期待値(平均値)への収束。短期的な「ブレ」に惑わされず、自分を育み成長させる

現代人が1日で触れる情報量は、平安時代人の一生ぶん、江戸時代人の1年ぶんに匹敵する

という話がある。もちろんこの計算に具体的な根拠を求めてもしかたがないのだろうが、とにかく大まかなイメージ・方向性としては納得できる気がするし、現代が情報社会であることは、もはや誰の眼にも明らかだろうと思う。

そんななかで、現代の社会においては、そんな

「ビッグデータ」(大量の情報群)

を扱うために、様々な「情報インフラ」を整備することはもちろん、いわゆる「人工知能」(AI)を開発したり、「データサイエンティスト」を育成したりして、それを最大限に活用する道が模索されている。

こうした流れについては、たとえば

といったページを見ればより詳しくわかると思うし、最近の具体例を挙げれば

だってもちろんその一環だと言えるだろう。またさらに少し違った観点から言えば、これは日本政府自体が大々的に

といった目標を公表していることからも明らかだと思う。

だから現代社会で

大量の情報をどう受け止め、どう活かし、どう社会に反映させていくか?

ということが大きな肝だと見なされているのはもう間違いないと思うのだが、それはもう一方ではやはり、

「自分たちの未来・人生はどうなるのか」を知りたい

という想いの顕れでもあるのだろうと、私は思うのである。

だが私たちがどれほど大量の情報を集め、どんなに緻密な予測をしたとしても、未来を完全に見通すことはできない。だから、

未来がどうなるかなんて誰にもわからないんだから、どんな予測も結局は暇潰し以上のものではない

と考えるのもそれはそれで一理はあると思う。

だが一方で、

ではあらゆる予測は完全に的外れで、実際にはまったく実現していないのか?それは本当に、まったくの無意味なのか?

と言えば、そうでもないだろうと思うのだ。だから未来は本当に、面白いのである。

ただこんなことを言っている私は、いわゆる「統計学」どころか「数学」についてさえまったく適性がない人間であり、そもそも数字やアルファベットの羅列を見ているだけで集中力が削がれていくくらいなので、こうした「データ処理」に関しては、まったくの門外漢である。

だがそんな私でも、多少のことはわかる。そう、たとえば「基本的な確率論」、言い換えれば

「期待値」(平均値)

の話くらいなら、である。

なんの細工もされていない普通のコインを投げて、表が出る確率と裏が出る確率は、ともに50%(2分の1)だ。しかし実際にやってみると、2回連続で表が出たり、逆に3回連続で裏が出るくらいなら、そう珍しくもないことがわかる。さらに言えば、これが4回、あるいは5回続くことだって、起こるときには起こるのである。

とはいえ、もしこれが10回連続とか、あるいは20回連続ということになったら、普通に考えてそれは相当に珍しく思えるだろう。だがだからと言って、

10回も連続して裏が出たんだから、次こそは表が出るだろう

と考えるのは早計だし、それは別に20回連続の後であろうと同じだ。これは

「ギャンブラーの誤謬」

と呼ばれる心理現象(思い込み)であり、端的に言うと

それまでにコインを何回投げてどんな結果が出ていようと、それぞれの試行自体は「独立した事象」であるから、次の確率もそれまでと変わらない

ということなのである。

だから私たちはどこまで行っても、

「次にどちらの面が出るか」

を完全に見通すことはできないというわけだ。

だがそれはそれとして、もしその後も100回1000回、あるいは1万回10万回と、どこまでも試行回数を増やしていったらどうなるだろう?

するとそこで表と裏が出る回数は限りなく同じ数、つまり2分の1に近づいていく。だからこれを

「期待値」(平均値)

と呼ぶことができるのだ。そしてこれはもちろんコインを投げた場合に限らず、たとえば

サイコロを振って1の目が出る確率は6分の1だ

というのも、まったく同じことである。つまりこれは

短期的な未来には「不安定な要素」が大きいとしても、一方で「長期的にどこに向かっているか、その大まかな方向性を示す」ことであれば、意外とできることもある

ということなのだ。だからこそ、先に触れた「ビッグデータ解析」や「データサイエンス」にも、やはりそれなりの有用性や意義があると私は思う。

そして私は実のところ、

これは私たちの人生や未来についても、まったく同じことが言えるのではないか?

