度重なる困難や失敗、そして成長。私たちの「不幸」の感覚は、いったいどこから来るのか?

私たちは、しあわせになりたいと思って生きている。それは「満足感」や「充実感」、あるいは「自己肯定感」や「達成感」などと様々に言い換えることもできると思うが、とにかく私たちは本当は、そうしたものを追い求めているはずだと思う。

しかし今の私たちの現状はどうかと言えば、そのほとんどがそうした感覚を得られていないどころか、そのまったく正反対の感情や認識のなかで苦しんでいると言っていいと思う。もしそうでなかったら、こんな無名の私のところにまで

いったいなぜ私はこんなに不幸なんでしょうか?どうして私はなにをやってもうまく行かず、失敗ばかりなんでしょうか?もう、死んでしまいたいです

というような声が何度も何度も届くことはないだろうと思うから。

だが私たちは、いったいどうしてこれほどの不幸を感じるのだろうか?この問いは私もいつも考えているものであり、ここでも今まで様々な考えを巡らせては、あなたとも共有してきた。だが今回もまた改めて、ここで一緒に考えてみたい。そして今回は

困難や失敗は、私たちの不幸の感覚とどう関係しているのだろうか?

というところから、その問いと向き合ってみようと思う。

冒頭に書いたとおり、私たちが本来はしあわせ(満足感・充実感・自己肯定感……)を求めて生きているのだとすると、それは最も端的に言えば、

「選択」

のかたちで表れるものだと言ってもいいだろう。

つまり

私はどこに住もうか?

私はなにをして生きよう(どんな仕事を選ぼう)か?

私はどんなひとと関わっていこうか?

といったあらゆる選択のひとつひとつは、本来自分の想い描くしあわせに近づくために行われているはずだということだ。

だが実際に生きていくうえでは、自分がうっすら想い描いていた「計画」や「着地点」、それに「所要時間」や「費やされる労力」はときにまったく違う結果(現実)となって顕れてくる。そして、

予想ではもっと簡単に乗り越えられるはずだったのに、ぜんぜん先に進まない……

というとき、私たちはそれを

「困難」(苦難)

と呼び、

思っていた結果(収穫)はまったく手に入らなかったし、それどころか思いもしなかったひどいことになってしまった……

というときには、それを

「失敗」

と呼ぶのだろうとも思う。そしてこうした点を踏まえて最も素朴に見れば

人生におけるこうした困難や失敗の積み重ねが、私たちに不幸の感覚を植え付けるんだ

という認識になるのも自然なことなのではないかと思う。だからこそ冒頭に挙げた

いったいなぜ私はこんなに不幸なんでしょうか?どうして私はなにをやってもうまく行かず、失敗ばかりなんでしょうか?もう、死んでしまいたいです

という声が出てくるのだろう。このひとたちの「不幸の感覚」は、まさに「困難と失敗の連続」によって培われ、強められていったのだろうと思うのである。

だがもしそうだとするなら、私たちはなぜ「困難」や「失敗」に、それほど深く傷つけられるのだろうか?そう考えに考えていくと、私はひとつ

度重なる困難や失敗を目の当たりにすることは、「自分の選択ミス」、言い換えれば「よく考えて選んだはずのことが裏目に出て、かえって目的から遠ざかるという、あまりに滑稽な自分」を見せつけられているように感じるからではないのか?

という想いに至った。つまりこれをさらに言い換えると

あらゆる選択の核心に「よりよい未来への期待」があるとすると、その予想とは真逆にすら思える「失敗」の経験は、「自分自身が自分の期待に応えられていない」もっと言えば「自分の期待を自分自身に裏切られた」というような感覚を植え付けられるから、だからそれをあまりにも惨めで恥ずかしく、不幸なことだと感じてしまうのではないか?

と、私はそう思ったのである。

だが、もし試しにこの仮説に沿って考えを深めていったとしても、だからと言って

じゃあ困難や失敗を完全に避けて生きることなどできるのか?

と言えば、どう考えてもそれは無理だと思うのだ。つまり

もしそうした困難や失敗の存在を以って不幸と見なすのであれば、私たちは全員が、いつまで経っても原理的に不幸なままでしかあり得ないのではないか?

