責任を自覚する喜び。「この世界も必ずよくなる」というのは、いったいどういう意味なのか?

現代は日本も含め、個人主義がますます強くなっている

という見解・認識を保っているひとは、実際たくさんいると思う。それに私も基本的には、こうした考えに同意している。とはいえもちろんこの

「個人主義」

をどう定義するかにも細かな違いがあるとも思うが、それでもごく素朴に言うのなら

「個人主義」というのは、「社会や周りの要請や期待、それに役割意識のようなものに囚われることなく、それぞれの個人が自分の自由を好きに追求する」という考え、そしてその考えを望ましいと思う主義思想のことだ

と捉えることはできると思う。

しかしもしそうであるなら、だからこそここでとても大切なのは

自由は「誰もが無条件に追求・享受していい」というものではない。つまり基本的に「あらゆる自由には、それ相応の責任が伴う」んだ

ということだと思う。つまり少なくともこうした意味で「個人主義」を捉えるのであれば、それが究極的に推し進められた社会(集団)においては、誰もが常に

あなたは個人として自由だ。だからあなたは自分の意志でなにをしてもいいし、どんな選択肢を選んでもいい。ただだからこそその自由と選択の結果は、すべて「あなたの責任」として受け止めなさい

と言われ続けるようになるということなのである。

そしてこうした思想が是とされて広く受け容れられていけばいくほど、そこでは

「個人への責任追及・バッシング・批判……」

が激化していくようになる。

だってあなたには他にもたくさんの選択肢があったし、実際にあなたとはまったく違う選択や生きかたをしているひともたくさんいることを知ってますよね?それなのにあなたは自ら望んでこの道を選んだんだから、じゃあその結果の責任はあなたが取るのが当たり前ですよね?

というわけだ。そしてこれをもっと端的に言い表したのが

それは自己責任でしょう!

という言葉であるのは明らかだと思う。つまりこれは別に

「私の自己責任」

の話をしているわけではなくて、あくまで

「あなたの自己責任」

の話をしているのだから。だからこのような言葉が意味しているのは

それはあなた自身の責任でしょう!

ということであり、さらに言えば

それはあなたのせいでしょう!

悪いのはあなたですよね?

それって自業自得じゃないですか?

という叱責なのだ。だからこそ、そのような思想のもとでは

誰かがひどい結果をもたらした(誰かに害や哀しみ、あるいは苦しみや不快感を与えた)なら、容赦なく徹底的に「個人責任」を追及する

ということが正当化、もっと言えば奨励されもする。そしてこのような視点から今の社会を見つめなおしてみれば、最初に挙げた

現代は日本も含め、個人主義がますます強くなっている

という認識はまさにそのとおりだろうと、私もそう思うのである。

そしてこうした前提に立つならなおのこと、このような社会において

「責任を追及される」

というのは、

「相手(社会)から糾弾される・自分が悪人として断罪される」

ことにほぼ等しいと言える。だからそんな状況で生き続けたひとが

「責任を取る」

ことを悪い印象でしか捉えられなくなり、

できることなら、なんの責任も取りたくない……

と思うようになってしまうのも、ごく自然で当たり前のことだと思う。だがだからこそ

他でもなくこの思い・刷り込みこそが、極めて巧妙で悪辣な罠なんだ

というのが、今の私の率直な認識なのだ。つまり私がここで強調したいのは

この考えに呑み込まれてしまったら、「責任を取る」ということに含まれるもう一方の、そして本来はなによりも重要な要素、つまり「『責任を取る』という喜び」が、ほとんど見えなくなってしまう

ということなのである。

というのも私自身は

私は人間なのだから、人間が起こしたことのすべては、私にも責任がある。それにそもそも私は今この地球に生きているのだから、ここで起きるすべてのことは、私にも責任がある

とずっと思っている。だがこういう表現では

いやいや、それはあまりにも卑屈と言うか自責が過ぎると言うか、いずれにしてもちょっと極端なんじゃないですか?

