愛することが「心を開く」ことなのだとしたら、それは私たちになにをもたらすだろうか?

愛というのは本当に深遠で、いくら考えてみてもはっきりとした

「答え」

が出ることはないように思える。だがだからこそ世界はこんなにも豊かであるとも言えるのでそれはいいことだとも思うのだが、私も最近改めて、愛について考え続けていた。

するとその思索のなかで、私はひとつ、今の自分にとってかなり腑に落ちる解釈を見出すことができた。それは、

「愛する」ということは、「心を開く」ということなのではないか?

という解釈である。しかしもしこの考えを突き詰めていったら、そこから私はいったい、なにを言うことができるのだろうか?

それを考えていくためには、

まずそもそも、「心を開く」とはどういうことなのか?

を考えていく必要があるだろう。するともちろん、この問いにも様々な答えがあり得ると思うが、この問いをほんの少し変形させて、

なにかに対して心を開いたら、そこではいったいなにが起きるだろうか?

と言い換えてみると、さらにとっつきやすくなるような気もする。

そして私はこの問いに対して、

心を開いたら、相手に対して自分が流れ出していく。つまり「私」と「あなた」との境界が曖昧になり、相手の影響力がどんどん強くなっていくんだ

という答えを示したいと思う。つまりこれが今の私の基礎にある理解であり、態度なのだ。だから私はまずここから、私なりの考えをあなたとも共有してみたいと思うのである。

ただこうした観点から見るならなおさら、

「心を開く」、そして今回の文脈で言う「愛する」ことは、決してただ単純に「自分にとっていいものだけをもたらす」わけではない。それはつまり「相手の影響力を受け容れる・相手に対してあらゆる意味で『無防備』に近づいていく」ということなんだ

ということがわかってくると思う。そしてこれこそがまさに

「愛の厄介さ・愛を求めながらも一方では遠ざけたくもなる、どうしようもないほどの葛藤や苦悩」

の核心のひとつなのだと、私は思うのである。

たとえばこの世界には、自分を否定してくるひとや蔑んでくるひと、さらには取り付く島もないほど一方的に罵倒してくるひとさえもたくさんいる。もちろんそれはつらいことではあるのだが、私たちはよくも悪くもそれに「順応」し、

まぁ、そういうこともある。それに誰にでも特に機嫌が悪い日もあるわけだから、しかたがないことだよね

などと考えることもできるようになると思う。

だがもしその相手が「ただのひと」ではなく

「愛するひと」

だった場合は、話は一変する。その影響力は文字どおり計り知れないもので、それこそ「普通の相手」の数万倍、それどころか数億倍のダメージを受けることもざらにある。それが、

「相手に対して心を開く(無防備に近づいていく)」

ことの意味なのである。

だから私は以前

と言ったが、これを今回の文脈に合わせて裏返せば

私が相手を愛すれば愛するほど、私がその相手から受ける傷も多く深くなる

と言っているのと同じことなのだ。相手に自分をさらけ出し、相手と自分の境界線を曖昧にしていけばいくほど、相手の影響を自分のなかに深く取り込もうとすればするほど、相手は文字どおり「自分の根底を揺さぶる」力を持つようになる。だからこそそれは単純素朴に喜んでいられるほど、生易しいものではないのである。

ただここで重要なことは、

その相手を愛する(その相手に心を開く)と決めて実践したのはあくまでも自分自身なのだから、その結果相手からどんなに大きなダメージを受けることになっても、それを「相手のせい」にするのは本質的に筋違いなんだ

ということだ。つまり、もし私が誰かに対して心を開き、限りなく無防備になっていった結果として、「相手から傷つけられた」と感じ、

私はこんなに愛しているのに!

などと言って相手を責めたとしたら、それはやはり間違いなのだ。もしそれを避けたかったのなら、そもそも私は最初から、その相手を愛するべきではなかったのだから。言い換えればもし私がそんなことを言うのであれば、私は「愛する」ということの意味をまだちっとも知らなかったということなのである。

だからその

「愛の恐ろしさ」

に直面したとき、私たちはふたつの相反する道を突きつけられる。それは

それでも愛するか、それとも愛することをやめるか?(それでも愛に近づきたいか、それとも背を向けて遠ざかる道を選ぶか?)