と思うのである。そしてここでさらに重要なのは、

それにおそらく、こんなことさえも知らない(覚悟できていない)ような状態で、よりにもよってこの時期の地球に生まれ変わってきたひとなんて本当にはいないだろう。だからもし本当に困難や失敗に恐れ慄いていたのなら、私たちは誰ひとりここにいるはずがない

ということだ。だから私たちは、そもそもそんなことくらいは重々わかったうえでここに来たはずなのである。そしてもちろん、それは自分自身をいじめたり貶したり、不幸にしたりするためではないはずなのだ。だとしたら、こうしたことをすべて踏まえた今、私は先ほどの「素朴な認識」を少なからず改める必要があると思う。そう、つまり

私たちが不幸を感じる原因は、実のところ「困難や失敗そのもの」のなかにあるわけではない

と、私は思いなおさざるを得ないのである。

そして、話がここまで来たからこそさらに率直に言えば、もし私たちに一切の困難や失敗がないのだとすれば、それはつまり

すべてが事前の予測どおり(想定されたいくつかのパターンのどれかに当てはまるもの)で、予想外のことはなにもない

ということを意味する。だがもしそうだとすれば、私たちがわざわざここに生まれてくる理由などないと思わないだろうか?もし

すべてはいちどシミュレート(予測)するだけで充分理解できる

というのであれば、その「わかりきったことをわざわざ時間と労力をかけて実際にやってみる」ことなど、せいぜい「暇つぶし」以上のなにものでもないのではないか?

だが言うまでもなく、生きることはよくも悪くも、そんなに「つまらない」ものではない。だからその意味では

もしまったく予想外のことが起きないのなら、それは「生きている」とは言えない

のかもしれない。つまり生きているうえでは(少なくとも今の地球のような環境・タイミングにおいては)、苦難や失敗はまず避けられないということだ。そしてだからこそ、もしその「避けられないもの」を「不幸」と見なしてしまったら、

私たちは全員どうしようもなく不幸でしかなく、しあわせにはなりようがない

と言うしかなくなってしまうのである。

だが、それが「最終結論」であるはずはない。もしそうなら私たちは誰もここに来ていないどころか、むしろ全力を以って自分自身も含めた世界のすべてを叩き潰さないといけないとさえ言えるかもしれない。だが少なくとも私は、まだこんな回答を「最終結論」として認めてはいないし、あなたもそうだと思う。だったらやはり、私たちは自分の「不幸の感覚」がどこから来ているのかを、今いちど問いなおす必要があると思うのだ。そしてもしそれが「困難や失敗そのもの」のなかにはあり得ないのだとすれば、ではその不幸の感覚は、いったいどこから来ているのだろうか?

とはいえもちろん、この問いへの答えはたったひとつではないだろう。だが今の私がここまでの文脈をすべて踏まえて提示したいのは、

私たちが自分を不幸だと思うのは、その「度重なる困難や失敗が、自分の心を折ったから」なんだ

という考えである。言い換えれば

ひとつの「期待外れの結果」を「最終結果」だと思い込んだり、あるいは期待や希望を打ち砕かれ続けた結果として「新たな希望を保てなくなった」ときに、私たちは自分を「不幸」だと見なすようになるんだ

と、私は思ったのである。

だからこれを裏返すと

もし私たちがすべてを「途中経過」だと見なし、「なにがあろうと最終的にはすべてを糧にする」という決意と覚悟を保ち続けることができるなら、いかなる困難や失敗も「不幸」にはなり得ない。それどころか、「現時点では『失敗』に見えることすらも最終的には『よりよい結末への下地』にする」と本気で思えたら、そこには原理的に「失敗」は存在しなくなり、すべては「自分を成長させるもの」でしかなくなる

ということなのだ。だからその意味で、やはり結局はすべて、私たちの「気持ちの在りかた・受け取りかた」次第だったということだ。私はいろいろ真剣に真剣に考えた末、やはりどうしても、そこに納得せざるを得なかったのである。

ただもちろんこの考えを受け容れるのにはまず大前提として、

私たちはみんなそれぞれが、「永遠の存在」なんだ

ということを受け容れなければいけない。この前提なくして、すべてを途中経過だと見なすことなど不可能だからだ。逆にもし私たちが永遠の存在でないのであれば、

俺の余命はあと半年なんだぞ!もう俺の人生は終わりなんだ!