と、そう思っているのである。

たとえば私は明日自分がどうなるかを知らない。それどころか、1秒後にどうなるのかさえ完全にはわからない。だがだからと言って、「まったくなにもわからず、なんの予測も立たない」のかと言えば、そんなことはないだろう。つまり私には

「今まで積み重ねてきた実績」(=過去)

があるということだ。そしてそこにはクセがあり、流れがあり、傾向がある。私の日々は、コインやルーレットのような、過去から独立したものではないのだ。だからこそ、

今までの感じから言えば、おそらくこうなる(可能性が高い)だろうな

と言うことくらいは、そう難しいことでもない。それにこれは別に自分自身に対してだけではなく、誰(他者)に対しても言えることだ。だから私たちは、それぞれに

「絶対ではないが、ぼんやりとした予測」

を立てることくらいは、いつだってできるということなのである。

また、私たちは今はこうして生きているわけだが、だからと言って

私は今まで1日1日、何十年も死なずに生きてこられたのだから、この経験(データ)から見て、私は今後も死ぬことはないのだろう

という予測を立てたとしたら、それはまったくの的外れである。これは「データの解釈」が根本的に間違っていて、本当には

私は今まで1日1日、何十年も時間を遣ってきたのだから、いずれその「期限」(限界)を超えたときには、私は死ぬ(肉体を離れる)ことになるのだろう

と思うべきなのである。つまり

私がいつ死ぬかはわからないが、私は「いつかは」死ぬことになる

ということだ。だからこれも

「長期的な未来予測の妥当性」

についての、1つの例である。これを先ほどのコインやサイコロになぞらえて言えば、

私が死ぬ確率は、1分の1(100%)だ

ということだ。

そしてこうしたことは別に

「死」

ほどに極端な例に限らず、実際にいろいろなことについても応用できると、私はそう思うのである。

たとえば

「怒りっぽいひと」

と言えるひとは確かにいると思うが、仮にそのひとが

1日1回、場合によっては日に何度も、なにかにつけて怒る

ようなひとだったとしたら、そのひとはおそらく、今後もそうやって怒り続けるのだろうというわけだ。

では、私がもしそのひとをずっと見てみることにしたとして、

珍しく、このひとはここ何日も怒っていないな……

という事実を目の当たりにした場合、私は「このひとは怒りっぽいひとだ」という従来の判断をすぐに改めるべきだろうか?

いや、それは少なくとも「何日か」程度ではあまりに早計だろう。だって

いろんな理由が相まって、とても気分がいい

という瞬間や時期が訪れることは、誰にだってあるのだから。つまり

たとえ「短期的なブレ」があったって、「長期的な傾向やクセ」が変わっていない以上、それはいずれ必ず、「期待値」(平均値)に収束していく

ということ、これが私がここで最も強調したいことであり、私自身がいつも大切にしようとしている視点なのである。

私は今までに何度も、

この世界の根底には、「与えたものが少し大きくなって返ってくる」という原理がある

と主張してきた。少なくとも現時点において、私はこれを

「絶対的な真理」(真実)

だとまでは言わない。だからこれはあくまでも

「私の仮説」

なのだが、それでも今の私自身は、この説をかなり有力視しているのである。

だがもちろんこうした私の見解に対して、

それは明らかに間違っていますよ!だってひどいことをしているのに罰せられることも苦しむこともないひとがいる一方で、誠実に一生懸命に生きているのにまったく報われず、不幸のなかで死にゆくひとも、たくさんいるじゃないですか?

という反論が寄せられることは多い。そして私も、こう言いたくなる気持ちはわかる。よくわかるのである。しかし私はそれでも

それはあくまで「短期的なブレ」であって、長期的に見れば見るほど、いずれも「然るべきところに落ち着く」んだ

と、そう思っているのである。

そしてこれはもちろん、

私たち(の魂)は永遠の存在なんだ

という認識に基づいている。

だからそもそもこの認識を共有すること自体があまりに難しくなっている現状においては、私の見解に共感できないのも当然のことだろうとは思うのだが、それでももしこの根本的理解を共有できるのであれば、私が

数年や数十年、あるいは一生でさえも、究極的には「短期的なブレ」のなかにあり得ると言えるんだ

と主張しても、少しは理解してもらえるのではないかと思う。そしてそのうえで、私が本当に伝えたいのは、そして自分にも言い聴かせているのは、

その途中経過では上下左右、いかなる方向に「ブレ」が起きることもある。でもそれは長期的に見れば見るほど、最終的には「期待値・平均値」に収束していくんだ。だからこそ私(たち)はそのブレに惑わされずに、自分自身を少しずつでも成長させ、その「実力」を高め、底上げしていくしかないんだ