と諌められるかもしれない。だからもう少し、精確に言いなおそう。私が言いたいのは、

私は人間なのだから、人間が起こしたことのすべてについて、私に少しも責任がないわけがない。それにそもそも私は今この地球に生きているのだから、ここで起きるすべてのことについて、私に少しも責任がないわけがない

ということなのである。

たとえば私とあなたがケンカをして、一時的であれ仲違いしてしまい、険悪な関係に陥ったとする。それならたとえその原因がなんであろうと、その責任のうち少なくとも半分は私にあるということだ。もちろん私はそこに様々な要因、たとえば負の霊の煽りや罠も含めた複雑な綱引きがあることをあなた以上によく理解している。だがそれでも、

それが結局は「私とあなたの関係・私とあなたの選択と相互影響の結果起きたこと」である以上は、その責任の半分くらいは、当然私にもある

ということを、私は言っているのである。ただもしかしたらこうした説明ではまだ足りず、たとえばひとつの「極端な事例」として

もしその理論で言うなら、じゃあ世界のどこかで毎日起きている殺人事件も、誰かが謂われもなく殺されるそのひとつひとつにも、あなたは「自分にも責任がある」と本当にそう思うんですか?

などと言われるかもしれない。だがそれでも、私の立場は変わらない。つまり私は

もちろんその場合の責任は「1対1のケンカ」や「自分が直接起こしたこと」と同じではないでしょう。でもそれでもやはり、「私にもいくらかの責任はある」と思うし、逆に言えば「『私にまったくなんの責任もない』なんて、そんなことを言えるはずがない」と、私はそう思っています

と言うことになるのだ。そしてもし

じゃあその責任を、あなたはどう取るんですか?

と言われたら、

たとえあなたに認めてもらえなくても、それで充分だとはまったく思ってもらえないとしても、私もその責任は日々取っているし、それは本当には、あなただって同じだと思います

と言うだろう。私は心から、そう思っているからだ。というより私はいくら真剣に考えなおしてみても、この私の考えが根本的に間違っているとは、どうしても思えないのである。

たとえば世界のどこかで、あるいはもちろん日本でも日々起きている殺人や凶悪事件を見聴きしたら、私だって必ず

あぁ、また(まだ)こんなことが起きたのか……

と思って多少のダメージを受ける。だがこの「ダメージ」こそが、「私の責任の顕れ」であり、「せめてもの償い」なのである。もちろんだからと言って、私がこの程度のダメージを受けたくらいでは、なにひとつ帳消しにすることはできないし、被害者(を大切に想っているひとたち)の心痛や苦悩を癒やすこともできないだろう。私には、そんな力はない。そんなことは、私だって当然重々承知しているのだ。

だがそれでも私は、自らの責任を否定することはできない。だって私も、同じ世界に生きているのだから。こんなことが起きる世界を創ったのは、それを今もまだ変えきれずにいるのは、私の責任でもあるのだから。私が理解しているのは、そういうことなのである。

それに私はずっと

などと言いながら、なんとかしてあなたの自殺を食い止めようとしているわけだが、だからこそもしあなたが自殺してしまったときは、それは私の責任でもある。そしてこれは別に

「『闇の向こう側』を読むこともないまま自殺したひと」

であっても本質的には同じことである。つまり私が最終的にあらゆる場所のあらゆるひとが自殺しなくて済む世界を目指しているならなおのこと、私は世界のすべての自殺者に対しての責任がある。これはごく当たり前のことなのである。これは言い換えれば

これは「私の目標」なのだから、私がそれに全力を尽くすのは当たり前だ

という、ただそれだけのことなのだから。

だがここまでの話をすべて踏まえたとしても、

でもあなたはさっき「『責任を取る』という喜び」という表現をしたじゃないですか?でもそれじゃあ「覚悟を決めて責任を取る」という感じではあっても、「喜び」という表現にはそぐわないんじゃないんですか?いったいそれのどこに、「喜び」があるんですか?

と言われてしまうかもしれない。けれど私もここまでのすべてを踏まえたうえで、だからこそ

私は「すべてのことには自分にも責任がある」ということを心から自覚している。だがそれは必ずしも「自分を責めている」わけでも、「自分の無力さを嘆いている」わけでもない。むしろ「すべてに私の責任がある」ということは、「私が変わればすべてが変わり得る」ということなんだから、これはやはり本当には、「喜び」でしかないんだ

と言いたいのだ。そう、今までの話から私が本当に伝えたかったことは、まさにこれだったのである。

個人主義が昔よりはるかに強くなった、つまり「あらゆる選択がそれぞれの責任だと見なされるようになった」と言うのであれば、そしてそのなかで一種の逆説が起き、「誰もができるだけ責任を避けるようになった」のであれば、それは実のところ