私の愛するひとは死んでしまったんですよ!それなのにどうやって、しあわせになれると言うんですか!

という哀しみや苦しみに、返す言葉はどこにもなくなってしまう。そう、だからもし本当にそうなのであれば、私たちは確かに不幸である。だって失敗は失敗でしかないし、この世のなかのほぼすべてのことは、「どうやったって取り返しがつかないこと」だということになるのだから。

だがだからこそ、ここでいったん立ち止まって、冷静に考えてみてほしい。

じゃあもし私たちをずっと迷いに閉じ込め、苦しみと無理解に押し込めようとするひとがいるとしたら、彼らはまずどこの認識を狂わせるだろう?いったいなにを忘れさせ、絶対に思い出せないようにするだろう?

と。そしてこれは結局、

なぜ私たちは、こんなにも苦しくて不幸なんだろう?

という問いにも当然つながってくるのだ。そう、つまり

それは「この世界がいったいどんな世界なのか、そして私たちはいったいどんな存在で、もともとはどこから来て、どうして今ここにいるのか」ということを絶対に絶対に、思い出させないように抑え込まれているからだ。言い換えれば「私たちは自分の一部を切り取られ、それだけがすべてだと思い込まされて、狭く短い視野と時間軸のなかに押し込められている」から、だからこんなに苦しくて不幸だと思うんだ。そしてそれはある意味、ごく当たり前で自然なことなんだ

と、私は思うのである。だからそんな私が、今生こうして実際に霊と関わるようになったならなおのこと、そうした霊の存在、そして魂の永遠性を伝え続けるのも、一方で当然のことなのだ。確かにこれがわかったからと言って、すべてが解決するわけではない。だがあらゆる問題や苦しみを本当に解決・解消させたいなら、どうしてもここの理解を避けて通るわけにはいかないとも思うのである。だから私は何度も何度も手を替え品を替え、今日もここで私の想いを伝え続けているのである。

そしてこうしたすべてを踏まえたうえで、私はあなたにも改めて、

たとえあなたが思ったとおりの結果が得られなかったとしても、たとえ何度「失敗」したとしても、それでも決して絶望したり、すべてを諦めてしまったりはしないでください

とお伝えしたいのである。だってあなたのいのちは、あなたの魂は、そんなことで終わったりはしないのだから。自分が終わりだと思い込んでしまうからそう見えるだけで、たとえあなたがそう思い込んだときでさえ、あなたは本当には、まったく終わってなどいないのだから。

終わりよければすべてよし

とは昔からよく言ったものだが、本当には「終わり」なんてどこにもないんだとわかったら、自分が納得するまで、自分によしと言えるまで、あなたが本当にしあわせになるまで、何度でもいつまでも、歩き続けたらいいだけなのである。

もちろんそれはある意味では、確かに果てしなく永い道のりでもある。でもそこにいるのは、あなただけではないから。そうやって永遠に存在し続けるのは、みんな同じなんだから。だから、あわてなくていい。あせらなくていい。ときには横になって休んだっていいのだ。私だって、そうしてきたんだから。だからお互いいつか必ず、本当に心からしあわせになろう。それは本当に、可能なことだから。私もずっとそう思って、ここで生きているんだから。

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  1. 俺の魂野郎は不幸好きの異常者、俺は幸福を愛する者 より:

    不幸って本当に簡単に手に入りますよね。道端に生えてる雑草を見つけるより簡単に手に入るので嫌になっちゃいますよ。゚(゚^Д^゚)゚。対する幸福はまるではるか彼方にあり雲の上又は宇宙の彼方にあるような感じです。いくら頑張って幸福になりたいと努力しても全く手に入らない感じです。幸福は努力しても手に入らない癖に不幸は何もしなくても手に入るんですよ。なんですかね?このアンバランス具合は笑っちゃいますよね。神がいるなら呪いたくなりますよ。

    Dilettanteさんには既に俺以上に幸福でしょうが今以上に幸福になって欲しいですね。時々ブログ見るので応援してますよ。Dilettanteさんは幸せな人生を歩んでくださいね。まあせいぜい俺の事は見下してください。片親(父親は暴力野郎のクズで俺が高校生の時他界)高卒、30歳、独身、彼女なし、資格なし、免許なし、年収300万底辺リーマンコレで十分すぎるぐらい伝わるでしょ。この底辺ぶりが伝わってDilettanteさんが内心嘲笑してるのがわかってしまいます。まあせいぜい笑ってくださいよ。

