一瞬の今に永遠を懸ける価値。私たちが「生まれ変わらずにいられなかった」のは、いったいなぜなのか?

私たちは、永遠の存在である。だから本来は別になにもしなくても、永遠に生きていくことができるはずなのだ。だが私たちは、実際には日々なにかを選んでいる。そしてそのひとつひとつの選択から、なにかしらの結果を受け取っている。

しかしその結果は、必ずしもいいものとは限らない。もちろん私たちは選択する時点では、基本的に自分(たち)にとっていい実りになることを期待しているはずで、自分を苦しめるような選択をしようとはしていないはずなのだが、実際には「まったく予想外の結果」が返ってくることも多い。

だとするとここにはやはりある程度の

「リスク」(危険性)

があると言わざるを得ないと思う。だがもしそうであるなら、私たちは別にそんな危険を冒さなくても、最初からずっと永遠のなかに安住することもできるはずなのだ。

それなのに実際には、私たちは日々なにかを選んでいるし、終いにはわざわざこんなところに生まれてきて、有限の時間と、いろいろな考え・エネルギーの坩堝に身を投じている。そしてその結果、たとえ人生が終わっても消えない深刻な傷や、永きに亘って消えない苦しみや葛藤を負うこともある。

これはいったい、どういうことなのだろうか?実は私たちはみんな「考え足らずの愚か者」か、そうでなければ「自虐趣味のある傷つきたがり」だということなのか?せっかくの永遠があるのに、それをたった一瞬に懸ける価値は、いったいどこにあるのだろうか?

この問いにはっきりとした答えを出すことは、きっと誰にとっても容易ではないだろうと思う。というか私自身も、特に気持ちが落ち込んだとき、大切なものを失った(と感じた)ときには、

私が生まれてきたのは、やっぱり間違いだったのか?私はただ静かに引きこもって、静かに周りの様子を観察しておくくらいに留めておくべきだったのに、なにをどう勘違いしたかこんなことをしてしまった、とんでもない身の程知らずだったのだろうか?

と何度も自問する。しかしそれでも、やはり明確な答えは出ない。それにある意味では、今さらこんなことを考えて本当に身を退くのであれば、そもそも生まれてくる前にもっと自分と向き合っておくべきだったということなのだ。他にも今ここに生まれたかった魂は、たくさんいたのだから。誰も私に生まれ変わるよう懇願したわけではなく、すべては私が見出した、私の人生の価値だったのだから。

だから私はこういう袋小路に嵌まったときは、いったん逆方向から眺めなおしてみることにしている。それはつまり、

じゃあもし私が今生まれ変わらずに、霊として他のひとたちを漫然と眺めていたとしたら、そのときの私は、どんな気持ちになっていただろうか?

と考えてみるということだ。

すると私は、

そのときは遅かれ早かれ、いずれ間違いなく、ひどい後悔に苛まれることになっただろう

と思わずにはいられないのだ。そして湧き上がるこの気持ちは、実のところ私が生まれ変わってきた根本的な動機のひとつを示唆しているのではないかと私は思うのである。だとしたら私は、いったいなにを悔いると思ったのだろう?私はなぜこんなリスクを冒してまで、誰でもない自分の意志で、わざわざここに来たのだろうか?

そう考えていくと私は、ひとつの「答え」にたどり着く。それは

もし私が生まれ変わらずにいたとしたら、「自分はいったいなんのために、今まで生きてきたんだ?」という疑問に耐えることができなかっただろう

という想いだ。そう、だからこれが私が生まれてきた理由のひとつの核心であるということなのだ。だからこそ私はどうしても、生まれてこないわけにはいかなかったのである。

いのちには価値がある。時間には価値がある。だとすると

「永遠のいのち」

には、途方もない価値があると言える。それ自体は、きっと間違っていない。

だがたとえどんなに価値があるものでも、それがいつまでも活かされずにあるだけなら、それはやがて汚れ濁り、枯れて腐っていくことになる。なぜなら「価値」とは「力」でもあるからだ。そしてあらゆる「力」には例外なく、それ相応の「責任」が付随するからである。だからこそ活かされなくなった力、言い換えれば「身に余る責任」は、いずれ必ずそのひとのもとを離れることになるのである。