ということなのである。

だから一見めちゃくちゃな生きかたをして、実際にいろんなひとを傷つけ苦しめているのに、本人はのうのうとしあわせに生きている(ように見える)ひとがいたとしても、それでこの世界は残酷で理不尽だと決めつけてはいけない。もしそのひとが本当にそういうひとなのであれば、いずれその「上ブレ」が収まったときには、そのひとも「然るべきところ」に落ち着くのだから。

逆にもしあなたが自分の想いも問い続けながら、必死に努力しているのに、一見なんの成果も得られていないように見えても、そこで諦めたり、自暴自棄になって逆走したりしてはいけないのだ。今の「下ブレ」が収まったら、あなたはいずれ「然るべきところ」に行けるのだから。

それにさっきも少し言ったとおり、これは本当には、1回や2回の人生に収まる話でもないのだ。つまり

たとえ表面的な環境、たとえば「生まれる時代や家族構成、それにからだの作りや性別や顔……」などをいくら換えてみても、「自分が自分であること」に変わりはないのだから、その意味で「本質的に代わり映えしない人生」を送ることは、ごくありふれたことだ

ということなのである。だって何度も言うように、私たちはコインやサイコロとは違うのだから。だから先ほど紹介した

「ギャンブラーの誤謬」

のページにも、併せて

現実のギャンブル・ゲームでは、表が多く出てきているときには、表が出る確率がわずかだとしても本当に大きくなっている可能性はあります。

理由としては、コインを投げる人がイカサマをしている、コイン自体や投げ方にクセがある、などです。

もしそうだとしたら、表に賭け続けるほうが勝てますよね。

過度に大数の法則を信じすぎて、「コイン投げで表ばかり出ているけど、長い目で見れば裏も同じくらい出るだろう」と考えて、表が多く出るようになっていることを疑わないとどうなるか。

それを見抜けないと負けます…。

これは、ギャンブラーの誤謬の誤謬といえそうです。

ギャンブラーの誤謬(と誤謬の誤謬)
ギャンブラーの誤謬とは、その事象がもつ本来の確率が、少数の試行でも観察されるはずたという誤った思い込みです。試行の回数を増やしていくと、本来の確率に収束してくることを、大数の法則といいますが、本来の確率とは、たとえばコイン投げであれば、表が

という補足説明がついているのだ。

つまり私たちには「クセ」がある。それはいい意味での

「個性」

でもあり得るのだが、一方でそれが

「悪いクセ」(自分にとっても望ましくない傾向)

であるのなら、そこからはなんとかして脱却しなければならないのだ。だって私たちは

「不幸に安住し続ける」

わけにはいかないのだから。私たちが本当に馴染みたい場所・景色は、そんなところではなかったはずなのだから。

私たちは確かに、独りで生きているわけではない。そしてあなたにその自覚があろうとなかろうと、実際にはあなたも多くの存在に見守られ、応援されてもいる。だからそのリズムが上手く噛み合ったときには、

「思いも寄らない奇跡」

が起きることもある。だがそれがあくまでも「奇跡」である限り、それは本質的に「実力」ではないとも言える。だからそんなものに過度の期待を寄せたり、ましてや

それも含めて自分の「実力」なんだ。自分は「特別な存在」で、これからもずっと、神に愛されているんだ

と思い込んだりしてしまったら、いつか大変な目に遭うかもしれない。

だからこそ、私は自分の平均値を、実力を高めていきたいと思う。そして本当の意味で、しあわせを噛みしめられる自分になりたいと思う。私を助け応援してくれるひとがいることは本当にありがたい。ただ私は一方で、私を邪魔し嘲笑うひとに屈したくもないのだ。つまり私は

たとえ私の不幸を望むひとがいたとしても、私の不幸や苦しみをそのひとのせいにはしたくないし、そもそも私は自分の幸不幸を「風向き」に任せたいなんて、ちっとも思わない

ということなのだ。だってこれは、私の人生なんだから。そして私は結局、

私の進んでいる方向は、間違っているのか?そしてそもそも私は本当に、この世界に存在していいのだろうか?

ということを、真剣に確かめたいと思い続けているのである。

これは「私自身の問い」なのだから、この問いの答えも、私が探すしかないのだ。だからこそ私はこれからも、1歩1歩先に進んでいきたいと思う。私は自分に過度な「期待」をするつもりもないが、だからこそ「もう少しくらい期待をかけられる自分になる」ためにも、なんとか少しずつ少しずつでも成長していきたいと、私はずっと、そう思っているのである。

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