい難しい。ただそのうえで「どちらのほうが得意か/不得意か」が、ひとによって違う

ということなのだと思う。だからまずはそれを大前提に据えたうえで、今回は

「『個人的には与えることより受け取ることのほうがずっと不得意な私』が、同じような状態のあなたと共有する、ささやかな研究報告(参考資料)」

を、ここに置いておこうと思う。

だからもちろん、ひと口に

「受け取り下手」

と言っても、実のところそこにも様々な違いや多様性があるので、その全員にぴったりと当てはまるほどの

「明快な解決策・万能薬」

を提示することはできない。ただそれでも私の見るところ

受け取ることが苦手なひとは、一方で「与えること」はわりと得意なことも多い

ということは言えそうな気がする。というのも、受け取り下手なひとは

自分には、こんなものはふさわしくない

と思っているだけで、

「それに価値がある」

ということ自体を否定しているわけではないからだ。だから

こんないいものは私の手には負えないけれど、もっとこれにふさわしいひとがたくさんいるのは知っている。だから私なんかが持つくらいなら、いくらでも周りのひとにあげたい

というような想いが強いのであれば、そのひとは自然と「与えること」に意識を向けることが多くなるというわけだ。

あるいはもちろんこれに限らず、たとえば

困っているひと・助けを求めているひとを見つけたら、たとえ少しではあっても、「自分があげられるなにか」を探して、それを与えずにはいられない

という想いの結果であっても、与えることに意識を向けることは多くなるだろう。そしてたとえその根底に

「多少の卑屈さや焦燥感」

のようなものがあるにしても、それでもやはり与えることには、確かな「しあわせ」がある。もちろんそこに苦悩や葛藤があることも事実だとしても、それでもやはり、与えることはしあわせなことなのである。逆に言えば、

そこに確かな価値やしあわせがあることを知っているからこそ、どんな苦労や葛藤があっても、結局はそれを続けることができるんだ

ということなのだと、私は思うのだ。

だからもし、あなたが

「受け取り下手」ではあっても、だからこそ「与えるしあわせ」なら知っている

と言うのなら、私はそんなあなたに、ひとつの「発想の転換」に挑んでほしいと思うのだ。それはつまり、

自分が「受け取る」というのは、実は相手に「『与えるしあわせ』を与える」ことと同じなんだ

ということなのである。

「与えるしあわせ」を知るためには、与えることを学び、実践し続けなければいけない。だがもし誰にも受け取ってもらえなければ、そのひとはいつまで経ってもその経験を積むことができないのである。

だから、「先に与えるしあわせ」を知ったあなたが、今度は周りの誰かに、「そのしあわせを味わう機会」を与えてあげればいい。それはつまり、

「相手から受け取ってあげる」

ということだ。だからあなたも、喜んで受け取ればいい。それは本当には、「与えることの一環」なのだから。

しかしその話の真髄は、本当はさらに「この先」にある。つまりもし私がこんなふうに

受け取ることは「与えるしあわせを与える」ことなのだから、あなたも遠慮なく喜んで受け取ってあげたらいいんですよ

と言ったことに対して、

それじゃあ結局「自分のために相手を利用している」ようで気が引けます……

なんて感じてしまうとしても、そんなところで話は終わらないのである。なぜなら、ここまでの理解を踏まえて、それをさらに突き詰めていくと、

「なにかを与える」ということは、相手に「『与えるしあわせを与えるしあわせ』を与える」ということだ

とも言えることになるからだ。するとここまで来ればおわかりのように、この流れは実際には「終わり」がなく、

「与えるしあわせを与えるしあわせを与えるしあわせを与えるしあわせ……」

というように、

「お互いを包み込みながら無限に深化する」

ということがわかる。つまり

結局すべてはつながって深化していくのだから、その「どちらの入口」から入るかは実はどうでもよく、それより本当に大切なのは「その流れに乗ること・その流れを起こすこと」なんだ

ということなのである。

「与える」

ということが成立するためには、

「『与え手』(贈り手)と『受け手』(貰い手)」

の両方が必要だ。だからこれを

それが「与え手」であれ「受け手」であれ、その両方が本質的に「与える」という行為・関係性に基盤を与えている

ということはできる。そしていったんその関係・流れが成立すると、そこでは本質的に、

「お互いがお互いからなにかを受け取ることになる」

のである。

だから、個人的にはこれこそが本当の「朗報」だと思うのだが

私たちは別に、「無理をして苦手なことをやる」必要はなく、「自分が得意なほうから始める」だけで、結局は無限深化(終わりなき成長としあわせ)のなかに身を置くことになる