しかしさらに重要なことは、話はこれで終わるほど簡単ではないということだ。つまり私たちが、

わかったわかった、どうせこんな力は私には不釣り合いなんだし、私なんかにはそもそもなんの価値もないんだから、あとはさっさと「優秀なひと」が片付ければいいじゃん

と開きなおってふてくされたとしても、それですべてが終わるわけではないからだ。なぜなら私たちには、どんな他者でも自分自身でさえ決して奪うことができず、かといって譲り渡すこともできないものがあるからだ。それは、

「私たちの魂(存在の根幹)と、そこにずっと蓄積されてきた経験」

である。その価値を否定することは、究極的には、自分自身にさえも不可能である。だからこそ私たちは、その永遠を持て余し続けることに耐えられない。だから私たちは結局はなにがなんでも、それを活かさないわけにはいかないのである。

しかも話はこれでもまだ終わらない。つまり私たちは本当には、

一瞬それ自体が、永遠と同等以上の価値を持つ

ということを知っているはずなのである。そうでなければ、様々な葛藤を乗り越えてまで、ここに来ることはできなかったと思うのだ。しかしそれでも、

なんですぐ消え去ってしまう一瞬に、こんなにも短い「今」に、永遠以上の価値があると言えるのか?

と思うことはあると思う。それについさっきも言ったとおり、その疑問に答えられないうちは、生まれ変わる気にはなれないだろうし、それどころか生まれ変わったひとを蔑んだり侮ったりしたくもなるかもしれない。

だがその答えはちゃんとあるし、それはたったひとつでさえないと思う。だからこれはあくまでも

「私なりの答え」

でしかないのだが、それは実のところとてもシンプルなものでしかない。つまり私は、

たとえ今までの私にどんな経験(永遠にも思えるほどの過去の蓄積)があるとしても、「今この瞬間とまったく同じもの」は、どうしても今この瞬間にしかあり得ない

ということを痛感しているということなのだ。私がさっき

もし私が生まれ変わらずにいたとしたら、「自分はいったいなんのために、今まで生きてきたんだ?」という疑問に耐えることができなかっただろう

と言ったのも、そういう意味なのである。

私たちは別に「まったく同じことを繰り返し続けている」わけではない。もちろん経験を積めば積むほど、「似たようなできごと」に遭遇することも増えるし、「経験による判断」によって、それほど悩まずに決断できることも出てくるだろう。

だがそれはあくまで「似たようなできごと」であって、本当には「今この瞬間のできごと」とは違うのである。だから、いくら今までの経験が山ほどあると言っても、それで今この瞬間を味わうことの意味や価値がなくなるわけでは絶対にない。それにもしどうしても信じられないなら、実際にやってみればいい。あのときとまったく同じようにやったら、あのときと同じ結果が顕れてくるだろうか?

そんなことは絶対にない。だってあのときと今の状況はまったく同じではないし、今の私たちも、「あのときの私たち」とまったく同じではあり得ないのだから。まったく同じ環境同じ機会は、後にも先にも今この瞬間しかないのである。そしてだからこそ私たちは、今までいろいろな経験を積んできたのだ。つまり

今までのすべての経験(永遠)は、今この瞬間のためにある

ということなのである。だからこそ私たちはここにいるのであって、これはやはり決して、間違いではないのだ。つまり

私たちは別に「考え足らずの愚か者」でも「自虐趣味のある傷つきたがり」だったわけでもない。私たちはただ「過去のすべてを踏まえて少しでもいい未来を創るため」に、「今までの身を裂くような葛藤や虚無感に自分で区切りをつけ、『それも無駄ではなかった』と言える自分になるため」にこそ、自分自身で決意して、無くなりかけた勇気をもういちど奮い起こして、わざわざここに来たんだ