という問いである。これはさらに言い換えれば

それでもなお心を開くか、それともすべてに対して、心を閉ざす道を選ぶか?

という問いだとも言える。そしてこれは実際には、私だけでなくどんな存在にも突きつけられている「究極の問い」のひとつなのだろうと、私はそう思うのである。

心を開くことは恐ろしい。愛することは恐ろしいことだ。このことを知らずに生きていくことは、ほとんど不可能だろうと思う。そしてだからこそ、この問いにどんな答えを出すかは、文字どおりそのひとのすべてを左右することになる。だから私はその意味で、

どんな「筋金入りの負の霊」だろうが「凶悪な悪魔」だろうが、彼らでさえ「愛がいかに強力なものか」はよく知っているはずだ

と思っているのだ。愛がいかに強いものかを知っていなければ、あれほど躍起になってそれを否定する理由がない。私たちは本当になにも知らないものには、態度の決めようがないはずなのだ。だからおそらく彼らもいちどくらいは、なにかに心を開いたことがあるのではないかと思う。そして彼らは愛に傷つけられ、心のなかをどうしようもなくかき乱されたからこそ、その反動で今度は全力を以ってその

「有害物質」

を排除しようとした。だからこそ彼らはあれだけの攻撃性を保ち続けられるのだろうと私は思うのだ。逆にもしそうでないなら、それは単なる

「受け売り・刷り込み・洗脳……」

でしかないのだから、結局はそれほどの脅威にはなり得ないだろう。

「自分が本当に納得していること」(自分が強い信念を保っていること)

でなければ、いつかは必ず壊れるのだから。だから私は

本当に上位の悪魔には、愛の概念がない。だから彼らを愛や慈しみで導くことは絶対に無理で、「力で制圧する」以外に道はない

という考えには与しない。

もし本当に愛を知らないなら、あれほどの力を保てるはずがない。だから彼らは「愛を知らない」のではなく、「愛を知ったうえで、だからこそ全力でそれを否定している」んだ

と思っているからだ。つまり私たちは本当は、愛があること自体は知っている。そしてそれが本当に強く、どうしようもないほどに圧倒的なものであることも知っているのだと思う。ただそのうえで

じゃあその愛は本当に「素晴らしいもの」なのか?それともそれは「全力で抗うべき、最悪の凶器」なのか?

というところで意見が分かれているということ、これが本当の実態なのではないかと、私はずっと、そう思っているのである。

そして正直に言うと、私はまだこの問いに対して、

「最終回答」

を決めてはいない。だから私は実際、負の霊の言い分も理解できるし、少なくとも部分的には、共感してもいるのである。

だがそれでも私は、心を開きたいと思う。愛したいと思うし、愛を身に宿していきたいと思う。愛することはときとして苦しい。愛すれば愛するほど、相手に傷つけられることも増える。それにその相手を失ったときの哀しみは凄まじく大きなものになる。

この世界では、毎日どこかで誰かが死んでいる

というのは、誰だって知っている。でもだからと言って、それにいちいち深く傷ついたり、立ち直れないほど苦しんだりはしないだろう。だって私は本当には、そのひとのことを知らないのだから。

だがそれと

今日、あなたが死んでしまった

ということはまったく別の話である。もちろんこれだって世間一般から見れば

「数あるうちのひとり」

であることは明らかだ。だが私にとっては、それは

「他でもないあなた」

なのである。だって私はあなたを愛しているし、私はあなたに心を開き、それを自分の一部として、生きてきたのだから。そしてこの選択こそが愛なのだ。だからやはりこれは、単純に素晴らしいと言えるものではないと、私は思う。つまり

愛することが心を開くことだとするなら、それは本質的に「賭け」であり、「やってみなければ結果はわからない、最大のリスクに飛び込むこと」なんだ

というのが、私の立場なのである。

だからそんな私としては、今回改めてそれに気づいてしまったからなおのこと、あなたにも安易にそんな「危険なこと」を勧めようとは思わない。だってそこからなにが飛び出してくるかは、誰にもわからないのだから。愛は、「計算」や「駆け引き」をはるか彼方に押し流す。どんなに「時間」や「労力」をかけても、それを意にも介さずに飛び越える。だからその意味で