ということなのだ。だからあとは、「自分にとってラクな考えかた」をするだけでいい。もしあなたが

私は与えることは得意なのに、受け取ることはどうしても苦手で……

と思うのであれば、

私が「受け取る」ということは、相手に「『与えるしあわせ』を与える」ということなんだ

と思えばいいし、逆にもしあなたが

受け取れるものならいくらでも受け取りたいけど、その代わりに誰かに与えるなんてとてもできないよ……

と思うのであれば、

私が「与える」ことで、私は「『与えるしあわせ』を受け取る」ことになるんだ

と思えばいいということなのだから。

とはいえもちろん、これは特に最初ほど難しいし、私だって上手というにはまだほど遠い。だがそれでも、やっていけば少しずつでも慣れていくし、そこで経験を積めば積むほど、だんだんと身についてくるものなのだ。だから、あなたがやろうと思いさえすれば、それが遅すぎるということはない。それは、私も保証しよう。

だって「こんなに出来の悪い(成長の遅い)私」ですら、並以上の時間をかければ少なくともここまでは来られたのだから。だからあなたが今からやれば、あなたはきっと想像以上に遠くまで行ける。それは、間違いないのである。

そのうえで、もしあなたが

私は与えるのも受け取るのも、どっちも苦手なんですよ!

と言うのであれば、それに対しては先ほども言ったように

それでも「強いて言うなら少しは気乗りするほう」からでいいので、気が向いたらやってみてください

とお伝えしたいと思う。

ただそれとは別に、もしあなたが

私はずっと「受け取りたい受け取りたい」と思っているのに、実際にはなにも与えられないし、ずっと苦しいんですよ!

と言うのであれば、その場合にはひとつの可能性、つまり

もしかしたらあなたは自分に与えられたものを、「こんなものは要らない!」と突き返していたりはしませんか?

という問いについて、一緒に検討することができたらと思う。そしてもし、あなたが

自分は「受け取りたい」と思っていたつもりだったけど、実は「相手からのプレゼントを拒絶していた」んだ。つまり自分は本当には、「まだ受け取る気がなかった」んだ

ということに納得できたのなら、それで話は大きく前進できるから。つまりこれは

与えるのに「覚悟」が必要なのと同じように、受け取るのにも「覚悟」が必要なんだ

ということなのである。

ただ私は別に、あなたが

こんなものは要らない!

と、与えられたものを断固として拒絶することを、頭ごなしに全否定しているわけでもない。だからこそ実際私は前にも

という文章を書いたくらいなのだ。つまり私は

一方で今は確かに「欲しがらされる」(誰かの欲求を刷り込まれる・自分の欲求を誘導される)ということも多い。だからそんなもので視界を塞がれている間に「あなたが本当に欲しいもの」を見落とすくらいだったら、あなたはちゃんと眼を見開いて辺りを見ると同時に、「いずれ欲しいものが来たときに、それを受け容れる余白・スペース」を空けておいたほうがいい

ということも、ちゃんと知っているのである。そしてもしそういうことなら、あなたにはむしろ

じゃあそんなあなたの場合は、今までのように「受け取ること」に意識を向ける代わりに、「『自分には必要ないけど、他のひとには価値があるもの』を、欲しいひとに与えること」に意識を向けたほうがいいんじゃないですか?

と言いたいのだ。つまり私が言っているのは、

あなたがどこの誰であれ、「自分が本当に願っていることはなんなのか?」を、ぜひよくよく見つめ続けていってほしい

ということなのだ。そしてもちろん私自身も、ずっとそうしたいと思っているのである。

そして今までの話をすべて踏まえて、私には最後にもうひとつだけ、ここで一緒に考えておきたいことがある。つまり先ほど私は、

「与える」ということが成立するためには、「与え手」(贈り手)と「受け手」(貰い手)の両方が必要だ

と言ったし、それは確かにそうだと思っているのだが、もしあなたが

そう言われても今の私にはどうしても、自分と対になる受け手/与え手が見つからないんです

と言うのなら、

その場合には「この世界・神」そのものを相手にしてもいいです

ということをお伝えしたいと思う。つまり

「世界・神」こそが最古最大の与え手であり、同時に最古最大の受け手でもある

ということなのだ。そして

だからこそ、「世界・神」はこんなにも豊かで、圧倒的で、深遠な存在で在り続けているんだ

と、私は理解しているのである。だからこれを以って、とりあえず今回の研究報告(参考資料)を書き終えようと思う。だからやっぱり、すべてはつながっているのだ。だから私たちは自分を知り、他者を知り、そしてどこまでも自分の願いにひたむきに自分らしく育っていけば、きっとそれでいいのだ。結局のところ今の私の結論は、いつもそこに行き着くことになるのである。

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