    でもねこんな底辺野郎でも夢はあるんです。自営業になって年収が高くて結婚して家族も欲しいと言う夢がね。叶う事がなく糞みたいな死に方をする未来しか俺は想像出来ないのでおそらく叶う事はないでしょう。俺はこの糞人生は幸せになる事はなく糞みたいな死に方をして終わるでしょうが俺はせめてこんな腐った人生を生きてきているのでせめて来世では幸せな人生を歩みたいのでこの糞人生において能力をとにかく付けたいです。

    能力のなさの劣等感でいつも死にたくなるのでこの糞人生は最大限利用してやります!こんな価値のないゴミ人生は利用するだけ利用しないと損ですからね。今世のこの糞人生と違って来世では正反対で幸せな人生を歩ませたいですね。

    コメント欄でゴミの様に思いを吐き出してしまい申し訳ないです。底辺野郎の戯言だと見下してください。それかこんな価値のないコメントは削除して貰って良いですよ!

    • Dilettante Dilettante より:

      俺の魂野郎は不幸好きの異常者、俺は幸福を愛する者さん、ようこそ、闇の向こう側へ。

      まず大前提として、

      能力のなさの劣等感でいつも死にたくなる

      とおっしゃっているとおり、今のあなたがたくさんの苦しみや葛藤のなかにいることは、私もわかっています。

      ですがそれでも、これは

      こんな価値のないコメントは削除して貰って良いですよ!

      などとおっしゃるあなたからすればまったくの予想外かもしれませんが、私はあなたのこのコメントをとても微笑ましく思うと同時に、とても勇気づけられたんですよね。

      というのも、本来あなたのような状況や心境にいるひとであれば、その下降気流や諦めからなかなか抜け出すことができずに、いわゆる「負のスパイラル」にますます拍車をかけるかたちで、虚無感や絶望に陥ってしまうのがわりと一般的ではないかと思うんです。

      もちろん、私自身はその流れになんとか抗いたいと思い続けているわけなんですが、とにかくそれはそれとして、実際の現状を見れば、そういう光景や事例はそこらじゅうで見受けられるとも思うんですよ。

       

      でもあなたは確かに自分を貶めたり自虐的になったりもしている一方で、

      でもねこんな底辺野郎でも夢はあるんです。自営業になって年収が高くて結婚して家族も欲しいと言う夢がね

      せめて来世では幸せな人生を歩みたいのでこの糞人生において能力をとにかく付けたいです

      ともおっしゃっているじゃないですか?しかも極めつけは

      この糞人生は最大限利用してやります!こんな価値のないゴミ人生は利用するだけ利用しないと損ですからね

      と言い切っているでしょう?その状況からこの発想に至るというのは、実際かなり難しいことだろうと私は思うんですよ。

       

      だからあなたは

      この底辺ぶりが伝わってDilettanteさんが内心嘲笑してるのがわかってしまいます

      なんておっしゃいますが、実際にはその推測はまったく外れているどころか、むしろ私としては

      このひとは、あとほんの少しなにかがうまくはまるだけで、とんでもなく伸びるんじゃないか?

      と、心からそう思うんですよね。

      ですからそんな私はあなたを見下すどころか尊敬しているくらいなんですけど、でもそれを言うなら、あなたがこれだけ

      まあせいぜい俺の事は見下してください

      まあせいぜい笑ってください

      底辺野郎の戯言だと見下してください

      などと何度も何度もおっしゃるのであれば、私としては

      これはもしかして、「最初は見下されるだけ見下されておいて、最後にそれを完全に逆転したほうが、最後の達成感が際立つ」という作戦の仕込みなのかな?

      と思ってしまうくらいなんですけど、でも少なくとも私自身は、そんな手には乗らないですね。たとえそれがあなたの意図した作戦ではないとしても、もし私があなたを笑ったり蔑んだりしたら、いずれ本当に笑い者になるのは、私のほうですからね。

      なんだ、あいつも歳のわりにぜんぜん見る目ねぇんだな。霊媒師とか言ってるくせに見せかけや表面に騙されてるようじゃ世話ねぇわ

      というわけで。

      それにあなたはご自分のことを

      年収300万底辺リーマン

      などとおっしゃいますが、それを言うなら私の年収はあなたよりさらに低いんですよ?