愛すること・心を開くことは、ほとんどの場合「損」に見える

のである。おそらくこれはもう間違いないことだろうと私は思う。だからこんなことは、基本的には、軽々しく勧められるものではないのである。

しかしこんなことを言いながら、一方で私自身はやはり愛することを求め続けていて、暗に「その道の味わい」を示唆してもいると思う。だからこのなんとも言いようのない微妙さのうえに、私はずっと立っているのだ。そして少なくとも今の私は、

たとえそれがなんであれ、「愛したからこそ見える景色」がある

ということを知っている。だからそれは決して、

「無駄」

ではあり得ないのだ。だって

相手をいちばん深く愛したひとが、誰より深く相手のことを理解できる

と思っているから。だから愛には、それだけの価値がある。私は、そう思っているのである。

そしてだからこそもうひとつ大切なことは、

相手を愛し、相手に心を開けば開くほど、そこからは多くの葛藤や苦悩も生まれるだろう。だがだからこそ決して、その苦悩や傷によって自分を腐らせてはいけない。だってそんなことをしたら、それは「自分が愛したひとへの攻撃」であり、「最大の呪詛」にもなってしまうから

ということだと思う。愛は、あくまでも自分自身の選択と決意によって実践することだ。しかしそうは言っても相手がいつか

私を愛したことで、どこまでも愛し続けたことで、あのひとはあんなに傷ついて、壊れてしまったんだ……

と自分を責めるようなことになったら、それは最悪である。それはあなたが愛したそのひとを、苦しめ続けることになるのだから。

だからその意味で

いったん愛することを決めたからには、私たちは是が非でも「愛に殺される」わけにはいかないんだ

と、そう思うのである。

愛はあまりに強烈で、だからこそ

あんなものはなんとしても、この世界から消滅させる!

と躍起になるひともたくさん生み出してきた。

だがそうしたことも理解し、確かに多少の共感を覚えつつも、それでもなお愛を選ぶのであれば、私たちはなんとしても、そこで生き残らなければいけない。

「あなたを愛せる自分にしてもらえたこと」

を否定したら、あなたを否定することになるから。

あなたへの愛は私の破滅を以って幕を閉じた

なんて、そんな結末を見せるわけにはいかないから。

だから私はなんとしても、最期まで生き抜こうと思う。その覚悟があったからこそ、私はここにいるのだから。そして覚悟はなんらかのかたちで、必ず私を成長させてくれるのだから。だから私は「愛の危険性」を知ってなお、そこから身を退こうとは思わない。だって心を閉ざしても、枯れて萎びるだけなんだから。だから私はあなたがくれるすべてのものを、なんとしても糧にしよう。そしてもっともっと、深くしなやかなひとになろう。誰がなんと言おうと、それが今の私の立場なのだ。そしてこう思わせてくれたのも結局はあなたのおかげだと知っているから、私はやはりこの道を、諦めようとは思わないのである。

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  1. だれか より:

    心を開く事が愛、、、

    愛には色々な側面がありますね。
    人それぞれの感じ方や捉え方があり、その時々で色んな形を取るけれど、
    万物を司る宇宙の摂理が究極の愛(神?)だとして
    善悪正誤尊卑優劣、、、全ての判断を一切せずに、その存在そのものをありのままに受けとめ愛おしく思う、または赦し、尊ぶ、という事が高次の愛なのかな?とぼんやりと捉えていましたが、心を開くと言う事は、その一つの具体的な現れなのかな?と思いました。

    話は逸れますが
    肉体を生かすためにその役割を果たしてきたのが本能で、思考によってそれが肥大化したのがエゴだとするならば
    今の世の中は、愛よりエゴが主導権を握って暴走し、結果肉体を生かして繁栄させると言う本来の目的から逸脱して滅びの方向に向かうと言う皮肉な逆転現象が起こっています。

    もしエゴが、「愛」と言う摂理から生まれたものであるのなら、成長する中でその性質上、圧倒的な力を持つ愛を怖れ、自分が優位に立つために排除したくなるのは自然な事なのかも知れない、と考えると、わからなくもない気もします。

    でも、エゴがその役割を果たそうと躍起になればなるほどに、私の心は辛く、苦しみに満ちてしまいます。
    辛く感じるのは、エゴではなく愛が本質だからなのでしょうか、、、?