自分がなににどこまでの責任を感じるかも、自分自身の判断で決められる

ということなのだ。そして

責任を取るということは本当に難しいことで、「それはそれ相応の力がないとできないこと」でもあるのだが、だからこそ「本気で責任を取ろうと思い続けているひとには、いずれ必ずそれ相応の力が集まってくる」んだ

ということを本当に理解したのなら、それは

「確かに相当難しいことではあるけれど、それに見合ったやりがいもあること」

だということも見えてくる。そしてだからこそ、

たとえ今までや今がどうであれ、この世界も必ずよくなる

と言える気持ちも深まっていく。だってこれは結局、

たとえ今までや今がどうであれ、私も必ず成長できる

ということと同じなんだとわかるから。

私は人間なのだから、人間が起こしたことのすべては、私にも責任がある。それにそもそも私は今この地球に生きているのだから、ここで起きるすべてのことは、私にも責任がある

というのは、

私は人間なのだから、人間が起こしたことのすべては、私ともつながっている。それにそもそも私は今この地球に生きているのだから、ここで起きるすべてのことは、私ともつながっている

ということなのだから。だから私は、

卑屈にも傲慢にも呑まれずに、自分の責任を正しく(適切・精確に)自覚したい

と思っているのだ。そしてこの認識は実のところ私の希望そのものでもある。絶望できるからこそ、希望も持てる。それが自由と責任の真価であるということを、私もちゃんと、覚えているんだから。

「責任」を悪い印象に固定することができれば、誰もそんなものを進んで取ろうとは思わなくなる。しかしそれこそが、実は

「極めて巧妙で悪辣な罠」

なのである。だってそれは、

お前に力は渡さない。まして「お前にも最初から凄まじい力がある」なんてことは、絶対に思い出させない

ということでもあるのだから。

しかも彼らは昔からずっと、とても巧妙でしたたかなのだ。だから彼らはある視点から見れば、ほとんど

「根っからの優しさ・気遣いと配慮」

と見分けがつかないような方法で、少しずつ少しずつ私たちの力を削いでいく。しかもそれを他でもなく

「私たち自身が自ら望む」

ように誘導してくるのだ。具体的に言うなら、たとえば

これはあなたには荷が重い仕事だから、あなたはそこで休むなり、もっと簡単な作業でもしていればいいよ

と言われたとしたら、あるいは

あなたはなにも悪くないよ。だってあなたにはどうしようもなかったんだから。あなたにはああする以外、他に方法はなかったんだから

なんて優しく言われたとしたら、あなたならどう思うだろう?

するとここで明らかなように、

これとまったく同じ言葉を、純粋な善意と優しさから言ってくれるひともいる

ということ、これがますます話を難しくするのだ。だからこれは本当に本当に、

「巧妙でよく練りに練られた罠」

なのである。

だがそれでももしそれがあなたの責任を弱め、結局はあなたの力を奪い取る意図で張られたものかもしれないと気づいたのなら、それになによりもしあなた自身が

「責任を取れる(責任を取るに値する)ひとだと見なされる喜び」

を感じられるようになったのであれば、そこに踏み込む価値があることは、私も保証しよう。

それにそもそも、たとえ自覚があろうがなかろうが、私たちはそれぞれが生きているだけで、存在しているだけで、なんらかの「責任」を果たし続けてもいるのである。だからまずはあなたも自分の「持ち場」で、あなたの人生と毎日のなかで、できることをしていけばいい。そこに心を込めれば込めるほど、それだけでも充分に、責任を果たしていることになるから。そしてあなたがそうやって成長し、少しずつ少しずつでもいい方向に向かっていけたら、それはつまり世界がよくなっていくということの、確かな証なのである。そう、だから私はいつも、あなたの存在に心から感謝している。生きていてくれて、私にできないことをやり続けてくれて、本当に本当に、ありがとうございます。

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  1. ミヤコ より:

    おはようございます。

    よろしければ『安楽死』について、思うことなどありましたら、とりあげていただけないでしょうか?
    以前に書いた、もしくは、こちらの範囲外でしたら、結構ですので、申し訳ありません。

    様々な事情があるので、全否定もどうかと感じる部分もありますし、個人的には嫌ですが、もしかしたら、時代の流れによってはどうだろう?

    ただ、これもひとつの選択でしかないのもわかるけれど、周囲や今後に与える影響が、劇的にかわったり、結果的にほぼかわらなかったり(長い目でみれば影響あり)、未知の分野かなと、感じています。
    普段の生活も、やはり、選択の連続ではありますけれど…。

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