      しかもあなたは私より若いわけで、そのあなたにこう言われてしまっては、私の立つ瀬がなくなってしまいます。

      もちろん

      若さは余命の長さを保証しない

      ということは、私も重々承知しているとしてもです。

       

      なので私はあなたが

      Dilettanteさんは幸せな人生を歩んでくださいね

      とおっしゃってくれたことをありがたく受け止めつつも、だからこそ私もそれとまったく同じ気持ちをあなたに贈りたいですし、

      コメント欄でゴミの様に思いを吐き出してしまい申し訳ないです

      なんてことはまったく気にせずに、よろしければこれからもいつでもお気軽にお声かけいただければと、そう思っています。

      どうぞよろしくお願いします。

  2. 俺の魂野郎は不幸好きの異常者、俺は幸福を愛する者 より:

    ご返信ありがとうございます!失礼な発言を色々してしまい申し訳ありません。会社でボロ糞に説教されてどうして俺の人生はいつも上手くいかないんだと思ってもの凄く病みきっていました。

    俺は自己肯定感が本当にないので何か証明が欲しいんです。自分は価値のない人間だと思っている反面価値のある人間になりたいんです。歪んだ家庭で育ったからか自己肯定感が本当にないんですよね。もうね20歳から前の記憶ゴミみたいな記憶しかないので俺は消す事が出来るなら消したいです。もちろんそんな事出来ないのは理解してます。

    俺の中で自己肯定感がどうしたら付くかと考えたら今の俺の考えでは学歴(コレはどうしようも出来ないです)年収(又は多くのお金)資格(出来るだけ難解な資格)仕事(生きがいのある仕事)彼女(将来の嫁)友達(家庭環境が糞だったせいで学校で親密な関係が築けず表面的な付き合いの職場の人ぐらいですね唯一友達と呼べれるのは。コレから親密な友達が出来る可能性は絶望的)家族(歪んでないまともな家族です!歪んでたらそんな物ゴミですからない方が良いです)免許は正直どっちでも良いです。

    俺は上に書いた物を手に入れる事が出来たら幸せを感じられそうなんですよね。今生きてますけど幸せを感じる事ないですから俺は幸せになってみたいんです。俺は自殺する人や病んでる人や狂ってしまった人や底辺な人の気持ちはある程度は理解出来るんです。全部とは言いません。それは傲慢な考えだと思いますから。唯一俺が理解出来ないのが幸せに生きてる人間です。コイツらの事をいくら考えてもわからないんです。一体コイツらはどのような物を手に入れて幸せを感じているのか俺も理解したいんですよね。

    俺は上に書いた物を全てはまあ無理ですが少しでも手に入れたら理解出来そうなんですよね。だからとっくに死んで終わってたかもしれないこの糞人生の残りの時間で上の物を少しでも手に入れたいんです。そしたら俺は幸せと言う物が少しは理解出来そうな感じがします。長文になってしまいました。丁寧にご返信頂かなくて全然大丈夫ですから。

    • Dilettante Dilettante より:

      唯一俺が理解出来ないのが幸せに生きてる人間です。コイツらの事をいくら考えてもわからないんです。一体コイツらはどのような物を手に入れて幸せを感じているのか俺も理解したいんですよね。

      そうですね、ただ私からすると

      あなたから見てしあわせに生きているように見えるひとが、実際にしあわせ(を感じながら生きている)とは限らない

      とも思うんですけどね。ひとはなかなか素の自分を見せてくれないものですし、そもそも自分の愚痴や弱みを素直に打ち明けるのは、かなりの勇気が要ることだと思いますから。

       

      ただそれはそれとして、私はあなたが

      俺は上に書いた物を全てはまあ無理ですが少しでも手に入れたら理解出来そうなんですよね。だからとっくに死んで終わってたかもしれないこの糞人生の残りの時間で上の物を少しでも手に入れたいんです

      とおっしゃるのを心から応援したいと思っていますし、もちろん私自身ももっとしあわせを感じられるようになりたいと思っています。

      だからなんと言うか、これからもお互いにがんばりましょうね。

      どうぞよろしくお願いします。

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