    エゴではなく、愛による思考や行動を選ぶ事ができる様になったら、、、つまり、本質と同調出来る様になったらもう少し心が軽くなるのかなあと思っていましたが、
    Dilettanteさんの様に、何があっても愛する事を選ぶ、と強い覚悟を決めてもなお苦しみは続くんですね。

    心を開いて垣根が低くなるほどに
    理解が深まるほどに
    自分だけでなく他者の喜びや苦しみに深く思いを致す様になり、影響を受けやすくなって、自他の境界線が薄れ 味わう喜びや苦しみが一層深まっていく、、、と言うことなのでしょうか。

    本当に果てしない道のりですね。

    • Dilettante Dilettante より:

      だれかさん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      肉体を生かすためにその役割を果たしてきたのが本能で、思考によってそれが肥大化したのがエゴだとするならば
      今の世の中は、愛よりエゴが主導権を握って暴走し、結果肉体を生かして繁栄させると言う本来の目的から逸脱して滅びの方向に向かうと言う皮肉な逆転現象が起こっています。

      エゴがその役割を果たそうと躍起になればなるほどに、私の心は辛く、苦しみに満ちてしまいます。
      辛く感じるのは、エゴではなく愛が本質だからなのでしょうか、、、?

      そうですね、こうした問いに対する考えは当然たくさんあると思うのですが、私としては

      そもそも「肉体こそがすべて」(霊的なもの・肉体的な感覚で捉えられないものを排除した唯物主義)という考えが大きな病みを生み出しているんじゃないか?

      と思うんですよね。というのも、あなたはいわゆる「エゴ」について、

      肉体を生かして繁栄させる

      ためにあるのではないかという仮説を立てているわけですが、もしそれを別の観点、つまり

      エゴの本来の目的は、肉体(だけ)ではなく魂を活かして繁栄(深化)させることにあるのではないか?

      という仮説によって組み立てなおすとすれば、そこから

      エゴのすべてが悪い(劣っている)のではなくて、大切なのは「それをどう遣うか」なんだ。そして本来は、エゴと愛も調和的に共存し得るもの(同じ目的のためのアプローチが違うだけ)なんだ

      と言うこともできるはずだと、私は思うんです。

      そしてそうした観点で見れば、

      本質と同調出来る様になったらもう少し心が軽くなるのかなあ

      というあなたの直感も決して間違ってはいないんだろうと思うんですよね。

       

      そのうえで、

      Dilettanteさんの様に、何があっても愛する事を選ぶ、と強い覚悟を決めてもなお苦しみは続くんですね

      というところについては、私の愛しかた(愛情表現)が間違っているというか、まだまだ未熟であることに問題がある可能性にも充分に注意していただきたいと思うのですが、一方では

      心を開いて垣根が低くなるほどに
      理解が深まるほどに
      自分だけでなく他者の喜びや苦しみに深く思いを致す様になり、影響を受けやすくなって、自他の境界線が薄れ 味わう喜びや苦しみが一層深まっていく

      というのもやはり事実だとは思うので、結局はあなたがおっしゃるとおり

      本当に果てしない道のり

      だということなんでしょうね。

      でもそもそも私たち自身が永遠の存在であるのなら、その目的(道)も果てしないものでなければ退屈するというか、力や時間を持て余してしまうことになるとも思いますから、その意味ではやはり、これでちょうどいいというか、いちばんふさわしいんだろうなとも思います。

      そしてだからこそ、私も私なりにずっと試行錯誤を続けていこうと思いますし、あなたとも励まし合い支え合いながら進んでいければ、とてもありがたく嬉しく思います。

      どうぞよろしくお願いします。

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