と、私はそう思っているのである。

一瞬の積み重ねが永遠を生むのと同じように、一瞬もまた永遠の積み重ねから生まれる。だから

この世界は少なくとも究極的には、お互いがお互いを包み合っているんだろう

というのが、私の考えである。だから別に、

生まれ変わってきたひとだけが立派で、生まれ変わらなかったひとは意気地なしだ

とか、そういう話でもないのだ。私はただ

私たちが「生まれ変わらずにいられなかった」のには、それなりの理由がある

ということを、一緒に確認しただけなのである。そして今はまだそう思えないとしても、いつかは一緒に、その選択を喜び合えたらと思う。そしてお互いに自分自身のことを、心から褒めてあげられたらと思う。あらゆる力には、責任が伴う。だがそれを集めたことは、決して間違いではなかったはずなのだから。そして私たちの

「終わりなき素晴らしい永遠」

は、まさに今この瞬間から、改めて紡がれ続けているのだから。

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  1. 小鳥遊 より:

    お久しぶりです。小鳥遊です
    文章の序盤で気になった部分があるのですが、ここに生まれたかった魂は沢山いるのに自分が生まれたというのはどういった意味があるのでしょう?
    生まれるという出来事には抽選や競争があるという事でしょうか?
    それとも一番強い想いを持ったものが生まれる仕組みになっているのでしょうか?

    • Dilettante Dilettante より:

      小鳥遊さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      ここに生まれたかった魂は沢山いるのに自分が生まれたというのはどういった意味があるのでしょう?

      そうですね、これはつまり、

      この計画を成就させるためには、なんとしても地球にあと100人は生まれてほしい(必要だ)けど、自分の意志だけに任せていたら希望者がどうしても集まらないから、頼むから生まれてくれないか?

      などと言われたひとは私も含め誰もいないという意味です。またこれは

      生まれるという出来事には抽選や競争がある

      ということでもありません。それにこれはこの地球の人口が、全体として爆発的に増え続けていることにも示唆されているかと思います。

      つまり現時点では、

      本当に生まれたいなら、基本的には全員を通す

      という方針になっているということです。とはいえこの方針も地球の変化に伴ってこれからは変わっていくのでしょうが、それはまぁいいでしょう。

      ですからこれは私自身が完全に自覚していることなんですが、

      「私がここに生まれるべき客観的な重要性」なんか、どこにもなかった

      ということなんです。なのにそれを自分で望んで踏み込んだからには、せめて最期まで生き抜かないわけにはいかないだろうというわけで、だからこそ日々いろんなことはあったとしても、私もなんとか毎日を乗り越えていけたらと、そう思っているんですよね。

  2. まさ より:

    生きることの苦しさと困難が、耐え難いほど大きくなった時、考えられる限りの思考力を働かせて、自分を納得させる理屈をひねり出す作業だと思いました。私も、同じような状況ですが、自分を本当に納得させられるような思考や動機の因果関係を見いだせないでいます。怪力乱神を語らず、自己の境遇を受け入れながら、ベストを尽くすだけでいい、とは思うのですが。。。庭のシュウメイギクとジンチョウゲに水遣りの時間です。何かすることがあってくれて、よかった。。。私の小さくてささやかな幸せです。

    • Dilettante Dilettante より:

      まささん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      自己の境遇を受け入れながら、ベストを尽くすだけでいい、とは思うのですが。。。

      ええ、まさにおっしゃるとおりだと思います。

      ただそれを本当に腑に落として実践し続ける(その想いから離れずに居続ける)のは本当に容易ではなく、だからこそ私もまだまだ悪戦苦闘の最中にいるのですが、

      何かすることがあってくれて、よかった。。。

      というのも、本当に共感します。

      どうかあなたもあなたの大切にしたいものを、ずっと大切にしていてくださいね。

      もちろん私もそうしたいと、ずっと思っていますから。

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